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于禁

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于禁(ウキン)字は文則。

黄巾の乱の頃、鮑信の募兵に応じ配下となった。曹操が一帯を治めるようになった頃、仲間と共に出頭し、曹操の配下となる。徐州広域の侵略に成果を上げ、曹操の信任を得ると一気に頭角を現す。
面白いエピソードがある。張繍との戦いで身一つで曹操が敗走してる時、于禁は略奪を働いた夏侯惇配下の青州兵を独断で斬り殺す。それを見た他の青洲兵が曹操の元に『于禁謀反』を訴え出ようとしていた。ある者は「すぐに殿の元へ行って事情を説明するべきです」と進言したが
「賊(張繍)はもう迫ってきている。殿は聡明なお方だからでたらめの報告は信じないだろう」
と言って陣を築いて防衛してから曹操の元に出向いた。曹操は
「古代の名将であってもこれほどであろうか」
と絶賛したという。以後張遼、楽進、張コウ、徐晃とともに名将と評価された于禁は曹操が出征するごとに起用され、先鋒や殿軍をつとめた。
于禁が軍を統率する態度は厳正で、進軍中に財物を手に入れても個人の懐に入れるようなことはしなかった。その反面法に厳格すぎて融通のきかないところがあり、兵や民衆の心をうまくつかむことができなかった。

219年、関羽に包囲された曹仁を救うべく、ホウ徳と共に出陣するが、長雨で洪水が起こり于禁らの陣営は水没した。これを利用した関羽に完全に包囲され、ついに降伏している。この時、ホウ徳は降伏を拒否し斬首されている事実を知った曹操は
「于禁を知って30年になるが新参のホウ徳にかなわないとは」
と嘆息を漏らしたという。
のち呉軍が江陵を占領すると、孫権の方から会見を申し入れた。呉にいた間、于禁は虞翻に嫌われた。于禁が孫権と馬をならべようとすると虞翻は
「降伏者が、なぜ我が君と馬首を並べたりするのか」
と、鞭を振り上げて打とうとしたが、すんでの所で孫権がとめた。また酒宴の席で于禁が音楽を聞いて涙を流すと
「そんな心にもないことをして許してもらおうとするのか」
ときつい皮肉を言われている。221年、孫権は捕虜を返還したのだが、その時も虞翻は于禁殺害を孫権に進言している。
帰国後、曹操の墓の番を命ぜられたが、曹操の霊屋の壁に関羽に命乞いする自分の姿が描かれているのを見て、屈辱と怒りから病を得て死んだという。

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