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「第五回」(2007/03/01 (木) 22:46:05) の最新版変更点
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ジュンと薔薇水晶が手紙を読んでいた頃、<br>
地下室では雪華綺晶が、簡易ベッドで巴と添い寝していた。<br>
じっと横たわって、身を強張らせる巴の髪を、雪華綺晶の白い指が撫でる。<br>
彼女は上機嫌に鼻歌を唄いながら、愛おしそうに隻眼を細めていた。<br>
時折、巴の耳元に鼻先を埋めて、悪戯っぽく耳を甘噛みしてくる。<br>
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「ふぁぅ! い、イヤぁ……」<br>
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その度に吐息交じりの鼻声を漏らして、逃れようとする巴を、雪華綺晶の両腕が引き戻す。<br>
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「くふふふふ……ダメよ。じっとしていなければねぇ」<br>
「嫌よ! もうイヤ! 放してよっ」<br>
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甘んじて人形の扱いを受けると覚悟したけれど、やはり、嫌悪感が勝ってしまう。<br>
年頃の乙女の潔癖さが、不自然な現実を、ひどく不潔な世界に見せていた。<br>
とても受け容れられない。こんな、汚らしい世界なんて――<br>
<br>
(まだ……汚されてない。桜田くんの為にも、汚されたくなんてないっ)<br>
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雪華綺晶に玩ばれている間、巴は部屋の隅々まで視界を巡らして、<br>
得物になりそうな物を探していた。<br>
そして、トイレの水槽に立てかけてあるデッキブラシに目を付けていた。<br>
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(あれで殴れば、かなりの打撃を与えられるはず)<br>
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漫然と続けてきた剣道が、まさか、こんな形で役に立つとは思わなかった。<br>
芸は身を助ける――とは、よく言ったものだ。<br>
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巴は、身体に絡み付いてくる雪華綺晶の両腕を払い除けて転がり、<br>
簡易ベッドから身を躍らせた。<br>
片膝を着いて、器用に着地すると、即座に立ち上がって雪華綺晶の方に向き直る。<br>
雪華綺晶は、緊張のあまり表情を強張らせている巴を見つめて、鼻で笑った。<br>
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「どうして、そんなに脅えているの? おかしな人ですわね。<br>
この素敵な楽園が、恐ろしいだなんて――」<br>
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雪華綺晶は、まだベッドに横たわっていた。<br>
眠そうに左眼を瞬かせながら、険しい表情の巴を、怪訝そうに見上げている。<br>
そんな彼女の人を食った態度が、巴の激情に火を付けた。<br>
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「冗談じゃないわ! わたしにとっては地獄よっ。<br>
貴女みたいなキチガイと、こんな檻に閉じ込められているんだもの。<br>
正気で居られる筈がないじゃない!!」<br>
<br>
NGワード『キチガイ』に反応して、雪華綺晶の金眼が、琥珀色に光った。<br>
それまでの穏やかな表情から一変して、夜叉の形相になっている。<br>
雪華綺晶は、ユラ~リと身体を起こして、ベッドから滑り降りた。<br>
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「……醜い。なんて、醜いんでしょう」<br>
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軽い衣擦れを立てて、ドレスの下から伸ばされた白い素足が、音もなく床を踏み締める。<br>
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「巴ぇ…………あまり私を、失望させないで下さらなぁい?」<br>
「そんなの、貴女が勝手に作り上げた幻想よ! わたしは、美しくなんてないわ!」<br>
<br>
一歩一歩、雪華綺晶が接近してくる。<br>
強がりを口にしながら、じりじりと、巴は後退していった。<br>
互いの距離は、付かず離れず……。<br>
巴は身体で覚えた剣道の間合いで後ずさりながら、ある一点を目指していた。<br>
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(あのデッキブラシ……あれさえ掴めれば)<br>
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後ろ向きなので、本当に正しくトイレの水槽に向かっているのか判らない。<br>
しかし、僅かでも視線を逸らしたら、雪華綺晶に飛びかかられそうで怖かった。<br>
彼女は、いつか観たホラー映画のゾンビみたいに、ゆっくりと近付いてくる。<br>
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巴は、雪華綺晶を睨み付けて牽制しながら、右腕を背後に伸ばし、手探りした。<br>
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(確か、この辺りだった筈だけど)<br>
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右腕が、右へ左へ、何度も往復する。けれど、指先は空を切るだけ。<br>
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(どこ? どこなの?! もうっ! 何処にあるのよっ!!)<br>
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苛立ちが焦りとなって、些細な動作ですら粗雑にさせる。<br>
過呼吸気味に喘ぎながら、巴は後ろに回した右腕を、乱暴に振り回した。<br>
何度やっても、指先には何も触れない。<br>
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「どうしてっ! どうしてよっ!」<br>
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焦燥が、口を衝いて出る。焦れば焦るほど、何も考えられなくなっていく。<br>
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徐々に狭まっていく、彼我の距離。<br>
雪華綺晶は、怯える巴に嗜虐的な目を向けながら、歯を見せて嗤っていた。<br>
もう、これ以上は耐えられない。<br>
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とうとう、巴は顔を傾け、背後を見遣ってしまった。<br>
デッキブラシは、意外なほど近くに在った。<br>
けれども、それを巴が手にするより早く、雪華綺晶が飛びかかってくる。<br>
巴は押し倒され、コンクリートの床に、強か後頭部を打ち付けてしまった。<br>
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「うぁっ!」<br>
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目の前に火花が散り、星が舞い踊る。<br>
束の間、どこかに行ってしまいそうな意識を引き戻す努力を強いられた。<br>
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仰向けに倒れた巴の身体に、ずしり……と、重圧がかかる。<br>
続いて、両腕が踏まれる感覚。<br>
馬乗りになった雪華綺晶が、両膝で自分の腕を抑え付けているのだ。<br>
見るまでもなく、巴には、それが解った。<br>
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「やぁっと捕まえましたわ。悪い子ですわねぇ」<br>
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気色の悪い猫なで声と共に、雪華綺晶の両手が、巴の頬を挟み込んだ。<br>
見開いた巴の瞳と、雪華綺晶の瞳が、視線で結びつく。<br>
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「暴れられて、怪我でもされたら大変ですわ。<br>
綺麗なお人形さんに、傷が付いちゃったら、価値が下がってしますものね。<br>
もっとも、手放すつもりなんて無いので、市場価値など関係ないですけれど」<br>
「わたしは、貴女の人形じゃないわ! 何度も言ってるでしょう!」<br>
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恐怖を顔に張り付かせながら、猛然と反撥する巴。<br>
巴の頬を抑え付けたまま、にんまりと、氷の微笑を浮かべる雪華綺晶。<br>
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「随分と興奮しているのね、巴ぇ。<br>
いっそLSD-25でも使って、一気に興奮の絶頂に駆け登ってみる?」<br>
サイケデリックで、楽しい夢が見られるかも知れませんわよ」<br>
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LSD-25とは、D-リゼルギン酸ジエチルアミドという化学物質で、<br>
脳内のセロトニンの働きを抑制し、微量でも強い幻覚作用を持つ強力な<br>
合成幻覚剤である。<br>
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「本意では、ありませんけど……聞き分けのない貴女をお人形にする為には、<br>
お薬を使って廃人にしてしまうより他に、方法がないですわね」<br>
「じょ、冗談でしょ?! そんな物、貴女が持っている筈がないわ!」<br>
「んふふふふふ…………本当に、そう思っていらっしゃるの?<br>
今の世の中、お金があれば大概の物は手に入りますわ。<br>
人の心ですら、例外ではありませんのよ」<br>
「それは、そうだけど――」<br>
「お薬を買い求めるくらいは、誰でもしていることでしょう? くふふふっ」<br>
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薬と聞いて、巴は咄嗟に、薬物中毒患者を思い浮かべた。<br>
LSDが、どんな薬物なのか、巴は知らない。<br>
ただ、妙な薬物を使われて、生ける屍にされては堪らないという恐れが、<br>
巴の倦厭を刺激した。<br>
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「薬なんてイヤよっ! 貴女の人形になるのも、絶対にイヤっ!」<br>
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巴は叫んで、仰向けの身体を躍動させた。<br>
バランスを崩した雪華綺晶の膝が、僅かに浮いて、右腕に自由が戻る。<br>
一瞬だけのチャンス!<br>
無我夢中で雪華綺晶を押し退けた巴は、腕を伸ばしてデッキブラシを掴んだ。<br>
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「貴女なんか――」<br>
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雪華綺晶に飛びかかられるより早く体勢を整えて、巴は彼女の頭部を目がけて、<br>
デッキブラシを真一文字に振り抜いた。<br>
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ブラシの部分が、さながらハンマーの如く、雪華綺晶の左側頭部を強打する。<br>
ぐしゃっ! と熟したトマトが潰れる様な音が、地下室に響き渡った。<br>
雪華綺晶は、悲鳴どころか呻き声ひとつ上げずに、床に倒れ込んだ。<br>
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けれど、巴の腕は止まらない。<br>
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「死んじゃえっ! 貴女なんか、死んじゃえっ!!」<br>
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二度、三度と、雪華綺晶の頭にデッキブラシが振り下ろされ、<br>
その度に、びちゃっ! びちゃっ! と濡れた音が沸き起こった。<br>
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トドメとばかりに、大上段に振り上げられるデッキブラシ。<br>
だが、それは打ち下ろされる直前、巴の手から滑り落ちた。<br>
乾き切った木の音が、カランカランと虚しく鳴り響く。<br>
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巴は荒い呼吸を繰り返しながら、横たわったままピクリとも動かない雪華綺晶を<br>
見下ろしていた。たった今、悪夢から醒めたような、呆然とした面持ちで。<br>
その間にも、雪華綺晶の髪を、じわじわと鮮血が濡らしていく。<br>
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「……き……らき…………さん?」<br>
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返事は、無い。反応も、無い。<br></p>