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後編 此処を守るのだわ」(2008/09/26 (金) 01:02:52) の最新版変更点

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      あの物語で、太郎は箱から噴き出した白煙を浴びて、老人になった。 竜宮城と現世におけるタイムラグを、一気にリセットしたからだ。 では――私はいつ、その箱を開けたというのか。    「もしかして……《九秒前の白》のことを、打ち明けたから」   真紅と、きらきーの話を話したがために、この状況が引き起こされた……と? 向こうで感じた幸せの、対価として。    「もし、そうだとしても――」   だったら、私のみを不幸にすればいい。私の身を傷つければいい。 連帯保証人じゃあるまいし、誰かを巻き添えにする必要なんて、どこにもない。 それなのに……どうして。 口惜しさに唇を噛みながら、私は、目の前のベッドに視線を落とした。       お父さまは、俯せの姿勢で、ベッドに寝かされていた。 ここは集中治療室。見慣れない医療機器に囲まれ、お父さまは眠りに就いている。 お医者さまも看護士さんも、夜明け前には、一連の処置を終えて出ていった。 今は、私たちだけ……。   一命を取り留めたものの、お父さまの具合は依然として、予断を許さない状態だ。 当たり前よね。倒れてきた電柱の、下敷きになったんだもの。   折れた肋骨が背中に突き抜けていたり、椎骨が砕けたり、歪んでしまったり。 数時間にも及ぶ手術で、見た目だけは元どおりだけれど…… それは背骨や肋骨に沿って埋め込まれた、金属の固定具があっての話だ。   脊髄の損傷度合いによっては痺れが残り、悪くすれば下半身不随になるかも。 お医者さまには、そう説明された。      「お父さま」   胸がはち切れそうに痛くて、喘ぐように口を開けば、溜息が零れるだけ。 私には医学なんて解らない。 専門家の話を鵜呑みにして、不安に苛まれながら、祈ることしかできない。   だけど、それでも、生きていてくれたから…… わずかでも気休めの余地があるだけ、まだ救われていた。 それすらできない状況になっていたら、きっと、罪悪感に押し潰されていた。 今度こそ本当に、私は生きていなかったに違いない。    「お父さま。私……ちょっと家に戻ります。   着替えとか、洗面用具とか……いろいろ持ってこないと」   お父さまの頬に触れて、微かな息づかいと肌の温もりを確かめた。 麻酔が効いて熟睡している。どうせ聞こえてない。それでも、私は話しかけた。 いつもみたいに振り向いてくれるんじゃないかしらと、淡く期待しながら。         半日ぶりくらいで帰り着いた家の様子は、ほぼ昨夜のままだった。 工房の床の、砕けたティーカップ。作業机に横たわる人形。お母さまの写真。 そもそも、ドアには鍵さえ掛かってない有り様で。 いかに、お父さまが必死になって追いかけてくれたかを、物語っていた。   私がいないと知るや、取るものも取り敢えず、外に飛び出して―― そして、荒れ狂う海に身を投げた私を見つけて、命がけで救ってくれたのだ。 どうしようもなくバカな、こんな私を。    「ごめん……なさい」   また、涙。 どうして8年もの間、一度も泣かずに生きてこられたのか……不思議でならない。 私って、本当は、すごい泣き虫なのかも。そうとしか考えられない。    「ヤダな、もぅ。とにかく…………入院の支度……しなきゃ」     ――でも、その前に。 眼帯で、おまじないをしたほうが、よさそう。 これから先も、コトある毎に泣いてばかりでは困るから。   グズグズと鼻を啜りながら、お父さまの作業机に歩み寄った。 お母さまを模した人形と、お母さま本人の写真。 そして、そこに、私の眼帯も並べてあった。きちんと、拾っておいてくれたのね。      「ありがとう……お父さま」   私は眼帯を手にとって、握った拳を、胸に押し当てた。       洗面所で、グシャグシャの泣き顔を洗い引き締めてから、眼帯を着けた。 少しは、まともな顔になったかな……鏡を覗き込んで、微笑んでみる。 その鏡像が、ふと《九秒前の白》で会った妹の顔と重なり、私は息を呑んだ。   髪の感じ、金色の瞳、面差し。どれをとっても、よく似ている。生き写しだ。 ……と、言うか。    「どうして、今まで忘れてたのかしら」   私は、しばらくの間、鏡を見つめたまま、愕然と立ち尽くしていた。 あれは――『きらきしょー』とは、私の……幼い頃の姿に他ならない。 正確には、子供だった私が憧れていた、理想の自分。     腐臭の澱む、ろくに陽も当たらない路地裏に座り込んで、私は眺めていた。 祭りに沸く街角を、煌びやかに着飾った子供たちが、親の手を引いて駆けてゆく様を。   私も、あんな風に―― みすぼらしく、異臭を放つボロを纏った私には、その世界が、とても眩しく見えた。   汚れひとつない、洗いたての匂いのする服を着て、美味しい物を食べて…… ありとあらゆる祝福を与えられた、幸せな、美しい女の子。 羨望と憧憬は、飽くことなき妄想の糧。 いつしか、私は自らの中に、別の人格を生みだすまでの夢想家に成長していた。   アリス――と言うのが、もうひとりの私の名前。 お父さまたちと出逢うまで、アリスは私の、唯一の友だちだった。     ヘドロ臭い運河の水面に写した、自分の姿。 そこに居る女の子こそが、アリス……私の分身。 汚れた水に投影された、汚れた娘の鏡像だというのに、彼女はとても美しかった。     アリス――『きらきしょー』の居た世界。 《九秒前の白》とは、つまり私の妄想が築きあげた、仮想空間なのかしら? お母さま――真紅が言っていたことを、反芻してみる。      『ここには、私たちしか居ないわ。私たちしか入れないのよ』    『貴女は生きて、歩き続けなさい。そして、此処を守るのだわ』     あれは、妄想を紡ぎ続けなさいと。 せっかく産まれた世界を、守って生きなさい――と。そういう意味だったの? でも、それならどうして『きらきしょー』は、アリスと名乗らなかったのか。 彼女と一緒にいた、お母さまは…………だぁれ? まさか、本物の幽霊?   解らない。こんがらがってきた。 どうして私って、こうバカなんだろう。毎度のことながら、自己嫌悪。    「ああ……もぅ、ヤメヤメ。悩む前に、始めなきゃ。いろいろと」   私はコツンとアタマを叩いて、おかしな考えを追い出した。 とにもかくにも、病院に持っていく荷物を、纏めなければ。 それに、当分は休業するとは言え、工房とお店を掃除しておかないと。 今は、私だけが、ここを守れるのだから。       まずは、割ってしまったティーカップの片づけ。 売り物のお人形を並べ直したり、ショーケースのガラスを拭いたり、箒で床を掃いたり。 家事に専念しているところに、来客を告げるドアベルが鳴った。    「ごめんなさい。しばらくお休――あ」   店に入ってきたのは、隣で喫茶店を経営している、お父さまの古い親友だった。 切れ長の眼をした優男ながら、ここ一番では頼りになる人だ。    「白崎さん……あの、昨夜は……ありがとうございました」  「なぁに、気にしないでいいよ」   白崎さんは、人好きのする笑顔で、ひらひらと手を振った。 昨夜は、この人が、すべて手配してくれたのだ。泣き喚くだけの私に代わって。 その後も、お父さまの手術が終わるまで私に付き添い、慰めてくれていた。 もし、この人が気づいてくれてなかったら……と思うと、ゾッとする。    「槐くんが一命を取り留めて、まずは、ひと安心だね」  「でも……まだ、予断を許さない状況だって、お医者さまが」  「彼だって若いから、回復力もあるし、きっと大丈夫だよ」  「はい」   俯いた私のアタマを、白崎さんの手が優しく叩く。ぽふぽふぽふ……。    「ほらほら、落ち込んでる暇なんかないよ。君が、しっかりしなきゃ。   槐くんが帰る場所は、ここしかないんだからね」  「それは、解ってます……けど」  「笑う門には福きたる、って言うだろう。ほぉーら、スマイルスマイル~」   むにに……と両の頬を摘まれて、ムリヤリ笑顔にさせられた。 知り合ったときから、こういう人だ。ちょっと強引で、戯けかたが道化っぽい。 でも、気さくで、なんだか憎みきれない人。   白崎さんの指が離れても、私の作られた笑みは、崩れなかった。 むしろ、自然と笑いが沸いてきたから不思議。 思わず噴いてしまった私を見て、彼も満足そうに破顔した。    「掃除が終わったら、病院に行くんだろう?   いろいろと持っていく物もあるだろうし、僕の車で送ってあげるよ」  「白崎さん……お店は?」  「心配いらない。頼れるワイフが、ちゃんと切り盛りしてくれてるからね」   こんな人にも、奥さんがいる。名前は、めぐ。大学の同期生だったとか。 感情の起伏が激しいところはあるけど、基本的に、優しい女性だ。 それに、黒髪と喫茶店のエプロンが似合う、とっても綺麗な人。 お母さまが亡くなってから、この白崎夫妻には、とても良くしてもらってきた。    「掃除なら、僕が代わってあげるから、君は荷物を纏めておいで。   おなかも空いてるだろう? 病院に行く前に、ウチで食べていくといいよ。   ……だけど、まずはシャワーを浴びるべきだね」   言われて、今更だけど気づいた。私、昨日から着替えてない。 髪はバサバサだし、服はムワッと潮臭くて、とても人前に出られたものじゃなかった。    「打ち身が痛くて洗いにくいようなら、僕が手伝ってあげようか」  「…………めぐさんに言いつけますよ」  「失礼しました、お嬢様。それだけは勘弁してください」   セクハラまがいの軽口も、沈みがちな私の気を紛らそうとの、配慮だったのだろう。 私は身支度を整えてから、めぐさんのアドバイスに従い、当面の荷物を纏めた。 白崎さんの店でお昼をご馳走になってから、彼の運転する車で、病院へ――       お父さまは、依然として、昏々と眠り続けていた。 手術で背中を切開したから、俯せ寝のままだけれど、苦しそうな寝顔ではない。 「やれやれ、いい気なものだねえ」とは、白崎さんの感想。    「せっかく、愛娘がお見舞いに来てくれたっていうのに」  「いいんです。今まで……働き過ぎな感もあったし」  「文字どおりの骨休めだったら、どんなに良かっただろうね」  「……本当に」   何本も骨を折っている状態では、洒落にもならない。 いつか……こんなコトもあったねと、みんなで笑い合える日がくればいいけど。    「――さて。僕は、引き上げるとしようかな」  「え? 来たばかりなのに」  「目を醒ましそうもないからね、彼。また日を改めて、様子見に来るよ。   薔薇水晶。君は、どうするんだい。帰るなら、送ってあげるけど」  「いえ、あの…………もう少し、残っています。   お医者さまから、治療のことで……お話あるかも知れないし」   解った、と頷いて、白崎さんは踵を返した。「だけど、無理はしないように」    「ありがとう、白崎さん。めぐさんにも、よろしく伝えてください」  「話しておくよ。それじゃあ、また」   集中治療室のドアが、そっと閉じられる。 それよって、廊下から流れ込んでくる諸々の音は、すっかり遮られてしまった。   静かだった。まるで、この部屋そのものが《九秒前の白》と化したような―― そんな錯覚をしてしまうほど、濃密な静寂が、この場を支配していた。 医療機器の動作音はするけれど、それさえも、掠れて聞こえるほどに。 私は、ベッドの脇にスツールを置いて、腰を降ろした。      「どんな夢……見てるの?」   長い長い、眠りの時間。 それが、せめて楽しい夢ならばと、願わずにはいられない。 たとえば――真紅や、きらきーに出会える夢とか。   ああ、でも、楽しすぎるのも考えものか。 夢の世界にドップリ浸かって、こっちに戻ってくれなくなったら困る。 私だけでは、あの工房を守ることなんて……できっこない。    「せめて――私が、お母さまと同じくらい……賢かったら」   詮ないこととは承知の上で、泣き言を呟いてみた。 もちろん、本当に泣いたワケじゃない。 眼帯の封印は、神憑り的な効果を発揮して、私の涙を堰き止めている。   ベッドに肘を乗せ、頬づえを突いて、間近で、じっくりと寝顔を観察する。 けれど、お父さまは規則ただしい呼吸を、繰り返すばかりで。 頬をツンツンしても、耳に息を吹きかけてみようと、まったく反応なし。 本当に、よく眠っている。憑き物が落ちたような、安らかな表情で。       今だったら―― そんな想いに背を押されて、私は身を乗り出して、お父さまの耳元に唇を寄せた。    「……槐……さん」   この人を名前で呼ぶのは、憶えている限り、これが初めて。 だから、なのか。それだけのコトなのに、ドキドキと、胸が苦しい。   でも、さっきまでの不安な胸騒ぎとは、根本的に違う。 嬉しかったり、楽しいときのような、フワフワする感じの―― 巧く表現できないけれど、とても気持ちのいい胸のざわめきだった。    「だいすき」   今まで、何度も口にしてきた言葉だけど。 今ほど、想いを込めて囁いたのは……やっぱり、初めてだと思う。 仰向けに眠っていてくれたなら、本気の証しをあげられたのに。 人口呼吸なんかじゃない、本当のキスを。   ……ううん。これは、これで良かったのかもね。 眠っている間に、コッソリ……なんて一方通行では、満足できないもの。 誰よりも、好きだから―― だからこそ、もう一度、真剣に想いを伝えたい。 そして、叶うものなら、しっかりと受け止めて欲しかった。    「今はまだ……これで、我慢しておくね」   お父さまが目を醒まさないよう祈りながら、私は…… 伸び始めの無精ヒゲを避けて、そっと、彼の頬に口づけた。     病室のドアが無造作に開けられたのは、まさに、その直後。 ビクン! と飛び上がった弾みで、私はスツールごと床に倒れてしまった。 ノックも無しにドアを開けた、不埒な粗忽者はと言うと……    「おやぁ? うたた寝でもしていたのかい」   と悪びれる様子もない。まったく……誰のせいだと思っているのか。 飄々とし過ぎるのにも程がある。私は立ち上がって、白崎さんに詰め寄った。    「……し、白崎さんっ! ノックぐらいしてくださいっ」  「これは失敬。驚かすつもりじゃなかったんだけどね」  「悪気がないなら、余計に質が悪いです」  「いやはや、確かに不注意だったね。申し訳ない」   白崎さんはアタマを掻き掻き、眉毛で八の字を描いた。 ホントにもう……困った人だ。憎めないところが、また憎たらしい。   それにしても、なんで戻ってきたのかしら。    「てっきり帰ったとばかり……どうして、また?」  「それが、駐車場を出ようとした矢先に、奥さんから電話があってね」  「めぐさんが?」   眼で続きを促すと、白崎さんはベッドに伏せるお父さまを、チラと窺った。    「夕飯には絶対、君を連れてこいって。君を元気づけようと、準備してたらしい。   腕によりをかけて作った料理を、ご馳走してくれるそうだよ」  「そんな。そこまで……甘えられない」  「いやいや。僕らの間で、遠慮は無しだよ」   それに、と。白崎さんは、喋りかけた私を遮った。    「槐くんが目を醒ましたら、忙しくて休む間もなくなるだろうからね。   今夜中は起きないだろうし、英気を養える内に、しっかり休んでおいた方がいい」   一理ある。いつも白崎さんの車で、送迎してもらえるワケじゃない。 毎日、洗濯物などの荷物を抱え、病院と自宅を往復するのはキツイだろう。    「そういうワケだから、ご招待されてくれないかな?」  「ええ。じゃあ……お言葉に甘えて」   食事の用意までしてくれた2人の心遣いを、無下にはできない。 それに、今は誰かとお喋りしていたい気分だった。話題なんか、なんでもいいから。    「よし、決まりだ。この時間だと道が混むけど、ちょうどいい頃合いに着けそうかな」   私は白崎さんに背中を押されて、ベッドから離れた。 病室の出入り口で歩を止め、一度だけ振り返る。 そして、ココロの中で囁きかけた。(あなただけを、ずっと想っています――)         白崎邸で夜食をご馳走になり、私は自宅に戻った。 よく眠れるようにと、紅茶に赤ワインを入れて、舐めるように嗜んだ。 眠りが浅いとき、お父さまは、よくこうしてワイン入り紅茶を飲んでいた。 それを、ちょっとばかりの興味から、真似してみたのだ。   ……が、ちょっと分量を間違えたらしい。飲み干して、ややも待たず、顔が熱くなってきた。 歩くと、足元が覚束ない。アタマも、クラクラしてる。 もう寝よう――とは思うものの、なんとなく、独りでベッドに入るのが嫌で。 私は工房に行って、お父さまが仕事で使っている椅子に、腰をおろした。   お母さまの写真と、彼女を模した人形が、もの言わず私を見つめている。 もしかしたら、未成年のくせに飲酒したバカ娘に、呆れて言葉もないのかも。    「……なんて、ね」   人形は、喋ったりしない。故人は、言葉を並べたりしない。 そのくらいは、分かっている。 理屈では解っているけれど、でも……やっぱり。    「声が……聞きたいな。夢で……また、逢――かな?」   行けるものなら、行きたい。あの、真っ白な泡沫の世界へと。 私は、酔いの怠さに抗いきれず、作業机に両腕を重ねて、突っ伏した。 そのまま、じっとしていると……瞼が、とろん。 まるで、直火に炙られたチーズみたいに、とろとろと垂れ下がってくる。   何度か、ハッと目を開くも、ことごとくが徒労に終わった。 そして気づく。どうして、無理して起きようとしているんだろう、と。 眠ってしまえばいい。目を閉じて、もわもわと広がる無意識に沈みかけた、その一瞬。      『夜は眠りの時間よ。おやすみなさい』     脳裏で囁かれた声が、優しい余韻を引く。 それは、お母さまの――真紅の口振りに、間違いなかった。 でも……その声音は彼女のものではなく、私の声だった。         [[エピローグにつづく>エピローグ]]      

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