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      ―卯月の頃 その3―  【4月20日  穀雨】 パフェの食べ過ぎで、お腹を壊してから三日後のこと。 今日は、木曜日。明日を乗り切れば、やっと待ちわびた週末である。 だが、もっと待ち遠しかったのは、五月の大型連休の方だった。 就職組は着慣れないリクルートスーツに身を包み、ゴールデンウィークも関係なく、 会社回りにてんてこ舞いの日々を送っている。 真紅や、巴は、目下のところ就職活動中だった。 景気が上向いてきたとは言え、女子大生の就職は、なかなか大変らしい。 一方、翠星石と雛苺は大学院への進学を決意して、鋭意勉強中である。 試験の実施は、今月末。もう一週間も猶予が無い。 二人は朝から研究室に籠もり、机に向かって、最後の追い込みをかけていた。 そんな、ちょっとピリピリした空気が漂うなか―― ふと、教科書と睨めっこしていた雛苺が、顔を上げて翠星石に話しかけた。 「……翠ちゃん、そろそろ時間じゃないの?」 「ん? あぁ、ホントですぅ」 言われて、丸い壁掛け時計を見上げると、約束の時間が迫っていた。 教科書やノートを広げたまま、席を立つ翠星石。 「ちょっと行ってくるですぅ。戻ってきたら、一緒にお昼にするですよ」 翠星石は研究室を出て、二階上にある、別の研究室に向かった。 今朝方、そこの教授に呼び止められて、今ぐらいの時間に来るよう言われたのだ。 「なにやら話があるみたいですけど……何ですかねぇ?」 まるっきり、見当が付かなかった。 かの研究室とは、せいぜい新歓コンパの時に同席するくらいの縁だ。 これといって、頻繁な交流があるワケでもない。 4年になってからは、その教授の講義を履修していないので、関連がない。 仲のいい友人は在籍しているけれど、その繋がりで声を掛けるとも考え難い。 「それなのに、どうし――わひゃっ!」 あれこれと思案に暮れながら、足元を気にせず階段を昇っていたため、 思いっ切り――且つ、豪快に――蹴躓いてしまった。 腕を突き出すのが遅れたから、ものの見事に胴体着陸。 顔は腕で庇ったものの、階段の角に、脇腹と両脚のスネをぶつけてしまった。 「ひぃぃ…………い、痛ぇですぅ~」 痛いのと情けないのとで、視界が涙で滲んだ。 脇腹と両脚の激痛に襲われて、すぐには立ち上がれなかった。   誰かに助け起こしてもらいたい。   しかし、こんな、みっともない姿を見られるのは恥ずかしい。 胸中に渦巻く葛藤に苦しみ始めた直後、クスクスと含み笑う声と、 ペタペタと階段を下りてくるサンダルの足音が、翠星石の耳に飛び込んできた。 「あ~らら、派手に転んじゃったわねぇ。大丈夫?」  若い女性の声が、翠星石に訊ねてきた。 (大丈夫なワケねぇです!) そう怒鳴ろうとして、翠星石は、んぐっ……と言葉を呑み込んだ。 気遣ってくれた人に対して、八つ当たりしても仕方がない。 相手の女性は降りてくると、脇に屈んで、翠星石を抱え起こしてくれた。 薄手の服越しに、彼女の掌の温かさが伝わってくる。 「あ…………す、すまねぇですぅ」 翠星石は、羞恥に顔を赤らめて俯いた。 脇腹に残る女性の手の温もりが、翠星石の鼓動を加速する。 (なに、ドキドキしてるですか……。  私って、こんなにスキンシップに弱かった……です?) 実際、蒼星石や祖父母以外の他人と触れ合うコトには、慣れていなかった。 だからこそ、些細な接触でも、過敏に反応してしまうのだろう。 いつから、こうなってしまったのか……。 本当は、もっと、みんなと触れ合いたいのに。 俯いたままの翠星石に、相手の女性は、落ち着きのある声音で話しかけた。 「貴女……翠星石ちゃんよね?」 「ふぇ? は、はいですぅ」 驚いて顔を上げた翠星石の前には、メガネを掛け、髪を結い上げた女性の姿。 学生たちに、みっちゃんと呼ばれて親しまれている講師の先生だった。 大学の講義は、教授や助教授ばかりでなく、講師や助手も受け持つ。 みっちゃんも、週に数コマを受け持つ講師である。 大人しげな風貌に反して、成績の評価は非常――あるいは非情――に厳しく、 彼女の担当する教科は、単位を取るのが難しいことでも有名だった。 みっちゃんは、なだらかな顎の線を指でなぞりながら、 メガネの奥で、つぶらな黒い瞳を輝かせた。 「会えて、よかったわ。  約束の時間に来てくれないから、すっぽかされたかと思っちゃった」 「? どういうコトです? 私は――」 「ウチの教授に呼ばれたんでしょ?  アレってね、実は、あたしが伝言を頼んだのよ」 「……教授を使いっ走りにしたですか!?」 なんて畏れ多いコトをするのだろうか。翠星石は、あんぐりと口を開けた。 みっちゃん……やはり、徒者ではない。敵に回すとコワイ相手だ。 「じゃあ、私に用事があるのは、みっちゃんです?」 「ええ、そうよ。とりあえず、ウチの研究室に来なさい。  詳しい話は、そこでするから」 「解ったですぅ」 みっちゃんの後ろに付いて、歩き出そうと足を踏み出した途端、 翠星石はスネに激痛を感じて呻き、蹌踉めいてしまった。 下り階段の方へ落ちそうになる翠星石を、みっちゃんが慌てて抱き留める。 思いがけず、みっちゃんの顔が間近に迫って、翠星石はビクッと身体を震わせた。 「ケガしてるのかな? だったら、治療もしなきゃあね」 みっちゃんは優しげに微笑んで、悪戯っぽくウインクする。 翠星石は、彼女の顔をまともに見る事ができずに、プイッとそっぽを向いた。 「はうぅ~。か、勝手にしやがれ……ですぅ」 みっちゃんに連れられて訪れた研究室で、スネの擦り傷に絆創膏を貼ってもらい、 翠星石はコーヒーを御馳走になっていた。 お昼時というコトもあって、研究室には誰も居ない。 みっちゃんと翠星石の、二人っきり。 「わ、私に話って……な、な、なんなの……です?」 緊張した面持ちの翠星石。訊ねた声音も、硬い。 それも、そのはず。 翠星石は、みっちゃんについての怪しいウワサを耳にしていた。 可愛い娘は目を付けられて、お持ち帰りされてしまうとか―― 酒に酔うと、デビルマンレディーに豹変するとか―― 胡散臭そうな翠星石の眼差しに気付かないのか、みっちゃんはコーヒーを啜って、 徐に、本題を切り出した。 「ねえ、翠星石ちゃん。貴女、ゴールデンウィークって、暇?」 「え? 暇……と言えば、まあ……暇ですぅ」 「本当に? それは良かったわあ」 みっちゃんの瞳が、ギラリと光る。 それは、獲物を見付けた猛禽の眼だった。 「実はね……連休中、あたしと一緒に旅行してくれないかなぁ~、なぁんて」 「なっ! なんですとぉー?!」 二人で旅行?! 翠星石は、その言葉に、なにやら危険な香りを嗅いだ気がした。 (あの噂が本当なら、私はお持ち帰りされて……にゃんにゃん、されちまうです?) 想像して、ガタガタと身震いする翠星石を見て、みっちゃんは失笑した。 「あはははっ。翠星石ちゃん、なんか誤解してるわね」 「は、はぁ? じゃあ、一体――」 翠星石はワケが解らず、苛ついた声を上げた。 そんな彼女を、みっちゃんが「まあまあ」と、両手で宥める。 「ごめんね。ちょっと、言い方が紛らわしかったかな~」 「一体、どういうコトです? ちっとも話が見えねぇですぅ」 「実はねぇ、連休中に、外国の大学へ出かける用事ができちゃって。  その手伝いを、翠星石ちゃんに頼みたいってワケよ」 「? どうして私ですか。この研究室の学生を連れていけば――」 こういう場合、研究室に在籍する修士課程や博士課程の学生を動員するのが普通だ。 よその研究室から、それも学士ですらない翠星石を借り受けるなんて、異常である。 みっちゃんは、ちょっと頬を膨らませて、大仰に肩を竦めた。 「み~んな、都合が悪いんですって。信じらんないわよね。  仕方ないから独りで行こうと思ってた時、教授に、コレを見せられたのよ」 言って、みっちゃんが差し出したのは、翠星石が春休み前に提出したレポートだった。 苦労して纏めたのに、あっさり受理されて、拍子抜けした記憶が甦ってくる。 「このレポート、凄く良いわ。あたしが成績を付けるなら、間違いなく『優』ね」 「……あ、ありがとです」 「うん。それでね、貴女に手伝ってもらえないかなあって。  渡航費用は、こっちで持つから……どうかしら?」 これも、いい経験かも知れない。費用の心配をせずに済むのも魅力的だった。 連休までには進路のこともカタが付いているし、海外旅行を愉しむ気分で行くも良し。 「具体的に、どこの国へ行くです?」 「ああ、それはね――」 みっちゃんの口から紡ぎ出された国の名と、大学名は、翠星石も良く知っていた。 なにしろ、蒼星石の留学先だったのだから。 なんという偶然だろう。まさしく、千載一遇のチャンスではないか。 巧くすれば、蒼星石に会える。会いたい! なんとしてでも! 翠星石は、もう躊躇うことなく、力強く頷いていた。 「それなら、こっちからお願いするです! ぜひ、私を連れてって欲しいですぅ!」 「えっ? 本当に良いの? やったあ♪ これで荷物持――げふんげふん」 「……いま、なんて言いかけたです?」 「気のせいよ。ねぇねぇ、それより、もう一人くらい都合つかないかな?」 「もう一人ですか。うぅ~ん……雛苺なら、もしかしたら誘えるかも、です」 「よし、採用決定! 絶対に連れてきて。良い? 絶対よ?」 みっちゃんは翠星石を、ずびしっ! と指差して『絶対』を繰り返した。 いつになく強引な態度に辟易したが、翠星石は、それでも構わなかった。 蒼星石に会うためなら、このくらいの労力は、苦労の内に入らない。 (蒼星石……いま、会いに行きます、ですぅ) 翠星石は、グッと拳を握って、遠い異国に居る妹に想いを馳せた。

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