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<p> <br>  </p> <p>  1947.4.19<br>   オルシュティン</p> <p> <br>  </p> <p>もしかしたら、彼――槐は父の消息を知っているかもしれない。<br> そう思うと、真紅は気もそぞろで、矢も楯もたまらなくなった。<br> 車長席に座って、ペリスコープを覗いている間も、<br> 忙しなく揺すられる爪先が止まることはない。<br> 無意識の内に、彼女の焦燥が、動作となって表れているのだった。</p> <p>当初の行軍予定は、想定外の事態により、かなりの遅れをきたしている。<br> 本来ならば、脇目もふらず、ワルシャワを目指さなければならないところだ。</p> <p>なのだが……。</p> <p>「どぉしたの、真紅ぅ?」<br> 「ひあっ?!」</p> <p>物思いに耽っていたところへ、思いがけず間近で水銀燈に話しかけられて、<br> 真紅は珍妙な声を出した挙げ句、危うく車長席からズリ落ちそうになった。<br> 車内に、娘たちの陽気な笑い声が広がる。<br> 赤面した真紅も、気恥ずかしさを誤魔化すように、口元を引きつらせた。</p> <p><br> <br> ひと頻り笑いの輪が広がった後で、やはり、水銀燈が真っ先に口を開いた。</p> <p>「真紅ぅ……貴女、槐って人のところへ行きたいんでしょぉ?<br>  隠したってダメよぉ。おばかさんの考えなんか、全てお見通しなんだからぁ」 <br> 「水くさいよ、真紅。ボク達は一蓮托生。みんな、キミの意志を尊重するつもりさ」<br> <br> 車内無線を通じて、三人のやりとりを聞いていた金糸雀と翠星石の声が、<br> 真紅の耳に届く。</p> <p>「そのとおりよ、真紅。カナ達に気遣いなんて無用かしら」<br> 「どーせ遅刻ついでです。数時間くらい寄り道したって変わりねぇですよ」<br> 「貴女たち……」</p> <p><br> 気持ちは嬉しい。それはもう、涙が出そうなほどに。<br> だが、それらの発言は、若い娘にありがちな認識の甘さに溢れていた。<br> 根っからの職業軍人ではないどころか、訓練すらロクに受けていない彼女たちが、<br> 軍規の厳しさなど知っていよう筈がない。<br> 真紅ですら、父が軍事機密に関わっていたと言うだけで、元は普通の女の子だ。<br> 戦える者が不足していたこと――<br> そして、父の置き土産であるティーガーⅢを人手に渡すことを頑なに拒んだ結果が、<br> 軍属に身を窶した理由だ。決して、好きで戦場に来た訳ではなかった。</p> <p>実のところ、仲間の娘たちも同じ心境だった。本当は怖い。戦いなんて、もうたくさん。<br> 死と隣り合わせの毎日に神経をすり減らして、燃えカスのように死んでいきたくはない。</p> <p>さりとて、傍若無人な自動人形どもに嬲り殺されることは、乙女の潔癖さが許さなかった。<br> <br> 屈辱の烙印を押されるくらいなら、力尽きるまで戦って、闘って……<br> 百万の敵を斃してでも、きっと生き延びてやる。<br> それが、人生を切り開くということだと、彼女たちは信じていた。</p> <p><br> <br> 全ては、幸せを受け入れるための準備……。<br> たとえ今日がどれほど酷い日でも、明日は夢みるような幸福が舞い込むかも知れない。<br> だからこそ、泣き言を並べ立てる暇があるなら、生き延びる努力をすべきだった。<br> 死んでしまったら、甘い果実を味わうことも出来ないのだから。</p> <p><br> けれど、世の中というものは、少女たちが考える以上に複雑で――<br> 敵は自動人形ばかりでなく、味方であるはずの人間たちの中にも紛れ込んでいた。</p> <p>「貴女たちの気持ちは、ありがたいわ。だけど……軍規を乱すなんてダメ。<br>  軍属である以上、身勝手な行動は許されないのよ」</p> <p>かつては敵対していた者たちが、利害の一致で結びついた、寄せ集め――<br> それが、彼女たちが属する、ドイツ国防軍という名前のみの敗残軍だった。<br> しかし、形骸化したとは言え、軍隊の体面を保つために規律は定められているし、<br> 軍法の番人として憲兵だっている。<br> 正統な理由のない遅延は、利敵行為と見なされ、処断されかねないのだ。<br> 敵の手にかかるにせよ、味方の手で裁かれるにせよ、<br> かけがえのない仲間に危害が及ぶことは、真紅にとっては耐え難い苦痛だった。</p> <p>「まずは、次の作戦に専念しましょう。<br>  ワルシャワでの戦闘に勝って、正当な許可を得て、引き返してくればいいわ」</p> <p><br> 真紅は、これで良いのだと胸裡で自分に言い聞かせて、決然と顔を上げた。<br> 防衛線を固めること、勝利することこそが、最優先事項なのだから。</p> <p><br> <br> 車内に漂う、不完全燃焼のような空気――<br> 真紅を除く誰もが、釈然としない面持ちだった。<br> 彼女はそれを無視して、双眼鏡を手に、前方を見据える。<br> だが、30秒と経たない内に――</p> <p>「ばっかじゃないのぉ?」</p> <p><br> }やおら足元で発せられた嘲りに、真紅が目元から、双眼鏡を離す。<br> 声の主は、紅い瞳に鋭い光を宿して、真紅の胸元に掴みかかった。<br> そして、力任せに車長席から引きずり降ろし、ぐいと顔を近付けてきた。</p> <p>「物わかりのいいフリしてんじゃないわよぉ。未練たらたらのクセに。<br>  なぁに? 私たちに、この戦車は任せられないとでも言うのぉ?<br>  随分と、バカにしてくれるわねぇ」</p> <p>水銀燈の口調は、あくまで氷のように冷静で、波風ひとつ無いように思える。<br> けれど、その場に居合わせた蒼星石は、彼女の激しい怒気を、ひしひしと感じていた。<br> 気丈な真紅でさえ、水銀燈の剣幕に気圧されて、返す言葉を喉元に詰まらせている。</p> <p>反論しないことが余計に苛立ちを募らせるのか、水銀燈の憤りは衰えなかった。<br> まるで火に油を注がれたように、押し殺した低い声で、捲し立てた。</p> <p><br> 「なによ! 真紅なんか居なくたって、私たちは戦えるんだから。 <br>  この戦車を動かして、敵を見付けて、大砲を撃って、どんな敵でも粉砕してみせるわ。<br>  貴女みたいに、うじうじと悩んでる人に指揮される方が、よっぽど迷惑よ!」<br> 「……ご、ごめんなさい」</p> <p><br> 珍しく、おろおろと謝る真紅の瞳を、水銀燈は蔑みの眼で睨み続けた。<br> そして彼女は、突き飛ばすように、真紅の胸倉を手放した。<br> 蹌踉めいて、蒼星石に背中を支えられた真紅の鼻先に、水銀燈の指が突き付けられる。</p> <p><br> 「真紅ぅ……貴女は、もう用済みよぉ。車長は、蒼星石に任せるからぁ」<br> 「で、でも――」<br> 「つべこべ言わずに、戦車を降りなさい! 邪魔なのよ!」</p> <p><br> 解ったわね。と念押しした水銀燈は、それっきり、真紅には目もくれなかった。<br> キューポラに上がるとハッチを開いて、身を乗り出し、誰かと話をしていた。<br> 漏れ聞こえる言葉の端々を繋いでゆくと、あのベジータという青年に、<br> 戦車兵の経験がある者の有無を訊ねているらしい。</p> <p><br> <br> (ごめんなさい、みんな。そして…………ありがとう、水銀燈)</p> <p><br> 彼女は、不甲斐ない私の背を押して、送り出そうとしてくれている――<br> やり方こそ乱暴だけれど、誰も水銀燈の言い分に反駁しなかったのが、その証だ。<br> 仲間たちの想いを痛いほど感じて、真紅は胸の内で、そっと感謝した。<br>  <br>  <br>  <br> ――∞――∞――∞――∞――</p> <p><br> 1947.4.19</p> <p><br> みんな――<br> ありがとう。私のワガママを、許してくれて。<br> 今夜のこと、私は生涯、忘れないわ。<br> きっと……きっと……貴女たちに、恩返しするから。</p> <p><br> <br> だから、絶対に生き延びてね。<br> そして、追いついた私を、笑顔で迎えてちょうだい。</p> <p><br> ……お願いよ。</p> <p><br> ――∞――∞――∞――∞――</p> <p> <br>  <br>  <br> ティーガーⅢのシルエットが遠ざかり、闇に溶け込んでいく。<br> 真紅は道の中央に立って、道中の無事を祈りながら見送っていた。<br> 彼女の隣に佇んでいるのは、桜田ジュン。</p> <p><br> 当初、水銀燈は彼を“整備士”兼“装填手”として引き込むつもりだった。<br> けれど、見習いとはいえ技術者であるジュンは、槐の工房ですべき事がある。<br> それ故に、武器の扱いに長け、筋力もあるベジータが抜擢されたのだ。<br> 残りのパルチザンのメンバーは、ここオルシュティンの“兎の砦”で、<br> 槐の指揮下に入ることになっていた。</p> <p><br> <br> 「……真紅」</p> <p><br> 呼ぶ声は、月明かりのように柔らかく、どこか儚げだった。<br> 彼女に掛けられた声は、ジュンとは別の人物が発したものだ。<br> 真紅とジュンは、ほぼ同時に振り返っていた。</p> <p>廃墟の片隅を占めていた闇から進み出てくる、金髪の青年。<br> その後ろには、彼の背後を守るようにして、若い娘が一人、付き従っている。<br> 彼女の左眼を飾る紫の眼帯が、夜の中でもヤケに異彩を放っていた。</p> <p><br> 「“兎の砦”に、ようこそ。よく来てくれたね、真紅。<br>  それに、桜田くんも……無事に戻ってこられて何よりだ」<br> 「先生こそ、元気そうで良かった。薔薇水晶も、変わりなさそうだな。<br>  あ……依頼の品は、なんとか揃えてきました。ケッテンクラートに積んであります」<br> 「ご苦労だったね。詳細な報告は、あとで聞かせてもらうよ。<br>  さあ、君を待っている人の所に行って、元気な顔を見せてくると良い。<br>  薔薇水晶、他の方たちを、地下壕に案内しておいてくれ」<br> 「はい……お父さま」</p> <p><br> ジュンと薔薇水晶は軽く会釈すると、思い思いの方角に立ち去った。<br> 残された金髪の青年と真紅は、向かい合って、どちらからともなく表情を和らげた。</p> <p><br> 「槐さん……本当に、ご無沙汰していたわ」<br> 「……いや。それは僕のセリフだよ。<br>  君のお父上が失踪してから、何の連絡もせずに隠れていたことを、許して欲しい」<br> 「気にしてないと言えば嘘になるけれど、恨んでなんていないわ。本当よ。<br>  槐さんにも、よっぽどの理由があったのでしょう?」<br> 「まあ、ね。とにかく、立ち話も無粋だ。中に入ろう」</p> <p><br> <br> 槐に促され、廃墟の狭い入り口から、瓦礫の中に踏み込んだ。<br> 崩落した家屋の間を縫って進み、瓦礫の隙間に潜り込んで、<br> やっと地下へと続く隠し階段に着いた。<br> だが、階段を下りても、今度は幾重にも連なる鉄扉が待ちかまえていた。</p> <p><br> 「兎の砦と言うより、まるで、兎の巣穴だわ。<br>  案内がなければ、とっくに迷っているわよ」</p> <p>真紅の半ば呆れたような感声に、槐の含み笑いが続いた。</p> <p><br> 「そうでなければ、隠れ家とは呼べないよ」<br> 「……まあね。でも、ただ隠れ住むだけの場所にしては、大袈裟すぎないかしら?」<br> 「工房も兼ねているからね。研究設備も、あらかた整えた。<br>  僕は今でも、次世代のエネルギー源を開発するため……RM計画を継続しているんだ」<br> 「お父様と貴方が主任となって、進めていた極秘プロジェクトね」</p> <p><br> 槐は歩きながら、真紅の質問に、無言で頷く。</p> <p><br> 「45年初頭、我が師ローゼンは、ローザミスティカという物質の精錬に成功した。<br>  僕は師と共にRM動力機関のプロトタイプを設計し、作り上げたんだ。<br>  君らが乗ってきたティーガーⅢの動力が、正しくそれだよ」<br> 「私には『電力を増幅して、より大きな動力を得ている』くらいしか、解らないわ」<br> 「それで充分さ。道具を扱う度に、その原理を考える者など居ないだろう?」</p> <p><br> 言って、槐はとある重厚な鉄扉を開き「入りたまえ」と、真紅を促した。</p> <p><br> 彼女が招き入れられた部屋は、どうやら槐の執務室らしかった。<br> 膨大な資料や、試作の器具みたいな物で溢れ、服などの生活品が殆ど見当たらなかったからだ。<br> 彼は、申し訳程度に置かれた小さなソファを、真紅に勧めた。<br> こくんと頷いた彼女が腰を降ろすのを見届けて、槐が口を開いた。</p> <p><br> 「君がここを訪れた理由は、師ローゼンの行方を、僕が知っていると思ったからだろう?」<br> 「……ええ。貴方は、お父様の共同研究者だもの。<br>  なにか、本当に些細なことでも構わないから、教えてちょうだい。<br>  お父様は、ローザミスティカの精錬成功の直後、失踪したわ。それは、何故?<br>  人類の未来を支えるだろう功績を、独り占めしたかったから?」</p> <p>そう訊ねたものの、真紅は、父がそんな下賤な男だとは思っていなかった。<br> きっと、何か考えがあって、RM計画の成果を持ち去ったのだ。<br> でも――――何のために、全人類に宣戦を布告したのかが解らない。</p> <p><br> <br>   なぜ? 何故? ナゼ?</p> <p><br> <br> 真紅は表情を強張らせて、食い入るように槐を見つめた。<br> 対して、槐は「君の期待に応えられるか分からないが――」と、前置くと、<br> 執務机の椅子に、深々と身を沈めた。</p> <p><br> <br> 「率直に言うと、師ローゼンの失踪については、僕も詳細を知らない。<br>  ただ、RM計画と対をなすLM計画が、少なからず影響していたとは思う。<br>  なぜなら、LM計画の主任、コリンヌ=フォッセー博士も、師と同時期に姿を消したのだからね」</p> <p><br> コリンヌ=フォッセーという学者の名には、漠然とだが、聞き覚えがあった。<br> 確か、フランス人女性で、生物学だかの権威だったような……くらいのレベルだが。<br> しかし、LM計画については、全くの初耳だった。<br> RMとLM――Recht(右)に対するLink(左)の頭文字を当てたのだろうか。</p> <p><br> 真紅は固唾を呑みこむと、膝を乗り出して、槐の言葉に耳を傾けた。<br> どんなに些細な事柄でもいい。失踪した父の手懸かりが、どうしても欲しかった。</p> <p><br> もう一度、差し向かいで話し合うためにも。<br>  <br>  </p>
<p> <br>  </p> <p>  1947.4.19<br>   オルシュティン</p> <p> <br>  </p> <p>もしかしたら、彼――槐は父の消息を知っているかもしれない。<br> そう思うと、真紅は気もそぞろで、矢も楯もたまらなくなった。<br> 車長席に座って、ペリスコープを覗いている間も、<br> 忙しなく揺すられる爪先が止まることはない。<br> 無意識の内に、彼女の焦燥が、動作となって表れているのだった。</p> <p>当初の行軍予定は、想定外の事態により、かなりの遅れをきたしている。<br> 本来ならば、脇目もふらず、ワルシャワを目指さなければならないところだ。</p> <p>なのだが……。</p> <p>「どぉしたの、真紅ぅ?」<br> 「ひあっ?!」</p> <p>物思いに耽っていたところへ、思いがけず間近で水銀燈に話しかけられて、<br> 真紅は珍妙な声を出した挙げ句、危うく車長席からズリ落ちそうになった。<br> 車内に、娘たちの陽気な笑い声が広がる。<br> 赤面した真紅も、気恥ずかしさを誤魔化すように、口元を引きつらせた。</p> <p><br> <br> ひと頻り笑いの輪が広がった後で、やはり、水銀燈が真っ先に口を開いた。</p> <p>「真紅ぅ……貴女、槐って人のところへ行きたいんでしょぉ?<br>  隠したってダメよぉ。おばかさんの考えなんか、全てお見通しなんだからぁ」 <br> 「水くさいよ、真紅。ボク達は一蓮托生。みんな、キミの意志を尊重するつもりさ」<br> <br> 車内無線を通じて、三人のやりとりを聞いていた金糸雀と翠星石の声が、<br> 真紅の耳に届く。</p> <p>「そのとおりよ、真紅。カナ達に気遣いなんて無用かしら」<br> 「どーせ遅刻ついでです。数時間くらい寄り道したって変わりねぇですよ」<br> 「貴女たち……」</p> <p><br> 気持ちは嬉しい。それはもう、涙が出そうなほどに。<br> だが、それらの発言は、若い娘にありがちな認識の甘さに溢れていた。<br> 根っからの職業軍人ではないどころか、訓練すらロクに受けていない彼女たちが、<br> 軍規の厳しさなど知っていよう筈がない。<br> 真紅ですら、父が軍事機密に関わっていたと言うだけで、元は普通の女の子だ。<br> 戦える者が不足していたこと――<br> そして、父の置き土産であるティーガーⅢを人手に渡すことを頑なに拒んだ結果が、<br> 軍属に身を窶した理由だ。決して、好きで戦場に来た訳ではなかった。</p> <p> <br> 実のところ、仲間の娘たちも同じ心境だった。本当は怖い。戦いなんて、もうたくさん。<br> 死と隣り合わせの毎日に神経をすり減らして、燃えカスのように死んでいきたくはない。</p> <p> <br> さりとて、傍若無人な自動人形どもに嬲り殺されることは、乙女の潔癖さが許さなかった。<br> 屈辱の烙印を押されるくらいなら、力尽きるまで戦って、闘って……<br> 百万の敵を斃してでも、きっと生き延びてやる。<br> それが、人生を切り開くということだと、彼女たちは信じていた。</p> <p><br> <br> 全ては、幸せを受け入れるための準備……。<br> たとえ今日がどれほど酷い日でも、明日は夢みるような幸福が舞い込むかも知れない。<br> だからこそ、泣き言を並べ立てる暇があるなら、生き延びる努力をすべきだった。<br> 死んでしまったら、甘い果実を味わうことも出来ないのだから。</p> <p><br> けれど、世の中というものは、少女たちが考える以上に複雑で――<br> 敵は自動人形ばかりでなく、味方であるはずの人間たちの中にも紛れ込んでいた。</p> <p> <br> 「貴女たちの気持ちは、ありがたいわ。だけど……軍規を乱すなんてダメ。<br>  軍属である以上、身勝手な行動は許されないのよ」</p> <p> <br> かつては敵対していた者たちが、利害の一致で結びついた、寄せ集め――<br> それが、彼女たちが属する、ドイツ国防軍という名前のみの敗残軍だった。<br> しかし、形骸化したとは言え、軍隊の体面を保つために規律は定められているし、<br> 軍法の番人として憲兵だっている。<br> 正統な理由のない遅延は、利敵行為と見なされ、処断されかねないのだ。<br> 敵の手にかかるにせよ、味方の手で裁かれるにせよ、<br> かけがえのない仲間に危害が及ぶことは、真紅にとっては耐え難い苦痛だった。</p> <p> <br> 「まずは、次の作戦に専念しましょう。<br>  ワルシャワでの戦闘に勝って、正当な許可を得て、引き返してくればいいわ」</p> <p> <br> 真紅は、これで良いのだと胸裡で自分に言い聞かせて、決然と顔を上げた。<br> 防衛線を固めること、勝利することこそが、最優先事項なのだから。</p> <p><br> <br> 車内に漂う、不完全燃焼のような空気――<br> 真紅を除く誰もが、釈然としない面持ちだった。<br> 彼女はそれを無視して、双眼鏡を手に、前方を見据える。<br> だが、30秒と経たない内に――</p> <p> <br> 「ばっかじゃないのぉ?」</p> <p> <br> やおら足元で発せられた嘲りに、真紅が目元から、双眼鏡を離す。<br> 声の主は、紅い瞳に鋭い光を宿して、真紅の胸元に掴みかかった。<br> そして、力任せに車長席から引きずり降ろし、ぐいと顔を近づけてきた。</p> <p> <br> 「物わかりのいいフリしてんじゃないわよぉ。未練たらたらのクセに。<br>  なぁに? 私たちに、この戦車は任せられないとでも言うのぉ?<br>  随分と、バカにしてくれるわねぇ」</p> <p> <br> 水銀燈の口調は、あくまで氷のように冷静で、波風ひとつ無いように思える。<br> けれど、その場に居合わせた蒼星石は、彼女の激しい怒気を、ひしひしと感じていた。<br> 気丈な真紅でさえ、水銀燈の剣幕に気圧されて、返す言葉を喉元に詰まらせている。</p> <p>反論しないことが余計に苛立ちを募らせるのか、水銀燈の憤りは衰えなかった。<br> まるで火に油を注がれたように、押し殺した低い声で、捲し立てた。</p> <p><br> 「なによ! 真紅なんか居なくたって、私たちは戦えるんだから。 <br>  この戦車を動かして、敵を見付けて、大砲を撃って、どんな敵でも粉砕してみせるわ。<br>  貴女みたいに、うじうじと悩んでる人に指揮される方が、よっぽど迷惑よ!」<br> 「……ご、ごめんなさい」</p> <p><br> 珍しく、おろおろと謝る真紅の瞳を、水銀燈は蔑みの眼で睨み続けた。<br> そして彼女は、突き飛ばすように、真紅の胸倉を手放した。<br> 蹌踉めいて、蒼星石に背中を支えられた真紅の鼻先に、水銀燈の指が突き付けられる。</p> <p><br> 「真紅ぅ……貴女は、もう用済みよぉ。車長は、蒼星石に任せるからぁ」<br> 「で、でも――」<br> 「つべこべ言わずに、戦車を降りなさい! 邪魔なのよ!」</p> <p><br> 解ったわね。と念押しした水銀燈は、それっきり、真紅には目もくれなかった。<br> キューポラに上がるとハッチを開いて、身を乗り出し、誰かと話をしていた。<br> 漏れ聞こえる言葉の端々を繋いでゆくと、あのベジータという青年に、<br> 戦車兵の経験がある者の有無を訊ねているらしい。</p> <p><br> <br> (ごめんなさい、みんな。そして…………ありがとう、水銀燈)</p> <p><br> 彼女は、不甲斐ない私の背を押して、送り出そうとしてくれている――<br> やり方こそ乱暴だけれど、誰も水銀燈の言い分に反駁しなかったのが、その証だ。<br> 仲間たちの想いを痛いほど感じて、真紅は胸の内で、そっと感謝した。<br>  <br>  <br>  <br> ――∞――∞――∞――∞――</p> <p><br> 1947.4.19</p> <p><br> みんな――<br> ありがとう。私のワガママを、許してくれて。<br> 今夜のこと、私は生涯、忘れないわ。<br> きっと……きっと……貴女たちに、恩返しするから。</p> <p><br> <br> だから、絶対に生き延びてね。<br> そして、追いついた私を、笑顔で迎えてちょうだい。</p> <p><br> ……お願いよ。</p> <p><br> ――∞――∞――∞――∞――</p> <p> <br>  <br>  <br> ティーガーⅢのシルエットが遠ざかり、闇に溶け込んでいく。<br> 真紅は道の中央に立って、道中の無事を祈りながら見送っていた。<br> 彼女の隣に佇んでいるのは、桜田ジュン。</p> <p><br> 当初、水銀燈は彼を“整備士”兼“装填手”として引き込むつもりだった。<br> けれど、見習いとはいえ技術者であるジュンは、槐の工房ですべき事がある。<br> それ故に、武器の扱いに長け、筋力もあるベジータが抜擢されたのだ。<br> 残りのパルチザンのメンバーは、ここオルシュティンの“兎の砦”で、<br> 槐の指揮下に入ることになっていた。</p> <p><br> <br> 「……真紅」</p> <p><br> 呼ぶ声は、月明かりのように柔らかく、どこか儚げだった。<br> 彼女に掛けられた声は、ジュンとは別の人物が発したものだ。<br> 真紅とジュンは、ほぼ同時に振り返っていた。</p> <p>廃墟の片隅を占めていた闇から進み出てくる、金髪の青年。<br> その後ろには、彼の背後を守るようにして、若い娘が一人、付き従っている。<br> 彼女の左眼を飾る紫の眼帯が、夜の中でもヤケに異彩を放っていた。</p> <p><br> 「“兎の砦”に、ようこそ。よく来てくれたね、真紅。<br>  それに、桜田くんも……無事に戻ってこられて何よりだ」<br> 「先生こそ、元気そうで良かった。薔薇水晶も、変わりなさそうだな。<br>  あ……依頼の品は、なんとか揃えてきました。ケッテンクラートに積んであります」<br> 「ご苦労だったね。詳細な報告は、あとで聞かせてもらうよ。<br>  さあ、君を待っている人の所に行って、元気な顔を見せてくると良い。<br>  薔薇水晶、他の方たちを、地下壕に案内しておいてくれ」<br> 「はい……お父さま」</p> <p><br> ジュンと薔薇水晶は軽く会釈すると、思い思いの方角に立ち去った。<br> 残された金髪の青年と真紅は、向かい合って、どちらからともなく表情を和らげた。</p> <p><br> 「槐さん……本当に、ご無沙汰していたわ」<br> 「……いや。それは僕のセリフだよ。<br>  君のお父上が失踪してから、何の連絡もせずに隠れていたことを、許して欲しい」<br> 「気にしてないと言えば嘘になるけれど、恨んでなんていないわ。本当よ。<br>  槐さんにも、よっぽどの理由があったのでしょう?」<br> 「まあ、ね。とにかく、立ち話も無粋だ。中に入ろう」</p> <p><br> <br> 槐に促され、廃墟の狭い入り口から、瓦礫の中に踏み込んだ。<br> 崩落した家屋の間を縫って進み、瓦礫の隙間に潜り込んで、<br> やっと地下へと続く隠し階段に着いた。<br> だが、階段を下りても、今度は幾重にも連なる鉄扉が待ちかまえていた。</p> <p><br> 「兎の砦と言うより、まるで、兎の巣穴だわ。<br>  案内がなければ、とっくに迷っているわよ」</p> <p>真紅の半ば呆れたような感声に、槐の含み笑いが続いた。</p> <p><br> 「そうでなければ、隠れ家とは呼べないよ」<br> 「……まあね。でも、ただ隠れ住むだけの場所にしては、大袈裟すぎないかしら?」<br> 「工房も兼ねているからね。研究設備も、あらかた整えた。<br>  僕は今でも、次世代のエネルギー源を開発するため……RM計画を継続しているんだ」<br> 「お父様と貴方が主任となって、進めていた極秘プロジェクトね」</p> <p><br> 槐は歩きながら、真紅の質問に、無言で頷く。</p> <p><br> 「45年初頭、我が師ローゼンは、ローザミスティカという物質の精錬に成功した。<br>  僕は師と共にRM動力機関のプロトタイプを設計し、作り上げたんだ。<br>  君らが乗ってきたティーガーⅢの動力が、正しくそれだよ」<br> 「私には『電力を増幅して、より大きな動力を得ている』くらいしか、解らないわ」<br> 「それで充分さ。道具を扱う度に、その原理を考える者など居ないだろう?」</p> <p><br> 言って、槐はとある重厚な鉄扉を開き「入りたまえ」と、真紅を促した。</p> <p><br> 彼女が招き入れられた部屋は、どうやら槐の執務室らしかった。<br> 膨大な資料や、試作の器具みたいな物で溢れ、服などの生活品が殆ど見当たらなかったからだ。<br> 彼は、申し訳程度に置かれた小さなソファを、真紅に勧めた。<br> こくんと頷いた彼女が腰を降ろすのを見届けて、槐が口を開いた。</p> <p><br> 「君がここを訪れた理由は、師ローゼンの行方を、僕が知っていると思ったからだろう?」<br> 「……ええ。貴方は、お父様の共同研究者だもの。<br>  なにか、本当に些細なことでも構わないから、教えてちょうだい。<br>  お父様は、ローザミスティカの精錬成功の直後、失踪したわ。それは、何故?<br>  人類の未来を支えるだろう功績を、独り占めしたかったから?」</p> <p>そう訊ねたものの、真紅は、父がそんな下賤な男だとは思っていなかった。<br> きっと、何か考えがあって、RM計画の成果を持ち去ったのだ。<br> でも――――何のために、全人類に宣戦を布告したのかが解らない。</p> <p><br> <br>   なぜ? 何故? ナゼ?</p> <p><br> <br> 真紅は表情を強張らせて、食い入るように槐を見つめた。<br> 対して、槐は「君の期待に応えられるか分からないが――」と、前置くと、<br> 執務机の椅子に、深々と身を沈めた。</p> <p><br> <br> 「率直に言うと、師ローゼンの失踪については、僕も詳細を知らない。<br>  ただ、RM計画と対をなすLM計画が、少なからず影響していたとは思う。<br>  なぜなら、LM計画の主任、コリンヌ=フォッセー博士も、師と同時期に姿を消したのだからね」</p> <p><br> コリンヌ=フォッセーという学者の名には、漠然とだが、聞き覚えがあった。<br> 確か、フランス人女性で、生物学だかの権威だったような……くらいのレベルだが。<br> しかし、LM計画については、全くの初耳だった。<br> RMとLM――Recht(右)に対するLink(左)の頭文字を当てたのだろうか。</p> <p><br> 真紅は固唾を呑みこむと、膝を乗り出して、槐の言葉に耳を傾けた。<br> どんなに些細な事柄でもいい。失踪した父の手懸かりが、どうしても欲しかった。</p> <p><br> もう一度、差し向かいで話し合うためにも。<br>  <br>  </p>

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