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第十三回」(2007/03/11 (日) 23:43:31) の最新版変更点

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<p><br> 薔薇水晶は、ぶおぉ……と轟音を発して燃え上がる紅蓮の炎に炙られ、目を細めた。<br> 時折、伸びてくる火の舌が顔の近くを舐めて、産毛を焦がしていく。<br> 逃げだそうにも、両手両足は何かに拘束されていて動かせない。<br> 見れば、十字架のような物に括られ、燃え盛る炎の上に吊り下げられていた。<br> <br> <br> 一体全体、どうして、こんな状況に置かれているのか? いつの間に?<br> 訳が解らない。ただただ、暑く、熱かった。<br> 全身の汗腺が開き、体内の水分が流れ出していく。<br> 額から落ちてきた汗が鼻の頭に溜まって、くすぐったい。<br> 髪の間を抜け、耳の後ろを流れてきた汗は、下唇に留まり、揺れる。<br> <br> <br> やがて、二つの滴は殆ど同時に、炎の中へ落ちていった。<br> それは、炎に辿り着く寸前、蒸発して消えた。<br> このままだと、冗談抜きに、乾涸らびてしまいそう。<br> <br> 暑さを我慢する必要なんて無いし、干物になるまで待っているほど、暢気でもない。<br> だが、この状況で下手に暴れれば、十字架に束縛されたまま炎へ直滑降してしまう。<br> 脱水症状で逝くか……焼死を選ぶか……。<br> どちらにしても、絶対的な死は、変えられないかも知れない。<br> <br> 暗澹たる気持ちで眺めていた焔が身に焼き付いて、紅蓮は暗黒に転じる。<br> すると、ちらちらと瞬き、ゆらゆらと揺らめく火焔が、なにかを形作りはじめた。<br> 一体、何が始まろうとしているの? 皆目、見当が付かなかった。<br> 眉根を寄せる彼女の前で、火焔は漆黒の四角いスクリーンへと変貌を遂げた。<br> ブツッ! ザザッ……と耳障りな雑音。それを合図に、画面の中で砂嵐が吹き荒れ始める。<br> <br> 何が映し出されるのか……。<br> 立ち尽くして、走査線上を乱れ飛ぶ砂嵐を凝視していると、徐々に、何かの像を結び始めた。<br> 浮かび上がるモノクロ画像。しかも、全体的にトーンが暗いので、何の画像か判然としない。<br> ただ一点……スクリーンの右上部分に、ぽうっと仄明るい箇所があった。<br> <br> (何? あの部分――――どうにかして、拡大して見たいなぁ)<br> <br> 暑さで朦朧としつつも、薔薇水晶が胸の内で切望すると、<br> それに応えるように、画面は明るい箇所へとズームアップしていった。<br> 正体不明の明かりは小さな四角形。まるで、携帯電話のディスプレイみたい。<br> 更に拡大していくと、それは紛れもなく携帯電話のバックライトだった。<br> この映像に、どんな意味が秘められているのだろう。<br> それを把握すべく、スクリーンを食い入るように見つめていた薔薇水晶は、<br> 映像がぐらり……と振れた瞬間、微かな光に浮かび上がる『何か』を視界に捉えた。<br> <br> あれは、何なのだろうか。白っぽい棒状の物が転がっている。<br> 画像自体の黒レベルが強すぎて、一見しただけでは、どうにも良く解らない。<br> それでも、根気よく、矯めつ眇めつしていると……。<br> <br> (なんだか…………人の腕……みたいな?)<br> <br> それは確かに、人間の左腕。肩から二の腕にかけての映像だった。<br> 低い視点で、横たわっている人を真横から見れば、こんなアングルになるのだろう。<br> 正体が判明して安堵する反面、薔薇水晶は、妙な胸騒ぎを覚えていた。<br> 腕だけが転がっているとなれば、尋常ならざる事態だ。<br> <br> ――が、違った。<br> 腕の向こうに、ブラジャーのカップらしき隆起が、微かに映っている。<br> 下着の清楚なデザインから察して、この人物は年の頃10代後半から20代前半の、若い女性だろう。<br> しかも何故か、薔薇水晶は直感的に、この娘が雪華綺晶か巴だと悟っていた。<br> <br> この映像を撮っているカメラのアングルを、もう少し右に寄せれば、横顔が見えそう。<br> <br> (動いて……右へ。右へ――)<br> <br> 薔薇水晶が念じると、先程と同様に、画像が右に向きを変えていく。<br> なにか、スポーツをしているのだろう。肩の筋肉が、普通の娘に比べて発達している。<br> その肩の影から、細い頚が淡く浮かび上がり、顎の線と、耳朶と……髪が見えた。<br> ショートカットの、ストレートな黒髪が。<br> <br> (この女の人って、まさか…………巴ちゃん?!)<br> <br> 光量が少なすぎて、顔全体を写すことは出来ない。しかし、巴と符合する特徴は多かった。<br> もし、この娘が巴だとしたら……姉の雪華綺晶も、すぐ側に居るかも知れない。<br> <br> (これって――もしかしたら、お姉ちゃんが助けを求めてるサインかもっ!?)<br> <br> 予知夢、或いは、虫の報せ……と呼ばれるものか。<br> 生命の危機に瀕した身内の、救いを求める必死の想いが、<br> 肉親の元に届いたという摩訶不思議な話を、聞いた憶えがある。<br> であれば、この映像も或いは――<br> 薔薇水晶は些細な動きすら見逃すまいと画面を睨め付け、片時も目を逸らさなかった。<br> <br> <br> ――――ふと、画面の上方……横たわる娘の奥で、何かが蠢いた。<br> <br> 身を乗り出して、もぞもぞと動く何かを凝視すた。<br> 丸みを帯びた形状。人の頭部らしいが、判別しかねる。<br> 髪の毛だろうか? 白っぽい、緩くウェーブのかかったモノが、ちらちらと動いていた。<br> 何かの花を模した、髪飾りも……。<br> <br> <br> だが、確認できたのは、そこまでだった。<br> 画面を食い入るように見つめていた薔薇水晶の左耳元に、ぶおぉん……と耳障りな振動音が迫り、<br> 高熱が襲ったのだ。不意打ちに驚き、身体を震わせた瞬間、薔薇水晶を捕らえていた十字架が、<br> すとんと落下を始めていた。<br> <br> ――死が待つ業火の中へと、まっしぐら。<br> <br> <br> <br> ひゃぅっ! と息を呑んで目を見開いた薔薇水晶の肌と耳が、熱気と騒音を感知する。<br> 音のする方へ顔を向けると、そこにはドライヤーと櫛を手にして佇む、蒼星石の姿があった。<br> <br> 「あ……ごめん。起こしちゃったんだね」<br> <br> 蒼星石はドライヤーのスイッチを切って、薔薇水晶に優しく微笑みかけた。<br> どうやら、炎に炙られたと感じたのは、ドライヤーの熱気だったらしい。<br> 夢は、睡眠中に起きる些細な刺激を拡大解釈すると言うのは、本当のようだ。<br> <br> それにしても、あの奇妙な映像は、なんだったのだろう?<br> ただの悪夢だったのならば、いっそ気が楽だ。<br> 変な夢と笑い飛ばして、明日には忘れてしまえるから。<br> だが……今の夢は、どうだ。夢と呼ぶには、あまりにも生々しすぎた。<br> 今だって、夢の中で見た光景を、鮮明かつ詳細に思い出せる。<br> 薔薇水晶は、なんとなく、キツネに摘まれた気分だった。<br> <br> <br> 気分が落ち着くにつれて、段々と、周囲の環境を探る余裕が出てきた。<br> 微かに鼻腔を刺激する、薬品の臭い。アイボリーを基調とした、簡素な空間。<br> どうやら、保健室のベッドに寝かされていたらしいと推察した薔薇水晶は、<br> 半身を起こそうとして、激しい頭痛と、眩暈に襲われた。<br> 貧血とは違う様だが、目の前が夕暮れを思わせる程に暗転して、頭がクラクラする。<br> 結局、薔薇水晶は諦めて、固めの枕に深々と頭を沈めた。<br> <br> 「無理して起きない方が良いよ。さっき体温を計ったら、だいぶ熱があったから」<br> 「…………私……どうして……」<br> 「キミは屋上で倒れてたんだよ。雨の中でね。<br>  ジュン君が見付けてくれなかったら、きっと今も、雨ざらしになってた筈だよ」<br> <br> 雨に濡れていた薔薇水晶の髪は、蒼星石のお陰で、すっかり乾いている。<br> たっぷりと雨水を吸い込んだ制服は脱がされて、今は二枚の下着のみの姿だった。<br> 女の子同士とは言え、あられもない姿を見られた事が気恥ずかしくて、<br> 薔薇水晶はシーツの下で脚を擦り止せ、もそもそと身悶えした。<br> <br> 朱に染まった頬を見て、発熱に因るものと早合点した蒼星石が、医薬品の収められた棚から<br> 『熱冷まシート』を持ち出してきて、薔薇水晶の額にペタンと貼り付けた。<br> だが、口元に浮かべた微笑みに相反して、蒼星石の眼差しは鋭い。<br> 彼女の様子から、薔薇水晶は何らかの詰問がくるものと確信した。<br> <br> 「なにがあったの? まさか、自殺とか……バカなこと考えてたんじゃあないよね?」<br> 「違うよ……そんなんじゃない」<br> <br> 即座に否定する薔薇水晶に、蒼星石も質問を畳みかける。<br> <br> 「だったら何故、授業時間中に、屋上なんかに居たのさ」<br> 「…………だって」<br> <br> 薔薇水晶は、蒼星石に注いでいた視線を逸らして、窓の外を見遣った。<br> 静まり返った室内で、窓を打つ雨の音だけが、ぱらぱらと時を刻む。<br> ガラス越しに流れ落ちる滴に、今も心で流し続けている涙を重ねて、小さく吐息。<br> <br> 吹き付ける風で、がたがたと揺れる窓を眺め続けて、数秒。<br> 薔薇水晶は、キュッと唇を噛んで、ぽつりと呟いた。<br> <br> 「あんな教室には……居たくなかったから」<br> <br> 語気強く紡ぎ出された、彼女の本音。<br> あからさまな嫌がらせは段々と減ってきているが、あくまで表向きのことだった。<br> 目の届かない陰では、心ない連中に、どんな事をされているのか。<br> 登下校の道すがら、擦れ違う人々に、どんな事を囁かれているのか。<br> <br> 当事者である薔薇水晶は、蒼星石たちが想像する以上に、辛い目に遭っているのだろう。<br> そして、独り、小さな身体に莫大な精神的苦痛を押し込めて、じっと堪えている。<br> 蒼星石は、ただ薔薇水晶の側に居て、支えてあげることしか出来ない自分の非力が歯痒かった。<br> それは多分、他の友人たちも抱いている共通の感情だった。<br> <br> 重苦しい空気に包まれて、言葉を失う二人。<br> 耳に届くのは雨だれと、扉や窓から侵入してくる湿った隙間風の悲鳴だけ。<br> 今にも窒息するかと思われた矢先、保健室の扉が開かれ、威勢の良い声が室内に響いた。<br> <br> 「蒼星石ー、薔薇しぃの着替えと荷物を持って来たですよ」<br> <br> その言葉どおり、翠星石は薔薇水晶のジャージと体操着、鞄を抱えていた。<br> 薔薇水晶が目覚めていると気付くや、足音を響かせてベッド脇に歩み寄り、<br> 腹立たしげに着替え一式を荒っぽく放り出した。<br> そして、腰に手を当て、威圧的に薔薇水晶を促した。<br> <br> 「なに、ボサッとしてるです! さっさと着替えやがれですっ!」<br> 「ちょっと……止めなよ、姉さん。ごめんね、薔薇しぃ。<br>  今、ジュン君が保健の先生と一緒に、早退の連絡をしに職員室へ行ってるんだよ。<br>  迎えの人が来るまでに、帰り支度を済ませちゃわないとね。手伝おうか?」<br> 「着替えくらい……独りで出来るよ」<br> <br> 薔薇水晶は熱が引き起こす目眩に堪えながら、翠星石と蒼星石の助力を断り、<br> 手早く着替えを済ませた。<br> <br> <br> <br> 程なくして、車で乗り付けた執事の青年に連れられて、薔薇水晶は帰って行った。<br> 翠星石と蒼星石、ジュンの三人は昇降口まで赴いて、<br> 雨に霞む校門を出て行く車のテールランプを見送っていた。<br> <br> 「薔薇しぃの軽挙妄動には、腹が立つですよ。まったく……心配させやがるです」<br> 「心労が嵩んでいたんだよ、きっと。眠ってる時も、だいぶ魘されてたからね」<br> 「無理もないさ。早く、元気になってくれれば良いけどな」<br> <br> 翠星石と蒼星石の呟きに、ジュンは相槌を打った。<br> どれだけ精神的に強い者だろうと、彼女と同じ境遇に陥れば気疲れしない訳がない。<br> 最悪、鬱状態に陥り、このまま引き籠もってしまうことだって……。<br> <br> 「取り敢えず、今夜にでも電話して、元気づけてみるよ」<br> <br> その時にかける言葉を探しながら、ジュンは双子の姉妹を残して、教室へと引き返していった。<br> <br> <br> <br> 家路を急ぐ高級セダンの、柔らかなリアシートに深々と身体を預けて、<br> 薔薇水晶は難儀そうに吐息した。頬が熱い。身体が火照っている。<br> にも拘わらず、一滴の汗も出ていなかった。喉もカラカラだ。<br> クラクラする感覚は、まるで波間に漂う小舟に乗せられているみたい。<br> <br> 「お嬢さま。お加減は、いかがですか?」<br> <br> 執事の青年、白崎が、ルームミラーを介して薔薇水晶を見つめていた。<br> 怜悧そうな切れ長の眼差し。知性を感じさせる、広い額。<br> 実際、外見に違わず、彼は優秀な人間だった。<br> 七年前、身内を失った白崎を、父が引き取ってからは、その恩義に報いるべく尽くしている。<br> 薔薇水晶と十も歳が離れていない若輩ながら、自らに科せられた役割を理解し、演じ続けていた。<br> そんな彼のことを、薔薇水晶は出会ったときから、如才ない男だと思っていた。<br> <br> だが、それで嫌悪感を抱くような事は一切なく、寧ろ、その逆。<br> 他愛ない質問をしても、いつだって親身になって応じてくれる白崎に対して、<br> 薔薇水晶は実兄に寄せるような信頼と親近感を抱いていた。<br> <br> ――恐らくは、雪華綺晶も。<br> <br> <br> さっきの生々しい夢が脳裏を離れない。だから、薔薇水晶は白崎に話してみようと思った。<br> 彼はいつでも、問題を解決する糸口を差し出してくれるから。<br> 拍子抜けするほど、アッサリと。<br> <br> 「ねえ。白崎さんは…………夢を見る?」<br> 「勿論ですとも。夢は現実世界の継続であり、願望の充足なのですから。<br>  言うなれば、自己防衛というものでしょうか。<br>  様々なストレスから魂を解放する為の、必要不可欠な作業なのです」<br> 「ふぅん? 白崎さんでも、ストレスを感じたりするの?」<br> 「それは……ヒドイ言い種ですねぇ。僕だってストレスぐらい感じますとも」<br> <br> 勿論、それは解っていた。彼だって、妹にも等しい雪華綺晶が行方不明になって、<br> 心配している筈なのだ。執事の役を演じて、飄々と受け答えしていても、きっと。<br> <br> 途切れる、二人の会話。<br> だが、彼の言葉は、彼女の期待を裏切っていなかった。<br> <br> <br>   夢は現実世界の継続であり、願望の充足。<br>   様々なストレスから魂を解放する、必要不可欠な作業。<br> <br> <br> さっき、保健室で見た夢もまた、極度のストレスから逃れたい欲求が見せた、<br> 幻想だったのかも知れない。自分が救われるために、姉と友人の無事を祈り、<br> 世間の嫌疑を晴らしたいがために、彼女たちの帰還を願った。<br> <br> 全ては、自己満足のため。<br> ああ……なんて卑しく、浅ましい性根。<br> <br> <br> 薔薇水晶は溜息を吐いて、車窓を叩く雨を物憂げに眺めた。<br> そんな彼女の横顔を、白崎がルームミラーで観察している事に、気付きもせず。<br> <br> <br> <br> <br> 同じ頃――<br> <br> 雪華綺晶は横たわったまま、巴の身体を撫で回して、その滑らかな肌の感触を愉しんでいた。<br> 汗も掻かないし、新陳代謝によって垢が浮くこともない、汚れを知らない乙女の柔肌。<br> 喜ばしいことに、巴の身体は、柔らかさを取り戻しつつあった。<br> 眠りに就いた時には、まだ硬直していたのに、今や関節を動かすことも思いのままだ。<br> もしかして、マッサージのお陰? なんて茶目っ気を見せながら、じっくりと慈しむ。<br> ここ最近、求めても得られなかった触感を、心ゆくまで堪能しながら……。<br> <br> 室温の高さも影響して、巴の身体は急速に死後硬直から抜け出し、軟化が始まっていた。<br> 少しばかり饐えた臭いが漂いだしていたが、雪華綺晶の発する汗の臭いに紛れて、<br> どちらから放たれる臭気なのか、区別が付かなくなっていた。<br> <br> 「ああぁ……ステキ♪ なんて素敵なんですの、貴女は。どんな時も凛として――美しい。<br>  出会った時からずっと、貴女の美貌は……私の心を掴んで放さないのですわ」<br> <br> 雪華綺晶は、携帯電話のバックライトに浮かび上がる巴の横顔を、ぼんやりと眺めながら、<br> 彼女の頬に指先を這わせて、顎の先まで、ゆっくりと撫で上げていった。<br> たったそれだけの行為なのに、愛おしさで胸が張り裂けそうだった。<br> もっと触れたい。もっと近付きたい。いっそ――ひとつになってしまいたい。<br> <br> けれど、彼女の想いは長続きしない。身体が鉛のように重く……動かない。動きたくない。<br> 空腹と疲労、薄くなっていく酸素量が、動き回ろうという意欲を、彼女から奪っていた。<br> 毎日、毎日……何もかもが億劫で、寝ても醒めても横臥したまま。<br> 身動きするのは精々、床擦れしないように寝返りを打つ時か、ささやかに巴を愛おしむ時だけ。<br> <br> しかし、物憂げな彼女の瞳が、突如として意欲の光を宿した。<br> <br> 「……折角、動かせるようになったんですもの。<br>  たまには、着せ替え遊びをしましょうか」<br> <br> 肘を突き、久方ぶりに身体を起こした雪華綺晶は、巴の頸の下に腕を潜り込ませて、<br> 壊れ物を扱うが如く、静かに抱え起こした。<br> 後頭部が枕を離れると、巴の頭は仰け反って、白磁のような喉元が露わになった。<br> <br> 「あぅ……この眺めは、なかなかに扇情的ですわねぇ」<br> <br> 雪華綺晶は、巴の喉に吸い付いて貪りたくなる衝動を抑え、抱き起こす腕に力を込めた。<br> 起こされるにつれて、反っていた頭が、がくり……と前に倒れる。<br> <br> <br> その瞬間、雪華綺晶は見てしまった。<br> 白く、艶めかしい巴の首筋に現れた、黒ずんだ斑紋を。<br> <br> 汚れが付着しているのかと、指先で擦ってみたが、落ちるどころか薄れもしない。<br> 唾液で指先を濡らして再び試みるも、結果は変わらず。<br> 更に良く確かめるべく、携帯電話を掴んで、巴の首筋を照らしたところ――<br> <br> 「ひいっ!」<br> <br> 未だ嘗て目にしたことがない、おぞましい光景が、雪華綺晶の目の前に、さらけ出された。<br> 首筋に浮かんだ黒い斑紋と同じモノが、巴の背中を、びっしりと埋め尽くしていたのだ。<br> いわゆる、死斑と呼ばれる穢れの烙印は、よくよく見れば背中だけに留まらず、<br> 脇の下や太股の裏側、脹ら脛にまで、点々と刻み込まれていた。<br> <br> 「あ……ああ…………うあああああっ!」<br> <br> 雪華綺晶の喉から迸る、畏怖と驚愕、嫌悪と絶望が綯い交ぜになった叫び。<br> こんな事、あってはならない。絶対に、許容してはならない。<br> だが……『時』という現実は片時も休むことなく、冷酷に、無垢なる存在を犯していく。<br> <br> 「……止めて…………止めて止めてっ! 私の巴を汚さないでっ!」<br> <br> 血を吐くような叫び声をあげても、自然の摂理という蛮行は止まらない。<br> 目の前で、今も尚、巴が蹂躙され続けている。<br> 雪華綺晶にしてみれば、それは最早、神聖への冒涜。単なる犯罪行為にしか見えなかった。<br> <br> 壊されていく。<br> 追い求めて、やっと手に入れた宝物が、為す術もなく略奪されていく。<br> なのに、自分は犯行現場に立ち会っていながら、何の抵抗も出来ない。<br> 案山子みたいに突っ立って、ただただ指を銜えて、呆然と眺めているだけ。<br> <br> 「私は、なんて無力で――無様なんでしょう」<br> <br> 雪華綺晶は、敗北感に打ちひしがれながら、慟哭した。<br> 狭い地下室に、彼女の泣き声だけが、えんえんと響く。<br> <br> その、ほんの僅かな合間に――<br> <br> <br>   木偶の棒なのね……あなたは。<br>   わたしを護ってくれるんじゃなかったの?<br> <br>   うそつき。<br> <br> <br> 巴の呟きが聞こえた気がして、雪華綺晶は我に返った。<br> <br> <br> ……そうだった。なぜ、言われるまで気付かなかったのだろう。<br> 彼女の美しさを護れるのは、自分だけ。自分にのみ与えられた天職ではないか!<br> 雪華綺晶は琥珀色の瞳を爛々と輝かせて、穢れから巴を護る術を模索し始めた。<br> 巴という造形美を、永久に不可侵のものとする為の、最も効果的な手段を――<br> </p>

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