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      ―葉月の頃 その4―  【8月23日  処暑】① 処暑とは、二十四節気のひとつに挙げられ、暑さの和らぐ時期とされる。 だが、太陽は暦など無視して、強烈な真夏の日射しを投げかけていた。 それはもう、天日だけで鉄板焼きが楽しめてしまうほどに。 「はふぅ~。今日も朝から、あちぃですぅ~」 翠星石は、窓を開け放した居間のソファにデレ~っと身を沈ませながら、 足元に寝そべっているチビ猫の腹を、爪先でちょいちょい突っついていた。 そよ吹く風が、風鈴を揺らしながらサッシに掛けた簾を抜けて、吹き込んでくる。 だが、とにかく熱い。生ぬるいだとか、生やさしいものではない。 庭仕事なんぞしていようものなら、たちどころに熱中症になりそうだった。 柴崎家には、エアコンなる文明の利器が存在しない。 祖父母――ことに、祖母の方――が、極度の冷え性であるためだ。 そのため、古めかしい首振り型の扇風機が、いまだ現役で稼働している有様だった。 夏の風物詩であるセミの声も、翠星石を気分的に暑くさせる。 キャミソールにショートパンツという軽装ながら、ちっとも涼しくなかった。 身体中、じわりと滲んでくる汗で、べたべたする感じが気持ち悪い。 手にしたウチワで、首筋から顔にかけてを、はたはたと扇ぐのだが…… どうにも汗は引かず、却って蒸し暑くなるほどだった。 ――そこへ、氷を浮かべた麦茶のグラスを両手に、双子の妹が顔を覗かせた。 「今日も暑いよね」と口にするが、姉と同じ服装の蒼星石は、至って涼しげだ。 やはり、髪の長さ分だけ、翠星石の体感温度が高いのだろうか。 「あぁん♪ やっぱり、蒼星石は気が利くですぅ~」 翠星石は、露を纏ったグラスを嬉々として受け取るや、ごくごくと喉を潤した。 あまりに勢いよくグラスを傾けたものだから、唇の端から零れた麦茶が、 するすると顎から喉を経由して、胸へと流れていった。 けれど、彼女は気にも留めず麦茶をイッキ飲みして、氷をひとつ、口に含んだ。 「はもはも……ほゃ……ふぃ……ひぅー。はふぅ~、歯と喉に凍みたですぅ~」 「もぉ、なにしてんのさ。そんなに慌てて飲まなくたっていいのに」 「解ってねぇですねぇ、蒼星石は。これは、麦茶を飲むときの作法なのですよ?  かの松尾芭蕉の俳句にも『夏草や 喉に浸み入る 麦の水』ってのがあるですぅ」 「またまたぁ。だいたい、麦の水って、ビールの代名詞じゃないの?」 蒼星石は呆れ顔のまま、畳の上に膝を揃えて座ると、ちびりちびり麦茶を飲みつつ、 傍らに寝転がっているチビ猫の腹を、さわさわと撫でた。 その手に、チビ猫がじゃれついて、彼女の白く細い指をカプッと甘噛みする。 猛暑でへばっているかと思いきや、意外に元気なものだ。 「ぁん……。こら、チビチビ。爪を立てたら痛いよ」 柳眉を八の字にして苦笑いながらも、蒼星石はチビ猫との戯れを、やめようとしない。 そんな蒼星石の悩ましげな表情に、翠星石は、そこはかとなく胸の疼きを覚えて―― 「いたたっ。そこは、噛んじゃダメだってば」 噛まれた仕返しとばかりに、チビ猫を抱き上げた蒼星石が、 「このっ、このっ」と頬ずりする様子を目にするなり、プッツンした。 「も……も……もふもふ……させやがれですぅ――っ!」 「わひゃぁっ! ちょ! 姉さん、どこ触ってんのさっ」 いきなり抱きついてきたばかりか、もぞもぞ弄ってくる翠星石。 チビ猫を逃がした蒼星石は、グイと姉を押し返し、間髪入れず反撃に移る。 身長や体格は似たり寄ったりだが、若干、蒼星石の方が力強い。 ころん……と姉を仰向けに転がして、レスリングみたいに押さえ込み…… くすぐる。とにかく擽る。ひたすら擽る。いまだかつてないほど擽る。 「あひゃひゃひゃ……や、やめっ……蒼っいひひひひっ……く、苦し――」 「姉さんが謝るまで、ボクは擽るのをやめないからね」 「はぁひひひ……わ、悪かったです……ひぃひぃ……もう、やめ……る、ですっ」 堪らず、涙を浮かべて懇願する姉に、蒼星石は―― 「うふふふ…………ダぁメ。やっぱり許してあげない☆」 「ほあ――っ?!」 ウインクで星を飛ばして、無慈悲に擽り続ける。 結局、それから騒ぎを聞きつけたオディールが止めに入るまでの五分ほど、 蒼星石の【失禁寸前くすぐり地獄】は休むことなく続けられて、 じゃれ合っていた姉妹は、すっかり汗まみれになっていた。 友人たちとの集合時間までに、大急ぎでシャワーで汗を洗い流したものの、 翠星石の表情は暗鬱として、普段の活発さが失われていた。 実のところ、笑いすぎで、クタクタに疲れ切っていたのである。 おなかの鈍い痛みは、いまだ治まらず、明日には筋肉痛になっていそうな感じだ。 そうとは知らない雛苺が、心配そうに翠星石の顔を覗き込んできた。 「うよー? なんだか元気ないのよー。翠ちゃん、具合悪いの?」 「ん……別に、そんなコトねぇですけどぉ」 返す言葉も、言った本人ですら呆れてしまうほど、歯切れが悪い。 もう誤魔化すのもメンドくさくなって、翠星石は雛苺の視線から顔を背け、 集まった友人たちに力無く声を掛けた。 「それで……結局、どういう割り振りにするですかぁ?」 何のコトかと言うと、誰が、どの車に乗るかということ。 柴崎家の前で顔を揃えるなり、友人たちはアッチだコッチだと揉め始めたのだ。 遠足のバスの座席選びで、つい躍起になっちゃう、あの心境だろう。 翠星石としても、蒼星石とオディールの同乗を、なんとか阻止したい構えだった。 ちなみに、都合が付いた車は、真紅のRAV4、みっちゃんのオデッセイ。 それと、柴崎家のブルーバードシルフィの計三台である。 参加者は、上記の三名と、水銀燈、金糸雀、蒼星石、オディール、雛苺、 雪華綺晶と薔薇水晶に、ジュンと巴を加えた12名だった。 ――とにもかくにも、この炎天下で、ダラダラと口論しているのは辛い。 喋った言葉の数だけ目的地に近付く、と言うのであれば話は別だが、 無論、そんなことは有り得ない。早い話が、単なる時間のムダ。 ここは、みっちゃんが大人の貫禄を発揮して、場を取り仕切った。 「あたしと翠星石ちゃんと真紅ちゃんは運転するから、除外っと。  残りの人たちはクジ引きねー。くれぐれも、恨みっこなしだからー」 言って、彼女は翠星石に用意させた紙とペンで、あみだクジを作り始めた。 ――と。 紆余曲折の末、なんとか割り振りも終わり、高速道路をひた走る車中で、 「納得いかねぇです。策謀のニオイが、ぷんぷんしやがるですぅ~」 翠星石は、不機嫌ここに極まれりといった仏頂面で、ハンドルを握り締めていた。 ぶちぶちと文句をたれる彼女に、後部座席から諫める声が届く。 「恨みっこなしなの~。クジ作ったのは、みっちゃんなのよ?」 「で、でもぉ……あの結果だって、有名無実だったじゃねぇですか」 事実、クジで決まった直後も少なからず談合が行われて、 金糸雀、薔薇水晶、雪華綺晶、ジュンと巴が、みっちゃんの車に。 そして、蒼星石とオディールは、真紅の車に同乗していた。 翠星石が運転する車には、雛苺と水銀燈が乗っている。 「真紅の車に乗るはずだった巴に、代わろうって提案したのは、蒼ちゃんの方なの。  ヒナは、みっちゃんの車がいいって金糸雀が言うから、代わってあげたのよ」 「あらぁ……思いやりがあって良い子ねぇ、ヒナちゃんは。  貴族風味で、おばかさんの真紅とは大違いだわぁ」 この直後、運転中の真紅が盛大なクシャミを二連発したのは、たんなる偶然。 雛苺は、水銀燈に甘えてしなだれながら、小間物を入れたバッグを探った。 「えへへー。銀ちゃ~ん、もっと褒めてなのー♪ あ……そうそう。  ヒナね、よく冷えたヤクルト持ってきたのよ。銀ちゃんにあげるの~」 「ぃやぁん♪ もぉ、マ~ヴェラ~ス! なぁんて良い子なのぉ」 普段の、気安く他人を近寄らせないクールさは、どこへやら。 素直に懐かれることが嬉しいのか、水銀燈はコワレたかと思うほど満面の笑顔で、 じゃれついてくる雛苺を優しく抱き寄せ、受け止めている。 端から見る分には、いいお姉さんと、カワイイ妹――といった風情だ。 翠星石はルームミラーで、後部座席の二人を眺めて、険しかった表情を弛めた。 (移動の時くらい、こういうのも良いかも……ですぅ。  どうせ、宿に着けば、また蒼星石と一緒に居られるですからね) 今までの、会えなかった時間に比べれば、ほんの数時間の別れなど取るに足らない。 それに、考えてみれば、蒼星石とオディールは二人きりではないのだ。 こと品位に関して口喧しい真紅が一緒なら、間違いも起こり得ないだろう。 「し……しゃーねぇですから、おバカ苺のお守りでもし……とぁ――っ?!」 ひとまず安心して、再度、ルームミラーで後部座席をチラ見するなり、 翠星石は、妙ちきりんな奇声をあげた。 なんと! そこでは、水銀燈が雛苺に押し倒されていたではないか。 「んふふふ~。銀ちゃんのうにゅー、ふかふかなのー」 「やっ……ソコは違……やめ、なさぁ……ぁん」 「ヒナの『もふもふテクニック』で、溺れ乱れアンマァ地獄なのよ~♪」 「ぁひぃ――んっ♪ ヒナちゃ…………ぁん……ま、あぁ――っ」 あられもなく繰り広げられる痴態に、翠星石はアタマが沸騰しそうになった。 心拍数は急上昇。なにやら、クラクラと眩暈までしてくる。 このまま看過してもいいものか? もう少しだけなら……いいや、よくない! 「お、お……おめーら、いい加減にしやがれですぅ――っ!」 翠星石は、いっそ急ブレーキでも踏んでやろうかと思ったが、ここは高速道路。 そんなコトをすれば、生命に関わる大事故を招くのは必至。 せめてもの妨害とばかりに、頻りと車線変更して揺さぶりをかけるが、効果なし。 後部座席からの、アンマァ~な雰囲気は、途絶えることを知らない。 ――結局、休憩ポイントのサービスエリアに到着するまで、 翠星石は(いろいろな意味で)ドキドキしっぱなしだった。 はふぅ―――― 漸くにして着いたサービスエリアで、翠星石はジュースを一口飲んでは、 気怠そうに長く息を吐いた。いや……実際、果てしなく気疲れしていた。 彼女と並んで喉の渇きを潤していた蒼星石が、その様子に気付いて話しかける。 「どうしたのさ、姉さん。だいぶ疲れてるみたいだけど、大丈夫なの?」 「え……と。た、たまの長距離ドライブで、気分的に疲れたですよ。ぁはは……」 引きつった顔で、乾いた笑いをたらたら紡ぐ翠星石を、 妹の心配そうな眼差しが、ひたと捉えた。 ウソや冗談を言いそうな目ではない。本気で気に掛けている様子だった。 「出発前から、なんか元気なかったよね。もしかして……ボクの……せい?」 「ふぇ? なんで、そうなるですか」 「だって…………朝、あんなに擽って、ムリヤリ笑わせちゃったでしょ。  アレの影響かなぁって……その……ずっと、心配してたんだよ」 言われて初めて、翠星石は思い出した。 今朝方、笑い死ぬかと思うくらいに、擽られまくったことを。 もう少しで、お漏らししそうになったなんて、口が裂けても言えない。 元を質せば、翠星石がちょっかいを出したからなのだが、 あの仕打ちを思い返すと、憤りと共に、なにやら良からぬ想いが沸々と―― 「なんだったら、ボクが運転を代わろうか。  姉さんは、真紅の車に移って、ゆっくりしてよ。ね?」 「ううん、平気ですよ。心配してくれて、ありがとですぅ」 蒼星石の気遣いを、清々しいまでの笑顔でやんわり断った翠星石は、 飲みかけのペットボトルを手に、車へと戻った。 ちょうど、水銀燈と雛苺も、友人たちとの語らいを終えて、戻ってきたところだ。 水銀燈は少しばかり窶れ気味だったが、歩き回れるのなら、まだ平気だろう。 ここぞとばかりに、翠星石は声を掛けた。 「銀ちゃん。すまねぇですけど、次の休憩まで運転を代わって欲しいですぅ」 「ええ、良いわよぉ。それじゃあ、キー貸してぇ」 「はいですぅ」 翠星石はキーを渡し、後部座席に収まるが早いか、雛苺にヘッドロックをかました。 そして、こしょ……っと耳打ちする。 「雛苺……おめーの『もふもふテクニック』を、私に教えやがれです」 「うょっ?! 翠ちゃん……いきなり、どうしちゃったのー?」 「ちょっとワケありで、その奥義を会得したくなったですよ。どうです?」 「うゆ…………よく解らないけど、分かったのよ」 同意を取り付けると、翠星石は雛苺を解放しつつ、ニタァ~と嗤った。 すべては、今夜の復讐劇に向けた下準備。 (いーっひっひっひ。目にモノ見せてやるですよぉ、蒼星石ぃ) ――だが! 復讐心を滾らせるあまり、視野狭窄に陥っていた翠星石は、 この直後、地獄を初体験する羽目となった。 「言い忘れてたけど、ヒナの『もふテク』は108式まであるのよ。  それじゃあ、手始めに1式『電気アンマァ~』いっちゃうのー」 「へっ? ちょ…………ほあ――っ?!」 車内に轟く、絹を裂くような悲鳴。 一生の思い出となる旅行は、始まったばかりだった。
      ―葉月の頃 その4―  【8月23日  処暑】① 処暑とは、二十四節気のひとつに挙げられ、暑さの和らぐ時期とされる。 だが、太陽は暦など無視して、強烈な真夏の日射しを投げかけていた。 それはもう、天日だけで鉄板焼きが楽しめてしまうほどに。 「はふぅ~。今日も朝から、あちぃですぅ~」 翠星石は、窓を開け放した居間のソファにデレ~っと身を沈ませながら、 足元に寝そべっているチビ猫の腹を、爪先でちょいちょい突っついていた。 そよ吹く風が、風鈴を揺らしながらサッシに掛けた簾を抜けて、吹き込んでくる。 だが、とにかく熱い。生ぬるいだとか、生やさしいものではない。 庭仕事なんぞしていようものなら、たちどころに熱中症になりそうだった。 柴崎家には、エアコンなる文明の利器が存在しない。 祖父母――ことに、祖母の方――が、極度の冷え性であるためだ。 そのため、古めかしい首振り型の扇風機が、いまだ現役で稼働している有様だった。 夏の風物詩であるセミの声も、翠星石を気分的に暑くさせる。 キャミソールにショートパンツという軽装ながら、ちっとも涼しくなかった。 身体中、じわりと滲んでくる汗で、べたべたする感じが気持ち悪い。 手にしたウチワで、首筋から顔にかけてを、はたはたと扇ぐのだが…… どうにも汗は引かず、却って蒸し暑くなるほどだった。 ――そこへ、氷を浮かべた麦茶のグラスを両手に、双子の妹が顔を覗かせた。 「今日も暑いよね」と口にするが、姉と同じ服装の蒼星石は、至って涼しげだ。 やはり、髪の長さ分だけ、翠星石の体感温度が高いのだろうか。 「あぁん♪ やっぱり、蒼星石は気が利くですぅ~」 翠星石は、露を纏ったグラスを嬉々として受け取るや、ごくごくと喉を潤した。 あまりに勢いよくグラスを傾けたものだから、唇の端から零れた麦茶が、 するすると顎から喉を経由して、胸へと流れていった。 けれど、彼女は気にも留めず麦茶をイッキ飲みして、氷をひとつ、口に含んだ。 「はもはも……ほゃ……ふぃ……ひぅー。はふぅ~、歯と喉に凍みたですぅ~」 「もぉ、なにしてんのさ。そんなに慌てて飲まなくたっていいのに」 「解ってねぇですねぇ、蒼星石は。これは、麦茶を飲むときの作法なのですよ?  かの松尾芭蕉の俳句にも『夏草や 喉に浸み入る 麦の水』ってのがあるですぅ」 「またまたぁ。だいたい、麦の水って、ビールの代名詞じゃないの?」 蒼星石は呆れ顔のまま、畳の上に膝を揃えて座ると、ちびりちびり麦茶を飲みつつ、 傍らに寝転がっているチビ猫の腹を、さわさわと撫でた。 その手に、チビ猫がじゃれついて、彼女の白く細い指をカプッと甘噛みする。 猛暑でへばっているかと思いきや、意外に元気なものだ。 「ぁん……。こら、チビチビ。爪を立てたら痛いよ」 柳眉を八の字にして苦笑いながらも、蒼星石はチビ猫との戯れを、やめようとしない。 そんな蒼星石の悩ましげな表情に、翠星石は、そこはかとなく胸の疼きを覚えて―― 「いたたっ。そこは、噛んじゃダメだってば」 噛まれた仕返しとばかりに、チビ猫を抱き上げた蒼星石が、 「このっ、このっ」と頬ずりする様子を目にするなり、プッツンした。 「も……も……もふもふ……させやがれですぅ――っ!」 「わひゃぁっ! ちょ! 姉さん、どこ触ってんのさっ」 いきなり抱きついてきたばかりか、もぞもぞ弄ってくる翠星石。 チビ猫を逃がした蒼星石は、グイと姉を押し返し、間髪入れず反撃に移る。 身長や体格は似たり寄ったりだが、若干、蒼星石の方が力強い。 ころん……と姉を仰向けに転がして、レスリングみたいに押さえ込み…… くすぐる。とにかく擽る。ひたすら擽る。いまだかつてないほど擽る。 「あひゃひゃひゃ……や、やめっ……蒼っいひひひひっ……く、苦し――」 「姉さんが謝るまで、ボクは擽るのをやめないからね」 「はぁひひひ……わ、悪かったです……ひぃひぃ……もう、やめ……る、ですっ」 堪らず、涙を浮かべて懇願する姉に、蒼星石は―― 「うふふふ…………ダぁメ。やっぱり許してあげない☆」 「ほあ――っ?!」 ウインクで星を飛ばして、無慈悲に擽り続ける。 結局、それから騒ぎを聞きつけたオディールが止めに入るまでの五分ほど、 蒼星石の【失禁寸前くすぐり地獄】は休むことなく続けられて、 じゃれ合っていた姉妹は、すっかり汗まみれになっていた。 友人たちとの集合時間までに、大急ぎでシャワーで汗を洗い流したものの、 翠星石の表情は暗鬱として、普段の活発さが失われていた。 実のところ、笑いすぎで、クタクタに疲れ切っていたのである。 おなかの鈍い痛みは、いまだ治まらず、明日には筋肉痛になっていそうな感じだ。 そうとは知らない雛苺が、心配そうに翠星石の顔を覗き込んできた。 「うよー? なんだか元気ないのよー。翠ちゃん、具合悪いの?」 「ん……別に、そんなコトねぇですけどぉ」 返す言葉も、言った本人ですら呆れてしまうほど、歯切れが悪い。 もう誤魔化すのもメンドくさくなって、翠星石は雛苺の視線から顔を背け、 集まった友人たちに力無く声を掛けた。 「それで……結局、どういう割り振りにするですかぁ?」 何のコトかと言うと、誰が、どの車に乗るかということ。 柴崎家の前で顔を揃えるなり、友人たちはアッチだコッチだと揉め始めたのだ。 遠足のバスの座席選びで、つい躍起になっちゃう、あの心境だろう。 翠星石としても、蒼星石とオディールの同乗を、なんとか阻止したい構えだった。 ちなみに、都合が付いた車は、真紅のRAV4、みっちゃんのオデッセイ。 それと、柴崎家のブルーバードシルフィの計三台である。 参加者は、上記の三名と、水銀燈、金糸雀、蒼星石、オディール、雛苺、 雪華綺晶と薔薇水晶に、ジュンと巴を加えた12名だ。 みっちゃんと金糸雀が、実はご近所さんだったと知ったのは、今朝のことだった。 ――とにもかくにも、この炎天下で、ダラダラと口論しているのは辛い。 喋った言葉の数だけ目的地に近付く、と言うのであれば話は別だが、 無論、そんなことは有り得ない。早い話が、単なる時間のムダ。 ここは、みっちゃんが大人の貫禄を発揮して、場を取り仕切った。 「あたしと翠星石ちゃんと真紅ちゃんは運転するから、除外っと。  残りの人たちはクジ引きねー。くれぐれも、恨みっこなしだからー」 言って、彼女は翠星石に用意させた紙とペンで、あみだクジを作り始めた。 ――と。 紆余曲折の末、なんとか割り振りも終わり、高速道路をひた走る車中で、 「納得いかねぇです。策謀のニオイが、ぷんぷんしやがるですぅ~」 翠星石は、不機嫌ここに極まれりといった仏頂面で、ハンドルを握り締めていた。 ぶちぶちと文句をたれる彼女に、後部座席から諫める声が届く。 「恨みっこなしなの~。クジ作ったのは、みっちゃんなのよ?」 「で、でもぉ……あの結果だって、有名無実だったじゃねぇですか」 事実、クジで決まった直後も少なからず談合が行われて、 金糸雀、薔薇水晶、雪華綺晶、ジュンと巴が、みっちゃんの車に。 そして、蒼星石とオディールは、真紅の車に同乗していた。 翠星石が運転する車には、雛苺と水銀燈が乗っている。 「真紅の車に乗るはずだった巴に、代わろうって提案したのは、蒼ちゃんの方なの。  ヒナは、みっちゃんの車がいいって金糸雀が言うから、代わってあげたのよ」 「あらぁ……思いやりがあって良い子ねぇ、ヒナちゃんは。  貴族風味で、おばかさんの真紅とは大違いだわぁ」 この直後、運転中の真紅が盛大なクシャミを二連発したのは、たんなる偶然。 雛苺は、水銀燈に甘えてしなだれながら、小間物を入れたバッグを探った。 「えへへー。銀ちゃ~ん、もっと褒めてなのー♪ あ……そうそう。  ヒナね、よく冷えたヤクルト持ってきたのよ。銀ちゃんにあげるの~」 「ぃやぁん♪ もぉ、マ~ヴェラ~ス! なぁんて良い子なのぉ」 普段の、気安く他人を近寄らせないクールさは、どこへやら。 素直に懐かれることが嬉しいのか、水銀燈はコワレたかと思うほど満面の笑顔で、 じゃれついてくる雛苺を優しく抱き寄せ、受け止めている。 端から見る分には、いいお姉さんと、カワイイ妹――といった風情だ。 翠星石はルームミラーで、後部座席の二人を眺めて、険しかった表情を弛めた。 (移動の時くらい、こういうのも良いかも……ですぅ。  どうせ、宿に着けば、また蒼星石と一緒に居られるですからね) 今までの、会えなかった時間に比べれば、ほんの数時間の別れなど取るに足らない。 それに、考えてみれば、蒼星石とオディールは二人きりではないのだ。 こと品位に関して口喧しい真紅が一緒なら、間違いも起こり得ないだろう。 「し……しゃーねぇですから、おバカ苺のお守りでもし……とぁ――っ?!」 ひとまず安心して、再度、ルームミラーで後部座席をチラ見するなり、 翠星石は、妙ちきりんな奇声をあげた。 なんと! そこでは、水銀燈が雛苺に押し倒されていたではないか。 「んふふふ~。銀ちゃんのうにゅー、ふかふかなのー」 「やっ……ソコは違……やめ、なさぁ……ぁん」 「ヒナの『もふもふテクニック』で、溺れ乱れアンマァ地獄なのよ~♪」 「ぁひぃ――んっ♪ ヒナちゃ…………ぁん……ま、あぁ――っ」 あられもなく繰り広げられる痴態に、翠星石はアタマが沸騰しそうになった。 心拍数は急上昇。なにやら、クラクラと眩暈までしてくる。 このまま看過してもいいものか? もう少しだけなら……いいや、よくない! 「お、お……おめーら、いい加減にしやがれですぅ――っ!」 翠星石は、いっそ急ブレーキでも踏んでやろうかと思ったが、ここは高速道路。 そんなコトをすれば、生命に関わる大事故を招くのは必至。 せめてもの妨害とばかりに、頻りと車線変更して揺さぶりをかけるが、効果なし。 後部座席からの、アンマァ~な雰囲気は、途絶えることを知らない。 ――結局、休憩ポイントのサービスエリアに到着するまで、 翠星石は(いろいろな意味で)ドキドキしっぱなしだった。 はふぅ―――― 漸くにして着いたサービスエリアで、翠星石はジュースを一口飲んでは、 気怠そうに長く息を吐いた。いや……実際、果てしなく気疲れしていた。 彼女と並んで喉の渇きを潤していた蒼星石が、その様子に気付いて話しかける。 「どうしたのさ、姉さん。だいぶ疲れてるみたいだけど、大丈夫なの?」 「え……と。た、たまの長距離ドライブで、気分的に疲れたですよ。ぁはは……」 引きつった顔で、乾いた笑いをたらたら紡ぐ翠星石を、 妹の心配そうな眼差しが、ひたと捉えた。 ウソや冗談を言いそうな目ではない。本気で気に掛けている様子だった。 「出発前から、なんか元気なかったよね。もしかして……ボクの……せい?」 「ふぇ? なんで、そうなるですか」 「だって…………朝、あんなに擽って、ムリヤリ笑わせちゃったでしょ。  アレの影響かなぁって……その……ずっと、心配してたんだよ」 言われて初めて、翠星石は思い出した。 今朝方、笑い死ぬかと思うくらいに、擽られまくったことを。 もう少しで、お漏らししそうになったなんて、口が裂けても言えない。 元を質せば、翠星石がちょっかいを出したからなのだが、 あの仕打ちを思い返すと、憤りと共に、なにやら良からぬ想いが沸々と―― 「なんだったら、ボクが運転を代わろうか。  姉さんは、真紅の車に移って、ゆっくりしてよ。ね?」 「ううん、平気ですよ。心配してくれて、ありがとですぅ」 蒼星石の気遣いを、清々しいまでの笑顔でやんわり断った翠星石は、 飲みかけのペットボトルを手に、車へと戻った。 ちょうど、水銀燈と雛苺も、友人たちとの語らいを終えて、戻ってきたところだ。 水銀燈は少しばかり窶れ気味だったが、歩き回れるのなら、まだ平気だろう。 ここぞとばかりに、翠星石は声を掛けた。 「銀ちゃん。すまねぇですけど、次の休憩まで運転を代わって欲しいですぅ」 「ええ、良いわよぉ。それじゃあ、キー貸してぇ」 「はいですぅ」 翠星石はキーを渡し、後部座席に収まるが早いか、雛苺にヘッドロックをかました。 そして、こしょ……っと耳打ちする。 「雛苺……おめーの『もふもふテクニック』を、私に教えやがれです」 「うょっ?! 翠ちゃん……いきなり、どうしちゃったのー?」 「ちょっとワケありで、その奥義を会得したくなったですよ。どうです?」 「うゆ…………よく解らないけど、分かったのよ」 同意を取り付けると、翠星石は雛苺を解放しつつ、ニタァ~と嗤った。 すべては、今夜の復讐劇に向けた下準備。 (いーっひっひっひ。目にモノ見せてやるですよぉ、蒼星石ぃ) ――だが! 復讐心を滾らせるあまり、視野狭窄に陥っていた翠星石は、 この直後、地獄を初体験する羽目となった。 「言い忘れてたけど、ヒナの『もふテク』は108式まであるのよ。  それじゃあ、手始めに1式『電気アンマァ~』いっちゃうのー」 「へっ? ちょ…………ほあ――っ?!」 車内に轟く、絹を裂くような悲鳴。 一生の思い出となる旅行は、始まったばかりだった。

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