あいをください3

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あいをくださいあいをください2からの続きです。


訓練場には物見高い人垣が出来ていた。声援や囃し立てる声が飛び交い、お祭り騒ぎの様相を呈している。
そこへ勝者の賞品でもある若島津が姿を現したのだから、訓練場は大変な盛り上がりを見せた。
「若島津!?なんで!」
何故か最前列で腕組して立っていた小次郎が驚きの声を上げる。小次郎は若島津の後ろでニヤニヤしている父を見つけ、拗ねたように睨んだ。
「小次郎!なんだこれ、どうなってるんだ!」
「…あー、今、決勝」
「そうか、間に合ったか」
嫌そうに状況を説明しながら、小次郎は軽く舌打ちした。
気にするだろうから、若島津には教えたくなかったのだ。守りたいからと言っても、出場して勝利するには、自分はまだ非力すぎる。優勝者が若島津を傷つけないよう、見張るぐらいしか出来ない。
まだ恨めしそうに父を見上げる小次郎を、日向はフフンと鼻で笑った。訓練場の中央では、これから戦う男たちがそれぞれに剣を掲げ、若島津に向かって「必ず俺が勝ちまーす!」だの「見ててくださーい!」だのと、勝手に宣言している。
当の若島津がやめてくれと頼んでも、これが自分たちの流儀だと言って聞いてはくれなかった。
その誇りに満ちた表情に、言っても無駄だと悟った若島津だったが、どちらが勝ってもその気持ちを受け入れるつもりはないのだ。このまま黙って見てもいられない。
「欲しいものを奪い合うのが男の甲斐性ってもんよ」と日向は笑うが、それならば若島津だとてれっきとした男だ。若島津は凛と通る涼やかな、気高くさえ響く声で叫んでいた。
「俺が欲しければ、俺を倒せ!相手になる!」
「なっ、なに言ってんだ、若島津っ!」
慌てる小次郎とは対称的に、日向は楽しげな口笛を吹いた。一瞬静まり返った場内も、わっと湧き上がり先刻以上の熱狂を見せる。
「…日向さん、剣を貸していただけますか」
「いいぜ。っと、これじゃ重すぎるな」
日向はすぐさま腰の斜め後ろに下げている大剣に手をかけたが、思い直してあたりを見渡した。
「できれば、切れ味の悪いものでお願いします」
「若島津…」
語尾が僅かに震えたのを聞き逃さず、小次郎はそっと若島津の袖を掴んだ。
心配ない、とでも言うように、若島津は小次郎の瞳を見つめて笑みを返す。
「おい!そこにかけてあるヤツ、持ってきてくれ!長剣でいいんだろ?」
訓練場だから、武器はそこここにある。若島津は頷いて、日向に指示され慌てて長剣を手に走ってきた男から、それを受け取った。柄を握り重さを確かめた後、軽く振り風を切る。
「お借りします」
「おお、がんばれよ」
「若島津!うわっ」
日向は引き留めようとする小次郎の首根っこを掴み、手元へと引っ張った。顎を撫でながら、開けられた道を中央へ進む背を見つめる。
知ればどう出るのか楽しみにしていたが、日向は正直、自ら戦うとは予想していなかった。若島津の内面は複雑で、日向には計りがたく、だからこそ興味をそそられる。
「…面白れぇ」
それは舌舐めずる獣のような呻きで、小次郎の眉間の皺を深くした。
「最初はどちらからですか?申し訳ありませんが、二人まとめてはお相手できません」
怖じた風もなく、しかし挑発的でもなく、冷静に問う若島津に男たちは戸惑った。しばし揉めた後、ようやく剣を構え対峙する。身長という面では3人ともさして体格差はないが、若島津だけが圧倒的に細い。若島津が戦うと聞いて一旦は喜んだ観衆たちも、心配げにざわつき始めた。
「では、はじめ!」
惚れた本人を前に緊張する男よりも先に、若島津が動いた。すいと身体を沈めたと思ったら、残像しか捉えられぬ速さで男の手元を狙った切っ先が閃く。それは風が背の高い草を揺らすようなしなやかさだった。
「うわっ!?」
両手で柄を握り締めた男はどうにか手を離すのを堪えたが、衝撃で一歩あとずさる。怯んだ隙を逃がさず、若島津は男の顔面目がけて剣を突き出した。先端が、息を呑んだ男の鼻先でピタリと止まる。その場にいた誰もが、言葉の一つも発せずにあっという間についてしまった勝負に見入っていた。
「…降参、ですよね?」
「はっ、はいー!参りましたっ!」
途端に上がる若島津を讃える歓声を、小次郎と日向はぽかんと口を開けたまま聞いていた。
「おい、小次郎。お前知ってたのか?」
「…いや、でも、若堂のおじさんち、剣術道場があって…」
「あ、ああ、そうか。おっさんの息子だっけな、アイツ」
日向は自分と互角に刃を打ち合った男を思い出し、納得した。だが『自分が戦う』と言うからには多少は腕に覚えがあるんだろうとは思っていたが、まさかここまでとは予想が付かなかった。降参して膝を付いた男をほっとしたように微笑んで見下ろす若島津は、息一つ乱してはいない。
「でも、気付いちゃいねえんだろうな」
見上げる男の瞳に、恋慕だけではなく尊敬や憧憬、つまり崇拝に近い色が宿っている事に。
苦笑する日向の横で目を見開いたまま、小次郎は若堂の家で会った剣術指南の男の事を思い出していた。
小次郎がどんなに必死に木剣を打ち込んでも、小気味良く跳ね返されるばかりでびくともしない。
脇が甘い、もっと踏み込んで、その調子ですよ、そうして全てかわしながら、犬山と言う男は息も切らせてなかった。
その犬山が、若島津を『若』と呼んで跪いた。
若島津は『そんな風に呼ぶのはよせ』と困った顔をしたけれど、『この家の跡継ぎがどなたになろうとも、私が若とお呼びするのは貴方だけです』と、熱い視線で訴えていた。
小次郎は良く意味もわからないままに少しムッとしたが、あれは剣術において若島津が最も秀でているという事だったのだろうか。
「では、次!用意!」
訓練場の中央から聞こえた声に我に返り、小次郎は考えを打ち切った。
二人目の相手は一度目の戦いを見ている。油断も、隙もなく、「本気でやらしてもらいますぜ」と若島津に宣言した。
「さて、今度はさっきみたいにゃいかねえな。これでホントの実力が分る」
「……うん」
楽しげに呟く日向は憎たらしいが、小次郎は若島津を信じて見守ろうと決めた。だけど胸がドキドキして落ち着かない。自分にもっと力があったなら、若島津を危ない目に合わせたりしないのにと思ってしまう。
「はじめ!」
今度も、若島津は先手を取った。一人目とは違い相手もそれを予測しているので、深くは踏み込まず距離を取る。互いに相手を計っての打ち合いは、見ている者たちを興奮させた。
若島津の速い打ち込みを、男が力で押し返す。戦いは試すものから隙を突くものへ、激しく変わっていった。
「基本は…やっぱ似てんな、おっさんと」
似てるとは言っても、それは本当に基礎の動きだけだ。岩のような身体から繰り出してくる若堂の剣とは、まったく質が違う。若島津は柔軟でしなやかな身体全部を使って剣を振るっていた。細身の体型を生かし、全身のバネで本来の体重以上を乗せた剣は速く、重い。
「それにしても…な」
たおやかにしなる背、水中を自在に泳ぐ魚のように軽やかな動き、空に舞う艶やかな黒髪からも目が離せなくなる。それに、相手の隙一つ見逃さない、あの挑発的な瞳。
「キレイだ…」
うっとりと見蕩れたまま、小次郎が呟く。日向は、乾いた唇を舐めた。
日向があたりを見渡してみると、みな夢見るような目で若島津を見つめていた。
「……逆効果じゃね?おっ」
そう日向が呟いた時、勝負がついた。若島津が相手の背後を取ったのだ。
背中に刃を突きつけられた男が剣を納め、両手を挙げる。うっすらと星が瞬き始めた空を割らんばかりの歓声が轟いた。いつのまにか屋敷の者たちだけではなく、騒ぎを聞きつけた街の人間まで集まってきていた。
「すげぇ、わかしま…いてっ!」
駆け寄ろうとした小次郎の頭を、日向が鷲掴んで止める。小次郎が容赦のない力に抗い顔を上げると、日向は後ろでに大剣を抜き天に高く突き上げていた。
「最後は俺が相手だ!」
「な、何言ってんだよ父ちゃん!!」
僅かに呼吸を乱した若島津が、驚いた顔で振り向いた。観衆が口々に日向の名を叫ぶ。大地が揺れそうな盛り上がりの中、日向はゆっくりと若島津に近付いていった。
「日向さん…?」
「俺じゃ不満…ってこたねえだろ?俺に勝ちゃ、お前から行かない限り誰も近付いてこなくなるぜ?」
若島津は自信たっぷりに片頬を上げる日向を見上げた。
日向はかつて、剣の腕では右に並ぶもの無しと言われた若島津の父と、幾度も刃を交えた男だ。若島津は15歳の時、成人前に家を離れた。もちろんそれ以来、父と立ち会う機会などありはしなかった。
目の前には、獲物に飛びかかる寸前の獰猛な獣の気配。勝てる気はしなかった。
けれど、父と互角に戦える男に、挑んでみたい。
「……お願いします!」
「そうこなくっちゃな」
「若島津!…父ちゃん!!」
若島津と日向の間の空気が一変する。審判役の男が「え、えっと、では…」と言いながら後ずさったが、もう既に二人とも、互いの姿しか目に入っていなかった。
小次郎は気が気じゃなかったが、見ているしかなかった。止めても無駄だという事は、小次郎にだって分る。何も出来ない歯がゆさに、奥歯をギリッと噛み締めた。
余裕の表情で、日向がくっと顎をしゃくる。
「来いよ」
「行きますっ…!」
ふわりと髪をなびかせ、若島津は地を蹴った。渾身の力で振り下ろした刃を、こともなげに受け、弾かれる。反動で後ろに跳び距離を取るが、着地した場所を狙って横薙ぎの一閃が来る。舞うように身を返せば、日向がヒュウと口笛を吹いた。
「いいぜ、若島津。ゾクゾクくる」
「く…っ、それは、光栄です」
ニヤリと笑う男を、気迫だけは負けまいと睨み上げた。だがそれすらも日向には楽しそうで、不意に、若島津は『日向はいつも楽しそうに戦う』という父の言葉を思い出す。
若島津にとっては楽しむ余裕などなかったが、熱く濁りかけていた頭が冷えた。
「ほら、もっと来い!」
誘う日向の言葉に従って、若島津はあらゆる技を繰り出した。連戦の疲れはあるが、強くなりたいと無心に剣を振るっていた頃に戻ったように、心が研ぎ澄まされていく。
前の二人の時は、久しぶりな事もあったし、傷つけはしないかとそればかり考えて存分に動けなかった。けれど日向が相手なら、どんな剣でも受け止めてくれる気がする。悔しさの刃も、哀しみの傷も、すべて。泣きながら、転びながら、何度も大の大人にかかって行った、子供の頃みたいに。
キン、と高い金属音が響き、若島津の剣が頭上に跳ね上げられる。だが若島津はそのまま態勢の低い日向に振り下ろそうと、柄に両手をかけた。
「…お前が、左上から剣を振り下ろした後」
意味ありげに笑う日向に、若島津はほんの一瞬動きを止めた。だがまさにその通りの動作に入ってしまった今、止める術はない。
「身体を返すときの、腰つきがな」
案の定刃はかわされ、虚しく空を切った。けれど若島津は動きを止めない。振り下ろした反動を使い、次の動きに備えるため身を翻す。それは瞬き一つほどの隙でもある。
「あっ…?」
その瞬間を逃す事なく、日向は素手で若島津の腕を掴んだ。剣を投げ捨てた日向はバランスを崩した若島津を引き寄せ、背後から空いた手で細い腰を抱く。
そして耳元に唇を寄せ、囁いた。
「色っぽくて、たまんねえ」
「……っ…!」
若島津はびくりと身を震わせ、握っていた剣を落とした。トン、と軽い音を立てて地面に突き刺さる。それが勝敗を決する合図となり、「勝者、お頭ぁー!!」という声が響く。
しかし動きを止めた途端に呼吸は荒れ心臓は騒ぎ、疲労感に襲われた若島津は大人しく日向に身を凭せ掛けていた。揺るぎない力強い腕は、若島津を安心させた。
「参ったか?ん?」
目を細めた日向が、子供に諭すように聞いてくる。若島津はくすっと笑って、整わない息の下から「参りました」と答えた。
「お前ら、目ン玉かっぽじって良く見てたかー!これで若島津は、俺のモンだ!欲しいやつはいつでもかかって来ーい!」
「えっ、あの…?」
歓声と落胆の声が混じりあう中、若島津は日向の腕に捕われたまま困惑した。ゆるく身をもがいてみるが、極度の緊張から解放されたばかりの身体は上手く力が入らず、日向の支えがあってようやく立っているような状態だ。
「よろしくな?」
少年のような顔で笑った日向が、若島津の首をぐっと反らせた。仰のいた顔に、日向の顔が近付く。
「だ、だめですっ!」
「むごっ」
若島津は咄嗟に、口付けようとしている日向の唇を両手で塞いでいた。周囲からどっと笑い声が上がる。
だが日向は目を丸くしている若島津に瞳だけで笑み、「恥ずかしがりやだな」と言って口を塞ぐ手を舐めた。ひくんと過敏に反った喉の奥で、快美が声を詰まらせる。
「へえ、可愛い反応するじゃねえか」
「父ちゃーん!なにやってんだーーー!!」
若島津の細い手首を掴んだ日向がなおも悪戯しようとすると、ものすごい剣幕で走ってきた小次郎が身体ごとぶつかってきた。日向は笑いながら、若島津を抱くのとは逆の腕で弾丸少年を受け止める。
「よし、戻るか。おーい、集まった連中に、酒でも飯でも適当にふるまってやれ!」
日向は片手に若島津、片手に小次郎を抱えるようにして歩き出した。若島津はしきりに心配する小次郎に笑みを返しながら、日向の言葉に答えた声の方に向かって叫んだ。
「かかった費用と使ったものは、書き出しておいて下さいねー!」
「…ホント、締まり屋のかあちゃんだぜ…」
「父ちゃん!なんだよ、さっきの!若島津は、若島津のものだ!絶対邪魔してやるからな!!」
「小次郎…」
大人の事情などどうでもいい小次郎は、飛び跳ねるようにして日向に食って掛かった。必死に、いくら同年代の子の中では大きいとは言え、日向とは比べられない小さな拳で硬い胸を叩く。
小次郎は、若島津が若林のものだった時の事を知っている。
見せ付けられた情事や、若島津の傷の深さを思い出し、たまらなかった。あんな思いは二度とさせたくない。したくない。いくら尊敬する父親だって、もう誰かの所有物になどなって欲しくなかった。
「ああ言っときゃ、誰も手ぇ出してはこないだろ。…男は」
「あ…」
最初からそのつもりだったのか、あるいは小次郎の本気の怒りに何か感じたのか、日向はぽんぽんと小さな背を叩いてそう言った。
小次郎はまだ疑わしそうな瞳で父を睨んでいたが、日向は屋敷に入るなりあっさりと二人を解放した。
「じゃあな」と言って片手を挙げ、自室の方へと引き揚げていく。
「あの、日向さん!ありがとう、ございました」
肩越しに振り返った日向に礼を述べた若島津も、強く手を引く小次郎に連れられ自室に戻った。
小次郎の中に、御しがたい複雑な感情が入り乱れる。
守りたいのに、手が届かない。自分の手で若島津を大事に、しあわせにしたいのに。
若島津自身にその身を守る強さが備わっていると分っても、小次郎を守ってくれる凛とした心を持っていると知っていても、心に棲む焦りは消えなかった。



小次郎は最近無口になった。
きっかけと思しき事はある。若島津が小次郎に、『そろそろ一人部屋が欲しいんじゃないのか』と尋ねた一件あたりからだ。
諍いと言うほどではないが少々問答になり、小次郎は『俺は今のままがいい!』と怒って布団を被ってしまった。
若島津にとって小次郎との二人部屋は迷惑でもなんでもなかったし、夜寝る前に、島中を走り回っている小次郎からその日あった事を聞くのも楽しみだった。訓練で怪我をしてもいち早く気付けるし。
元海賊の猛者たちに剣を習っている小次郎は、ちょっとした怪我なら治療もせずに放っておくこともしょっちゅうだったから。
けれどある日の夜、珍しく夜中に目を覚ました若島津は見てしまったのだ。見た、というか聞いたと言うか。小次郎が自分のベッドで、自慰をしているところを。
苦しそうな呻きに、最初はうなされてでもいるのかと思った。
けれど次に聞こえた溜息の淫靡さに、かけようとした声を飲み込む。耳を澄ませば、同性ならそれが何かすぐに分る水音。息を詰める気配の後、悔やむような嘆息と手早く後始末をする音が聞こえてきた。
かすかな衣擦れの音が聞こえなくなってから、ようやく若島津も詰めていた息を吐き出した。
それからゆっくり考えを巡らせて、後始末などが結構慣れていたことに気付く。
年齢や小次郎の体格を考えれば、もう精通があってもおかしくはなかった。
けれど一体いつからそういう事を知っていたのか。最近であるなら、父である日向よりも身近に暮らしている自分が教えなくてはいけなかったんじゃないだろうか。でも、小次郎には男に、若林に抱かれ、精を放つところを見られてしまっている。若島津から男の性に付いて教えなくてもいいなら、その方が幸いだった。
若林の事を思い出すと、若島津の胸はキリリと痛む。
恨んでいるわけではない。あの懐の深い男が、もう生まれたであろう子供と姉を大事にしてくれているだろうと信じられる。癒えずに残る傷は、自分の弱さだ。
若島津は愛されることに臆病だった。小次郎や、家族との間にある絆とは別の思い、恋情を誰かに向けられると腰が引けてしまう。傷つくのが、怖くて。
大切な存在である小次郎を一人の男と認識して、あの真っ直ぐな思慕を恐れるようになるのは嫌だった。それに、自分と一緒の部屋だと、夜のことも含めて何かと窮屈だろうとも思ったのだ。でも、小次郎は頑として譲らない。
小次郎が若島津を心配して、その両手をいっぱいに広げて守ろうとしてくれているのも分っていた。事実、いろいろと奔走してたと、決闘騒ぎの時に知った。
「ふふ…『心配性のエロガキ』、だっけ」
それは日向がべーと舌を出しながら、小次郎にむけて言った言葉だ。その後二人は喧々囂々と言い合いを始め、ひどく微笑ましかった。
大丈夫、若島津はそう思った。
小次郎の信愛は、決して若島津一人に偏ってはいない。周囲の人を愛し、愛され、強く優しい少年へと成長している。
それは若島津にとって寂しくもあり、また嬉しくも、誇らしくもあった。自分も負けないように頑張ろうとも思わせてくれる。何に対しても真っ直ぐな小次郎が、眩しくて愛しい。
だから結局、若島津は小次郎が自分と一緒にいたいと言ってくれる限り、側にいようと結論づけた。
「あれ…この本だけ、けっこうくたびれてるな」
書庫で物思いに耽っていた若島津は、一冊の分厚い本を手に取った。かなりの蔵書があるこの書庫は、以前住んでいた長老から譲り受けたものだそうで、元々読書好きの若島津が暇を見ては掃除し、入り浸っていた。
「海運…交易……?うわ、面白そうだけど、読めない…」
その本は東方の国の言語で記されていた。若島津にとっては疎い、商売方面の本なのでぜひ読みたいが、東方の言葉はせいぜい単語をいくつか知っているという程度だ。
「辞書、あったような…」
書棚を漁りどうにか辞書を見つけた若島津は、二冊の本を抱えて小次郎の待つ部屋へと戻った。



若島津が持ち帰った本に、小次郎も興味を持った。港で教わったとかで若島津よりも少し東方の言葉に詳しい小次郎と共に、少しずつ本を読み進めていく。
机の上にランプを灯し、頭を寄せ合って一冊の本を読み解くのは、小次郎にとっても一日の終わりを締めくくる楽しい作業だった。
「おーい、ただいまー!今帰ったぞー!」
「父ちゃん!ノックしろっていつも言ってるだろー!」
「お帰りなさい、日向さん」
こうして時々、日向は土産を持って若島津たちの部屋を訪れる。手ぶらの時もある。住み始めた頃からあった事だが、最近は回数が増えた。
「なんだ、何いちゃいちゃしてんだ?んー?」
そう言いながら、小次郎と若島津の間を割って机の上を覗き込む。「酒くせえ」と小次郎は文句を言ったが、日向はお構いなしに二人の肩を抱いて体重を乗せた。
「お、この本なら俺も読んだぜ。前の長老に、『海賊辞めるなら商売のことくらいちゃんと学べ!』っつわれてな。長い、長~い講義付で」
「父ちゃん、読めるのか!?」
「ったりめえだろ!けど、喋るのはイケても、文字になっちまうとサッパリで苦労したけどな!」
ガハハと笑う日向を、小次郎が「へー」と尊敬の眼差しで見上げる。日向は得意満面で二人が広げていた辞書に視線を落としてから、「俺が読んでやろうか?」と提案した。
「いいんですか?」
「お安い御用だ。長いから、少しずつだけどな。寝物語にゃちょっと色気がないが」
うっすらと酔いを湛えた瞳にちらりと流し見られて、若島津は気恥ずかしく目を逸らした。日向に首を抱えられたままの小次郎は俯いて「うーん」と唸っていたが、やがて上目遣いで「毎日来るのか?」と尋ねた。
「いやなのか?」
「うん、ちょっと」
「なんだとコラー!さくさく読みたくないのかー!」
「いてっ、いてててっ、読みたい!読みたいけどー!んがっ」
「ぷっ、くくくっ」
若島津はこの二人の、遠慮のないじゃれあいが好きだった。止めなければ、とも思うけれど、見ていて心があたたかくなるのだ。最初の頃は慌てたが、今ではよっぽどの事にならない限り、こうして笑いながら見守っている。
「あー、顎外れるかと思った…」
「ったく、お前のせいでかあちゃんに笑われちまっただろー」
「かあちゃんじゃありませんっ」
巻き込まれた若島津も、頬を紅潮させて子供のように文句を言った。
小次郎と一緒に頭をぐりぐり撫でられるのは、子ども扱いされてるようで悔しいし、少しくすぐったい。でもそうされると、とても気持ちが安らいだ。
その日は日向も眠いという事で、本格的に本を読んでもらうのは翌日からとなった。著者がどんな人物かだけ教えてもらう。
この本を書いたのは遠い東の島国から異国に夢を馳せ船出してきた商人で、群島に立ち寄り、西や北の国までも交易に行ったのだという。
商売の方法、航海の苦労、見てきた国々の風土や珍しい品の事や、文化が違うゆえの失敗談などが記されていると聞き、小次郎も若島津もわくわくと胸を躍らせた。
けれど祖国へ帰ろうとするたび、潮流や嵐に邪魔され群島諸国へと戻り、結局この地で生涯を終えたのだそうだ。
「楽しみだな!」
明かりを消して布団に潜り込んでから、部屋の反対側にあるベッドで浮かれた声がする。
最初は嫌そうな顔してたくせに、と少しからかいたいような気分で、けれどそうは言わずに微笑んだ若島津も、「そうだね」と答えて目を閉じた。

翌日から寝る前の時間に、日向はほぼ毎日本を読み聞かせにやってきた。
思ったとおり内容はとても面白く、日向自身の経験も交えて語られる海の話は、小次郎と若島津を夢中にさせた。
小次郎に至っては『自分の船が欲しい』と言い出すほどだ。
日向は少年らしい夢に胸を膨らませる小次郎に、『自分の船を造るのは、まずはこの本読んで、海に出てこき使われてからだ』と言って笑った。それはそのまま、小次郎の目標となった。
元々港で遊ぶことが多い小次郎だったが、最近はほとんど一日中入り浸っている。
今日は船の整備を手伝った、隣の島まで連れて行ってもらった、など、広がっていく小次郎の世界は、話を聞いているだけでも、若島津に鮮やかな色彩を見せてくれた。
「…で、家の中では履物を脱ぐ習慣があったコイツは、西の貴族のとこで赤っ恥をかいた、と」
「へえ…あ、でも、群島諸国にいる時は、文化の違いに気付かなかったんでしょうか?」
「こっちじゃ脱ごうと履いてようと、別に誰も笑ったりしねえからな。あー、脱ぎたかったんだなー、って思うくらいで…お?」
今夜も訪れた日向に話を聞いていたら、いつのまにか小次郎が眠ってしまっていた。
それは親に絵本を読んでもらいながら安心して眠ってしまう小さな子供のようで、若島津にも日向にもあたたかな笑みをもたらす。
「またか。しょーがねえな」
愛しげに呟いた日向が小次郎を抱き上げてベッドに運んだ。
小次郎はこうして時々眠ってしまうくせに、先に読み進めてしまうと拗ねるので、若島津は今夜はもうお開きと本に栞を挟んで閉じる。
若島津は小次郎を起こさないよう足音をしのばせる日向を追って立ち上がり、ドアまで見送った。
「ありがとうございました」
優しくあたたかな気持ちのまま、廊下に出た日向に小さな声で囁く。日向はふっと甘く目を眇めた。
「…礼なら、こっちがいい」
「えっ…?」
廊下の壁にかけられた灯火が、日向の瞳の中で飴色に揺れる。
若島津はそれに見とれていて、降りてきた唇に気づくのが遅れた。柔らかく啄ばまれて、すぐに離れてしまうまで、身動きひとつも出来なかった。
「おやすみ」
若島津の目の前で、ゆっくりとドアが閉まる。それでもまだ呆然と、薄暗がりの中で立ち尽くしていた。
ようやく、日向に口付けられた、と自覚した若島津の頬に、カァッと朱が差す。
「あ、俺…?」
若島津は自分の反応に驚いて、唇をそっと指で押さえた。
不意打ちで、しかも男相手に唇を奪われて怒るべきなのに、湧いてくるのは恥ずかしさばかりで困惑する。
「悪ふざけが、過ぎます…」
若島津は訳も分からず高鳴る胸を持て余しながら、そっと瞳を伏せて俯いた。
一方、自室に向かって廊下を進む日向は、硬い髪をガリガリと掻いた。口元には苦笑が浮かぶ。
「…まいった。かわいーカオ、しやがって」
万事控えめで頑なな若島津が、不意に殻を脱ぎ落とす瞬間に、日向は弱い。
初めて会った時は、気性の激しい奴なのだと思った。人の気も知らないで、なぜ小次郎を放っておいたと、怒りをぶつけてきた時だ。
それも確かに若島津の本質の一端なのだろうが、接するごとに、日向の彼に対する印象は形を変えた。殊に目を引いたのは、過ぎるほどの慎み深さだ。
あの容姿で、頭も良くて、腕も立つとなれば、自分だったらもっと威張るぞ、といつも日向は思ってしまう。
慎み深いのが悪いわけじゃない。やはりそれも、若島津の性格だろう。
けれどそれを過ぎて、自分を閉ざし押し殺してしまうような危うさが若島津にはある。一体何故なのかと、つい日向は若島津のことばかり考えてしまう。
「でもまあ、過去、なんてモンは、どうにもできねえからな」
手の届かないものに、興味はあるが用はない。
原因が何であれ、日向は今自分の前にいる若島津の、閉ざしがちな心の扉の奥に触れたかった。
そしていつのまにか、自分に向けて開いて欲しいと思うようになっていたのだ。
「いけずな父ちゃんだよな。息子の初恋に横恋慕か」
呟きながら、日向は悪びれない笑みを浮かべた。
欲しいものは、欲しいもの同士で奪い合う。それが海賊の流儀であり、自身の力を頼みにする海の男の誇りでもある。
そして教えずとも、小次郎にもその気概は備わっていた。若島津を守ろうと、何度も日向に食って掛かる瞳は、すでに男の光を宿している。
小次郎を対等な相手として認めるからこそ、親子だからと言って、日向は指をくわえて見ているだけのつもりはなかった。



き、今日の分を更新しようと思ったら断られました…がくっ。
そんなわけで あいをください4に続くー!

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