「第十九話  『きっと忘れない』」の編集履歴(バックアップ)一覧はこちら

第十九話  『きっと忘れない』」(2007/04/26 (木) 23:53:10) の最新版変更点

追加された行は緑色になります。

削除された行は赤色になります。

射し込む朝日を瞼に浴びせられて、蒼星石を包んでいた眠りの膜は、穏やかに取り払われた。 なんだか無理のある姿勢で寝ていたらしく、身体が疲労を訴えている。 ベッドが、いつもより手狭な気がした。それに、とても温かい。 まるで……もう一人、収まっているみたい。 もう一人? 朦朧とする頭にポッと浮かんだ取り留めない感想を、胸裡で反芻する。 ――なんとなく、ぽかぽか陽気の縁側に布団を敷いて昼寝した、子供の頃が思い出された。 あの時、背中に感じた姉の温もりと、今の温かさは、どこか似ている。 ココロのどこかで、まだ、翠星石を求め続けている証なのだろう。 (夢でもいい。姉さんに逢えるなら) もう少し、夢に浸ろう。蒼星石は目を閉じたまま、もそりと寝返りを打ち、朝日に背を向けた。 途端、そよ……と、微風に頬をくすぐられた。 それは一定の間隔で、蒼星石の細かな産毛を揺らしていく。 次第に、こそばゆさが募って……とうとう、蒼星石は微睡むことを止めた。 ――そして、霧の中を彷徨っていた意識は覚醒する。 様々な情報が、視覚を突き抜けて、怒濤のように押し寄せてきた。 まるで、そう……初売りの福袋を買い求めようと殺到する客みたいに。 (そっか。あのまま、泊まっちゃったんだっけ) 蒼星石の苦笑など露知らず、水銀燈は安心しきって、眠りこけている。 無防備な寝顔が可愛らしくて……悪戯心を刺激された蒼星石は、そっと顔を近付けた。   第十九話 『きっと忘れない』 微かに唇が触れて、数秒…………水銀燈が、短く呻いた。 うっすらと瞼を開いたものの、まだアタマの半分は寝惚けているらしく、 欠伸を噛み殺しながら、目をしょぼしょぼさせている。 「おはよ、水銀燈」 「んん……もう……朝なのぉ?」 そうだよ。囁きかけて、蒼星石は半身を起こした。 病室は空調が利いているとは言え、さすがに深秋の早朝らしく、 冷え冷えとした空気が、剥きだしの肌をキリリと引き締める。 努めて起きようとしなければ、誘惑に負けて、温いベッドに逆戻りしてしまうだろう。 現に、水銀燈は瞼を閉じて、もうウトウトし始めていた。 「起きて、水銀燈。今日は退院する日だから、準備しなきゃ」 「ん…………もうちょっとだけ」 「ダメだよ。ほら、ちゃんと目を開けて」 「……うっさいわねぇ」 いかにも不機嫌といった調子で、もごもご呟いたかと思った直後、 水銀燈の腕が伸びてきて蒼星石をグイと引きずり倒し、のし掛かってきた。 「わ、ちょっと……ダメだったらぁ」 諫める蒼星石の声に耳を貸すどころか、水銀燈は寝息を立て始める。 ダメと言った蒼星石ですら、ヌクヌクする気持ちよさに抗いきれず…… 「しょうがないなぁ、もぅ」 結局、病室を訪れた巴に叩き起こされるまで、惰眠を貪る二人だった。 数日ぶりの帰宅。蒼星石は、がらりと変わった雰囲気に、驚きを露わにした。 蒼星石が自殺を図った時の、澱んだ空気に満ちていた世界をモノクロに喩えるなら、 現在は、燦々と真夏の日射しが降りそそぐ原色の世界そのものだ。 この変化は間違いなく、水銀燈がこの家に足繁く通い、もたらしてくれたもの。 淋しい幼年時代を経たが故に、愛され方を経験的に学び、愛し方を知った彼女―― 水銀燈でなければ、悲しみに打ち沈む祖父母を奮い立たせることは、出来なかっただろう。 荷物を置き、祖父母への挨拶もそこそこに、蒼星石が最初に向かったのは……仏壇。 見ることすら忌み嫌ってきたのに、今は素直な気持ちで、向き合いたいと思っていた。 姉さんが大好き。その想いを変えることなど、死ですらも為し得ないのだから。 祭壇の前に正座して、蝋燭に灯をともし、数本の線香に火を着ける。 両手を合わせ、初めて見上げた姉の遺影は、とても、とても…… 穏やかな微笑みを、蒼星石に投げかけていた。 「お葬式にも出ないで……今までほったらかしてて、ゴメンね。  姉さんのことだから、きっと、すごく寂しがって……泣いてたんじゃないの?」 ――そんなワケねーです。フザケたこと言うなですぅ! 拳を握り締めて、猛然と反論する翠星石の声が聞こえた――――気がした。 「うん……泣きじゃくってたのは、ボクの方だね。  落胆のあまり、馬鹿な真似して……大勢の人を、悲しませちゃった」 でも、安心して。ボクなら大丈夫。もう、メソメソしないよ。 語りかけようとした言葉は、しかし、声にならない。 だって、頬はもう濡れていたのだから。 それから、拍子抜けするくらい何事もなく日々は過ぎ去り―― 四十九日を迎えた今日、柴崎家の菩提寺で、忌明けの満中陰法要が執り行われた。 翠星石が他界したのは、七週間前の月曜日。 本来ならば平日だが、どういう巡り合わせか、祝日に当たっていた。 しかも、胸が空くくらいに、気持ちのいい秋晴れと来ている。 冠婚葬祭には、時折、こんな風に不思議な偶然が重なるものだ。 法要が済み、納骨が行われた後、寺の一室で精進落としの料理が振る舞われる。 けれど、その席に、蒼星石の姿はなかった。 「これで、本当に離ればなれになっちゃったね……姉さん」 閑散とした墓地に、冬の訪れを告げる木枯らしが吹き抜け、制服のスカートを靡かせる。 燃えさしの線香が、寒風に煽られる度、ぽうっと輝く。まるで、冬のホタルのよう。 その下に、翠星石が安置されたのは、ついさっきのことだ。 墓誌に刻まれた真新しい漢字の羅列と、享年十七の文字が、蒼星石の胸を締めつける。 けれど、蒼星石は泣いていなかった。彼女の両脇に佇む、二人の親友も。 「でも、ボクは生涯、忘れない。この胸に姉さんを宿して、生きていくよ。いつまでも一緒に」 「強くなったね……蒼星石さん」 「そうね。私も、そう思う。あどけなさが薄らいで、大人びた感じよ」 「そうかな? 自覚はないんだけど、ただ――」 巴と水銀燈の言葉に、蒼星石はちょっと首を傾げて、口元を綻ばせる。 「禍も福も、ホントは区別なんか無くて……気持ち次第でどっちにでもなるんだなって。  今は、そう思えるようになった。それだけのコトなんだよ?」 言って、蒼星石は墓石に背を向け、親友たちの顔を見つめた。 「きっと、ボク独りだったら鬱ぎ込むばかりで、そんな答えも導き出せなかったと思う。  キミたちが支えてくれたから、ボクは今、こうして立っていられるんだ」 「だとしたら……わたしは、約束を果たせたのね」 巴は蒼星石のうしろ――墓石に目を向け、続けた。「翠星石さんとの、約束を」 蒼星石の胸に、記憶が甦る。放課後の体育館の入り口で出会った、翠星石のビックリ顔が。 仲良さそうにお喋りしていた、翠星石と巴の背中が。 「彼女、言ってた。蒼星石さんは、とっても脆く傷つきやすい女の子だって。  でも、いつまでも一緒には居られない。いつかは別れなければいけないって。  だから……貴女が独りぼっちになってしまった時は、ココロの拠り所になって欲しい、と。  今にして思えば、翠星石さん……予感してたのかも知れないわね。こうなることを」 些か不器用に過ぎるけれど、それが翠星石なりの、思いやりだったのだろう。 姉にベッタリの妹に、独り立ちしてもらいたくて、憎まれ役を買おうとしていたのだ。 けれど、結局は翠星石の方が寂しさに耐えられなくて、別れを早めてしまったなんて―― 皮肉だ。あまりの馬鹿馬鹿しさに、蒼星石は……こみ上げる泣き笑いを、堪えきれなかった。 小刻みに震える蒼星石の肩を、水銀燈の腕が包み込んで、温かな胸に抱き寄せる。 「英国の詩人バイロンは、言ったわ。『人間よ、汝、微笑みと涙との間の振り子よ』ってね。  悲しいなら、楽になるまで、思いっ切り泣ちゃいなさいよ。  そして、流した涙の分だけ微笑みなさい」 「……優しいんだね、水銀燈は。キミも……姉さんに?」 しゃくり上げながら訊ねる蒼星石に、水銀燈は鼻を鳴らした。 「バカじゃないの? ただの気まぐれに決まってるでしょぉ。  頼まれたからって、するもんですか……こんなこと」 ――それから、凪いだ海のように蕩々たる時間が、幾ばくか流れ去った。 眩い日射しと、繰り返される単調な電子音が、蒼星石を夢の世界から呼び戻す。 いっそ、あの津波の如く蒼星石の半身を奪っていった悲劇も、悪い夢だったなら……と思う。 このまま目覚まし時計のアラームを鳴らし続けていれば、部屋のドアが乱暴に開かれ、 姉が「うるせーですよ! さっさと起きやがれです」と怒鳴り込んでくるかも。 そんな儚い期待を抱きながら、ベッドに寝転がったまま瞼を擦って、欠伸をひとつ。 目を開けて壁のカレンダーを見れば、旗日である今日に、目印がつけられていた。 翠星石が、この家から居なくなって……早、一年が経つ。 この一年で変わったことは、少なからずある。蒼星石の外見にしても、そう。 姉の死から、ずっと切らずにきた後ろ髪は、今や肩を過ぎるまでになっていた。 もっとも、翠星石と同じくらいまで伸ばすつもりは、更々なかったのだけれど。 「さて……早く支度しなきゃ。みんなが来ちゃう」 今日は一周忌。巴や水銀燈と、お墓参りに行く約束をしていた。 ベッドを起き出して、顔を洗い、仏壇の前で手を合わせるのが日課。 優しい笑みを浮かべる翠星石の遺影の脇には、弓張り月の写真が、小さく飾られている。 入院中に撮影した、あの写真を、パソコンでプリントアウトしたものだ。 仏壇に向かう度、蒼星石は「綺麗でしょ?」と訊ねる。声は届かないけれど、それでも。 祖父母と朝食を摂りながら、お寺には友達と行くからと伝え、そそくさと身支度を整える。 すべての準備が終わった時、タイミング良く携帯電話が鳴った。到着を告げる合図だ。 携帯電話を掴んで、軽快に階段を降り、靴を履いて暫し、蒼星石は玄関の鏡を見つめる。 そして、いつものように、自分の鏡像に微笑みかけた。 「それじゃ、行ってきます…………姉さん」 ――いってらっしゃいですぅ。 それは、蒼星石の願望が生み出した、幻聴だったのか。 今日に限って、鏡の中の女の子が、翠星石の声で、囁いてくれた気がした。 思わず零れる微笑み。蒼星石はドアを開け、門の前に立つ二人に、眩しい笑顔を送った。 「お待たせ。さ、行こうか」 霜月には珍しい暖かな風が、駆け出した蒼星石の髪を、そっと撫で上げていく。 ふわりと靡いた栗色の髪を目にして、水銀燈が意味ありげに、目を細めた。 「随分、長くなったわよねぇ。貴女って、髪が伸びるの早いんじゃなぁい?」 なにが言いたいのかと訝る蒼星石の肩を、水銀燈は、ぐいと引き寄せて耳打ちする。 「髪の伸びが早い娘って、えっちなんですってよぉ?」 「知らないよ。そんなの俗説でしょ」 また始まったとばかりに、蒼星石は巴と顔を見合わせ、苦笑した。 こんな風に、三人で居る時間は楽しくて――蒼星石の悲しみを、どんどん融かしてゆく。 最近では、少しずつだけれど、翠星石のことを笑って話せるようにもなっていた。 『どうにもならないことは、忘れることが幸福だ』 ドイツの諺は、かく語る。 (でも……ボクは、きっと忘れない。  いつまでも、姉さんのことが……大好きだから) 澄み渡る冬空を見上げた蒼星石のココロは、丁度、今日の気候のように―― とても安らかで、温かく優しい気持ちが広がっていた。   第十九話 おわり 三行で【次回予定】   時の移ろいは、一見すると穏やかに過ぎゆくようで。   時に残酷なほど、速やかに流れ去る。   時が悲しみを癒すものなら、哀しみを募らせるのも、また時である。 次回 最終話 『Good-bye My Loneliness』

表示オプション

横に並べて表示:
変化行の前後のみ表示: