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「第八回」(2007/03/05 (月) 21:33:15) の最新版変更点
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「きゃああぁっ!?」<br>
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予期していたとは言え、巴は胸の奥底からこみ上げてくる絶叫を、押し止められなかった。<br>
一気に上昇した心拍数が、ガンガンと激しい頭痛へと変貌を遂げる。<br>
吐き気を催すくらいに頭が痛くて、眩暈に襲われた。<br>
もっとも、暗闇の中では、本当に目が眩んだのか確かめようが無かったけれど。<br>
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もう逃げられない。逃げ切れない。諦念が、急速な虚脱感を引き起こす。<br>
携帯電話が指の間を擦り抜け、一秒後、床を転がる乾いた音がした。<br>
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「んふふふ…………思わず叫んでしまうほど、嬉しかったのかしらぁ?」<br>
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闇の中でも、雪華綺晶は正確に巴の肩を掴み、簡易ベッドに押し倒した。<br>
そのまま、グイと体重を預けて、抑え込んでくる。<br>
雪華綺晶の肩から流れ落ちた濡れ髪が、ぴちゃりと巴の頬を撫でた。<br>
仄かに、血の臭いがした。<br>
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「ひいっ!」<br>
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喉から悲鳴を絞り出して、顔を背けた巴の身体に、雪華綺晶の身体が覆い被さってくる。<br>
上背で勝る雪華綺晶を、なんとか押し退けようと試みるも、<br>
頭痛により力が入らず、小柄な体躯の巴は、完全に組み敷かれてしまった。<br>
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「い、イヤッ! 放してっ。放してよぉっ」<br>
「ふふ……ダぁメ。絶対に手放しませんわ。私の可愛いお人形さん♪」<br>
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巴の頬を、大きなナメクジの様な生暖かい雪華綺晶の舌が、ねっとりと這った。<br>
おぞましさに身を震わせた巴の耳を、雪華綺晶の猫撫で声がくすぐる。<br>
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「ねえ、巴ぇ~。さっきは、とぉっても痛くて…………気持ちよかったですわよ」<br>
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言って、雪華綺晶は何が楽しいのか、クスクスと笑った。<br>
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「巴ったら、あんなに激しく、私を打ち据えるんですものぉ。<br>
くふふふっ……私、貴女の愛を感じて、ゾクゾクしてしまいましたわぁ」<br>
「っ?!」<br>
「せめてもの御礼に、貴女にも、同じ快感を与えて差し上げなきゃあねぇ」<br>
「や、やぁっ! この変態っ! キチガイっ!」<br>
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気持ち悪い。<br>
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その嫌悪感だけが、巴の感情の全てだった。<br>
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(気持ち悪いっ! 気持ち悪いっ! 気持ち悪いっ! 気持ち悪いっ!)<br>
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「嫌いよ! キチガイっ! 貴女なんか、大ッ嫌いっ!」<br>
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禁句を連呼することすら、もう躊躇わなかった。<br>
漆黒の閉鎖空間に、耳をつんざく巴の罵声が、おんおんと響き渡る。<br>
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しかし、雪華綺晶は激情を露呈することも、たじろぎもせずに、<br>
巴を抑え付けて薄ら笑っていた。<br>
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怯える彼女の耳元で、くすくすと――<br>
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雪華綺晶の右手が、所在を確かめるように巴の肩を滑り、胸元をまさぐって、<br>
やがて……洋服の胸倉を掴んだ。<br>
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「ねぇえ、巴ぇ。今から、貴女に――」<br>
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熱を帯びた彼女の吐息が、巴の前髪を揺らした。<br>
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「一生、消えることのない誓いの証を、刻印してあげますわ。<br>
解剖学的にも、私が付けたと解る証拠を――ねぇ」<br>
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巴のシャツが暴力的に引っ張られて、シャツのボタンが千切れ飛んだ。<br>
汗ばんだ胸元が露わになり、巴は金切り声を上げて、両腕を振り回し、<br>
今までに無いほどの抵抗を見せた。<br>
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――だが、全ては徒労。<br>
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巴が、首筋に雪華綺晶の荒い鼻息を感じた次の瞬間、<br>
剥き出された巴の右の鎖骨に、雪華綺晶の歯が突き立てられた。<br>
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彼女の顎に力が込められていく。<br>
骨を砕かんばかりに、力一杯、噛み付いてくる。<br>
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「ひあぁぁっ!」<br>
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めくら滅法に振り回された巴の両手が、雪華綺晶の髪を鷲掴み、<br>
強引に引き離そうとする。<br>
けれども、雪華綺晶はガッチリと噛み付いたまま、離れようとしない。<br>
彼女の糸切り歯が、乙女の柔肌に食い込み、引き裂き始めていた。<br>
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瑞々しく張りのある白い肌を前歯が挟み込み、引っ張る。食いちぎろうとしているのだ。<br>
間断なく押し寄せる激痛が、首筋を伝って頭痛と混ざり合い、<br>
巴の思考をぐちゃぐちゃに掻き乱した。頭が痺れて、何も考えられない。<br>
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「ああああぁぁっ!! 痛いっ! 痛いいぃぃっ!!」<br>
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叫び、涙を流しながらも、巴は両腕で雪華綺晶の頭を殴り付けていた。<br>
左の拳は、硬い感触。<br>
右の拳は、びちゃっ……と、不気味に柔らかい感触。<br>
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けれども、雪華綺晶はガッチリと食い付いたまま、離れようとしない。<br>
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――――そして、その時は訪れた。<br>
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ぶつっ!<br>
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「あああああああああああああっ!!!!」<br>
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肌を食いちぎられて、嘗てない絶叫を、喉の奥から迸らせる巴。<br>
彼女の耳元では、雪華綺晶が聞こえよがしに、くちゃくちゃと咀嚼していた。<br>
たった今、歯で削ぎ落としたばかりの、巴の柔肌を。<br>
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ごくり……と、雪華綺晶の喉が、おぞましい音を立てた。<br>
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「んふふふふ…………おいしい♪<br>
今まで食べた、どんなお肉よりも美味ですわ」<br>
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巴は、産まれて初めて味わった激痛のために、ぱくぱくと口を開閉する<br>
ことしか出来なかった。ベータ・エンドルフィンとエンケファリンが<br>
過剰に分泌されて、巴の脳を麻痺させていく。<br>
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「……あ…………ああ……」<br>
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見開かれた双眸は、茫然と虚空を彷徨うだけ。彼女の頬を濡らす涙を、<br>
雪華綺晶の指がしなやかに拭い、愛おしそうに撫で回した。<br>
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「くふふっ。これで、貴女も私も傷物同士。<br>
流通経路に乗せられない、ただのジャンクですわ」<br>
「……」<br>
「でも、安心なさって。捨てたりなんか、絶対にしませんから。<br>
貴女は、私の宝物。私だけの、可愛い可愛いお人形さんですもの」<br>
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雪華綺晶は囁いて、自分が付けた巴の傷に、唇を寄せた。<br>
多くの吸血生物がそうする様に、溢れ出す血液を舌で舐め取り、<br>
ちゅうちゅうと吸い上げていく。<br>
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巴は、雪華綺晶の柔らかな舌に傷を刺激される度に「んあっ」と<br>
呻くものの、それ以上の反応を示さなかった。<br>
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「ああ……なんて甘露な味わいでしょう。程良い酸味と、<br>
まろやかな喉越しは、正に格別ぅ。国宝級のおいしさですわぁ」<br>
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やがて、雪華綺晶の唇に塞がれた巴の口内に、血の味がする唾液が<br>
流し込まれてきた。<br>
巴は、それを飲み下すことしか出来なかった。<br>
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生きることを諦めたくはない。<br>
しかし、彼女の抵抗を嘲笑うかのように、状況は刻一刻と悪化していく。<br>
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蒸し暑く、息苦しい。<br>
雪華綺晶と密着した肌が、じっとりと汗ばんでいた。<br>
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(桜田くん――)<br>
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幼なじみの彼を想い、胸の奥で、彼の名を呼び続ける。<br>
それは、今まで何度もしてきたような片想いではなく、もっと切迫した、<br>
救済を望む呼びかけだった。<br>
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(わたし、どうしたら良いの? ねえ、教えてよ、桜田くん。<br>
わたし、どうすれば助かるの? ねえ、答えてよ、桜田くん。<br>
いつまで、此処に縛り付けられなきゃいけないの?<br>
いつになったら、貴方の側に帰れるの?)<br>
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眦から溢れた涙が耳を濡らし、髪に吸い込まれていった。<br>
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(わたし、帰りたいよ。いつまでも、桜田くんの隣に居たいよ。<br>
だから、お願い…………早く、助けに来て。お願いだから。<br>
わたしを、この地獄から救い出してよっ!<br>
桜田くんっ! 桜田くんっ!! 桜田くんっ!!!)<br>
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雪華綺晶の腕の中で、巴はこの切望が叶えられることだけを祈り続けていた。<br>
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