「1947.4.19」の編集履歴(バックアップ)一覧はこちら
「1947.4.19」(2007/08/21 (火) 01:15:07) の最新版変更点
追加された行は緑色になります。
削除された行は赤色になります。
<p> <br>
</p>
<p> 1947.4.19<br>
オルシュティン</p>
<p> <br>
</p>
<p>もしかしたら、彼――槐は父の消息を知っているかもしれない。<br>
そう思うと、真紅は気もそぞろで、矢も楯もたまらなくなった。<br>
車長席に座って、ペリスコープを覗いている間も、<br>
忙しなく揺すられる爪先が止まることはない。<br>
無意識の内に、彼女の焦燥が、動作となって表れているのだった。</p>
<p>当初の行軍予定は、想定外の事態により、かなりの遅れをきたしている。<br>
本来ならば、脇目もふらず、ワルシャワを目指さなければならないところだ。</p>
<p>なのだが……。</p>
<p>「どぉしたの、真紅ぅ?」<br>
「ひあっ?!」</p>
<p>物思いに耽っていたところへ、思いがけず間近で水銀燈に話しかけられて、<br>
真紅は珍妙な声を出した挙げ句、危うく車長席からズリ落ちそうになった。<br>
車内に、娘たちの陽気な笑い声が広がる。<br>
赤面した真紅も、気恥ずかしさを誤魔化すように、口元を引きつらせた。</p>
<p><br>
<br>
ひと頻り笑いの輪が広がった後で、やはり、水銀燈が真っ先に口を開いた。</p>
<p>「真紅ぅ……貴女、槐って人のところへ行きたいんでしょぉ?<br>
隠したってダメよぉ。おばかさんの考えなんか、全てお見通しなんだからぁ」 <br>
「水くさいよ、真紅。ボク達は一蓮托生。みんな、キミの意志を尊重するつもりさ」<br>
<br>
車内無線を通じて、三人のやりとりを聞いていた金糸雀と翠星石の声が、<br>
真紅の耳に届く。</p>
<p>「そのとおりよ、真紅。カナ達に気遣いなんて無用かしら」<br>
「どーせ遅刻ついでです。数時間くらい寄り道したって変わりねぇですよ」<br>
「貴女たち……」</p>
<p><br>
気持ちは嬉しい。それはもう、涙が出そうなほどに。<br>
だが、それらの発言は、若い娘にありがちな認識の甘さに溢れていた。<br>
根っからの職業軍人ではないどころか、訓練すらロクに受けていない彼女たちが、<br>
軍規の厳しさなど知っていよう筈がない。<br>
真紅ですら、父が軍事機密に関わっていたと言うだけで、元は普通の女の子だ。<br>
戦える者が不足していたこと――<br>
そして、父の置き土産であるティーガーⅢを人手に渡すことを頑なに拒んだ結果が、<br>
軍属に身を窶した理由だ。決して、好きで戦場に来た訳ではなかった。</p>
<p>実のところ、仲間の娘たちも同じ心境だった。本当は怖い。戦いなんて、もうたくさん。<br>
死と隣り合わせの毎日に神経をすり減らして、燃えカスのように死んでいきたくはない。</p>
<p>さりとて、傍若無人な自動人形どもに嬲り殺されることは、乙女の潔癖さが許さなかった。<br>
<br>
屈辱の烙印を押されるくらいなら、力尽きるまで戦って、闘って……<br>
百万の敵を斃してでも、きっと生き延びてやる。<br>
それが、人生を切り開くということだと、彼女たちは信じていた。</p>
<p><br>
<br>
全ては、幸せを受け入れるための準備……。<br>
たとえ今日がどれほど酷い日でも、明日は夢みるような幸福が舞い込むかも知れない。<br>
だからこそ、泣き言を並べ立てる暇があるなら、生き延びる努力をすべきだった。<br>
死んでしまったら、甘い果実を味わうことも出来ないのだから。</p>
<p><br>
けれど、世の中というものは、少女たちが考える以上に複雑で――<br>
敵は自動人形ばかりでなく、味方であるはずの人間たちの中にも紛れ込んでいた。</p>
<p>「貴女たちの気持ちは、ありがたいわ。だけど……軍規を乱すなんてダメ。<br>
軍属である以上、身勝手な行動は許されないのよ」</p>
<p>かつては敵対していた者たちが、利害の一致で結びついた、寄せ集め――<br>
それが、彼女たちが属する、ドイツ国防軍という名前のみの敗残軍だった。<br>
しかし、形骸化したとは言え、軍隊の体面を保つために規律は定められているし、<br>
軍法の番人として憲兵だっている。<br>
正統な理由のない遅延は、利敵行為と見なされ、処断されかねないのだ。<br>
敵の手にかかるにせよ、味方の手で裁かれるにせよ、<br>
かけがえのない仲間に危害が及ぶことは、真紅にとっては耐え難い苦痛だった。</p>
<p>「まずは、次の作戦に専念しましょう。<br>
ワルシャワでの戦闘に勝って、正当な許可を得て、引き返してくればいいわ」</p>
<p><br>
真紅は、これで良いのだと胸裡で自分に言い聞かせて、決然と顔を上げた。<br>
防衛線を固めること、勝利することこそが、最優先事項なのだから。</p>
<p><br>
<br>
車内に漂う、不完全燃焼のような空気――<br>
真紅を除く誰もが、釈然としない面持ちだった。<br>
彼女はそれを無視して、双眼鏡を手に、前方を見据える。<br>
だが、30秒と経たない内に――</p>
<p>「ばっかじゃないのぉ?」</p>
<p><br>
}やおら足元で発せられた嘲りに、真紅が目元から、双眼鏡を離す。<br>
声の主は、紅い瞳に鋭い光を宿して、真紅の胸元に掴みかかった。<br>
そして、力任せに車長席から引きずり降ろし、ぐいと顔を近付けてきた。</p>
<p>「物わかりのいいフリしてんじゃないわよぉ。未練たらたらのクセに。<br>
なぁに? 私たちに、この戦車は任せられないとでも言うのぉ?<br>
随分と、バカにしてくれるわねぇ」</p>
<p>水銀燈の口調は、あくまで氷のように冷静で、波風ひとつ無いように思える。<br>
けれど、その場に居合わせた蒼星石は、彼女の激しい怒気を、ひしひしと感じていた。<br>
気丈な真紅でさえ、水銀燈の剣幕に気圧されて、返す言葉を喉元に詰まらせている。</p>
<p>反論しないことが余計に苛立ちを募らせるのか、水銀燈の憤りは衰えなかった。<br>
まるで火に油を注がれたように、押し殺した低い声で、捲し立てた。</p>
<p><br>
「なによ! 真紅なんか居なくたって、私たちは戦えるんだから。 <br>
この戦車を動かして、敵を見付けて、大砲を撃って、どんな敵でも粉砕してみせるわ。<br>
貴女みたいに、うじうじと悩んでる人に指揮される方が、よっぽど迷惑よ!」<br>
「……ご、ごめんなさい」</p>
<p><br>
珍しく、おろおろと謝る真紅の瞳を、水銀燈は蔑みの眼で睨み続けた。<br>
そして彼女は、突き飛ばすように、真紅の胸倉を手放した。<br>
蹌踉めいて、蒼星石に背中を支えられた真紅の鼻先に、水銀燈の指が突き付けられる。</p>
<p><br>
「真紅ぅ……貴女は、もう用済みよぉ。車長は、蒼星石に任せるからぁ」<br>
「で、でも――」<br>
「つべこべ言わずに、戦車を降りなさい! 邪魔なのよ!」</p>
<p><br>
解ったわね。と念押しした水銀燈は、それっきり、真紅には目もくれなかった。<br>
キューポラに上がるとハッチを開いて、身を乗り出し、誰かと話をしていた。<br>
漏れ聞こえる言葉の端々を繋いでゆくと、あのベジータという青年に、<br>
戦車兵の経験がある者の有無を訊ねているらしい。</p>
<p><br>
<br>
(ごめんなさい、みんな。そして…………ありがとう、水銀燈)</p>
<p><br>
彼女は、不甲斐ない私の背を押して、送り出そうとしてくれている――<br>
やり方こそ乱暴だけれど、誰も水銀燈の言い分に反駁しなかったのが、その証だ。<br>
仲間たちの想いを痛いほど感じて、真紅は胸の内で、そっと感謝した。<br>
<br>
<br>
<br>
――∞――∞――∞――∞――</p>
<p><br>
1947.4.19</p>
<p><br>
みんな――<br>
ありがとう。私のワガママを、許してくれて。<br>
今夜のこと、私は生涯、忘れないわ。<br>
きっと……きっと……貴女たちに、恩返しするから。</p>
<p><br>
<br>
だから、絶対に生き延びてね。<br>
そして、追いついた私を、笑顔で迎えてちょうだい。</p>
<p><br>
……お願いよ。</p>
<p><br>
――∞――∞――∞――∞――</p>
<p> <br>
<br>
<br>
ティーガーⅢのシルエットが遠ざかり、闇に溶け込んでいく。<br>
真紅は道の中央に立って、道中の無事を祈りながら見送っていた。<br>
彼女の隣に佇んでいるのは、桜田ジュン。</p>
<p><br>
当初、水銀燈は彼を“整備士”兼“装填手”として引き込むつもりだった。<br>
けれど、見習いとはいえ技術者であるジュンは、槐の工房ですべき事がある。<br>
それ故に、武器の扱いに長け、筋力もあるベジータが抜擢されたのだ。<br>
残りのパルチザンのメンバーは、ここオルシュティンの“兎の砦”で、<br>
槐の指揮下に入ることになっていた。</p>
<p><br>
<br>
「……真紅」</p>
<p><br>
呼ぶ声は、月明かりのように柔らかく、どこか儚げだった。<br>
彼女に掛けられた声は、ジュンとは別の人物が発したものだ。<br>
真紅とジュンは、ほぼ同時に振り返っていた。</p>
<p>廃墟の片隅を占めていた闇から進み出てくる、金髪の青年。<br>
その後ろには、彼の背後を守るようにして、若い娘が一人、付き従っている。<br>
彼女の左眼を飾る紫の眼帯が、夜の中でもヤケに異彩を放っていた。</p>
<p><br>
「“兎の砦”に、ようこそ。よく来てくれたね、真紅。<br>
それに、桜田くんも……無事に戻ってこられて何よりだ」<br>
「先生こそ、元気そうで良かった。薔薇水晶も、変わりなさそうだな。<br>
あ……依頼の品は、なんとか揃えてきました。ケッテンクラートに積んであります」<br>
「ご苦労だったね。詳細な報告は、あとで聞かせてもらうよ。<br>
さあ、君を待っている人の所に行って、元気な顔を見せてくると良い。<br>
薔薇水晶、他の方たちを、地下壕に案内しておいてくれ」<br>
「はい……お父さま」</p>
<p><br>
ジュンと薔薇水晶は軽く会釈すると、思い思いの方角に立ち去った。<br>
残された金髪の青年と真紅は、向かい合って、どちらからともなく表情を和らげた。</p>
<p><br>
「槐さん……本当に、ご無沙汰していたわ」<br>
「……いや。それは僕のセリフだよ。<br>
君のお父上が失踪してから、何の連絡もせずに隠れていたことを、許して欲しい」<br>
「気にしてないと言えば嘘になるけれど、恨んでなんていないわ。本当よ。<br>
槐さんにも、よっぽどの理由があったのでしょう?」<br>
「まあ、ね。とにかく、立ち話も無粋だ。中に入ろう」</p>
<p><br>
<br>
槐に促され、廃墟の狭い入り口から、瓦礫の中に踏み込んだ。<br>
崩落した家屋の間を縫って進み、瓦礫の隙間に潜り込んで、<br>
やっと地下へと続く隠し階段に着いた。<br>
だが、階段を下りても、今度は幾重にも連なる鉄扉が待ちかまえていた。</p>
<p><br>
「兎の砦と言うより、まるで、兎の巣穴だわ。<br>
案内がなければ、とっくに迷っているわよ」</p>
<p>真紅の半ば呆れたような感声に、槐の含み笑いが続いた。</p>
<p><br>
「そうでなければ、隠れ家とは呼べないよ」<br>
「……まあね。でも、ただ隠れ住むだけの場所にしては、大袈裟すぎないかしら?」<br>
「工房も兼ねているからね。研究設備も、あらかた整えた。<br>
僕は今でも、次世代のエネルギー源を開発するため……RM計画を継続しているんだ」<br>
「お父様と貴方が主任となって、進めていた極秘プロジェクトね」</p>
<p><br>
槐は歩きながら、真紅の質問に、無言で頷く。</p>
<p><br>
「45年初頭、我が師ローゼンは、ローザミスティカという物質の精錬に成功した。<br>
僕は師と共にRM動力機関のプロトタイプを設計し、作り上げたんだ。<br>
君らが乗ってきたティーガーⅢの動力が、正しくそれだよ」<br>
「私には『電力を増幅して、より大きな動力を得ている』くらいしか、解らないわ」<br>
「それで充分さ。道具を扱う度に、その原理を考える者など居ないだろう?」</p>
<p><br>
言って、槐はとある重厚な鉄扉を開き「入りたまえ」と、真紅を促した。</p>
<p><br>
彼女が招き入れられた部屋は、どうやら槐の執務室らしかった。<br>
膨大な資料や、試作の器具みたいな物で溢れ、服などの生活品が殆ど見当たらなかったからだ。<br>
彼は、申し訳程度に置かれた小さなソファを、真紅に勧めた。<br>
こくんと頷いた彼女が腰を降ろすのを見届けて、槐が口を開いた。</p>
<p><br>
「君がここを訪れた理由は、師ローゼンの行方を、僕が知っていると思ったからだろう?」<br>
「……ええ。貴方は、お父様の共同研究者だもの。<br>
なにか、本当に些細なことでも構わないから、教えてちょうだい。<br>
お父様は、ローザミスティカの精錬成功の直後、失踪したわ。それは、何故?<br>
人類の未来を支えるだろう功績を、独り占めしたかったから?」</p>
<p>そう訊ねたものの、真紅は、父がそんな下賤な男だとは思っていなかった。<br>
きっと、何か考えがあって、RM計画の成果を持ち去ったのだ。<br>
でも――――何のために、全人類に宣戦を布告したのかが解らない。</p>
<p><br>
<br>
なぜ? 何故? ナゼ?</p>
<p><br>
<br>
真紅は表情を強張らせて、食い入るように槐を見つめた。<br>
対して、槐は「君の期待に応えられるか分からないが――」と、前置くと、<br>
執務机の椅子に、深々と身を沈めた。</p>
<p><br>
<br>
「率直に言うと、師ローゼンの失踪については、僕も詳細を知らない。<br>
ただ、RM計画と対をなすLM計画が、少なからず影響していたとは思う。<br>
なぜなら、LM計画の主任、コリンヌ=フォッセー博士も、師と同時期に姿を消したのだからね」</p>
<p><br>
コリンヌ=フォッセーという学者の名には、漠然とだが、聞き覚えがあった。<br>
確か、フランス人女性で、生物学だかの権威だったような……くらいのレベルだが。<br>
しかし、LM計画については、全くの初耳だった。<br>
RMとLM――Recht(右)に対するLink(左)の頭文字を当てたのだろうか。</p>
<p><br>
真紅は固唾を呑みこむと、膝を乗り出して、槐の言葉に耳を傾けた。<br>
どんなに些細な事柄でもいい。失踪した父の手懸かりが、どうしても欲しかった。</p>
<p><br>
もう一度、差し向かいで話し合うためにも。<br>
<br>
</p>
<p> <br>
</p>
<p> 1947.4.19<br>
オルシュティン</p>
<p> <br>
</p>
<p>もしかしたら、彼――槐は父の消息を知っているかもしれない。<br>
そう思うと、真紅は気もそぞろで、矢も楯もたまらなくなった。<br>
車長席に座って、ペリスコープを覗いている間も、<br>
忙しなく揺すられる爪先が止まることはない。<br>
無意識の内に、彼女の焦燥が、動作となって表れているのだった。</p>
<p>当初の行軍予定は、想定外の事態により、かなりの遅れをきたしている。<br>
本来ならば、脇目もふらず、ワルシャワを目指さなければならないところだ。</p>
<p>なのだが……。</p>
<p>「どぉしたの、真紅ぅ?」<br>
「ひあっ?!」</p>
<p>物思いに耽っていたところへ、思いがけず間近で水銀燈に話しかけられて、<br>
真紅は珍妙な声を出した挙げ句、危うく車長席からズリ落ちそうになった。<br>
車内に、娘たちの陽気な笑い声が広がる。<br>
赤面した真紅も、気恥ずかしさを誤魔化すように、口元を引きつらせた。</p>
<p><br>
<br>
ひと頻り笑いの輪が広がった後で、やはり、水銀燈が真っ先に口を開いた。</p>
<p>「真紅ぅ……貴女、槐って人のところへ行きたいんでしょぉ?<br>
隠したってダメよぉ。おばかさんの考えなんか、全てお見通しなんだからぁ」 <br>
「水くさいよ、真紅。ボク達は一蓮托生。みんな、キミの意志を尊重するつもりさ」<br>
<br>
車内無線を通じて、三人のやりとりを聞いていた金糸雀と翠星石の声が、<br>
真紅の耳に届く。</p>
<p>「そのとおりよ、真紅。カナ達に気遣いなんて無用かしら」<br>
「どーせ遅刻ついでです。数時間くらい寄り道したって変わりねぇですよ」<br>
「貴女たち……」</p>
<p><br>
気持ちは嬉しい。それはもう、涙が出そうなほどに。<br>
だが、それらの発言は、若い娘にありがちな認識の甘さに溢れていた。<br>
根っからの職業軍人ではないどころか、訓練すらロクに受けていない彼女たちが、<br>
軍規の厳しさなど知っていよう筈がない。<br>
真紅ですら、父が軍事機密に関わっていたと言うだけで、元は普通の女の子だ。<br>
戦える者が不足していたこと――<br>
そして、父の置き土産であるティーガーⅢを人手に渡すことを頑なに拒んだ結果が、<br>
軍属に身を窶した理由だ。決して、好きで戦場に来た訳ではなかった。</p>
<p> <br>
実のところ、仲間の娘たちも同じ心境だった。本当は怖い。戦いなんて、もうたくさん。<br>
死と隣り合わせの毎日に神経をすり減らして、燃えカスのように死んでいきたくはない。</p>
<p> <br>
さりとて、傍若無人な自動人形どもに嬲り殺されることは、乙女の潔癖さが許さなかった。<br>
屈辱の烙印を押されるくらいなら、力尽きるまで戦って、闘って……<br>
百万の敵を斃してでも、きっと生き延びてやる。<br>
それが、人生を切り開くということだと、彼女たちは信じていた。</p>
<p><br>
<br>
全ては、幸せを受け入れるための準備……。<br>
たとえ今日がどれほど酷い日でも、明日は夢みるような幸福が舞い込むかも知れない。<br>
だからこそ、泣き言を並べ立てる暇があるなら、生き延びる努力をすべきだった。<br>
死んでしまったら、甘い果実を味わうことも出来ないのだから。</p>
<p><br>
けれど、世の中というものは、少女たちが考える以上に複雑で――<br>
敵は自動人形ばかりでなく、味方であるはずの人間たちの中にも紛れ込んでいた。</p>
<p> <br>
「貴女たちの気持ちは、ありがたいわ。だけど……軍規を乱すなんてダメ。<br>
軍属である以上、身勝手な行動は許されないのよ」</p>
<p> <br>
かつては敵対していた者たちが、利害の一致で結びついた、寄せ集め――<br>
それが、彼女たちが属する、ドイツ国防軍という名前のみの敗残軍だった。<br>
しかし、形骸化したとは言え、軍隊の体面を保つために規律は定められているし、<br>
軍法の番人として憲兵だっている。<br>
正統な理由のない遅延は、利敵行為と見なされ、処断されかねないのだ。<br>
敵の手にかかるにせよ、味方の手で裁かれるにせよ、<br>
かけがえのない仲間に危害が及ぶことは、真紅にとっては耐え難い苦痛だった。</p>
<p> <br>
「まずは、次の作戦に専念しましょう。<br>
ワルシャワでの戦闘に勝って、正当な許可を得て、引き返してくればいいわ」</p>
<p> <br>
真紅は、これで良いのだと胸裡で自分に言い聞かせて、決然と顔を上げた。<br>
防衛線を固めること、勝利することこそが、最優先事項なのだから。</p>
<p><br>
<br>
車内に漂う、不完全燃焼のような空気――<br>
真紅を除く誰もが、釈然としない面持ちだった。<br>
彼女はそれを無視して、双眼鏡を手に、前方を見据える。<br>
だが、30秒と経たない内に――</p>
<p> <br>
「ばっかじゃないのぉ?」</p>
<p> <br>
やおら足元で発せられた嘲りに、真紅が目元から、双眼鏡を離す。<br>
声の主は、紅い瞳に鋭い光を宿して、真紅の胸元に掴みかかった。<br>
そして、力任せに車長席から引きずり降ろし、ぐいと顔を近づけてきた。</p>
<p> <br>
「物わかりのいいフリしてんじゃないわよぉ。未練たらたらのクセに。<br>
なぁに? 私たちに、この戦車は任せられないとでも言うのぉ?<br>
随分と、バカにしてくれるわねぇ」</p>
<p> <br>
水銀燈の口調は、あくまで氷のように冷静で、波風ひとつ無いように思える。<br>
けれど、その場に居合わせた蒼星石は、彼女の激しい怒気を、ひしひしと感じていた。<br>
気丈な真紅でさえ、水銀燈の剣幕に気圧されて、返す言葉を喉元に詰まらせている。</p>
<p>反論しないことが余計に苛立ちを募らせるのか、水銀燈の憤りは衰えなかった。<br>
まるで火に油を注がれたように、押し殺した低い声で、捲し立てた。</p>
<p><br>
「なによ! 真紅なんか居なくたって、私たちは戦えるんだから。 <br>
この戦車を動かして、敵を見付けて、大砲を撃って、どんな敵でも粉砕してみせるわ。<br>
貴女みたいに、うじうじと悩んでる人に指揮される方が、よっぽど迷惑よ!」<br>
「……ご、ごめんなさい」</p>
<p><br>
珍しく、おろおろと謝る真紅の瞳を、水銀燈は蔑みの眼で睨み続けた。<br>
そして彼女は、突き飛ばすように、真紅の胸倉を手放した。<br>
蹌踉めいて、蒼星石に背中を支えられた真紅の鼻先に、水銀燈の指が突き付けられる。</p>
<p><br>
「真紅ぅ……貴女は、もう用済みよぉ。車長は、蒼星石に任せるからぁ」<br>
「で、でも――」<br>
「つべこべ言わずに、戦車を降りなさい! 邪魔なのよ!」</p>
<p><br>
解ったわね。と念押しした水銀燈は、それっきり、真紅には目もくれなかった。<br>
キューポラに上がるとハッチを開いて、身を乗り出し、誰かと話をしていた。<br>
漏れ聞こえる言葉の端々を繋いでゆくと、あのベジータという青年に、<br>
戦車兵の経験がある者の有無を訊ねているらしい。</p>
<p><br>
<br>
(ごめんなさい、みんな。そして…………ありがとう、水銀燈)</p>
<p><br>
彼女は、不甲斐ない私の背を押して、送り出そうとしてくれている――<br>
やり方こそ乱暴だけれど、誰も水銀燈の言い分に反駁しなかったのが、その証だ。<br>
仲間たちの想いを痛いほど感じて、真紅は胸の内で、そっと感謝した。<br>
<br>
<br>
<br>
――∞――∞――∞――∞――</p>
<p><br>
1947.4.19</p>
<p><br>
みんな――<br>
ありがとう。私のワガママを、許してくれて。<br>
今夜のこと、私は生涯、忘れないわ。<br>
きっと……きっと……貴女たちに、恩返しするから。</p>
<p><br>
<br>
だから、絶対に生き延びてね。<br>
そして、追いついた私を、笑顔で迎えてちょうだい。</p>
<p><br>
……お願いよ。</p>
<p><br>
――∞――∞――∞――∞――</p>
<p> <br>
<br>
<br>
ティーガーⅢのシルエットが遠ざかり、闇に溶け込んでいく。<br>
真紅は道の中央に立って、道中の無事を祈りながら見送っていた。<br>
彼女の隣に佇んでいるのは、桜田ジュン。</p>
<p><br>
当初、水銀燈は彼を“整備士”兼“装填手”として引き込むつもりだった。<br>
けれど、見習いとはいえ技術者であるジュンは、槐の工房ですべき事がある。<br>
それ故に、武器の扱いに長け、筋力もあるベジータが抜擢されたのだ。<br>
残りのパルチザンのメンバーは、ここオルシュティンの“兎の砦”で、<br>
槐の指揮下に入ることになっていた。</p>
<p><br>
<br>
「……真紅」</p>
<p><br>
呼ぶ声は、月明かりのように柔らかく、どこか儚げだった。<br>
彼女に掛けられた声は、ジュンとは別の人物が発したものだ。<br>
真紅とジュンは、ほぼ同時に振り返っていた。</p>
<p>廃墟の片隅を占めていた闇から進み出てくる、金髪の青年。<br>
その後ろには、彼の背後を守るようにして、若い娘が一人、付き従っている。<br>
彼女の左眼を飾る紫の眼帯が、夜の中でもヤケに異彩を放っていた。</p>
<p><br>
「“兎の砦”に、ようこそ。よく来てくれたね、真紅。<br>
それに、桜田くんも……無事に戻ってこられて何よりだ」<br>
「先生こそ、元気そうで良かった。薔薇水晶も、変わりなさそうだな。<br>
あ……依頼の品は、なんとか揃えてきました。ケッテンクラートに積んであります」<br>
「ご苦労だったね。詳細な報告は、あとで聞かせてもらうよ。<br>
さあ、君を待っている人の所に行って、元気な顔を見せてくると良い。<br>
薔薇水晶、他の方たちを、地下壕に案内しておいてくれ」<br>
「はい……お父さま」</p>
<p><br>
ジュンと薔薇水晶は軽く会釈すると、思い思いの方角に立ち去った。<br>
残された金髪の青年と真紅は、向かい合って、どちらからともなく表情を和らげた。</p>
<p><br>
「槐さん……本当に、ご無沙汰していたわ」<br>
「……いや。それは僕のセリフだよ。<br>
君のお父上が失踪してから、何の連絡もせずに隠れていたことを、許して欲しい」<br>
「気にしてないと言えば嘘になるけれど、恨んでなんていないわ。本当よ。<br>
槐さんにも、よっぽどの理由があったのでしょう?」<br>
「まあ、ね。とにかく、立ち話も無粋だ。中に入ろう」</p>
<p><br>
<br>
槐に促され、廃墟の狭い入り口から、瓦礫の中に踏み込んだ。<br>
崩落した家屋の間を縫って進み、瓦礫の隙間に潜り込んで、<br>
やっと地下へと続く隠し階段に着いた。<br>
だが、階段を下りても、今度は幾重にも連なる鉄扉が待ちかまえていた。</p>
<p><br>
「兎の砦と言うより、まるで、兎の巣穴だわ。<br>
案内がなければ、とっくに迷っているわよ」</p>
<p>真紅の半ば呆れたような感声に、槐の含み笑いが続いた。</p>
<p><br>
「そうでなければ、隠れ家とは呼べないよ」<br>
「……まあね。でも、ただ隠れ住むだけの場所にしては、大袈裟すぎないかしら?」<br>
「工房も兼ねているからね。研究設備も、あらかた整えた。<br>
僕は今でも、次世代のエネルギー源を開発するため……RM計画を継続しているんだ」<br>
「お父様と貴方が主任となって、進めていた極秘プロジェクトね」</p>
<p><br>
槐は歩きながら、真紅の質問に、無言で頷く。</p>
<p><br>
「45年初頭、我が師ローゼンは、ローザミスティカという物質の精錬に成功した。<br>
僕は師と共にRM動力機関のプロトタイプを設計し、作り上げたんだ。<br>
君らが乗ってきたティーガーⅢの動力が、正しくそれだよ」<br>
「私には『電力を増幅して、より大きな動力を得ている』くらいしか、解らないわ」<br>
「それで充分さ。道具を扱う度に、その原理を考える者など居ないだろう?」</p>
<p><br>
言って、槐はとある重厚な鉄扉を開き「入りたまえ」と、真紅を促した。</p>
<p><br>
彼女が招き入れられた部屋は、どうやら槐の執務室らしかった。<br>
膨大な資料や、試作の器具みたいな物で溢れ、服などの生活品が殆ど見当たらなかったからだ。<br>
彼は、申し訳程度に置かれた小さなソファを、真紅に勧めた。<br>
こくんと頷いた彼女が腰を降ろすのを見届けて、槐が口を開いた。</p>
<p><br>
「君がここを訪れた理由は、師ローゼンの行方を、僕が知っていると思ったからだろう?」<br>
「……ええ。貴方は、お父様の共同研究者だもの。<br>
なにか、本当に些細なことでも構わないから、教えてちょうだい。<br>
お父様は、ローザミスティカの精錬成功の直後、失踪したわ。それは、何故?<br>
人類の未来を支えるだろう功績を、独り占めしたかったから?」</p>
<p>そう訊ねたものの、真紅は、父がそんな下賤な男だとは思っていなかった。<br>
きっと、何か考えがあって、RM計画の成果を持ち去ったのだ。<br>
でも――――何のために、全人類に宣戦を布告したのかが解らない。</p>
<p><br>
<br>
なぜ? 何故? ナゼ?</p>
<p><br>
<br>
真紅は表情を強張らせて、食い入るように槐を見つめた。<br>
対して、槐は「君の期待に応えられるか分からないが――」と、前置くと、<br>
執務机の椅子に、深々と身を沈めた。</p>
<p><br>
<br>
「率直に言うと、師ローゼンの失踪については、僕も詳細を知らない。<br>
ただ、RM計画と対をなすLM計画が、少なからず影響していたとは思う。<br>
なぜなら、LM計画の主任、コリンヌ=フォッセー博士も、師と同時期に姿を消したのだからね」</p>
<p><br>
コリンヌ=フォッセーという学者の名には、漠然とだが、聞き覚えがあった。<br>
確か、フランス人女性で、生物学だかの権威だったような……くらいのレベルだが。<br>
しかし、LM計画については、全くの初耳だった。<br>
RMとLM――Recht(右)に対するLink(左)の頭文字を当てたのだろうか。</p>
<p><br>
真紅は固唾を呑みこむと、膝を乗り出して、槐の言葉に耳を傾けた。<br>
どんなに些細な事柄でもいい。失踪した父の手懸かりが、どうしても欲しかった。</p>
<p><br>
もう一度、差し向かいで話し合うためにも。<br>
<br>
</p>