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『色褪せない思い出を』」(2007/01/12 (金) 10:14:27) の最新版変更点

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<p><br> <br>   『色褪せない思い出を』<br> <br> <br> 朝の登校時間が、薔薇水晶の気に入りだった。<br> 銀色の髪を風に靡かせて歩く彼女と、一緒に居られるから。<br> <br> ――二人だけの時間。二人だけの世界。<br> <br> 隣に並んで歩いているだけでも充分に楽しい。時が経つのも忘れるくらいに。<br> まして、言葉を交わそうものなら、天にも昇る心地になるのだった。<br> どうして、こんなにも水銀燈の事が愛おしいのだろう。<br> 記憶を辿っても、これほどに他人を好きになった事は、生まれて始めてだった。<br> <br>  「ねえ……銀ちゃん。今日、帰りがけにケーキ食べて行かない?」<br>  「また『えんじゅ』のケーキバイキング? 薔薇しぃも好きねぇ」<br>  「育ち盛りだから…………えっへん」<br> <br> 悪戯っぽく胸を反らす。制服が押し上げられ、ふくよかな双丘が強調された。<br> 水銀燈には及ばなくとも、薔薇水晶だって日に日に大人へ近付いている。<br> 背の伸びは流石に止まったけれど、ボディラインはなだらかに成長中だ。<br> <br>  「まぁ、いいけどねぇ。あそこのケーキは、しつこい甘さじゃないからぁ」<br>  「ホント? じゃあ、約束だよ♪」<br> <br> 楽しく過ごす、ひととき。こんな時間が、もっと続けばいいと思う。<br> 今日の放課後もまた一緒に居られると考えると、薔薇水晶の心は躍った。<br> <br> ――そこに、薔薇水晶の浮かれた心に冷や水を掛ける様な声が届いた。<br> <br>  「もう帰りの予定を立てているの? まだ学校にも行っていないのに」<br> <br> 真紅の声を受けて、水銀燈は徐に振り返った。<br> 子供みたいに無邪気な笑顔。真紅と話す時、水銀燈はいつも、そんな顔をした。<br> 薔薇水晶には、ただの一度も向けたことがない笑顔――<br> <br>  「あらぁ? 珍しいわねぇ、真紅ぅ。貴女が遅刻なんてぇ」<br>  「ちょっと、目覚ましの調子が悪かったのだわ」<br>  「本当かしらぁ。実は、二度寝して大慌て……ってトコじゃないのぉ?」<br>  「ばっ……ばか言わないでちょうだい! この私が、そんな無様な――」<br> <br> 慌てて否定する真紅。水銀燈は、並んで歩きながら談笑を続ける。<br> 薔薇水晶の脚が、止まった。二人の姿を見ていると、間に入るのが躊躇われた。<br> なんだか、言いようのない感情が心の奥底から沸き上がってくる。<br> たかが幼馴染というだけで、すんなりと水銀燈の隣に収まってしまう真紅が、<br> 疎ましくさえ思えた。<br> <br>  「どうしたのぉ、薔薇しぃ。置いてっちゃうわよぉ?」<br> <br> 水銀燈の声にハッと顔を上げると、二人は随分と先まで進んでいた。<br> あんなに先まで…………私の存在なんか、すっかり忘れられてたのね。<br> <br>  「あ、待ってよ~。銀ちゃ~ん」<br> <br> 笑顔を見せて、駆け出す薔薇水晶。けれど、それは作り笑いでしかなかった。<br> 心は笑っていない。ちっとも面白くなかった。<br> さっきまでは、あんなに幸せを感じていたのに……。<br> <br> ――どうして…………こんな気持ちになるの? 教えてよ、銀ちゃん。<br> <br> <br> <br> <br> 教室でも、昼食の時でも、薔薇水晶は水銀燈の側に居た。それこそ、影の様に。<br> 彼女の呼吸を感じるだけで安堵できる。ここは薔薇水晶にとって、特別な場所。<br> 水銀燈の側に居るためなら、他のことなど蔑ろにしても構わなかった。<br> <br>  「ちょっと、薔薇しぃ……幾ら何でも、授業中にくっ付きすぎよぉ」<br>  「だって……こうしてるのが好きなんだもん」<br> <br> 授業のノートも取らずに、薔薇水晶は隣の席に座る水銀燈の左手を、<br> ぎゅっと握りしめていた。<br> 楽しい。こうしているだけで、凄く愉しい。<br> 授業も成績も、どうだっていい。銀ちゃんと、色褪せない思い出を紡げるなら。<br> <br> <br> <br> <br> ――休憩時間。<br> トイレから戻った薔薇水晶は、教室に入ろうとして、<br> 愉しげに話す真紅と水銀燈を見るなり立ち止まった。<br> 扉の陰に隠れて、思わず聞き耳を立てる。一体、何を話しているのだろう?<br> <br>  「薔薇水晶に、随分と好かれているのね。でも、さっきの授業中の態度はなに?<br>   あまり関心はしないのだわ」<br>  「そうは思うのよねぇ。でも、薔薇しぃも悪気があってやってる訳じゃないし。<br>   あんなに懐いてくれると、私としても悪い気しないのよねぇ」<br>  「もう少し、素っ気なくしてもいいと思うわよ? 薔薇水晶の為にも」<br>  「確かに、私にべったりなままじゃあ、他の誰とも仲良くなれないわねぇ」<br> <br> なにそれ。私のため? よしてよ、冗談じゃない。<br> 私は今のままで充分に幸せなのに……どうして、そんな事を言うの?<br> 薔薇水晶は扉の陰で、唇を噛み締め、拳を握った。<br> <br> <br> <br> <br> 水銀燈が話しかけてきたのは、六限目が終わって、帰ろうとした矢先の事だった。<br> <br>  「薔薇しぃ。今朝の約束なんだけどぉ……ごめん」<br>  「ダメなの?」<br>  「今日、急な用事が入っちゃったのよぅ。本っ当に、ごめんなさぁい」<br> <br> 両手を合わせて謝る水銀燈に、薔薇水晶は「いいよ」と応じた。<br> そりゃあ残念だけれど、急用ならば仕方がない。<br> 駄々をこねて嫌われるのも厭だ。<br> <br>  「その代わり、今度なにか奢ってね」<br>  「うんうん。そりゃあもう、何でも御馳走してあげるわぁ」<br>  「嬉しいっ! 期待してるからね」<br>  「ちょっ……んもぅ、すぐ抱き付くんだからぁ」<br> <br> 温かい。水銀燈の体温を感じているだけで、心が安らいだ。<br> ずっと、こうしていたい。このままで居させて。<br> けれど、薔薇水晶の願いは水銀燈の腕によって、やんわりと拒絶された。<br> <br>  「あ…………」<br>  「ごめんね、薔薇しぃ。そろそろ行かなきゃ。待ち合わせてるからぁ」<br>  「う、うん…………じゃあ……また明日ね」<br> <br> 水銀燈は薔薇水晶に微笑みかけて、鞄を手に、教室を後にした。<br> 小走りに駆けて行く彼女の背中は、なんだか嬉しそうだ。<br> 誰と待ち合わせているのだろう。ちょっとだけ、心が痛かった。<br> <br> <br> <br> ――ひとりぼっちの帰り道。<br> 偶然、ショッピングモールへ消えゆく彼女たちを見かけた。<br> <br> 水銀燈と…………真紅。<br> <br> 酷い。私との約束を反故にして待ち合わせていたのは、彼女だったなんて。<br> ちらりと見えた二人の横顔は、とても愉しそうだった。<br> <br>  「真紅…………貴女は何故、私と銀ちゃんを引き離そうとするの?」<br> <br> 真紅のせいで、銀ちゃんは私との約束を守らなかった。<br> 薔薇水晶は自分の中で、羨望が妄執に変わっていくのを感じた。<br> 貴女と、銀ちゃん。<br> 幼馴染みという関係を、どれだけ私が羨んだか……貴女には解る?<br> きっと、解らないわよね。解る筈がない。<br> 貴女にとって、それは息をするほどに自然な事なのだから。<br> <br>  「貴女が羨ましい。当たり前のように、銀ちゃんと並んで歩ける貴女が」<br> <br> 私も、水銀燈の隣に収まっていたい。今の、真紅みたいに。<br> 出来るものならば、私と真紅の立場を入れ替えてしまいたい。<br> そうすれば、きっと私の心は救われる。銀ちゃんも、私だけを見てくれる。<br> <br>  「そうよ…………そうすれば、きっと――」<br> <br> <br> <br> <br> その日の夜、薔薇水晶は学園裏の城址公園に、真紅を呼び出した。<br> 手には、長細い紙包み。それを両腕で覆い隠すようにして、胸に抱え込んでいた。<br> <br>  【薔】渡したいものが有るの……午後九時ごろ、城址公園に来て下さい。<br> <br> メールの内容は、それだけ。<br> 送信した後、真紅からメールが何回か届いたけれど、すべて無視した。<br> 電話がかかってきても、全く無視。<br> <br> 真紅は、来るだろうか? 来てくれるだろうか? 来てくれないと困る。<br> <br> 腕時計を確認すると、あと十分で九時になるところだった。<br> 薔薇水晶の身体が震えた。冷たい夜風のせいか。<br> それとも、これから自分がしようとしている事への戦慄きか――<br> <br> ざっ――<br> <br> 薔薇水晶の背後で、砂利を踏む音がした。<br> <br> <br>  「待たせたわね、薔薇水晶。渡したいものって、何なのかしら」<br> <br> 真紅は一人だった。周囲には自分たち以外、誰も居ない。<br> <br>  「ありがとう、真紅。ごめんね……こんな時間に呼び出したりして」<br>  「構わないのだわ。それより、どういう事なの?<br>   電話にもメールにも返事が無いから、何か有ったのかと心配したのよ」<br>  「別に、何も。それより…………渡すもの……あるから」 <br> <br> それは、一瞬の出来事だった。<br> <br> ざっ――<br> <br> 砂利を蹴って真紅の正面に飛び込みながら、薔薇水晶は紙包みを破り捨てて、<br> 鋭利な輝きを放つ凶器を取り出していた。<br> そのまま、驚愕のあまり硬直した真紅に、身体ごとぶつかっていく。<br> <br> 鈍い衝撃。薔薇水晶の手に、生々しい手応えが伝わってきた。<br> 真紅は茫然と、目の前の少女を眺めていた。お腹が、灼けるように熱い。<br> 刺されたのだと解ったのは、五秒以上も経った頃だった。<br> 握り締めていた携帯が、指の間から滑り落ちた。<br> <br>  「ば…………ら、水晶?」<br>  「…………真紅……貴女に渡したいものって…………引導なの」<br> <br> 細身の刺身包丁は、真紅の鳩尾に深々と突き刺さっていた。<br> 薔薇水晶が手首を捻ると、胃を切り裂いたのか、真紅は吐血した。<br> <br>  「どう……し……て?」<br>  「ゴメン…………真紅…………邪魔なのよ、貴女が」<br>  「?!」<br>  「貴女が居ると、銀ちゃんは私を見てくれなくなる。だから……消えて!」<br> <br> 思いっ切り、刺身包丁を引き抜く。<br> そして、渾身の力を込めて、再び真紅の腹を刺した。<br> <br>  「消えて! 私の前から消えて! 銀ちゃんの前から消えてよっ!」<br> <br> <br> <br> <br> 真紅は、仰向けに横たわったまま、虚ろな眼差しで夜空を眺めていた。<br> もう動かない。真紅の服は、彼女の名を示すように、紅く染まっている。<br> <br>  「貴女が悪いのよ、真紅。私の居場所を……奪おうとしたんだから」<br> <br> 夜風に温もりを奪われていく真紅の亡骸を見下ろしながら、薔薇水晶は呟いた。<br> 糸の切れた操り人形みたいに倒れている真紅。<br> 不意に、喉の奥から酸っぱいモノがこみ上げてきて、薔薇水晶は吐き散らした。<br> ホントに、これで良かったの? そんな思いが、胸に去来する。<br> <br>  「良かったのよ、これで。当たり前じゃないの」<br> <br> 自らの弱気を振り払うように、薔薇水晶は吐き捨てた。<br> 今更、後戻りなんて出来ないんだから。<br> これからは、私が真紅のポジションに入るのよ。誰よりも、銀ちゃんの近くに。<br> <br> まずは、真紅の遺体を片付けなければならない。<br> 私が犯人だと言う事は、誰にも知られてはならない。<br> <br> 死体を埋める穴は、前もって掘ってある。シャベルも置きっ放しにしてあった。<br> 後は、そこに運ぶだけ。速やかに埋めてしまうだけ。<br> <br>  「さあ……真紅。あっちに、行こう?」<br> <br> 薔薇水晶は真紅の傍らに跪いて、眠った子供を起こすように囁きかけた。<br> <br> その時、一筋の光芒が薔薇水晶を照らし出した。<br> 驚いて振り返った薔薇水晶の眼を、眩い光が刺激した。闇に慣れた目が眩む。<br> こちらからは影になって、相手が誰か解らなかった。<br> 声を、聞くまでは――<br> <br>  「真紅っ! 薔薇しぃ!」<br>  「銀……ちゃん」<br>  <br> どうして、彼女が此処に? 薔薇水晶は狼狽えた。<br> 最も見られたくなかった相手が、よりにもよって、最も初めに来てしまうなんて。<br> <br>  「銀ちゃん…………何故、ここに?」<br>  「真紅が電話してきたのよ。これから、薔薇しぃと城址公園で会うから、<br>   一緒に来てくれないかって。これは一体、どういう事なのよぉ!」<br>  「こ……れは、……えっと」<br>  「どきなさい! 真紅っ! しっかりするのよ! 死んじゃダメぇ!」<br> <br> 水銀燈は服やスラックスに血が付着する事も構わずに、真紅の身体を抱き上げた。<br> 脈は無い。呼吸も停止している。<br> 水銀燈は力無く弛緩した親友の顔に頬を摺り寄せて、はらはらと涙を流した。<br> <br>  「そんな……真紅ぅ…………真紅ぅ……私、こんなの……イヤよぉ」<br>  「銀ちゃん……私……」<br>  <br> ――ごめん、銀ちゃん。真紅を殺したのは、私なの。<br> 本当のことなど、絶対に言えない。何とかして、誤魔化さなければ。<br> でも、動揺を抑えきれない。焦れば焦るほど、思考は空回りしてしまった。<br> <br> 水銀燈が、思い出したように携帯を取り出した。<br> <br>  「ぐすっ……とにかく…………通報……しなきゃ」<br> <br> 通報?! ダメだよ、そんなの。<br> 警察に知られたら、凶器に残った指紋から、私が犯人だとバレてしまう。<br> もう、銀ちゃんの側には居られなくなってしまう!<br> <br> ――それだけは、厭! 絶対にイヤだ! 折角、真紅を追い払ったのにっ!<br> <br> 次の瞬間、薔薇水晶は水銀燈の手を叩いて、彼女の手から携帯を跳ね飛ばしていた。<br> そして、水銀燈が言葉を発するより早く、彼女の肩を抱き締めていた。<br> <br>  「ダメだよっ! 通報なんかしちゃ、絶対にダメよ!」<br>  「……え。薔……薇……しぃ?」<br>  「お願いだから、通報なんてしないで! 誰にも言わないで!」<br>  「――っ! まさか、貴女が……真紅を?!」<br> <br> どんっ!<br> <br> 水銀燈は薔薇水晶を突き飛ばして、後ずさった。<br> 怯えた眼差しで、薔薇水晶を凝視している。<br> <br> 薔薇水晶は、血だまりに落ちていた刺身包丁を拾い上げて……。<br> <br>  「お願い…………ずっと、私の…………側にいてよ」<br> <br> <br> <br> <br> 衝動的に、二人を殺してしまった。取り返しの着かない事をしてしまった。<br> 薔薇水晶は足元に転がる二人の亡骸を、茫然と見下ろしていた。<br> 私は一体、何をやっているの? <br> <br> 二人の身体から流れ出した血液が、砂利の上で一つに混ざり合っていた。<br> この二人は、死して尚、一緒に居ようとするのね。<br> 結局、私がしたことは二人を永遠に結び付けただけ……。<br> <br>  「だけど…………私は…………諦めない!」<br> <br> ――何時までも、何処までも、一緒に居たいと願ったから。<br> <br> 薔薇水晶は、自らの喉に、包丁の切っ先を突き付けた。<br> 私の魂は、二人と同じ場所へは行けないかも知れない。<br> だけど、せめて…………この世界では、一つに成りたかった。<br> 一つに混ざり合って、お別れしたかった。<br> <br> 腕に、力を込める。<br> 自分の身体から溢れ出す血が、二人の血だまりへと流れ落ちていく。<br> 薔薇水晶は、心からの微笑みを浮かべた。<br> <br> <br> ――私も、混ぜてよ。銀ちゃんと真紅の血液に。<br> <br> <br> <br> <br> 意識が途切れる直前、薔薇水晶は一陣の風が自分を包み込むのを感じていた。<br> なんだか、とても温かくて、懐かしい感覚。<br> これは、一体――<br> <br> <br>  「これはまた……随分と、直情径行の強いお嬢さんですね」<br>  「だ、誰? どこに――」<br>  「貴女の後ろに居ますよ。お嬢さん」<br> <br> そう話しかけられて振り返った薔薇水晶が目にしたのは、<br> タキシードを着て、小さなシルクハットを被ったウサギの紳士だった。<br> <br>  「あなた……誰なの?」<br>  「日常と非現実を渡り歩く道化に、名など有りませんよ。<br>   ワタシはただ、お嬢さんの希望を知って、お節介を焼きに来ただけです」<br>  「私の希望?」<br>  「ええ。あの二人と、一緒に居たい……と、願ったはずですよ」 <br> <br> そう。確かに、そう! 私は、二人と一緒に居たいと思った。<br> 血だけでも、一つに混ざり合いたいと願った。<br> だから、私は…………自ら喉を刺し貫いた。<br> <br> 薔薇水晶は、そこで違和感を覚えた。<br> 刺した筈なのに。さっきまで、もの凄く痛かったのに……。<br> 気付けば、傷は無かった。<br> <br>  「まさに間一髪、でしたね。今回は流石に肝を冷やしました」<br> <br> 道化ウサギは額に手を遣って、汗を拭う仕種を見せた。<br> ふっ……と、薔薇水晶の頬が緩んだ。<br> <br>  「私は、罪を償うまで死ぬ事を許されない…………と言うの?」<br>  「そうです。アナタは自分の過ちに気付き、贖罪しなければならない」<br> <br> 私の過ちは……銀ちゃんの側に居たいが為に、安易な解決策を採ってしまったこと。<br> 色褪せない思い出が欲しくて、真紅を邪魔だと思ってしまったこと。<br> あの二人の絆に、考えを巡らせたりはしなかった。<br> <br>  「結局、色褪せない思い出なんか無かったのね」<br>  「心の中で美化し続ける事は可能でしょう。<br>   けれど、それは最早、最初に感じた美しさとは違います。<br>   継ぎ接ぎだらけの形骸にすぎない」<br>  「思い出は、生きていればこそ紡ぎ続けられていくもの……か」<br>  「その通り。殺してしまったら、新たな思い出を作ることも出来ません。<br>   ただ、過去を偲び、楽しかった思い出を美化して行くだけです」<br> <br> それが、私の…………本当の過ち。<br> 思い出を守り、これからも作り続けたいなら、二人の絆に飛び込むべきだったのだ。<br> 二人の絆に溶け込んで、やがて一つになれるまで、徹底的に付き合うべきだった。<br> <br>  「やり直せたら…………良いのに」<br>  「チャンスは、誰にでも与えられるものですよ。勿論……アナタにもね」<br> <br> 道化ウサギは目を細めて笑うと、懐中時計を取り出して、針を動かし始めた。<br> <br> <br> <br> <br> ――朝。<br> 執事に起こされて、薔薇水晶の一日は始まる。<br> <br>  「お嬢様。お急ぎになられませんと、水銀燈お嬢様を待たせてしまいますぞ」<br> <br> 水銀燈とは、毎朝、待ち合わせをしている。<br> 薔薇水晶は顔を洗っても寝ぼけ眼のまま朝食を摂り、身支度を始める。<br> 歯を磨き、制服に着替えて、髪を梳く。<br> 今日の授業日程を見ながら、鞄に教科書を詰め込んでいく。やばい、もう時間だ。<br> <br>  「いってきま~す!!」<br> <br> 弾丸のように玄関を飛び出し、約束の場所へ――<br> 銀ちゃんはもう、来ているだろうか。早く会いたい。会いたくて仕方なかった。<br> <br> いつもの待ち合わせ場所で、彼女たちは雑談をしていた。<br> 銀ちゃんと、真紅。とても仲がよさそう。<br> 薔薇水晶の脚が、止まる。けれど、次の瞬間には全力疾走していた。<br> そのまま、水銀燈と真紅に飛び付いて、ギュッと抱擁する。<br> <br>  「おっはよーう!!」<br>  「ちょっと、薔薇しぃ…………朝からテンション高すぎよぅ」<br>  「まったくだわ。貴女、その抱き付き癖、なんとかならないの?」<br> <br> えへへ……と照れ笑いながら、薔薇水晶は二人にしか聞こえないほどの小声で、そっと囁いた。<br> <br>  「二人の事が…………大好きだからだよっ♥」<br> <br> <br> <br> <br>  「やれやれ……本当に、世話の焼けるお嬢さん達ですねえ」<br> <br> 道化ウサギは、屋根の上から三人の薔薇乙女を見下ろしていた。<br> その眼差しは優しい。まるで、愛娘を見守る父親のようだった。<br> <br>  「手の掛かる子ほど可愛い……というのも、あながち間違いではないようです。<br>   まあ、この調子なら三人の絆が一つになるのも、そう遠くないでしょう」<br> <br> さて……と、道化ウサギは両腕を天に突き上げて、背筋を伸ばした。<br> <br>  「道化は早々に退散すると致しましょう。そうそう。お節介ついでに、もう一つ。<br>   薔薇乙女達に、尽きる事なき幸福が訪れんことを」<br> <br> <br> <br> 祝福の言葉を残して、道化は一陣の風と共に消えた。</p> <hr>
<p><br> <br>   『色褪せない思い出を』<br> <br> <br> 朝の登校時間が、薔薇水晶の気に入りだった。<br> 銀色の髪を風に靡かせて歩く彼女と、一緒に居られるから。<br> <br> ――二人だけの時間。二人だけの世界。<br> <br> 隣に並んで歩いているだけでも充分に楽しい。時が経つのも忘れるくらいに。<br> まして、言葉を交わそうものなら、天にも昇る心地になるのだった。<br> どうして、こんなにも水銀燈の事が愛おしいのだろう。<br> 記憶を辿っても、これほどに他人を好きになった事は、生まれて始めてだった。<br> <br>  「ねえ……銀ちゃん。今日、帰りがけにケーキ食べて行かない?」<br>  「また『えんじゅ』のケーキバイキング? 薔薇しぃも好きねぇ」<br>  「育ち盛りだから…………えっへん」<br> <br> 悪戯っぽく胸を反らす。制服が押し上げられ、ふくよかな双丘が強調された。<br> 水銀燈には及ばなくとも、薔薇水晶だって日に日に大人へ近付いている。<br> 背の伸びは流石に止まったけれど、ボディラインはなだらかに成長中だ。<br> <br>  「まぁ、いいけどねぇ。あそこのケーキは、しつこい甘さじゃないからぁ」<br>  「ホント? じゃあ、約束だよ♪」<br> <br> 楽しく過ごす、ひととき。こんな時間が、もっと続けばいいと思う。<br> 今日の放課後もまた一緒に居られると考えると、薔薇水晶の心は躍った。<br> <br> ――そこに、薔薇水晶の浮かれた心に冷や水を掛ける様な声が届いた。<br> <br>  「もう帰りの予定を立てているの? まだ学校にも行っていないのに」<br> <br> 真紅の声を受けて、水銀燈は徐に振り返った。<br> 子供みたいに無邪気な笑顔。真紅と話す時、水銀燈はいつも、そんな顔をした。<br> 薔薇水晶には、ただの一度も向けたことがない笑顔――<br> <br>  「あらぁ? 珍しいわねぇ、真紅ぅ。貴女が遅刻なんてぇ」<br>  「ちょっと、目覚ましの調子が悪かったのだわ」<br>  「本当かしらぁ。実は、二度寝して大慌て……ってトコじゃないのぉ?」<br>  「ばっ……ばか言わないでちょうだい! この私が、そんな無様な――」<br> <br> 慌てて否定する真紅。水銀燈は、並んで歩きながら談笑を続ける。<br> 薔薇水晶の脚が、止まった。二人の姿を見ていると、間に入るのが躊躇われた。<br> なんだか、言いようのない感情が心の奥底から沸き上がってくる。<br> たかが幼馴染というだけで、すんなりと水銀燈の隣に収まってしまう真紅が、<br> 疎ましくさえ思えた。<br> <br>  「どうしたのぉ、薔薇しぃ。置いてっちゃうわよぉ?」<br> <br> 水銀燈の声にハッと顔を上げると、二人は随分と先まで進んでいた。<br> あんなに先まで…………私の存在なんか、すっかり忘れられてたのね。<br> <br>  「あ、待ってよ~。銀ちゃ~ん」<br> <br> 笑顔を見せて、駆け出す薔薇水晶。けれど、それは作り笑いでしかなかった。<br> 心は笑っていない。ちっとも面白くなかった。<br> さっきまでは、あんなに幸せを感じていたのに……。<br> <br> ――どうして…………こんな気持ちになるの? 教えてよ、銀ちゃん。<br> <br> <br> <br> <br> 教室でも、昼食の時でも、薔薇水晶は水銀燈の側に居た。それこそ、影の様に。<br> 彼女の呼吸を感じるだけで安堵できる。ここは薔薇水晶にとって、特別な場所。<br> 水銀燈の側に居るためなら、他のことなど蔑ろにしても構わなかった。<br> <br>  「ちょっと、薔薇しぃ……幾ら何でも、授業中にくっ付きすぎよぉ」<br>  「だって……こうしてるのが好きなんだもん」<br> <br> 授業のノートも取らずに、薔薇水晶は隣の席に座る水銀燈の左手を、<br> ぎゅっと握りしめていた。<br> 楽しい。こうしているだけで、凄く愉しい。<br> 授業も成績も、どうだっていい。銀ちゃんと、色褪せない思い出を紡げるなら。<br> <br> <br> <br> <br> ――休憩時間。<br> トイレから戻った薔薇水晶は、教室に入ろうとして、<br> 愉しげに話す真紅と水銀燈を見るなり立ち止まった。<br> 扉の陰に隠れて、思わず聞き耳を立てる。一体、何を話しているのだろう?<br> <br>  「薔薇水晶に、随分と好かれているのね。でも、さっきの授業中の態度はなに?<br>   あまり関心はしないのだわ」<br>  「そうは思うのよねぇ。でも、薔薇しぃも悪気があってやってる訳じゃないし。<br>   あんなに懐いてくれると、私としても悪い気しないのよねぇ」<br>  「もう少し、素っ気なくしてもいいと思うわよ? 薔薇水晶の為にも」<br>  「確かに、私にべったりなままじゃあ、他の誰とも仲良くなれないわねぇ」<br> <br> なにそれ。私のため? よしてよ、冗談じゃない。<br> 私は今のままで充分に幸せなのに……どうして、そんな事を言うの?<br> 薔薇水晶は扉の陰で、唇を噛み締め、拳を握った。<br> <br> <br> <br> <br> 水銀燈が話しかけてきたのは、六限目が終わって、帰ろうとした矢先の事だった。<br> <br>  「薔薇しぃ。今朝の約束なんだけどぉ……ごめん」<br>  「ダメなの?」<br>  「今日、急な用事が入っちゃったのよぅ。本っ当に、ごめんなさぁい」<br> <br> 両手を合わせて謝る水銀燈に、薔薇水晶は「いいよ」と応じた。<br> そりゃあ残念だけれど、急用ならば仕方がない。<br> 駄々をこねて嫌われるのも厭だ。<br> <br>  「その代わり、今度なにか奢ってね」<br>  「うんうん。そりゃあもう、何でも御馳走してあげるわぁ」<br>  「嬉しいっ! 期待してるからね」<br>  「ちょっ……んもぅ、すぐ抱き付くんだからぁ」<br> <br> 温かい。水銀燈の体温を感じているだけで、心が安らいだ。<br> ずっと、こうしていたい。このままで居させて。<br> けれど、薔薇水晶の願いは水銀燈の腕によって、やんわりと拒絶された。<br> <br>  「あ…………」<br>  「ごめんね、薔薇しぃ。そろそろ行かなきゃ。待ち合わせてるからぁ」<br>  「う、うん…………じゃあ……また明日ね」<br> <br> 水銀燈は薔薇水晶に微笑みかけて、鞄を手に、教室を後にした。<br> 小走りに駆けて行く彼女の背中は、なんだか嬉しそうだ。<br> 誰と待ち合わせているのだろう。ちょっとだけ、心が痛かった。<br> <br> <br> <br> ――ひとりぼっちの帰り道。<br> 偶然、ショッピングモールへ消えゆく彼女たちを見かけた。<br> <br> 水銀燈と…………真紅。<br> <br> 酷い。私との約束を反故にして待ち合わせていたのは、彼女だったなんて。<br> ちらりと見えた二人の横顔は、とても愉しそうだった。<br> <br>  「真紅…………貴女は何故、私と銀ちゃんを引き離そうとするの?」<br> <br> 真紅のせいで、銀ちゃんは私との約束を守らなかった。<br> 薔薇水晶は自分の中で、羨望が妄執に変わっていくのを感じた。<br> 貴女と、銀ちゃん。<br> 幼馴染みという関係を、どれだけ私が羨んだか……貴女には解る?<br> きっと、解らないわよね。解る筈がない。<br> 貴女にとって、それは息をするほどに自然な事なのだから。<br> <br>  「貴女が羨ましい。当たり前のように、銀ちゃんと並んで歩ける貴女が」<br> <br> 私も、水銀燈の隣に収まっていたい。今の、真紅みたいに。<br> 出来るものならば、私と真紅の立場を入れ替えてしまいたい。<br> そうすれば、きっと私の心は救われる。銀ちゃんも、私だけを見てくれる。<br> <br>  「そうよ…………そうすれば、きっと――」<br> <br> <br> <br> <br> その日の夜、薔薇水晶は学園裏の城址公園に、真紅を呼び出した。<br> 手には、長細い紙包み。それを両腕で覆い隠すようにして、胸に抱え込んでいた。<br> <br>  【薔】渡したいものが有るの……午後九時ごろ、城址公園に来て下さい。<br> <br> メールの内容は、それだけ。<br> 送信した後、真紅からメールが何回か届いたけれど、すべて無視した。<br> 電話がかかってきても、全く無視。<br> <br> 真紅は、来るだろうか? 来てくれるだろうか? 来てくれないと困る。<br> <br> 腕時計を確認すると、あと十分で九時になるところだった。<br> 薔薇水晶の身体が震えた。冷たい夜風のせいか。<br> それとも、これから自分がしようとしている事への戦慄きか――<br> <br> ざっ――<br> <br> 薔薇水晶の背後で、砂利を踏む音がした。<br> <br> <br>  「待たせたわね、薔薇水晶。渡したいものって、何なのかしら」<br> <br> 真紅は一人だった。周囲には自分たち以外、誰も居ない。<br> <br>  「ありがとう、真紅。ごめんね……こんな時間に呼び出したりして」<br>  「構わないのだわ。それより、どういう事なの?<br>   電話にもメールにも返事が無いから、何か有ったのかと心配したのよ」<br>  「別に、何も。それより…………渡すもの……あるから」 <br> <br> それは、一瞬の出来事だった。<br> <br> ざっ――<br> <br> 砂利を蹴って真紅の正面に飛び込みながら、薔薇水晶は紙包みを破り捨てて、<br> 鋭利な輝きを放つ凶器を取り出していた。<br> そのまま、驚愕のあまり硬直した真紅に、身体ごとぶつかっていく。<br> <br> 鈍い衝撃。薔薇水晶の手に、生々しい手応えが伝わってきた。<br> 真紅は茫然と、目の前の少女を眺めていた。お腹が、灼けるように熱い。<br> 刺されたのだと解ったのは、五秒以上も経った頃だった。<br> 握り締めていた携帯が、指の間から滑り落ちた。<br> <br>  「ば…………ら、水晶?」<br>  「…………真紅……貴女に渡したいものって…………引導なの」<br> <br> 細身の刺身包丁は、真紅の鳩尾に深々と突き刺さっていた。<br> 薔薇水晶が手首を捻ると、胃を切り裂いたのか、真紅は吐血した。<br> <br>  「どう……し……て?」<br>  「ゴメン…………真紅…………邪魔なのよ、貴女が」<br>  「?!」<br>  「貴女が居ると、銀ちゃんは私を見てくれなくなる。だから……消えて!」<br> <br> 思いっ切り、刺身包丁を引き抜く。<br> そして、渾身の力を込めて、再び真紅の腹を刺した。<br> <br>  「消えて! 私の前から消えて! 銀ちゃんの前から消えてよっ!」<br> <br> <br> <br> <br> 真紅は、仰向けに横たわったまま、虚ろな眼差しで夜空を眺めていた。<br> もう動かない。真紅の服は、彼女の名を示すように、紅く染まっている。<br> <br>  「貴女が悪いのよ、真紅。私の居場所を……奪おうとしたんだから」<br> <br> 夜風に温もりを奪われていく真紅の亡骸を見下ろしながら、薔薇水晶は呟いた。<br> 糸の切れた操り人形みたいに倒れている真紅。<br> 不意に、喉の奥から酸っぱいモノがこみ上げてきて、薔薇水晶は吐き散らした。<br> ホントに、これで良かったの? そんな思いが、胸に去来する。<br> <br>  「良かったのよ、これで。当たり前じゃないの」<br> <br> 自らの弱気を振り払うように、薔薇水晶は吐き捨てた。<br> 今更、後戻りなんて出来ないんだから。<br> これからは、私が真紅のポジションに入るのよ。誰よりも、銀ちゃんの近くに。<br> <br> まずは、真紅の遺体を片付けなければならない。<br> 私が犯人だと言う事は、誰にも知られてはならない。<br> <br> 死体を埋める穴は、前もって掘ってある。シャベルも置きっ放しにしてあった。<br> 後は、そこに運ぶだけ。速やかに埋めてしまうだけ。<br> <br>  「さあ……真紅。あっちに、行こう?」<br> <br> 薔薇水晶は真紅の傍らに跪いて、眠った子供を起こすように囁きかけた。<br> <br> その時、一筋の光芒が薔薇水晶を照らし出した。<br> 驚いて振り返った薔薇水晶の眼を、眩い光が刺激した。闇に慣れた目が眩む。<br> こちらからは影になって、相手が誰か解らなかった。<br> 声を、聞くまでは――<br> <br>  「真紅っ! 薔薇しぃ!」<br>  「銀……ちゃん」<br>  <br> どうして、彼女が此処に? 薔薇水晶は狼狽えた。<br> 最も見られたくなかった相手が、よりにもよって、最も初めに来てしまうなんて。<br> <br>  「銀ちゃん…………何故、ここに?」<br>  「真紅が電話してきたのよ。これから、薔薇しぃと城址公園で会うから、<br>   一緒に来てくれないかって。これは一体、どういう事なのよぉ!」<br>  「こ……れは、……えっと」<br>  「どきなさい! 真紅っ! しっかりするのよ! 死んじゃダメぇ!」<br> <br> 水銀燈は服やスラックスに血が付着する事も構わずに、真紅の身体を抱き上げた。<br> 脈は無い。呼吸も停止している。<br> 水銀燈は力無く弛緩した親友の顔に頬を摺り寄せて、はらはらと涙を流した。<br> <br>  「そんな……真紅ぅ…………真紅ぅ……私、こんなの……イヤよぉ」<br>  「銀ちゃん……私……」<br>  <br> ――ごめん、銀ちゃん。真紅を殺したのは、私なの。<br> 本当のことなど、絶対に言えない。何とかして、誤魔化さなければ。<br> でも、動揺を抑えきれない。焦れば焦るほど、思考は空回りしてしまった。<br> <br> 水銀燈が、思い出したように携帯を取り出した。<br> <br>  「ぐすっ……とにかく…………通報……しなきゃ」<br> <br> 通報?! ダメだよ、そんなの。<br> 警察に知られたら、凶器に残った指紋から、私が犯人だとバレてしまう。<br> もう、銀ちゃんの側には居られなくなってしまう!<br> <br> ――それだけは、厭! 絶対にイヤだ! 折角、真紅を追い払ったのにっ!<br> <br> 次の瞬間、薔薇水晶は水銀燈の手を叩いて、彼女の手から携帯を跳ね飛ばしていた。<br> そして、水銀燈が言葉を発するより早く、彼女の肩を抱き締めていた。<br> <br>  「ダメだよっ! 通報なんかしちゃ、絶対にダメよ!」<br>  「……え。薔……薇……しぃ?」<br>  「お願いだから、通報なんてしないで! 誰にも言わないで!」<br>  「――っ! まさか、貴女が……真紅を?!」<br> <br> どんっ!<br> <br> 水銀燈は薔薇水晶を突き飛ばして、後ずさった。<br> 怯えた眼差しで、薔薇水晶を凝視している。<br> <br> 薔薇水晶は、血だまりに落ちていた刺身包丁を拾い上げて……。<br> <br>  「お願い…………ずっと、私の…………側にいてよ」<br> <br> <br> <br> <br> 衝動的に、二人を殺してしまった。取り返しの着かない事をしてしまった。<br> 薔薇水晶は足元に転がる二人の亡骸を、茫然と見下ろしていた。<br> 私は一体、何をやっているの? <br> <br> 二人の身体から流れ出した血液が、砂利の上で一つに混ざり合っていた。<br> この二人は、死して尚、一緒に居ようとするのね。<br> 結局、私がしたことは二人を永遠に結び付けただけ……。<br> <br>  「だけど…………私は…………諦めない!」<br> <br> ――何時までも、何処までも、一緒に居たいと願ったから。<br> <br> 薔薇水晶は、自らの喉に、包丁の切っ先を突き付けた。<br> 私の魂は、二人と同じ場所へは行けないかも知れない。<br> だけど、せめて…………この世界では、一つに成りたかった。<br> 一つに混ざり合って、お別れしたかった。<br> <br> 腕に、力を込める。<br> 自分の身体から溢れ出す血が、二人の血だまりへと流れ落ちていく。<br> 薔薇水晶は、心からの微笑みを浮かべた。<br> <br> <br> ――私も、混ぜてよ。銀ちゃんと真紅の血液に。<br> <br> <br> <br> <br> 意識が途切れる直前、薔薇水晶は一陣の風が自分を包み込むのを感じていた。<br> なんだか、とても温かくて、懐かしい感覚。<br> これは、一体――<br> <br> <br>  「これはまた……随分と、直情径行の強いお嬢さんですね」<br>  「だ、誰? どこに――」<br>  「貴女の後ろに居ますよ。お嬢さん」<br> <br> そう話しかけられて振り返った薔薇水晶が目にしたのは、<br> タキシードを着て、小さなシルクハットを被ったウサギの紳士だった。<br> <br>  「あなた……誰なの?」<br>  「日常と非現実を渡り歩く道化に、名など有りませんよ。<br>   ワタシはただ、お嬢さんの希望を知って、お節介を焼きに来ただけです」<br>  「私の希望?」<br>  「ええ。あの二人と、一緒に居たい……と、願ったはずですよ」 <br> <br> そう。確かに、そう! 私は、二人と一緒に居たいと思った。<br> 血だけでも、一つに混ざり合いたいと願った。<br> だから、私は…………自ら喉を刺し貫いた。<br> <br> 薔薇水晶は、そこで違和感を覚えた。<br> 刺した筈なのに。さっきまで、もの凄く痛かったのに……。<br> 気付けば、傷は無かった。<br> <br>  「まさに間一髪、でしたね。今回は流石に肝を冷やしました」<br> <br> 道化ウサギは額に手を遣って、汗を拭う仕種を見せた。<br> ふっ……と、薔薇水晶の頬が緩んだ。<br> <br>  「私は、罪を償うまで死ぬ事を許されない…………と言うの?」<br>  「そうです。アナタは自分の過ちに気付き、贖罪しなければならない」<br> <br> 私の過ちは……銀ちゃんの側に居たいが為に、安易な解決策を採ってしまったこと。<br> 色褪せない思い出が欲しくて、真紅を邪魔だと思ってしまったこと。<br> あの二人の絆に、考えを巡らせたりはしなかった。<br> <br>  「結局、色褪せない思い出なんか無かったのね」<br>  「心の中で美化し続ける事は可能でしょう。<br>   けれど、それは最早、最初に感じた美しさとは違います。<br>   継ぎ接ぎだらけの形骸にすぎない」<br>  「思い出は、生きていればこそ紡ぎ続けられていくもの……か」<br>  「その通り。殺してしまったら、新たな思い出を作ることも出来ません。<br>   ただ、過去を偲び、楽しかった思い出を美化して行くだけです」<br> <br> それが、私の…………本当の過ち。<br> 思い出を守り、これからも作り続けたいなら、二人の絆に飛び込むべきだったのだ。<br> 二人の絆に溶け込んで、やがて一つになれるまで、徹底的に付き合うべきだった。<br> <br>  「やり直せたら…………良いのに」<br>  「チャンスは、誰にでも与えられるものですよ。勿論……アナタにもね」<br> <br> 道化ウサギは目を細めて笑うと、懐中時計を取り出して、針を動かし始めた。<br> <br> <br> <br> <br> ――朝。<br> 執事に起こされて、薔薇水晶の一日は始まる。<br> <br>  「お嬢様。お急ぎになられませんと、水銀燈お嬢様を待たせてしまいますぞ」<br> <br> 水銀燈とは、毎朝、待ち合わせをしている。<br> 薔薇水晶は顔を洗っても寝ぼけ眼のまま朝食を摂り、身支度を始める。<br> 歯を磨き、制服に着替えて、髪を梳く。<br> 今日の授業日程を見ながら、鞄に教科書を詰め込んでいく。やばい、もう時間だ。<br> <br>  「いってきま~す!!」<br> <br> 弾丸のように玄関を飛び出し、約束の場所へ――<br> 銀ちゃんはもう、来ているだろうか。早く会いたい。会いたくて仕方なかった。<br> <br> いつもの待ち合わせ場所で、彼女たちは雑談をしていた。<br> 銀ちゃんと、真紅。とても仲がよさそう。<br> 薔薇水晶の脚が、止まる。けれど、次の瞬間には全力疾走していた。<br> そのまま、水銀燈と真紅に飛び付いて、ギュッと抱擁する。<br> <br>  「おっはよーう!!」<br>  「ちょっと、薔薇しぃ…………朝からテンション高すぎよぅ」<br>  「まったくだわ。貴女、その抱き付き癖、なんとかならないの?」<br> <br> えへへ……と照れ笑いながら、薔薇水晶は二人にしか聞こえないほどの小声で、そっと囁いた。<br> <br>  「二人の事が…………大好きだからだよっ♥」<br> <br> <br> <br> <br>  「やれやれ……本当に、世話の焼けるお嬢さん達ですねえ」<br> <br> 道化ウサギは、屋根の上から三人の薔薇乙女を見下ろしていた。<br> その眼差しは優しい。まるで、愛娘を見守る父親のようだった。<br> <br>  「手の掛かる子ほど可愛い……というのも、あながち間違いではないようです。<br>   まあ、この調子なら三人の絆が一つになるのも、そう遠くないでしょう」<br> <br> さて……と、道化ウサギは両腕を天に突き上げて、背筋を伸ばした。<br> <br>  「道化は早々に退散すると致しましょう。そうそう。お節介ついでに、もう一つ。<br>   薔薇乙女達に、尽きる事なき幸福が訪れんことを」<br> <br> <br> <br> 祝福の言葉を残して、道化は一陣の風と共に消えた。</p> <hr>

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