「エピローグ」の編集履歴(バックアップ)一覧はこちら
「エピローグ」(2008/09/26 (金) 01:06:46) の最新版変更点
追加された行は緑色になります。
削除された行は赤色になります。
「もう、朝……」
よく眠った。夢さえ見ないほどに深く。
そもそも、いつ床に就いたっけ?
書き物をしていた記憶は、漠然と浮かぶけれど。それから後のことは……。
……まあ、いい。
これから紡がれる、新たな思い出に比べたら――すべて瑣末なこと。
私はベッドを抜け出して、勢いよく、カーテンを開いた。
窓辺にたむろしていたスズメたちが、驚いて、一斉に飛び立った。
よく晴れてる。防波堤の向こう、遙かな沖合まで、すっかり見渡せる。
1日の始まりとしては、申し分ない。
顔を洗い、着替えてから、お母さまの人形に、朝の挨拶をする。
端から見たら、アタマの弱い子だって思われるだろうが、別に構わない。
そうすることで、私は少なからず、安らぎを覚えているのだから。
お父さまが、どういう意図で、この人形を作ったのかは判らないけど……今では感謝していた。
ベーコンエッグとトーストの軽い朝食を摂るのは、そのあと。
食器その他の台所まわりを片づけて、鏡台に向かう。
髪を梳りながら、壁掛け時計と自分の写し身を交互に見つめ、「よし」と頷く。
いつもどおり。この生活パターンにも、すっかり慣れたものだ。
身だしなみが済んだら、次は屋内外の掃除。
サンダルをつっかけ、家の前を箒で掃いていると。
「おはよ」
お隣の、めぐさんに声を掛けられた。
私も手を止めて、会釈を返す。
「おはよう……ございます」
「晴れてよかったわね。今日でしょ?」
「はい。午後に……なると思いますけど」
あの嵐の夜から、早1ヶ月――
お父さまは、今日、退院してくる。
経過は良好だった。危惧されていた後遺症はなく、仕事にも、差し支えない。
ただ、割れた骨を繋ぐ金具は入ったままなので、いずれ手術で外さないといけないけれど。
それは、もう少し先のことになる。
「迎えに来なくてもいいだなんて、彼らしいわね」
「職人気質って言うんでしょうか……偏屈なところ、あるから」
「もう大丈夫だってアピールしたいのよ、きっと」
実際、お父さまは起きあがれるようになると、すぐにリハビリを始めた。
私にも、見舞いは毎日じゃなくていいと、言い出すほどで。
まあ、それでも私が訪れると、すごく嬉しそうな顔をしていたけれど。
「ところで」
めぐさんが話題を転じた。「原稿の方は、進んでる?」
「それなりに。順調では、ないですけど」
私は相槌を打って、昨夜までの進捗を、思い浮かべた。
独りで過ごす夜の慰みに始めた、物語の執筆状況を。
キッカケは、白崎さんの家で夜食をご馳走になった、あの晩だ。
初めて口にしたワインに酔って、お父さまの作業机で眠ってしまった、あのとき――
私は夢うつつに、囁きかける声を聞いた。
今なら解る。あれは、アリスが――もう1人の私が、話しかけてきたのだ、と。
あの瞬間まで、『きらきしょー』が、アリスだと思っていた。
でも、それは私の考え違い。
《九秒前の白》で会った、真紅の姿をした女性こそが、本当のアリスだったのだ。
『きらきしょー』は、見ることができなかった妹に、古いイメージを投影しただけの人形。
言うなれば、私の、妄想の産物に過ぎなかった。
なぜ、アリスが真紅へと変貌を遂げたのか。
それは、きっと……私の、お母さまに対する羨望が、そうさせたに違いない。
彼女のような、至高の存在になりたいと強く願う気持ちが、私の別人格さえも変えた。
……そういうことなのだろう。
以来、私は市販の大学ノートに、物語を書き始めた。『きらきしょー』という名の、女の子の物語を。
なんとなく、夢見がちな私には相応しいと……
そして、そうすることが、アリスを含めた私自身の慰めになると、思えたのだ。
今では、創作の時間が、日常生活の時間を浸蝕しつつあった。
「いつか、出版とか、されるといいわね」
めぐさんの声に、我に返る。
私は取り繕うように笑って、また相槌を打った。
「ええ。いつか……誰かに、ステキなイラストを描いてもらえたら……いいな」
「絵本とか、童話なの?」
「……さあ。どういうカタチに収まるのかは、私にも解りませんけど」
事実、私のアタマの中には、終わりまでの展望など描かれていない。
その都度、ノートを開く度に、世界が綴られていくのだ。
いわば、私もまた旅人――『きらきしょー』の同伴者だった。
そう告げると、めぐさんは、ふぅん? と。
小首を傾げ、興味深げに、瞳を輝かせた。
「いいわね、そういうの。私、好きよ」
「めぐさんも、創作に携わったことが?」
「……んー。そこまで本格的なモノじゃなかったけど。
長く入院してた時期があって、その頃に、ちょっと妄想を――ね。
黒い天使の話なんだけど」
「その物語は、今も?」
「ううん。退院してから、それっきりね。現実の忙しなさに、追い立てられちゃって。
ほら、誰だったかの歌にもあったでしょ。夢みる少女じゃいられない……ってね」
「それでも……貴女は、幸せ?」
問いかけると、彼女は一瞬、キョトンとして。
また一瞬の後に、破顔していた。「そうね。幸せよ。彼も、とても良くしてくれるし」
そんな日が、いつか私にも、訪れるのだろうか。
現実の世界に喜びと幸せを見つけて、夢は夢と割り切るように、なるのだろうか。
そのとき、アリスや、きらきーは――
あの《九秒前の白》は、どうなってしまうのかしら。
弾けて、泡と消えてしまうのならば、それは、とても悲しいこと。
『ここには、私たちしか居ないわ。私たちしか入れないのよ』
『貴女は生きて、歩き続けなさい。そして、此処を守るのだわ』
あの言葉――
あれは、アリスの切望だったのかも知れない。
私が物語を綴りだしたのも、彼女の意志が、強く介在しているのかも。
ならば、私は書き続けよう。ずっと……いつまでだって。
もちろん、この世界での幸福も、しっかり手に入れるけどね。
「めぐさん。私、そろそろ」
「あ……ごめんね、引き留めちゃって。
それじゃ、槐くんが戻ったら、今夜はウチで退院祝いしましょうね」
「はい。ありがとう」
私たちは微笑み合って、互いに手を振った。
「さて、と。次は、お店の掃除しなきゃ」
独りごちて、家に入り、店の窓を開け放つ。
毎日、掃除をしているけれど、いつの間にか埃は積もっているもので……
ショーケースの上を、はたきがけすると、舞い上がった塵で、鼻がムズムズした。
2、3発、クシャミすると、今度は鼻が垂れてくるから、始末に負えない。
ティッシュで鼻をかんでから、ハンカチを対角線に畳んで、マスク代わりにした。
そして、ショーケースを拭こうと、雑巾を手にした、そのとき。
店の前で、甲高い軋めきが生じた。車のブレーキノイズだ。
それが意味するところを察して、私は雑巾を放りだすと、ドアに駆け寄った。
果たして、予感は的中。午後になると、思っていたのに――
停車したタクシーから、支払いを済ませたお父さまが、ボストンバッグを抱えて降りてくる。
私は気持ちを抑えきれずに、ドアをくぐり、彼の前に立った。
すると……
「なんだい、その古いギャングみたいな格好は?」
いきなり大笑いされた。
私は慌てて、口元を覆っていたハンカチを、襟首まで降ろした。
自分でも驚くくらい、かぁっと頬が熱くなった。
「だって……お掃除中……だったから」
「――そうか。いろいろと、苦労をかけたね」
「ううん。私こそ……いろいろと、ごめんなさい」
本当は、もっと言いたいことがあったけれど。
声が詰まって、思うことが話せなくて。
「いいんだよ」
どさり――と。
お父さまは、ボストンバッグを脇に落として、私を抱きしめてくれた。
「もう、いいんだ」
「…………うん。ありがとう」
私は、爪先立ちをして、やっとの想いで、その広い胸に頬を寄せた。
「だいすき」
「ああ、僕もだよ」
それは、父親として、娘を好きだと言ったのだろう。
だけど……やっぱり、私は――この想いを、止められない。
だから、今、伝えようと思った。
「あの、ね」
「うん?」
「私…………どうしても、伝えたいことが……あるの」
終
「もう、朝……」
よく眠った。夢さえ見ないほどに深く。
そもそも、いつ床に就いたっけ?
書き物をしていた記憶は、漠然と浮かぶけれど。それから後のことは……。
……まあ、いい。
これから紡がれる、新たな思い出に比べたら――すべて瑣末なこと。
私はベッドを抜け出して、勢いよく、カーテンを開いた。
窓辺にたむろしていたスズメたちが、驚いて、一斉に飛び立った。
よく晴れてる。防波堤の向こう、遙かな沖合まで、すっかり見渡せる。
1日の始まりとしては、申し分ない。
顔を洗い、着替えてから、お母さまの人形に、朝の挨拶をする。
端から見たら、アタマの弱い子だって思われるだろうが、別に構わない。
そうすることで、私は少なからず、安らぎを覚えているのだから。
お父さまが、どういう意図で、この人形を作ったのかは判らないけど……今では感謝していた。
ベーコンエッグとトーストの軽い朝食を摂るのは、そのあと。
食器その他の台所まわりを片づけて、鏡台に向かう。
髪を梳りながら、壁掛け時計と自分の写し身を交互に見つめ、「よし」と頷く。
いつもどおり。この生活パターンにも、すっかり慣れたものだ。
身だしなみが済んだら、次は屋内外の掃除。
サンダルをつっかけ、家の前を箒で掃いていると。
「おはよ」
お隣の、めぐさんに声を掛けられた。
私も手を止めて、会釈を返す。
「おはよう……ございます」
「晴れてよかったわね。今日でしょ?」
「はい。午後に……なると思いますけど」
あの嵐の夜から、早1ヶ月――
お父さまは、今日、退院してくる。
経過は良好だった。危惧されていた後遺症はなく、仕事にも、差し支えない。
ただ、割れた骨を繋ぐ金具は入ったままなので、いずれ手術で外さないといけないけれど。
それは、もう少し先のことになる。
「迎えに来なくてもいいだなんて、彼らしいわね」
「職人気質って言うんでしょうか……偏屈なところ、あるから」
「もう大丈夫だってアピールしたいのよ、きっと」
実際、お父さまは起きあがれるようになると、すぐにリハビリを始めた。
私にも、見舞いは毎日じゃなくていいと、言い出すほどで。
まあ、それでも私が訪れると、すごく嬉しそうな顔をしていたけれど。
「ところで」
めぐさんが話題を転じた。「原稿の方は、進んでる?」
「それなりに。順調では、ないですけど」
私は相槌を打って、昨夜までの進捗を、思い浮かべた。
独りで過ごす夜の慰みに始めた、物語の執筆状況を。
キッカケは、白崎さんの家で夜食をご馳走になった、あの晩だ。
初めて口にしたワインに酔って、お父さまの作業机で眠ってしまった、あのとき――
私は夢うつつに、囁きかける声を聞いた。
今なら解る。あれは、アリスが――もう1人の私が、話しかけてきたのだ、と。
あの瞬間まで、『きらきしょー』が、アリスだと思っていた。
でも、それは私の考え違い。
《九秒前の白》で会った、真紅の姿をした女性こそが、本当のアリスだったのだ。
『きらきしょー』は、見ることができなかった妹に、古いイメージを投影しただけの人形。
言うなれば、私の、妄想の産物に過ぎなかった。
なぜ、アリスが真紅へと変貌を遂げたのか。
それは、きっと……私の、お母さまに対する羨望が、そうさせたに違いない。
彼女のような、至高の存在になりたいと強く願う気持ちが、私の別人格さえも変えた。
……そういうことなのだろう。
以来、私は市販の大学ノートに、物語を書き始めた。『きらきしょー』という名の、女の子の物語を。
なんとなく、夢見がちな私には相応しいと……
そして、そうすることが、アリスを含めた私自身の慰めになると、思えたのだ。
今では、創作の時間が、日常生活の時間を浸蝕しつつあった。
「いつか、出版とか、されるといいわね」
めぐさんの声に、我に返る。
私は取り繕うように笑って、また相槌を打った。
「ええ。いつか……誰かに、ステキなイラストを描いてもらえたら……いいな」
「絵本とか、童話なの?」
「……さあ。どういうカタチに収まるのかは、私にも解りませんけど」
事実、私のアタマの中には、終わりまでの展望など描かれていない。
その都度、ノートを開く度に、世界が綴られていくのだ。
いわば、私もまた旅人――『きらきしょー』の同伴者だった。
そう告げると、めぐさんは、ふぅん? と。
小首を傾げ、興味深げに、瞳を輝かせた。
「いいわね、そういうの。私、好きよ」
「めぐさんも、創作に携わったことが?」
「……んー。そこまで本格的なモノじゃなかったけど。
長く入院してた時期があって、その頃に、ちょっと妄想を――ね。
黒い天使の話なんだけど」
「その物語は、今も?」
「ううん。退院してから、それっきりね。現実の忙しなさに、追い立てられちゃって。
ほら、誰だったかの歌にもあったでしょ。夢みる少女じゃいられない……ってね」
「それでも……貴女は、幸せ?」
問いかけると、彼女は一瞬、キョトンとして。
また一瞬の後に、破顔していた。「そうね。幸せよ。彼も、とても良くしてくれるし」
そんな日が、いつか私にも、訪れるのだろうか。
現実の世界に喜びと幸せを見つけて、夢は夢と割り切るように、なるのだろうか。
そのとき、アリスや、きらきーは――
あの《九秒前の白》は、どうなってしまうのかしら。
弾けて、泡と消えてしまうのならば、それは、とても悲しいこと。
『ここには、私たちしか居ないわ。私たちしか入れないのよ』
『貴女は生きて、歩き続けなさい。そして、此処を守るのだわ』
あの言葉――
あれは、アリスの切望だったのかも知れない。
私が物語を綴りだしたのも、彼女の意志が、強く介在しているのかも。
ならば、私は書き続けよう。ずっと……いつまでだって。
もちろん、この世界での幸福も、しっかり手に入れるけどね。
「めぐさん。私、そろそろ」
「あ……ごめんね、引き留めちゃって。
それじゃ、槐くんが戻ったら、今夜はウチで退院祝いしましょうね」
「はい。ありがとう」
私たちは微笑み合って、互いに手を振った。
「さて、と。次は、お店の掃除しなきゃ」
独りごちて、家に入り、店の窓を開け放つ。
毎日、掃除をしているけれど、いつの間にか埃は積もっているもので……
ショーケースの上を、はたきがけすると、舞い上がった塵で、鼻がムズムズした。
2、3発、クシャミすると、今度は鼻が垂れてくるから、始末に負えない。
ティッシュで鼻をかんでから、ハンカチを対角線に畳んで、マスク代わりにした。
そして、ショーケースを拭こうと、雑巾を手にした、そのとき。
店の前で、甲高い軋めきが生じた。車のブレーキノイズだ。
それが意味するところを察して、私は雑巾を放りだすと、ドアに駆け寄った。
果たして、予感は的中。午後になると、思っていたのに――
停車したタクシーから、支払いを済ませたお父さまが、ボストンバッグを抱えて降りてくる。
私は気持ちを抑えきれずに、ドアをくぐり、彼の前に立った。
すると……
「なんだい、その古いギャングみたいな格好は?」
いきなり大笑いされた。
私は慌てて、口元を覆っていたハンカチを、襟首まで降ろした。
自分でも驚くくらい、かぁっと頬が熱くなった。
「だって……お掃除中……だったから」
「――そうか。いろいろと、苦労をかけたね」
「ううん。私こそ……いろいろと、ごめんなさい」
本当は、もっと言いたいことがあったけれど。
声が詰まって、思うことが話せなくて。
「いいんだよ」
どさり――と。
お父さまは、ボストンバッグを脇に落として、私を抱きしめてくれた。
「もう、いいんだ」
「…………うん。ありがとう」
私は、爪先立ちをして、やっとの想いで、その広い胸に頬を寄せた。
「だいすき」
「ああ、僕もだよ」
それは、父親として、娘を好きだと言ったのだろう。
だけど……やっぱり、私は――この想いを、止められない。
だから、今、伝えようと思った。
「あの、ね」
「うん?」
「私…………どうしても、伝えたいことが……あるの」