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韋曜(イヨウ)
字は公嗣。本名は昭だが、晋の文帝である司馬昭の名を避けて曜とした。呉郡雲陽(曲阿)出身。呉・丞相府掾から西安県令、更に尚書郎から太子中庶子となる。太子・孫和の命令で「博奕論」を書いた。孫亮即位後、諸葛恪の推挙により太史令となって「呉書」の作成に当たった。 孫晧の即位後は高陵亭侯、中書僕射、侍中となって左国史を兼任する。韋曜は孫晧の寵愛を受けており、孫晧が催した宴会では、必ず7升の酒を飲まなければならなかったが、韋曜は下戸だったのでお茶に切り替える事が許されていた。しかし、呉書の編集方針で度々孫晧と衝突したため、徐々に寵愛が失われてゆく。そして、宴会で無理矢理酒を飲まされ、反抗的であるとして捕らわれた。韋曜は「書物の編集に専念したい」と助命を願うも、聞き入れられずに誅殺される。著書に「注論語」「洞記」「官職訓」「弁釈名」「国語注」などの作品がある。
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