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『孤独の中の神の祝福』 後編」(2008/08/27 (水) 00:40:36) の最新版変更点

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     「明日は、会えないと思います。もしかしたら、明後日も」     見回りの看護士さんに咎められて、渋々と引き上げる間際、 雪華綺晶は、もらわれていく子犬みたいな、頼りない眼をして言った。   手術に何時間かかるか分からないし、早く終わったとしても、麻酔が抜けきってないはず。 明後日も、鎮痛剤とか、いろいろ投薬されてるだろうし…… ま、普通に考えても、とても歩き回れる状態じゃないわね、きっと。   だったら―― 私は景気づけに彼女の背中をバシッ! と叩いて、笑顔で送り出した。    「元気だしてよ。お見舞いには、必ず行ってあげるから」   「きっとですわよ?」と、雪華綺晶は縋るような眼差しのまま、去ってゆく。 何度も何度も、振り返り振り返り。   やがて、常夜灯だけが点る薄暗い廊下の向こうに、彼女のシルエットが消えた。 私は静寂の中に、ぽつんと立っていた。 これでまた、独りっきり。そう思った途端、大きな喪失感が、私を呑み込んだ。 火が消えたようなって表現、そのものだった。   胸が、キリキリと痛い。でも、発作じゃない。 いつからか忘れてた――忘れたフリをしていた感情が、その痛みを生んでいる。   …………寂しい。     このまま眠ることなんて、できない。気づいてしまったから。 ベッドに入っても、きっと泣いてしまう。     そう。ずっと、私は求めていたの。 この孤独で枯れそうなココロに、恵みの雨を降らせて、潤してくれる存在を。 死に憧れたのだって、その先に在るかも知れない救済を、夢みていたからだ。   結局のところ、私の中でも、天使は曖昧なイメージでしかなかった。 人でも動物でも、物でも、歌みたいな形のないモノでも…… ここから私の魂を解き放ってくれるのなら、すべてが天使になり得たんだわ。   でも、いま私の胸には、確かな天使の像が宿っている。 眼を閉ざしても、瞼の裏に、その姿を描くことができる。 だから、もう早く死にたいだなんて思わない。 独りで漠然と空を眺めることも、もうしない。      「そうだ。おやすみって言うの忘れてた」   我ながら、白々しい。会いに行きたいなら、ただ歩き出すだけでいいのに。 そんなコトにさえ、口実を求めているなんて。 ……ちょっと、素直な自分を、長いこと押し込めすぎてたみたい。     夜の病棟内は、怖いくらいに静かで、パジャマの衣擦れさえ、うるさく聞こえる。 スリッパなんか履いていられない。 私は素足になると、背を屈めて、ネコのように素早く歩き始めた。       幸い、夜勤の看護士さんたちは全員、ナースステーションに詰めていた。 お陰で、私は見咎められることなく、3階にある雪華綺晶の病室まで辿り着けた。 入り口のプレートで、室内の配置を確認――彼女のベッドは窓側の、向かって右。   それぞれのベッドは、L字型のレールに掛けられたカーテンで仕切られている。 耳をそばだてる……左右から聞こえてくるのは、規則ただしい寝息だけ。 それでも、なるべく物音を立てないよう、慎重に足を運んだ。 窓際のベッドの左からは、カーテン越しに、鼾が聞こえた。   じゃあ、右のベッドは? と言えば、これが驚くほど静かだった。 もう、眠っちゃったのかな。ついさっき別れたばかりなのに。 ひょっとして、雪華綺晶って、かなり寝付きがいい?    「きらきー、起きてる?」   囁いて、カーテンの端っこに人差し指だけ掛け、そぉ……っと開いてゆく。 息を殺し、覗き込んだ先には――   ――誰もいない。空っぽのベッドに手を差し入れても、温もりは残ってなかった。 病室は空調が効いていて、温度や湿度は一定に保たれている。 この状況で、こんな短時間に、ベッドが冷えるワケがない。   導かれる結論は、つまり、雪華綺晶は私と別れた後、ベッドに入ってないと言うこと。 じゃあ、この夜更けに、彼女はどこへ?  着替えて、病院の外のコンビニまで、こっそり買い出しに行ったとか?    「まさか、ね。あり得ないわ」   買い置きはあると言ってたし、やっぱり、病院のどこかに居るに違いない。   もしかしたら――焦りにも似たウズウズ感が、私を突き動かす。 窓に降ろされたブラインドの隙間に、ゆっくりと指を差し入れる。 そして、刑事ドラマよろしく指先で僅かにこじ開け、外の様子を窺った。    「やっぱり」   私の勘は当たっていた。 雪華綺晶は、私たちの待ち合わせ場所だった木陰に、じっと立ち尽くしていた。 月光を浴びた彼女は、夜闇の中で、仄かに白く輝いて見える。       まるで、幽霊みたい。     思った途端、雪華綺晶が顔を上げた。 まるで、私の思念に引かれたように、まっすぐ、この病室を見つめている。 夜の暗い中で、しかも僅かな隙間にもかかわらず、窓越しに眼が合った。 パッと破顔一笑した彼女は、優雅な仕種で、おいでおいでと手招きする。   私が来ることを、予期してたの? それとも、不安で眠れず、散歩してたら、偶然この状況になった?   分からない。でも、どうでもよかった。 私は雪華綺晶に会うために、わざわざ来たんだもの。 彼女が外にいるなら、私も外に行く。それだけのことよ。     ブラインドから指を引き抜いて、私は速やかに病室を後にした。       スリッパやサンダルは、病室に置いてきてしまったので、仕方なく素足のまま外に出た。 直に触れるタイルやアスファルトは、ひんやりしてて、意外に気持ちがいい。 いつもの木のところに行くと、雪華綺晶は芝生に座って、膝を抱えていた。    「こんな夜中に、なにしてるの?」   訊ねたら、「貴女こそ」と。 雪華綺晶は儚げな微笑みを浮かべて、傍らに立つ私を見上げる。 青白い月影の下で、彼女の唇は、異様に紅く見えた。    「どうして、私の病室にいらしたのですか」  「それは……おやすみって、言ってなかったから」  「寂しかったから、じゃなくて?」  「有り体に言っちゃうと、そうかな」   不思議なものよね。独り寝には慣れっこで、寂しいなんて思いもしなかったのに。 いまでは、独りでいることを、嫌いになり始めている。    「隣、座ってもいい?」  「どうぞ」   私は雪華綺晶の隣に腰を降ろして、ひっそりと寝静まる病棟を仰ぎ見た。 更にその上には、ちらほらと星が瞬いている。 そう言えば、ここのところ、あまり夜空を眺めてなかったなあ。   なんだか、小学校の夏休みに、家族で軽井沢に旅行したことが思い出された。 あの頃は、パパもママも、今よりずっと近くにいてくれた。 私の心臓だって、まだ頻繁に発作を起こすこともなくて―― パパは天体望遠鏡で、夏の星座を教えてくれたっけ。懐かしいな……とっても。      「星を見るのは、お好き?」   雪華綺晶に訊ねられて、私は「ええ」と首を振った。    「正しくは、夜空を眺めているのが好き。   独りで、病室の窓を開け放して、じっと虚空を見つめているの。   そうしているとね、黒い天使が舞い降りてくる気がして」  「ソレって、悪魔と違いますの?」  「天使も悪魔も、すべては主観の問題よ。本質は、どっちでもないわ」  「……そうですわね」   私たちは、また夜空に眼を向けた。いつになく静かな夜だ。 街灯の明るさに寝惚けたカラスが、時折、かぁ……と啼くくらいで。 病院の脇を走る国道からも、物音は響いてこない。 昼間は車が数珠つなぎになるくらい、混雑するのにね。      「私の病気は――」   静かすぎて、つい寝そうになった矢先、雪華綺晶の囁きが、私を起こした。 「右の視神経に、腫瘍ができているんです。どうも転移性の腫瘍みたいで」    「転移性って、ガンじゃないの、それ?」  「詳しくは分かりませんけど。植物の種くらいの大きさで。   お医者さまの説明では、視神経は左右で交叉してますし、脳にも繋がってますから、   そちらへの影響を考えると、あまり強いお薬は使えないらしいんです」  「でも、放っておくことも、できないんでしょ?」  「ええ。放置すれば、いずれ左の視神経や下垂体、脳の他の部分にも腫瘍が転移して、   両眼の失明――最悪のパターンでは、脳への重篤な障害も考えられると」   だから、手術で腫瘍を切除して、その後は定期的に効力の弱い薬を投与しながら、 経過を診るとのことだった。それを、だいたい5年くらい続けるんだって。 まるっきりガンの治療法と同じね。   今なら、まだ右眼だけで被害を食い止められる。 定期的な通院が必要にはなるけれど、元どおりの生活に戻れる。 だったら、手術を受けるべきよね。       元どおりになることと、治ることは、必ずしも同じではないのです。     私は、数日前に聞いた、雪華綺晶の言葉を思い出した。 そっか。あれは、こういう意味だったのね。やっと解った。       その後、巡回の看護士さんに見つかりそうになった私たちは、 連れ立って病院の敷地に隣接する教会へと逃れた。 誰にも邪魔されずに、夜明けまで喋っていたい気分だったから。   教会には、新旧ふたつの礼拝堂がある。 古い方はもう使われていなくて、近々、取り壊されるらしい。 だから、近づく人は居ない。こんな夜中なら、尚のこと。 そのせいか、扉は施錠もされていなかった。    「不用心ですわね。イタズラでもされたら、どうするのでしょう」  「いいんじゃない? どうせ壊すんだし、火事で焼けたら手間が省けるでしょ」  「また、不敬極まりないなコトを」   祭具の類は、すべて新しい礼拝堂に移されたようで、がらんとしていた。 礼拝堂だった名残を留めているのは、整然と並んだ机と…… かつて十字架が掲げられてただろう祭壇の、大きなステンドグラスだけ。   私たちは祭壇に歩み寄って、それを見上げた。      「見事なものよね。荘厳って感じで」  「本当に……きれいですわ」   ステンドグラスには、天使が描かれている。ケルビムなのかな? 私、クリスチャンじゃないから、よく知らないんだけど。    「ねえ、きらきー。あなた、空を飛びたいって思ったこと、ある?」   藪から棒な質問だったにも拘わらず、雪華綺晶は驚いた風もなく。    「ありますよ。実際、飛んでいますし」  「え? ウソ!」   逆に、私の方が驚かされていた。 だいたい、実際に飛んでるってナニ? バンジージャンプか、なにか?    「実はね、私、趣味でパラモーターをしているんです」  「パラモーター?」  「エンジン付きパラグライダーですわ」  「あ! あの扇風機みたいなの背負って飛ぶ、あれのこと?」  「ええ。操作に慣れると、自由に空を飛べるので気持ちいいですわよ」   大空を自由に飛んでいる光景を、思い浮かべてみる。 もしかしたら、雪華綺晶と一緒に、空を飛べる日がくるかも知れないなぁって。 そう思ってしまうと、あっさり死ぬのが惜しくなった。    「それって、私でも、すぐ飛べるようになる?」  「貴女は……いつ発作が起こるか分かりませんし。単独飛行は、すすめられませんわね」  「そんな死に方も、望むところだけど」  「ダメです! どうしても飛びたいのでしたら、私が連れていってあげますわ。   これでもライセンス持ちですから、タンデム飛行も、お手のモノですのよ」  「ホント?!」  「私が退院したら、めぐの体調がいい日に、外出許可をいただいてフライトしましょう」  「最高っ! 私ったらツイてるわ~」   ずっと、蒼穹を眺めながら、空を飛びたいと願っていた。 その夢は、ちょっと手を伸ばせば掴めそうなところに、確かにある。 でも、なにかを得ようと思えば、必ず対価は求められるものだわ。 私には、ナニがある? 対価として払えるものを、私は持っている?   考えてみて、愕然とした。 ……なにもない。    「ゴメンね、雪華綺晶。私には、明日の手術、頑張ってとしか言えない。   あなたは私の夢を叶えてくれようとしているのに、私は、なにもしてあげられない」   それが、ものすごく悔しかった。 知らず知らずのうちに、涙が溢れてくる。 私はただ、「ゴメンね」を繰り返すばかりで、結局、雪華綺晶を困らせている。   なのに、彼女は、涙に濡れる私の頬を、柔らかな手つきで包み込んで――      「では、勇気をください。それで契約しましょう」     ――と。 意味を問い返す暇もなく、私の唇は、雪華綺晶の唇によって塞がれていた。   それが、どれだけ続いたのか、憶えていない。 ただ、アタマが真っ白になって。 いつの間にか、涙さえ止まっていた。      「……んふ。めぐの唇、キャベツ太郎の味がしましたわ」  「なっ?! ば、バカ……」   そりゃ確かに、病室でお喋りしながら食べてたわよ、キャベツ太郎。 でもね、それを言ったら、雪華綺晶だって――    「あなただって、ハートチップルの匂いがするじゃない! ニンニクくさっ!」  「うっ! それを言われると」  「あーもうっ。ムードもなにもブチ壊しよ」  「お菓子だけに、おかしな結末ですわね。お後がよろしいようで」  「……最悪」   本当に、顔から火が出るくらい恥ずかしくて、人生で最悪の出来事だった。   だけど、無かったことにするつもりも、なかった。 私が死の間際に立たされたときには、きっと、いい思い出になっていると予感していたから。       ~  ~  ~     そんなコトがあってから、およそ1ヶ月が過ぎた、ある日。 私は、雪華綺晶の操るパラモーターで、夢にまで見た大空を飛んでいた。   彼女の手術は、無事に済んでいた。 右眼の視力を失ったものの、他への転移は、今のところ見られないと言う。 そこで、私の体調を見ながら、主治医に外出許可をもらったの。   不思議なことに、あれからの1ヶ月、私の体調は、すこぶる良かった。 心境の変化が、病状を劇的に快復させることがあるって話を聞くけれど、 まさか、そんなことが自分の身に起こるだなんて、思ってもみなかったわ。       病は気から。為せば成る……か。     それにしても、なんて気持ちがいいんだろう。 眼下にも、周囲にも、私を閉じこめるものは、なにもない。 私は、雪華綺晶の耳元に顔を寄せて、モーターの音に負けないくらいの大声を出した。    「ありがとう、天使さん」   私に向けられた彼女の瞳が、どういたしまして、と語りかけてくる。   幸せだ。 本当に、私の人生で最高の、至福の瞬間だった。   夢が叶った。天使と共に、空を飛ぶ夢が。 なんだか、ホッとしちゃった。 もう、なにも思い残すことなんか……ない。   無上の喜びに全身を包まれながら、私は―― 雪華綺晶の頬にキスをして、彼女の肩に、頭を預けた。   そして、囁きかける。 彼女に聞こえようと、聞こえまいと、どっちでもよかった。      「長かったわ、今日まで。本当に、長い長い闘病生活だった。   ちょっと、疲れちゃった」    「……めぐ?」     雪華綺晶が呼びかけてくるけど、キニシナイ。 私は、深く息を吸い込んで。      「もう……ゴールしても良いよね」     大きく吐息すると、そのまま、瞼を閉ざした。          「めぐ? ……めぐ?」        「まさか…………そんな! こんなのウソですわ!   お願いですから、目を醒ましてっ! ねえっ! めぐっ!」       あまりに狼狽えた声を出すものだから、もう我慢の限界。 私は笑いを堪えながら、目を開けた。    「――――なワケないじゃぁぁん」  「…………はぃ?」   雪華綺晶は、呆気にとられた様子で、すっかり涙目になっていた。 もう少しだけ焦らしてたら、ホントに泣き出しちゃったかもね。 それはそれで、見てみたかったけど……また次の機会のお楽しみってコトで。    「ビックリした? 私、けっこう死んだフリが巧いでしょ」  「ふ、ふは……はひひひ」   ようやく、からかわれたと悟ったらしく。 半泣きの顔に、引きつった笑みを浮かべて、雪華綺晶は安堵を滲ませる。 そして、次の瞬間!    「もう貴女ゴールしちゃいなさいっ!」   彼女は般若のごとき形相で、私の頸を右手で鷲掴みにした。 でも、そんなことをしたら――    「ぐがが……ちょ、きら……操縦して……落ち」  「ふえ? あわわわっ?! き、きゃーっ!」  「いやぁーっ! 死んじゃうー!」         ――と、まあ九死に一生を得る体験もしたけれど。 私は、ちゃんと生きている。たまに、雪華綺晶と一緒に、空も飛んでいる。 やっぱり、天使が味方だと、死の方が逃げていくみたいね。       今日も、病室の窓から空を眺める。 もうしないって決めてたけど、あれはウソ。       だって、ほら――       ここから見る世界には、パラモーターを操る天使が居るんだもの。           Fin    

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