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王平

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王平(オウヘイ)字は子均。初めは曹操に仕えていたが、魏と蜀の漢中争奪戦の際、徐晃に援軍を出さなかったことから懲罰を恐れ、蜀に投降した。以後、出世の一途を辿る事になる。
228年、第一次北伐で馬謖の部隊の先鋒となった。街亭で山の上に陣を構える馬謖を必死で諌めたが、馬謖は聞き入れず、魏軍に包囲されて水を断たれ、馬謖の軍は敗走した。王平の部隊は踏み止まり盛んに陣太鼓を打ち鳴らしたので張コウは伏兵がいるのではないかと疑い、攻撃しなかった。王平は敗残兵をまとめて無事帰還した。馬謖は処刑されたが、王平はその働きを評価されて参軍に任命された。
234年、諸葛亮が死亡して、蜀軍が退却した際、反乱を起こした魏延を一度の戦いで打ち破ったのは王平の働きが最も大きく、安漢将軍に任命され、呉懿の副将として漢中に止まり、漢中太守も務めた。237年には呉懿に代わり、漢中の総指揮官となった。さらに243年には鎮北将軍に昇進している。
蜀書・王平伝によれば、王平は陣中で育ち、読み書きが出来なかったため口述で文書を作成させたが、それらは筋が通るものばかりであった。『史記』、『漢書』の本記、列伝を読ませ、話は大筋理解しており、時折それについて論じたが、本質から外れることはなかった。法律や規則を守り、冗談のたぐいは言わず、一日中きちんと座っていたため武将という感じはしなかった。疑い深く軽はずみなところが欠点であったという。
王平と言えば、演技では後半に名前が出てくるくらいで、他の有名武将のような働きは見せませんが、正史では王平が北(漢中)、鄧芝が東(江州)、馬忠が南(建寧)でそれぞれ功績をあげたと、絶賛されています。確かに孔明死後の蜀は、それだけ話題の中心に乗る人材に不足していたということなのでしょうが…。冷静な判断力をもち、蜀のために尽くした名将だったと言っていいだろう。

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