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―水無月の頃 その3―」(2007/05/22 (火) 00:37:06) の最新版変更点

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      ―水無月の頃 その3―  【6月11日  入梅】 入梅。 読んで字の如く、暦の上で梅雨に入る頃を指している。 だが、世の中では既に、六月初旬から梅雨が始まっていた。 折角の日曜日だというのに、朝から雨のそぼ降る景色を見せられては、 気力も意欲も急降下。一気に、倦怠感と脱力感に襲われる。 翠星石も、カーテンを開いて窓に付く水滴を見た途端、二度寝モードに突入してしまった。 カリッ……カリカリカリッ……。 例によって、チビ猫が起こしに来たが、翠星石は瞼を閉じたまま、聞き流した。 やがて、ドアを爪で引っ掻く音が止み、チビ猫も諦めたものと思いきや、 今度はニャ~ニャ~と悲しげな声で鳴きだす始末。 (うっ…………流石に、胸が痛むですぅ……いやいやいや。  ここで起きたら、ヤツの思う壺です! 意地でも二度寝してやるですぅ!) すると、今度はトントンと階段を昇ってくる足音が響いてきた。 「おや? 入れてもらえないのかい?」 チビ猫の声を聞きつけて、祖父が様子を見に来たらしい。 さて、これで祖父がチビチビを連れていってくれるのだろうと、 安堵したのも束の間―― 「どぉれ。じゃあ、儂が扉を開けてあげよう」 などと、戯けたことを言い出したではないか。 ちなみに、蒼星石と翠星石の部屋のドアには、鍵が付いていない。 中学になる頃、祖父母は付けても良いと言ってくれたのだが、 姉妹の方から必要ないと断ったのだ。 実際、今までは、無くたって不便さを感じていなかった。 それが、今になって、後悔する日が来ようとは……。 (……しゃーねぇです。これで静かになるなら、我慢してやるですぅ) チビ猫は、すぐに胸の上に乗ってくるので、息苦しいし暑苦しい。 かと言って、横臥していると髪の上に寝そべるから厄介なのだが……仕方がない。 翠星石は、寝返りを打ってドアに背を向け、タヌキ寝入りしていた。 すると―― 小走りに駆け寄ってくる猫の足音と、のしのしと床を踏み締める祖父の足音が、 徐々に近付いてきた。時々、くくっ……と、祖父の含み笑いも聞こえる。 (……おじじ、まぁた妙なコトを企んでやがるですか) 顔に落書きだとか、前髪にミョーな寝癖を付けられたりとか、前科は幾つもある。 出かける予定がないとは言え、おかしなイタズラをされては堪らない。 翠星石は仰向けになって、パカッ! と瞼を開いた。 緋翠の瞳に映ったものは、金ぴかのマスクに頭部を包んだ、祖父の姿だった。 まさか、そんな被り物をしているとは思いもしなかったから、 翠星石は咄嗟に枕元の目覚まし時計を掴んで、祖父に投げ付けていた。 鈍い音を立てて、時計がトラに似た黄金のマスクに当たる。 「なっ! なにバカやってるです、おじじ!   年甲斐もなく牙狼の真似です? 恥を知れですぅ!」 「いやぁ……商店街の福引きで、魔界騎士のマスクというのが当たったのでな。  ちょっと、翠星石を驚かしてやろうかと思ったんじゃよ」 「……ったく、しょーもねぇ老人ですぅ。さっさと外すですよ」 「そうじゃな。このマスク、頭をすっぽり覆うから暑くて……? お……おお?」 やおら、魔界騎士のマスクを撫で回して、祖父が狼狽えだした。 異変に気付いた翠星石は、ベッドの上で居住まいを正して、様子を窺った。 「どーしたです?  まさか、脱げなくなった……なんて、お約束じゃねーですよね?」 「…………お約束じゃ。ファスナーに何か挟まって、動かん」 「可愛い孫を驚かそうとするから、罰が当たったですぅ。  そう言えば、確か……そんな伝説があったですね。  嫁を脅かそうと鬼の面を被った姑の顔に、面が貼り付いて外れなくなるです。  ああ、怖い怖い……ガクガクブルブルですぅ」 「わ、儂が悪かった。謝るから、これを外すの手伝ってくれんか?」 「しゃーねぇです」と重い溜息を吐いて、翠星石は肩を竦めた。 「私が聞いた伝説だと、改心して念仏を唱えたら、ポロッと外れたそうです」 「念仏かい? 南無阿弥陀仏…………むむぅ……脱げんぞ」 「きっと、方法が違うですよ。だから、外れないのは当然ですぅ。  いいですか。まずは、アブラカダブラと三回唱えやがれです。  それから三べん廻ってジョジョビジョバァ! これで完璧ですぅ」 普通に考えれば、あからさまにウソだと解る話だが、溺れる者は藁をも掴む。 祖父は疑いもせずに、翠星石の言った方法を、忠実に再現した。 何やら、ワケの解らない身振りまで付けて。 「儂の中の、よからぬモノが……ジョジョビジョ、バァーッ!」 「きゃはははははっ! おじじ、そこまでしろとは言ってねぇですぅ!」 翠星石は笑い転げるあまり、ベッドに寝転がっていたチビ猫を、 あやうく背中で押し潰しそうになった。 だが、そこは流石に敏捷な猫。素早く逃れて、にゃん! と文句を言った。 「ああ、ごめんですぅ、チビチビ~」 ひょいと抱き上げて、翠星石は柔らかな毛並みに頬ずりした。 そのまま祖父のことなどすっかり忘れ、チビ猫で『もふもふ』する翠星石に、 祖父が情けない声を出して纏わりついてくる。 「むうぅ。やっぱり脱げんぞ、翠星石~」 「あーもう……ホントに世話が焼ける老人ですぅっ!  今、おばばを呼んでくるから、待ってるです」 「っ!! ちょ、ちょちょちょっと待ったぁ!」 チビ猫を胸元に抱いて部屋を出ようとした翠星石の前に、 老人とは思えぬ俊敏さで、祖父が立ち塞がった。 「祖母さんに知られたら、こっぴどく叱られてしまうわい」 「自業自得じゃねぇですか。私の知ったこっちゃねぇです」 「ま、ま、そう言わずに。なんとか、ここで外す方法を、考えておくれ」 泣きついて懇願するものだから、やむなく、翠星石は机の椅子に腰掛けた。 「まずは、よーく見せてみるです」 祖父を床に座らせて、後頭部のファスナーを調べる翠星石。 内側で、布の切れ端が挟まっていているらしく、ちっとも動かなかった。 「……む~」 「どうじゃ、開きそうかのぉ?」 「私の手には負えねぇです。もう、死ぬまで魔界騎士のままでいやがれですぅ」 「そ、そんなぁ……これじゃあ飯も食えんのじゃ」 言われてみれば、これは一大事。 マスクが脱げなくなって飢え死にしたバカな祖父さんと、祖父だけが嘲笑されるなら良い。 だが、そうではない。 祖母や翠星石もまた、あの祖父さんの身内だと、後ろ指を指される羽目になるのだ。 そうなったら、恥ずかしくって街を歩けなくなってしまう。 (そりゃマヅイですね。むぅぅ~。  ならば、この手の事が得意な助っ人を、呼ぶしかねぇです) 翠星石は、机の上に置いてあった携帯電話を掴み、電話を掛けた。 ――――三十分後。 玄関のチャイムが鳴るや、翠星石は階段を駆け下りて、祖母より早くドアを開いた。 傘を差し、立っていたのは、眼鏡を掛けた青年――桜田ジュンだった。 「待ってたですよ、ジュン! 雨の中、よく来てくれたです」 「……お前、なんでパジャマのままなんだよ。人を呼び付けといて寝てたのか?」 「気にすんなです。それよりも、早く上がって欲しいですぅ!」 「ええ? うわっ、ちょっと待てって」 翠星石に腕を引っ張られて、ジュンは久しぶりに、彼女の部屋を訪れた。 「……まずは、こいつを見て欲しいですぅ」 ドアを開いた翠星石は、沈鬱な面持ちで、部屋の中を指し示す。 覗き込もうとしたジュンは、やおら目の前に現れた黄金の魔界騎士に抱きつかれて、 腰を抜かすほど驚いた。 「うおわぁっ?! な、なんだぁ?」 「落ち着けです。これは、おじじですぅ」 「はあ? おい…………まさか、驚かす為だけに僕を呼んだのか?」 「ち、違うんじゃ、ジュン君。詳しくは、儂が説明しよう」 話を聞き終えると、ジュンは翠星石に向けて、ふっ……と微笑みかけた。 「孫娘への思いやりがあって、いい祖父さんじゃないか、翠星石」 「お世辞なんて必要ねぇですぅ。  おじじはバカちんですから、甘やかすと付け上がるです」 「バカちん、とは酷い言われ方じゃのう」 「言われて当然ですっ! これに懲りて、ちったぁイタズラを自重しろですっ」 ジュンは笑いながら、老人の後ろに回って、状況を確認し始めた。 触れてみて、少し動かしてみる。 「うん……これだったら、ハサミで切らなくても、なんとか開きそうだ」 「ホントです?」 「まあ、任せておけって」 ジュンの指が、器用に動いていく。さながら、優雅に舞う蝶の様に。 その神懸かり的な技に魅せられ、翠星石が我を忘れた刹那、 「これで、よし……っと」 祖父の頭部を覆っていたマスクが、ジュンの手によって外された。 さっきはビクとも動かなかったくせに、ファスナーは呆気なく開かれている。 まるで魔法の指だと翠星石は思ったけれど、敢えて、口には出さなかった。 「おおっ! ありがとう! ありがとう、ジュン君っ」 フルフェイスのマスクを被りっぱなしで、よほど暑かったのだろう。 祖父は、顔中びっしりと汗をかいていた。 やっとの事で苦痛から解放された祖父は、喜色満面でジュンに抱き付き、 容赦なく汗まみれの顔を擦り付けた。 「ジュン君っ! 儂は……儂は、もう辛抱たまらなかったのじゃ」 「う、うわあぁっ! ど、どうなってるんだよ、これ? 助けてくれえっ」 「おじじが熱暴走したですっ! ジュン、いま、助けてやるですぅ!」 翠星石は、どこから持ち出したのか如雨露を振り上げ、祖父の頭を殴り付けた。 それほど強くは叩いていないが、暫しの間、祖父の動きが止まる。 「今ですっ。早く逃げるですよ」 如雨露を放り投げてた翠星石は、ジュンの手を握ると部屋を飛び出し、 一目散に階段を駆け下りて、玄関に向かった。 そして、ジュンが靴を履き終えると、自分もサンダルを突っ掛け、見送りに出た。 「ジュン……今日は、ホントに助かったです。  あ……ありがと……ですぅ」 傘を差して、家路に就こうとするジュンの背中に届く、しおらしい台詞。 ジュンは振り返って、応じた。 梅雨空の鬱陶しさなど、霞んでしまうほどの笑顔で。 「別に、構わないよ。今日は、柏葉との約束も無かったからな。  この程度のことなら、いつでも手を貸すさ」 「…………そ、そんなの当ったり前ですぅ!   私の頼みを断る権利なんて、おめーには無ぇですよっ」 照れ隠しのつもりが、ついつい、いつもの憎まれ口を叩いてしまう。 習慣とは恐ろしいものだ。無意識の内に、口をついて出ているのだから。 けれど、気心の知れたジュンは、怒るどころか陽気に笑い飛ばすと、 「じゃ、またな」と別れの挨拶を告げて立ち去った。 「……ジュン」 雨靄の彼方に遠ざかる背中を見詰めている内に、唇が、彼の名前を紡ぎ出す。 何年も前に棄てたハズの想いが、胸の奥底で燻りだす感覚。 彼は最初から、翠星石を友人としか、見ていなかったのに。 (私は……まだ、あんなヤローに未練があるです?) 胸中で自らに問いかけたと同時に、玄関のドアが静かに開き、祖父が顔を覗かせた。 そして、六月の雨に煙る街を、じっと見据えている翠星石を眼にすると、 穏やかな笑みを浮かべて問いかけた。 「ジュン君は、もう帰ってしまったのかい?」 翠星石は、ジュンの去った方を向いたまま、無言でコクリと頷いた。 すると、祖父は「そうか」と呟き、暫し黙った後、思い出したように口を開いた。 「なかなかの好青年じゃな、彼は」 「…………あんなヤツ、箸にも棒にも掛からねぇです」 「ほほう?」 吐き捨てるように呟く翠星石に、祖父の好奇に満ちた眼が向けられる。 少々、ひねくれ者の孫娘は、想いや感情を、素直な言葉で表現しない。 それを知っているから、祖父は彼女の言葉を、逆の意味に解釈していた。 「本当は……ジュン君が好きなのじゃな?  もしや、もう付き合っておるのか?」 祖父は、戯けた口調で翠星石をからかった。 だが、猛烈に反撥してくるものと構えていた祖父は、予期せぬ肩透かしを食らった。 翠星石は癇癪を起こすどころか、溜息を吐いて、寂しげに目を伏せたのだ。 「私は…………あいつの彼女になんて、なれねぇです」 「なんでまた、そんな弱気な事を言うんじゃ。強力な恋敵でも居るのか?」 「まあ、そんなトコですぅ」 あの娘も、ジュンとは幼なじみ。翠星石と、立場は同じ。 だけど……彼は、彼女を選んだ。翠星石ではなく。 屋根から落ちてきた雨だれが、風に流され、翠星石の目元に当たって砕けた。 まるで、涙の粒みたいに頬を濡らしてゆく。 翠星石は、パジャマの袖で雨に打たれた頬を拭うと、祖父に笑いかけた。 「なぁんちゃって。実は、もう恋敵ですらねぇのです。  だって……高校生の時に…………私はフラれちまったですから」 「なっ?! なんじゃとぉー!」 突然、叫んだかと思うや、わなわなと身体を震わせる祖父の豹変ぶりに、 翠星石はビックリして息を呑んだ。 優しい慰めの言葉でも掛けてくると思っていたから、不意を衝かれて驚かされた。 一体全体、祖父は何故、猛烈に怒っているのだろうか? 「儂の可愛い孫を、フッたじゃと? 傷物にしおったのかっ!」 「ちょっ……いきなり、ブッ飛んだコト言うなですっ」 翠星石の怒声には耳も貸さず、祖父はさっき外したばかりのマスクを、ぐいと被った。 マスク越しに、くぐもった声が紡ぎ出されてくる。 「……あの小僧、ちょっと今から狩ってくる」 「なななっ?! お、おじじっ! 落ち着けです。犯罪行為は止めるですぅっ!」 「ええい、放せ! 乙女の純真を踏みにじった輩を狩るのが、魔界騎士の務めじゃあっ!」 「ウソですっ! そんな話は聞いたコトねぇですぅーっ!」 それから、騒ぎを聞き付けて祖母が現れるまで、祖父の魔界騎士モードは静まらなかった。 雨降って地固まる――――という風には、そうそう巧くいかない。 しとしと降り続く雨の下で、翠星石は、つくづく思い知らされるのだった。

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