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「第十回」(2007/03/06 (火) 21:08:03) の最新版変更点
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<p><br>
両手を器にして、巴は飽くことなく水を汲んだ。<br>
指の間から、ちょろちょろと漏れた水が、二の腕を伝って肘の先から落ちる。<br>
けれど、肌が濡れることは、少しも嫌ではない。<br>
寧ろ、気持ちよくすらあった。<br>
<br>
存分に喉が潤され、些かお腹がタポタポいう感じになると、次は顔を洗う番だった。<br>
本当は、頭からザブッと浴びたかったけれど、それをするには洗面台が狭すぎる。<br>
やむを得ず、洗顔と、両腕の汗を流す程度にしておいた。<br>
それだけとは言え、肌のベタベタ感が解消されて、寝惚けていた思考がスッキリする。<br>
<br>
「はぅ…………気持ちいい。まるで、生まれ変わった気分」<br>
<br>
どうせなら、全身の汗を拭いたい。そんな欲求に駆られた瞬間、巴は、ふと思い付いた。<br>
<br>
「そうだわ。スカートを水に濡らして、タオル代わりにすれば良いのよ」<br>
<br>
生地がごわごわして、拭き心地は悪かろう。<br>
が、肌のベタ付きとむず痒さを我慢し続けるよりは、数倍マシだ。<br>
どうせ、暫くは――もしかしたら、もう二度と――穿く事も無いだろうし……。<br>
なによりも、雪華綺晶に触られまくった身体を、一刻も早く清めてしまいたかった。<br>
<br>
<br>
漆黒の世界で、巴は床に這い蹲り、さっき脱ぎ捨てた衣服を、手探りで捜し当てた。<br>
そして、スカートで顔や腕の水滴を拭うと、また壁伝いに洗面台へと取って返し、<br>
当初の目的を遂行する。<br>
巴は、汗で湿ったスカートを折り畳んで、流水に浸した。<br>
<br>
右肩の怪我を庇いながら身体を拭くのは、想像以上に大変な仕事だった。<br>
けれど、重労働を終えて汗ばんでいた肌がサッパリすると、<br>
そんな苦労もどこかへ吹っ飛んでしまった。<br>
<br>
<br>
人の心理とは不思議なモノで、ひとつの問題が片づくや、<br>
他の問題の解決法を思い付いて、連鎖的に解消できることが間々ある。<br>
すっかり気持ち悪さが払拭されて、リラックスした巴の頭にも……ある考えが閃いた。<br>
<br>
(扉の下の隙間から、助けを求める手紙を出したら良いかも!)<br>
<br>
紙なら、トイレットペーパーが有る。<br>
インクなら、既に用意が出来ている。<br>
あと必要なものは、間違いなく文章を書くための、照明だけ。<br>
<br>
巴は、壁と洗面台の位置関係から、簡易ベッドの方向を見当づけて、<br>
闇の中を這って進んだ。<br>
時々、じっと身動きを止めて耳を澄ます。<br>
雪華綺晶の寝息が聞こえる方角を確かめて、再び、四つん這いで進み始める。<br>
両手は、絶えず前方の床を調べ回り、指先に当たる何かを捜し続けていた。<br>
<br>
<br>
そろそろ、ベッドの側まで来たかと思った矢先、右手の指先が、固い物に触れた。<br>
巴の心臓が、ドキン! と跳ねる。触れた感じからして、金属ではなかった。<br>
ひとつ、唾を飲み込み、巴は慎重に両腕を伸ばしていく。<br>
やっと見付けたのに、焦ってどこかに弾き飛ばしたりしたら元の木阿弥だ。<br>
<br>
(落ち着いて。慎重に…………慎重に…………)<br>
<br>
やっとの想いで、手に馴染んだ携帯電話を握り締めた瞬間、<br>
巴は胸の底から安堵の息を吐いた。<br>
宇宙ステーションでロボットアームを操るオペレーターも、<br>
こんな緊張を強いられているのかしらと考えたら、ちょっとだけ笑みが零れた。<br>
<br>
――でも、これはまだ序章にすぎない。<br>
<br>
(……落としちゃった時に、壊れてなければ良いんだけど)<br>
<br>
バックライトのボタンに親指を添えて、巴は祈った。<br>
<br>
<br>
(お願いっ! 点いてちょうだい――<br>
お願いだから! もう一度、わたしに光を与えて!)<br>
<br>
<br>
念を込める様に、ぐっ! と、ボタンを押す。<br>
巴の手の中で、拍子抜けするほどアッサリと、光が迸った。<br>
<br>
「やったわ、壊れてない!」<br>
<br>
となれば、直ぐにでも計画の実行に移らねば。<br>
バッテリーの容量には、まだ余裕がある。しかし、いつ壊れるとも限らない。<br>
いま出来ることは、可能な内に済ませてしまうのが良策だった。<br>
<br>
バックライトで照らして、トイレットペーパーを、ロールごと確保すると、<br>
巴は鉄扉の前に行き、両膝をついた。<br>
ペーパーを適当な長さに引っぱり出して、床に広げる。<br>
あとは、指先にインクを付けて、文字を書いて行くだけ。<br>
<br>
だが……それが問題だ。<br>
巴の身体が、極度の緊張と恐怖に、戦慄き始めた。<br>
<br>
<br>
巴は、何度も深呼吸を繰り返して、少しでも恐怖心を和らげようと努めた。<br>
早くしなければ、雪華綺晶が目を覚ましてしまう。<br>
早く、目的を遂げなければ。<br>
<br>
右腕を折り曲げて、人差し指を、鎖骨の傷口に宛う。<br>
骨が露出しているのか、指先に固い感触があった。<br>
右手首に、左手を添えて、しっかりと固定する。<br>
<br>
<br>
はあっ、はあっ、はあっ、はあっ…………。<br>
はっ、はっ、はっ、はっ、はっ…………。<br>
<br>
<br>
呼吸は乱れ、全身の毛穴が開いて、汗が滲み出してきた。<br>
<br>
(怖い。痛いのはイヤ)<br>
<br>
――でも、やらねばならない。生き延びたければ、やるしかない。<br>
<br>
ある種の強迫観念に取り付かれて、巴は他の発想に辿り着けずにいた。<br>
今度こそ、息の根が止まるまで雪華綺晶をデッキブラシで殴りつけて、<br>
その血を利用するなんて冷酷な手段を、思い付ける状態ではなかった。<br>
<br>
巴は意を決して、息を呑むと、右の人差し指で生乾きの傷を抉った。<br>
<br>
「ぁんっ……くぅぅっ!」<br>
<br>
とてつもない激痛に全身を蹂躙されて、背を仰け反らせる巴。<br>
歯を食いしばって堪えたものの、喉の奥から苦悶が漏れ出してくる。<br>
双眸から止めどなく溢れる体液が、頬を流れ、顎の先から胸の間に流れ落ちた。<br>
<br>
<br>
ぐちゅり……。<br>
<br>
引き抜いた指先に、粘っこい血液が、たっぷりとこびり付いている。<br>
再び、出血が始まっていた。<br>
<br>
「……っかはっ! はぁっ! はぁっ! はぁっ!」<br>
<br>
漸く、詰めていた息を吐き出して、巴は肩で荒々しい呼吸を繰り返した。<br>
しかし、まだ終わりではない。<br>
巴はギュッと目を瞑って、涙に滲む視界を明瞭にすると、<br>
痛みに震える右の手首を左手で握り締めて、薄い紙の上に血文字を綴り始めた。<br>
<br>
紙の吸収性が良すぎて、文字の縁が、じわじわと滲んでしまう。<br>
大きめに書かなければダメだ。複雑な漢字も、文字が潰れてしまうから使えない。<br>
巴は失敗した部分を千切って捨てると、傷口から滴る血を指先に付け、<br>
バックライトの角度を調節して、思い付くまま感情を書き殴った。<br>
<br>
<br>
桜田くん わたしは、ここに居ます 助けて 早く助けにきて おねがい<br>
<br>
<br>
自らの血でしたためた、ジュンへの手紙。<br>
彼は、読んでくれるだろうか? ううん……この際、彼でなくても構わない。<br>
誰でもいいから、この伝言を目にして欲しい。<br>
こんな生き地獄から、救い出してくれるなら、誰でも――<br>
<br>
トイレットペーパーの手紙を二つに折って、僅かに強度を持たせる。<br>
そう細工してから、巴は慎重に、鉄扉の下の数ミリしかない隙間に押し込んでいった。<br>
<br>
する……するる……。<br>
<br>
彼女の切望が込められた手紙が、順調に送り出されていく。<br>
地獄から、現世へと――<br>
もしかしたら、扉の向こうにも地獄が広がっているかも知れないけれど、<br>
巴にとって、そんな事は、どうでもよかった。<br>
まずは、この部屋から出ることだ。他の問題など、全て後回しで構わない。<br>
<br>
<br>
(わたし……生きて帰れるのかな)<br>
<br>
携帯電話が発する淡い光に照らし出される、扉の下の隙間。<br>
全ての手紙を呑み込んだ箇所を、巴は暫くの間、じっと見つめていた。<br>
<br>
が、ふと思い付いて、もう一度、手紙を書き始めた。<br>
次の機会が有るとは、限らないから。<br>
これで、最後になるかも知れないから。<br>
<br>
だから――――正直な気持ちを、書き残しておこう。<br>
今までずっと、伝えたいのに言えなかった、この想いを。<br>
<br>
<br>
桜田くん<br>
<br>
わたし 柏葉巴は あなたのことが 大好きです<br>
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今も――<br>
<br>
そして これからも ずっと――<br>
<br>
あなただけを あいしています <br>
<br>
会いたいな 大好きな あなたに<br>
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きっと また会えるよね <br>
<br>
<br>
<br>
「……やっぱり、恥ずかしい」<br>
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改めて読み返してみると、巴は顔から火が出るような思いがした。<br>
でも、捨ててしまおうなんて、考えたりはしない。<br>
稚拙な表現しか出来ないけれど、彼への想いは込めたつもりだ。<br>
今まで、ずっと……この小さな胸に閉じ込めてきた、切なる想いを。<br>
<br>
だったら、なんとしてでも、伝えなければならない。<br>
恥なんて、かなぐり捨てて、届けなければならない。<br>
ここで手紙を捨ててしまったら、彼への未練を断ち切ることに等しいのだから。<br>
<br>
鉄扉の向こうに、輝かしい未来が広がっていると信じて――<br>
この想いを、未来へと送り出そう。<br>
<br>
<br>
長々と血文字の書き記された紙を、するすると扉の下に滑らせていく。<br>
途中で何度も引っかかって、破れそうになったけれど、<br>
なんとか無事に、全てを送り出すことが出来た。<br>
<br>
(彼が読んだら…………どう思うかな?)<br>
<br>
多分、彼は、わたしの気持ちに気付いている。<br>
そんな確信が、巴には有った。<br>
だって、十年以上も寄り添いあった、幼なじみだから。<br>
今更、思慕の情を口にしなくても、分かり合えていると思っていた。<br>
<br>
でも……それは身勝手な思い込みだったのかもしれない。状況に甘えて、積極的になれなかった。<br>
人の思念なんて、所詮、空気みたいなもの。そこに有って、そこに無い。<br>
目に見えるカタチにしなければ、伝わらない。気付いてもらえないのに――<br>
<br>
(もっと、あけすけな態度で、彼に接していたら良かったの?)<br>
<br>
考えて、巴は吐息混じりの苦笑を漏らした。<br>
それが出来る性格ならば、他のことでも苦労はしていなかっただろう。<br>
しかし、今までは今まで。これからは、これから。その気さえ有れば、人生、幾らでもやり直せる。<br>
<br>
(ここから出られたなら…………わたし、きっと)<br>
<br>
携帯電話のディスプレイでバッテリー残量を確かめながら、巴は、決意を新たにした。<br>
<br>
<br>
だが、突如として、巴は急激な目眩に襲われた。<br>
一向に止まない頭痛が、更にガンガンと痛んで、身動きする気力すら奪っていく。<br>
今にも胃の中身を吐きそうだ。とてもじゃないが、立ち上がれそうにない。<br>
巴は蹲ったまま、額に手を当てて、頭痛に耐え続ける事しか出来なかった。<br>
<br>
(なにこれ…………頭が……割れそう。痛、い……痛いよ…………桜田くん)<br>
<br>
意識が朦朧として、気を緩めた途端、気絶してしまいそうな激しい頭痛。<br>
こんな症状は、産まれて初めてだった。<br>
バックライトの明かりが、ぼんやりと霞んで見える。<br>
<br>
(なんで? どうして、こんな――)<br>
<br>
質の悪い水を飲んだから? 有り得ない。水あたりならば、腹痛が先だ。<br>
となると、やはり重度の熱中症なのだろうか?<br>
それとも、傷口から破傷風菌などの病原菌が入ったのか?<br>
いずれにしても、変化が急激すぎる。通常ならば、潜伏期などを経る筈だ。それが無かった。<br>
全身の筋肉が弛緩したみたいに、気怠い。まるで……麻酔をされたかの様だった。<br>
<br>
「桜田……くん。助……けて」<br>
<br>
自分の身体に、何が起きているのか解らない。全く、何も――<br>
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<br>
――否。<br>
<br>
…………ひとつだけ。<br>
<br>
たった一つだけ、朦朧とする意識の中で、解ることが有った。<br>
<br>
<br>
<br>
「桜……田く……ん。ご……めんな……さい。<br>
わたし……もう、貴方……に会えな……いよぉ。<br>
こ……んなにも……会い……たい…………のに――――」<br>
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桜田くん――<br>
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わたし、柏葉巴は……貴方のことが大好きでした。<br>
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もう一度――<br>
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たった一度で良いから、会いたかったなぁ――<br>
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<br>
大好きな、貴方に――<br>
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<br>
さようなら…………桜田くん。<br>
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<br>
わたし、本気で愛してたの――――<br></p>