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「第九話 『キヲク』」(2008/05/16 (金) 00:20:54) の最新版変更点
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――明けて、1933年。<br />
1月の冷えた空気は、音をよく響かせる。広い室内に、四つの音が余韻を引いた。<br />
悲痛な声は短く、物の砕ける音は長く――<br />
柱時計の振り子と、ミストラルと呼ばれる季節風に揺れる窓の音が、それらを包み込む。</p>
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雪華綺晶が、己が主である少女の部屋を、掃除しているときのコトだった。<br />
いつものように、サロンから聞こえるピアノの旋律に聴き入るあまり、つい――</p>
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「あぁ……どうしましょう……」</p>
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コリンヌが大切にしている人形を清掃中、うっかり、床に落としてしまったのだ。<br />
18世紀ごろの著名な錬金術師の手によるモノらしく、その造形は精巧の極致。<br />
眩い銀色の髪に、寂しげな目元、なめらかな光沢を放つ肌の質感……そして、黒い翼。<br />
逆十字をあしらった黒いドレスと相俟って、なんともデカダンな美しさを醸している。<br />
無垢な幼女のようで、完熟した妖女にも見える面差しは、畏怖の念すら抱かせた。</p>
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だが、いま床に投げ出された人形の身体は、有り得ないカタチに折れ曲がっている。<br />
落下の衝撃で、ビスク製の胴体部分が、割れてしまったようだ。<br />
雪華綺晶が、震える手で人形の上半身を持ち上げると、がしゃり――<br />
パーツを繋いでいたゴム紐が切れて、腰から下が、細かい破片と共に床へと抜け落ちた。</p>
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本当に、どうしたらいいのか。とても素人の手に負える代物ではない。<br />
兎にも角にも、修理なんて証拠隠滅の手段を考えるより先に、コリンヌに謝らなければ。<br />
壊してしまった人形を胸に抱いて、雪華綺晶は重い脚を引きずり、サロンを訪れた。</p>
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「まあ!」ひたすら平謝りする雪華綺晶の手から、人形を奪い取ったコリンヌは、<br />
目に涙を溜めて、唇を震わせた。「そんな……二葉さんに戴いた、お人形が――」</p>
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第九話 『キヲク』</p>
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もし、大好きな人からプレゼントされた、大切な品を壊されてしまったら――<br />
雪華綺晶は唇をキュッと噛んで、無意識の内に、胸元のペンダントを握り締めた。</p>
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悲しいに決まっている。代わりの物が用意できようと、できまいと。<br />
たとえ修理しても、本人にとって、その価値は著しく失われてしまうのだから。<br />
見た目は元どおり。だけど、それは最早、からっぽの器……。<br />
たくさんの思い出が詰まっていた宝箱では、もうないのだ。</p>
<p> <br />
「ごめんなさい……ごめんなさい……」</p>
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人形を抱いて啜り泣くコリンヌを前に、雪華綺晶はただただ俯いて、<br />
壊れた蓄音機のように、謝罪の言葉を繰り返すことしか出来なかった。</p>
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いっそ、思いっ切り強く、頬を引っ叩いてもらえたら――<br />
百万の罵詈雑言を、コリンヌが容赦なく浴びせてくれたのなら――<br />
ある意味、まだ救われたかも知れない。完全悪として、裁かれるのであれば。</p>
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けれど、コリンヌはさめざめと泣き濡れるだけだった。<br />
一言たりとも、雪華綺晶を責めようとはしなかった。<br />
なぜ? 過ちは人の常、許すは神の業……とでも?<br />
痛罵されないことで、雪華綺晶の忸怩たる想いは胸につっかえたまま、<br />
フラストレーションを溜め込み、際限なく膨張してゆく。<br />
無言が続けば続くほど、内側から圧迫される胸の痛みも増して、雪華綺晶は苦悶に喘いだ。</p>
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かちゃり。ドアノブが回され、雛苺が不安そうな顔を覗かせたのは、<br />
いたたまれなくなった雪華綺晶が、今まさに逃げだそうとした矢先だった。</p>
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「コリンヌお嬢様……どうしたの? なにか、あったの?」</p>
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察しの良い娘だ。ピアノの演奏が不自然に止んだので、心配になったのだろう。<br />
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彼女の登場によって、浮いていた雪華綺晶の踵は、再び床を踏みしめた。<br />
逃げだす機会を逸したからではない。雛苺なら助けてくれると、思ったからだ。<br />
今の雪華綺晶は、コリンヌを宥め慰める言葉を、持っていなかった。<br />
もし持っていたとしても、それを口にすることなど出来はしなかっただろう。<br />
――でも、長く住み込みで奉公してきた雛苺ならば、或いは……。</p>
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雛苺は、ことこと靴を鳴らして、泣き崩れているコリンヌの元へと歩み寄った。<br />
そして、彼女の腕に抱かれた人形に気づくと、口元に手を当てて息を呑んだ。</p>
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「お人形さんが……壊れちゃったのね?」<br />
「ごっ、ごめんなさいっ! 私の過失で――」<br />
「……うぃ」</p>
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もはや条件反射的に謝る雪華綺晶に、雛苺は『任せて』と言わんばかりに頷くと、<br />
コリンヌの隣りに屈み込んで、彼女の背中を撫でながら囁きかけた。</p>
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「そんなに悲しまないで。お嬢様が泣いてたら、きらきーも、ヒナも、<br />
お人形さんだって、とっても哀しくなっちゃうのよ?」<br />
「雛…………苺」<br />
「それにね、このままじゃ、その子も可哀相なの。<br />
壊れたところから、大切な思い出が流れだしちゃうのよ」<br />
「……でも…………このお人形は――」<br />
「解ってるの。このビスクドールは、もう作られてないのよね?<br />
ちゃんと修理できる職人さんは、もう居ないかも知れない――って」</p>
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それは、コリンヌの誕生日にプレゼントを手渡すとき、二葉が語っていたことだ。<br />
この人形を、懇意にしているアンティークドールショップで偶然にも見つけた彼は、<br />
店主に頼み込んで譲り受けた――とのコトだった。<br />
どれだけ大枚をはたいたかは、一度として口にしなかったけれど。<br /><br />
まあ、とにかく。修復できるものなら、いくら払ってでも、元どおりにしたい。<br />
本音を滲ます眼差しのコリンヌに、雛苺は「へへー」と、自信ありげに笑いかけた。</p>
<p> <br />
「実は、ヒナねぇ~……すっごい人形師さんを知ってるのよー。<br />
その人なら、きっと直してくれるのっ。さ、ヒナにその子を預けて」</p>
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いつもなら、この軽いノリと根拠に乏しい自信に、不安をもよおしていただろう。<br />
しかし、現状では雛苺に従ってみるより他ない。<br />
コリンヌはハンカチで目元を拭うと、愛娘を託すように、そっと人形を差し出した。</p>
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~ ~ ~</p>
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鄙びた田園風景の中を、山に向かって風のように走り抜ける、一台の自転車。<br />
額に汗を滲ませながらペダルを漕ぐのは、髪をポニーテールに束ねた雪華綺晶。<br />
その後ろには、人形を納めた鞄を抱えた雛苺が座って、時折、指示を出している。</p>
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「ねえ、雛苺さん。貴女どうして、その職人さんを知っていましたの?」</p>
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雪華綺晶の、至極もっともな疑問を受けて、雛苺は照れ笑いを浮かべた。<br />
なんでも子供の時分に、やはり貴重な人形を壊してしまったことが、あったそうだ。<br />
その際に修理を依頼したのが、これから会う人物なのだと言う。</p>
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「ホントかウソか、ヒナには解らないんだけど……<br />
山奥に隠棲してるその人はね、とある秘密結社のメンバーだって噂されてるのよ」</p>
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随分とオカルトめいた話だが、あのビスクドールを修理するには、<br />
そういった分野の知識も必要かも知れない。何しろ、普通の人形ではないのだから。</p>
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流れゆく景色を、なにげなく眺めていた雪華綺晶は、ふと――<br />
「あら?」郷愁めいた感情に、胸の奥が騒ぐのを感じた。</p>
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私は、この風景をよく見ていた……そんな気がする、と。<br />
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第九話 終
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【3行予告?!】</p>
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人は悲しいぐらい忘れてゆく生き物。愛される喜びも、寂しい過去も――<br />
コリンヌお嬢様のためにも、お人形さん、綺麗に直してもらいたいのよ。<br />
……うよ? どうかしたの……きらきー?</p>
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次回、第十話 『fragile』<br />
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