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第十五話  『負けないで』 - (2007/04/26 (木) 23:43:43) のソース

かさかさに乾いた肌に引っかかりながら流れ落ちてゆく、紅い糸。
心臓の鼓動に合わせて、それは太くなり……細くなる。
けれど、決して途切れることはなくて――

「……ああ」

蒼星石は、うっとりと恍惚の表情を浮かべながら、歓喜に喘いだ。
これは、姉と自分を繋ぐ、たった一本の絆。
クノッソスの迷宮で、テセウスが糸を辿って出口を見出したように、
この絆を手繰っていけば、きっと翠星石に出会える。
そう信じて、疑いもしなかった。

命を育む神秘の液体は、緩く曲げた肘に辿り着いて、雫へと姿を変える。
そして、大地を潤す恵みの雨のごとく、降り注ぎ……
カーペットの上に、色鮮やかな彼岸花を開かせていった。


「そうだ…………姉さんの部屋に……行かなきゃ」

足元に広がっていく緋の花園を、ぼんやりと眺めながら、蒼星石は呟いた。
自分が足踏みしていた間に、翠星石はもう、かなり先に行ってしまっている。
だから、ちょっとでも近付くために……少しでも早く、歩きださなければ。

「きっと、キミの隣に――――」



  第十五話 『負けないで』



ぐるぐると、世界が回りだす。半回転しては、ひょいと戻り、また回りだす。
それの繰り返しで、浮いているのか、歩いているのか……足元が覚束ない。
失血のせいにしては、早すぎる。まだ、体重の10パーセントにも満たない量だ。
多分、手首を切り裂いた激痛に加え、鮮血を見た精神的な動揺と、
姉の元に旅立てる興奮が渾然一体となって、眩暈を引き起こしているのだろう。

蒼星石は左肩で壁をこすりながら、暗い廊下を進んだ。
指先から滴る『絆』が床板に点々と華を散らし、板壁には真一文字に、赤黒い線が描かれる。
やがて、一本の紅い糸は姉妹の部屋を結びつけた。


(――やっと、着いた)

朦朧とする意識の中で感じる、官能的な倦怠感と、甘美な安らぎ。
蒼星石は、翠星石のベッドへと、俯せに倒れ込んだ。
ぼふん! と、身体の下で夜気が押し潰され、舞い上がった埃が鼻をくすぐる。
冷え切った布団の柔らかな肌触りが、痺れるくらいに気持ちよかった。

ひとつ、深く息を吸い込む。翠星石が愛用していたフレグランスの匂いが、胸を満たしていく。
それだけのことなのに、天にも昇るほどの夢心地になって、身体の芯から震えが湧いてきた。
ああ……身もココロも悦んでいる。愉悦――それ以外の言葉は、思いつかない。
酩酊にも似た眩暈の中で、ふと……蒼星石は、微かなレモンの香りを感じた。
それは、ほんのりと上品に香り立って、闇に溶けていく。
あの晩に零したレモネードのものだろう。ひどく懐かしい気がした。

(もう一度――)

あの夜、パジャマ越しに伝わってきた姉の温もりを思い出しながら、瞼を閉ざす。
限りない悦楽に身を委ねて、蒼星石は最後まで取っておいた意識も、呆気なく手放した。


――左手が、熱い。
正確には、手首の傷が、ズキズキと熱い。
頭のてっぺんから、足の爪先まで隈なく冷え切っていくのに……
傷口だけは、飽きることなく熱と激痛を生み出し続けている。
その疼きが、夢の世界に旅立とうとする蒼星石を、現実世界に繋ぎ止めていた。

(もう……いい加減にしてよ。静かに眠らせて)

夢うつつの狭間で、蒼星石は寝返りを打ち、仰向けになった。
重たい右腕を、左手首の斬り傷へと、徐に動かす。
殆ど無意識のうちに、手を当てて傷を塞ごうとしていた。生存本能だったのかも知れない。


伸ばしかけた手は、しかし、自分以外の誰かによって掴み止められ、目的を見失う。
蒼星石は驚愕のあまり、ハッ! と、双眸を見開いた。
そして……

「えっ?」

自身が置かれている環境を悟って、喉の奥から、呻き声を絞り出した。
いつの間にか、蒼星石は大樹の木陰で、微睡んでいたのだ。
それも、追い求めていた彼女……翠星石の膝枕に、とっぷりと頭を沈めて。

「起こしちまったですか」

双子の姉は、蒼星石の右手を優しく握りながら、愛おしげに目を細めた。
瑞々しく、柔らかそうな唇に、太陽すら霞むほどの眩しい微笑みを湛えながら。
例えようのない感情が、胸の奥から、こみ上げてくる。
それを表現する言葉を見付けられなかったので、蒼星石は……ただ、微笑み返した。


翠星石は、右手で蒼星石の右手を握りながら、空いた手で妹の前髪を掻き分け、
そっ……と、額を撫でた。この上なく、慈愛に満ちた仕種で。
無条件に差し出され、与えられる、母性の如き温もり。
蒼星石はウットリと瞼を細めて、渇望していた世界に身を任せた。
いつのまにか、左手首の煩い疼きは消え去っていた。

「こんなところまで追いかけてくるなんて……
 いくつになっても甘えんぼですね、蒼星石は」

鈴の音を想わせる声に、耳をくすぐられて、背中にむず痒さを覚える。
それは瞬く間に身体の隅々まで伝播して、蒼星石の柔肌を粟立たせた。

「どうしても、姉さんに伝えたいコトが……あったんだよ」
「何を、です?」
「あの時は……ごめんなさい。それと――」

蒼星石の唇から、彼女自身ビックリするほど素直な言葉が、紡ぎ出された。
あれも言いたい。これも伝えたい。どんどん、胸の中に言葉が溢れてくる。
けれど、結局、言えたのは一言だけ。

「大好きだよ」

ふ……と、翠星石が、呆れたように鼻で笑う。
姉の吐息は、極上の刷毛を滑らせたかのように、蒼星石の頬をくすぐっていった。

「そんなコト言うために、わざわざ? どうしようもねぇ大馬鹿ですぅ」
「いいよ、馬鹿でも」

だって、幸せなんだもの。

「こうして、姉さんと一緒に居られるのなら、ボクは喜んで愚か者になる。
 だから……いつまでも、ボクの側に居て。もっとたくさん、ボクに触ってよ」

願うことは、ただ、それだけ。
ブランド物の化粧品も、かわいい服も、煌びやかなアクセサリも要らない。
大好きな翠星石が、蒼星石を愛してくれさえすれば、それで充分だった。


きゅっ! と、翠星石の右手に力が込められる。
そして、彼女は――愛おしそうでいて、どこか辛そうに、
とてもとても、重く、長い吐息を漏らした。

「蒼星石が望むならば、ずぅっと、こうしててやるです」
「ありがと……嬉しいなぁ」
「でもね、蒼星石――」

気付けば、翠星石の呟きに、眼差しに、悲しみの色が浸みだしていた。
「お前までこっちに来ちまったら、誰が……おじじと、おばばを支えてやるですか?」

お祖父さん、お祖母さん。
口の中で姉の言葉を反芻しながら、蒼星石は、自分たちを育ててくれた優しい人たちを想った。
彼らは今も、翠星石の急逝によって、悲しみに伏せっている。
この上、蒼星石まで失えば、どうなってしまうのかは想像に難くない。

「だけど…………ボクは」

キミが居なければ、自分の生きる道すら、ちゃんと見付けられない。
告げようとした矢先、蒼星石の左手を、姉とは違う誰かが掴んだ。
その手は熱く、強く、けれど手首の傷を刺激しないよう配慮しながら、
蒼星石を、何処か別の場所へ連れていこうとしていた。


『負けないで! 逃げちゃダメだよ。キミはまだ、過ちを続けるつもり?』


姿の見えない誰かが、どこかで聞いた憶えのある声で、耳元に力強く呼びかけてくる。
逃げてない……と、蒼星石は呟いた。自分のココロに負けて、自殺を図ったワケではない。
ただ純粋に、翠星石の隣に居たかっただけなのだ。結果が、どうであったにせよ。

蒼星石の願いは、しかし――不意に、突き放される。
右手を握ってくれていた翠星石の手が、すぅっと離れてしまった。
なぜ? 問いかける眼差しに映る姉は、緋翠の瞳を潤ませ、今にも泣き出しそうだ。
この時になって初めて、蒼星石は、彼女の瞳の色が自分と同じ並びをしていることに気付いた。

「気付いたですか? 私は、本当の翠星石じゃねぇです」
「な、なに言ってるのさ。キミは、どう見たって姉さんじゃないか」

返す言葉には、隠しきれない動揺が、ありありと表れていた。「やめてよ、変な冗談なんか」
声を震わせる蒼星石を宥めるように、彼女の頭が、静かに振られた。

「蒼星石の思慕が、記憶を練り上げて作った理想の偶像――それが、私です。
 会いたいという一途な気持ちが映し出した、蜃気楼にすぎないのです」

翠星石そっくりな、自分。それは取りも直さず、姉への羨望そのものだった。
ボクも、姉さんみたいに輝いてみたい……。その憧憬が、いま、目の前にある幻。
哀しい目をした偶像は、蒼星石の愁眉を遮るように、右手を差し伸べてきた。


「それでも、お前が翠星石と共にありたいというのなら――私が叶えてやるですよ。
 右手か、左手か……どちらを握るか、選ぶです」



  第十五話 おわり





三行で【次回予定】

 夢うつつの境界で出逢った、もうひとりの自分。
 差し伸べられた、ふたつの温もり。行く手には分かれ道。
 煩悶の末に、少女が選んだ道は――

次回 第十六話 『サヨナラは今もこの胸に居ます』
    第16話 『この愛に泳ぎ疲れても』