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「第十六話 『出逢った頃のように』」(2008/07/03 (木) 01:33:57) の最新版変更点
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なんとしても、喉から手が出るほどに、この身体が欲しい。<br />
それも、なるべく綺麗な状態で。<br />
故に、『彼女』は、このまま喉を噛み続けて、縊る手段を選んだ。<br />
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ナイフで急所を突いたり、喉笛を斬るなんて、まったくもって問題外。<br />
手や荊で絞め殺すのも、頸に一生モノの痣が残ってしまうかもしれない。<br />
その点、ちょっとくらいの噛み傷なら、数日もすれば癒えて、目立たなくなろう。<br />
喉元なら、チョーカーなどのアクセサリで隠すことも可能だ。<br />
<br />
程なく、コリンヌが痙攣を始めた。<br />
肌に食い込ませた歯に、なにかが喉を駆け上がってゆく蠕動が伝わってくる。<br />
密着させた下腹部にも、温かい湿気が、じわり……。<br />
嘔吐と失禁――窒息から死に至る際の、典型的な兆候だった。<br />
ここまでくると酸欠で脳が麻痺するので、苦しみはもう感じず、むしろ気持ちいいのだとか。<br />
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実に上々。もうすぐ、コリンヌの息吹は永久に絶えて、理想の器が手に入る。<br />
あまりにも思惑どおりに運びすぎて、どうしても、『彼女』の頬は緩んでしまう。<br />
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「くっ……うふっ」<br />
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我慢できずに、つい噴き出してしまった、その一瞬――<br />
吐瀉物で詰まっていたコリンヌの喉が、僅かな隙間を得て、ひゅうと鳴る。<br />
そして、少女はひどく咽せながら、短く……嗄れた声を吐いた。<br />
たった一言。しかし、『彼女』たちにとっては、大きな意味を持つ名詞を。<br />
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途端、内側から胸を強打されて、『彼女』はホウセンカの実が弾けるように仰け反った。<br />
それでも、突然の動悸は止むことを知らず、『彼女』の呼吸を妨げつづけた。<br />
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第十六話 『出逢った頃のように』<br />
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息ができない。喘ぐのに必死で、涎を垂らすことさえ、羞恥と感じなかった。<br />
鬱血のためか、闇に慣れた彼女の視界が、さらに濃い黒へと収束する。<br />
それは圧倒的な重力を持つブラックホールのように、『彼女』を引きずり込んだ。<br />
どこまでも真っ黒な、原油を彷彿させる、無意識の溜まりへ――と。<br />
<br />
ふと気づくと、『彼女』は闇の淵のほとりに、ぽつんと立ち尽くしていた。<br />
ここに至って、『彼女』は初めて、底知れない怖れを抱き、震える歯を食いしばった。<br />
早く逃げなければ。そう思うのに、根を張ったみたいに、足が竦んでいる。<br />
ばかりか、いつの間にか、黒い荊が身体に絡みついて、『彼女』の動きを妨げていた。<br />
それなのに、胸裡からの殴打が、先へ……闇の淵に踏み込めと強いる。<br />
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ぷかり……。黒の水面に、小さな白い瞬きが、ひとつ。<br />
それを端緒に、幾つもの水泡が生まれては消え、その数だけ白い波紋を描きだした。<br />
『彼女』は、頬を引きつらせた。来る! あいつが来る! 全てを奪い返しに来る!<br />
絶望という盤石に押し潰されて、ココロの深淵――無意識の中に沈んだ娘が。<br />
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冗談じゃない。気合い負けを嫌うように、揺らぐ深淵を睨み、『彼女』は毒づいた。<br />
名前を呼ばれたぐらいで、性懲りもなくしゃしゃり出てくるなんて……<br />
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(ばかじゃないの! まるで犬ね。この娘のペットってわけぇ?<br />
だったら、今度から『シロ』とか『ユキ』とでも、呼んであげましょうか!)<br />
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果敢な罵詈も、怯えを滲ませていては、ただ嘲弄を誘うだけ。<br />
けれど、白の自己(ゼルブスト)は黙っていた。嗤う代わりに、スピードをあげた。<br />
『彼女』への圧迫が強まる。動悸も、より速く、激しいものへ。<br />
急激な血圧の変化が、眩暈を引き起こし、『彼女』の意識を白く染めてゆく。<br />
なにもかもが霞みゆく中で、『彼女』はココロの深淵に、闇の雫を滴らせる白い腕を見た。<br />
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そして――背中を打たれた痛みで、『彼女』が我に返った時……<br />
目の前に、白の自己が居た。『彼女』は押し倒されて、馬乗りに抑え込まれていた。<br />
完全なマウントポジション。優劣の逆転。<br />
今や、『彼女』が狩られる側となったのは、歴然にして明白だった。 <br />
<br />
……が、『彼女』の強すぎるプライドが、無様な敗北を許さない。<br />
どうせ捨てる身体の主と言えども、いや、不要なゴミと見なしていたからこそ。<br />
生意気にも刃向かい、僅かでも畏れを抱かせた存在に、温情をかけようとは思わなかった。<br />
精神までも徹底的に壊して、それで生ける屍と化しようが、知ったことではなかった。<br />
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けれど、それも所詮は強がり。土壇場での大逆転劇など、虚しい妄想にすぎない。<br />
『彼女』は承知していた。押し戻すだけの余力が、もう自分に残されていないことを。<br />
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「私は、どうなっても構いません。でも――」白の自己、雪華綺晶の意志が迸る。<br />
それは、『彼女』による支配の終焉を告げる、審判の鉄槌。「コリンヌは渡さない。私だけのものだから」<br />
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決別の言葉が振り下ろされ、雪華綺晶の右手が、『彼女』の左胸を穿った、直後。<br />
現実世界では、黒い荊の一束が、雪華綺晶の左胸を貫いて突き出していた。<br />
粘っこい血を滴らせたその先端に、弱々しく明滅する結晶――ローザミスティカを携えて。<br />
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コリンヌと、雪華綺晶。<br />
二人の間を満たす淡紅色の光によって、凄惨な光景がさらけ出される。<br />
右の眼窩から伸びる、紅い蜜を滴らせた白薔薇。裂けた腹部から這い出した、黒い荊。<br />
酸欠で朦朧としていたコリンヌも、それを目にして、完全に覚醒した様子だった。<br />
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「な……に、こ……れ?」<br />
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雪華綺晶は、問いかけた掠れ声から逃れるように、顔を背けた。<br />
それ以上の追求を、暗に拒絶したのか。あるいは、醜く変わり果てた姿を恥じたのか。<br />
緩慢な動作でベッドを降りるときも、ずっとコリンヌを見ようとしなかった。<br />
<br />
「なんなの、これ? どうして、こんなっ」<br />
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やはり、答えは返ってこない。雪華綺晶は、なおも遠ざかってゆく。<br />
普通に訊ねるだけでは、答えは返ってこない。コリンヌは一計を案じた。<br />
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「――いいわ。それなら、主人として命じます。雪華綺晶、すべてを話しなさい。<br />
貴女は、なんの理由もなく、こんなコトする娘じゃないわ。そうでしょう?」<br />
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毅然とした声に背中を叩かれて、やっと、雪華綺晶の歩が止まった。<br />
あんな恥辱を受けてなお、コリンヌは、自分を信じてくれようとしている。<br />
ならば……信用には、誠意をもって応えなければ。それが人の世の礼節と言うものだ。<br />
雪華綺晶はベッドに向きなおり、へたり……と、腰を落とした。<br />
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~ ~ ~<br />
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<br />
それから、彼女の口から、洗いざらいが告白された。<br />
二年前に、この世を去った存在であること。<br />
ローザミスティカに操られて、槐という人形師を――父を殺してしまったこと。<br />
この身体が、あと数日で朽ち果てることさえ、包み隠さずに。<br />
コリンヌは雪華綺晶の話を聞くあいだも、聞き終えても、頻りに頭を振っていた。<br />
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「信じられない……そんな話、信じられっこないわ」<br />
「でも、事実なのです。ほら。私の……この醜いさまを、ご覧になって」<br />
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その言葉は、容赦なく、惨酷な事実を突きつける。<br />
雪華綺晶を家族の一員のように想っていたコリンヌには、到底、受け入れがたい現実を。<br />
だから、彼女は顔を伏せるに留まらず、両手で目を覆って、イヤイヤをした。<br />
幼子が駄々をこねるように、ずっと。<br />
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雪華綺晶は、絶え間ない激痛に苛まれながらも、呻きひとつ漏らさずに立ち上がり……<br />
ベッドに歩み寄って、コリンヌの頭を愛おしげに抱き寄せ、艶やかな金髪に鼻を埋めた。<br />
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「叶うものなら、出逢った頃に戻りたい。私だって……いつまでも、コリンヌのそばに居たい」<br />
「じゃあ、そばに居てよ! これからも、一緒に暮らしましょう。ね?」<br />
「……できませんわ。私は、まぼろし。この身は、二年前に死んだ娘の蜃気楼。<br />
あなたは、束の間の仮寝をしていただけ。夢の中で、私と戯れていただけ。<br />
そして、悪い夢も、楽しい夢も……どんな夢も、すべからく醒めるべきものなのです。<br />
――ほら。窓の外を、ご覧になって。空が白み始めています。<br />
あなたと私の、夢の劇場も……そろそろ、幕を引く時間ですわ」<br />
「それなら、わたしは眠り続けたっていい! 貴女を失わないで済むのなら」<br />
「わがまま……ですのね」<br />
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仕方のない人。雪華綺晶は淋しげに微笑み、コリンヌの柔らかな頬に、そっと口づけた。<br />
そして、雪の結晶を模したネックレスを外して、少女の手に預けた。<br />
<br />
「ふたつだけ、私のお願いをきいてください。あなたにしか、頼めないことなの。<br />
これを……私の代わりとして。いつも、ね。片時も離さず、身に着けていて。<br />
そして、どうか、あの人と……二葉さまと、幸せになって。私の分まで、いっぱい。<br />
私が、この胸で温めていながら孵せなかったら想いを、あなたが叶えて、育ててください」<br />
「待って、雪華綺晶っ! わたし、イヤよ! こんな物いらない!」<br />
「……では、捨ててくださいな。夢のカケラなんて――」<br />
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くるり、と。コリンヌに背を向けた雪華綺晶は、足早に窓に向かい、開け放った。<br />
夜露を吸った重たい風が、部屋の中に流れ込んできて、雪華綺晶の長い髪を靡かせる。<br />
彼女は、そこでもう一度だけ、涙顔の微笑みを、コリンヌに向けた。<br />
<br />
「私を……私なんかを、お友だちと呼んでくれて……本当に、嬉しかった。<br />
あなたと出逢い、普通の女の子として過ごせた日々は、本当に、楽しくて――<br />
いつまでも、このままで……って、ずっと祈っていたのですけれど」<br />
「主人の命令よ、雪華綺晶っ! 待ちなさいっ! 戻ってきてっ!」<br />
「お別れ、です。<br />
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いつか、また、夢で逢えたのなら――<br />
もう一度、可愛がってくださいね。マスター。<br />
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――好き、でした」<br />
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少女の悲痛な叫びも、雪華綺晶を繋ぎ止める楔とは、なり得なかった。<br />
窓辺に白い影だけを残して、彼女は、朱に染まりだした世界へと身を投げ出していた。<br />
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第十六話 終<br />
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【3行予告?!】<br />
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もしも願いが叶うなら、吐息を白い薔薇に変えて――<br />
還るべき場所を思い描きながら、私は今日も、彷徨い続ける。<br />
いつか、花咲き乱れる楽園に辿り着けると淡く期待しながら、歩き続けている。<br />
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次回、幕間4 『Old Dreams』<br />
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