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『パステル』 -1-」(2009/02/11 (水) 00:45:49) の最新版変更点

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    運命の巡り合わせ――とは、大概において、妄想。誤った思い込みである。 その場その時の雰囲気によって、偶然の産物でしかないものに、変なロマンを感じたに過ぎない。   しかし……ごく稀にではあるが、本当の必然にぶつかることもある。 たとえば、希有の品と、彼女の出会いのように―― 気紛れな誰かさんの、退屈しのぎの悪戯に、付き合わされた場合だ。       雛苺が、かつての同級生と約2年ぶりの再会を果たしたのは、3月のはじめ。 桃の節句と呼ばれる、麗らかな日のことだった。   美大生となって2度目に迎える、2ヶ月にもわたる長い春休み。 自転車での配達アルバイトに勤しんでいたとき、彼の家の前を通りがかったのだ。 懐かしい風景が、女子高生だった頃の記憶を、ありありと甦らせる。 かつては毎日、通学のために歩いた道も、今となっては随分と久しぶりだった。   いつも、彼の部屋の窓をチラチラと横目に窺いながら、通り過ぎるだけ―― そう……いつだって、それだけ。 劇的な変化をもたらしてくれるナニかを、ココロのどこかで期待しつつも、 彼女を引き留めるだけの理由は、遂に生まれることがなかった。     今日もまた、あの頃と同じように、何事もなく通り過ぎるだけなのか。 ちょっとだけ寂しい気持ちが、雛苺の胸を苦しくする。 今更だとは解っていても、静電気で貼りついてくる糸くずみたいな未練を、振り払えない。 払おうとすればするほど、却って意識してしまうのだ。 こんなコトでは、ダメ。ブンブンと頭を振って、雑念を粉々に砕く。 しかし、雛苺が足早に行き過ぎようとした矢先、ソレは起こった。 彼の家の門構えから、地を這うように勢いよく飛び出してきた、小さな影。 咄嗟に、猫か犬だと思った。だが、違った。 自転車の接近にビックリして、道のド真ん中で竦んだのは……真っ白なウサギ。   このままでは轢いてしまう。雛苺は息を呑んで、左右のブレーキを握り締めた。 ――が、あまりに強く握りすぎたから、ブツッ!  急なストレスに堪えきれず、ワイヤーが弾けた。   「びゃあぁっ?!」   止まらない。狼狽えるあまり急ハンドルを切り、民家の外壁に激突。 そのまま、雛苺は自転車と共に、バッタリと横倒しになってしまった。 配達途中の品は、幸いにもバッグに収められていたので、ブチ撒けずに済んだ。   時ならぬ甲高い悲鳴と、クラッシュ音を聞いたのだろう。 目を丸くした彼が、門から飛び出してきて…… そこに倒れている雛苺と視線が合うや、ハァ? と眉で八の字を描いた。   「なにやってんだ、おまえ」 「もー! 見れば解るでしょっ! 早く助けてなのーっ」 「……はいはいはい」   さも『しょーがねぇなあ』と言った風情で、彼は自転車を脇にどけて、 雛苺に手を差し伸べた。「大丈夫か?」   「そういうコトは、最初に訊いて欲しかったのよ」 「いや……こんな直線道路で、どうして壁に突っ込むかなぁって。気になるだろ、普通」 「だって! ジュンの家から、ウサギが飛び出してきたんだものっ」 「ウチじゃ飼ってないぞ、ウサギなんか。どうせノラ猫だろ。まったく、人騒がせな」 「ち、違うもん!」   両の拳を握り、ムキになって反論する雛苺のアタマを、彼―― 桜田ジュンは、ぽふぽふと叩いて、愉しげに笑った。   「解った解った。信じてやるよ」 「ぶー。なにその上から目線。失礼しちゃうのよ」 「ちびっこいだけじゃなく、子供っぽさも、相変わらずだな」 「チビはお互い様なのっ!」   べーっ! と舌を出す雛苺に、彼は悠然と、微笑で応える。   あれ? 思いがけない肩透かしに、雛苺は続ける言葉を失った。 高校の頃は、身長のことを口にするだけで、他愛ない罵りの応酬が始まったものだが。 ――たった2年。されど、2年。人が変わるには、充分すぎる時間なのか。   「それにしても、久しぶりだよな。元気そうで、なによりだよ」 「う、うい。ジュンもね」   変わっていないのは……精神的に成長していないのは、自分だけなのかも。 そんな、どこか置いてきぼりにされたような寂しさが、雛苺の胸に広がった。 水面に落とした墨汁の一滴が、ゆっくりと溶け馴染んで、淡い色を着けるみたいに。   それまでの騒がしさから一転、押し黙って俯いた雛苺に、ジュンの心配そうな眼が注がれた。   「どこか痛むのか? ちょっとウチに寄って、姉ちゃんに診てもらえよ」 「う、ううん……平気なのよ」 「いいから、こっち来いって。意地を張ったって、損するだけだぞ」   ――ホントに、平気だから。 言いかけた台詞は、彼女の唇から零れなかった。 なぜなら、ジュンに手を握られた瞬間、息と共に呑み込んでしまったのだから。 自分がアルバイトの途中だったことさえ、綺麗サッパリ忘れていた。     庭先に入ると、雛苺たちは、大小さまざまな荷物の群に出迎えられた。 なにごとだろう。引っ越しの準備だろうか……? 雛苺が訊ねると、ジュンは笑いながら、否定した。   「ないない。物置みたいになってる部屋があってさ。そこの掃除だよ。  姉ちゃんと2人がかりで昨日からやってるんだけど、ちっとも捗らなくて」   なるほど、運び出された品々は、色が変わるくらいに厚く埃を被っている。 開け放したドアの奥にも、まだまだ、あるみたいだ。 それにしても、どれだけ長く寝かせておいたら、こんな風になるのだろう。 眺めているだけで鼻がムズムズして、雛苺は顔を背け、クシャミを堪えた。       「まあまあまあぁ……。久しぶりねぇ、ヒナちゃん」   ジュンの姉、のりは、雛苺と顔を合わせるなり、パッと表情を輝かせた。 それでも、疲労困憊の様相は、隠し切れない。目元が暗く、窶れて見える。 ジュンの言っていたように、片づけに四苦八苦しているようだ。   「姉ちゃん、こいつ、チャリでコケたんだ。ちょっと診てやってよ」 「あらあらぁ、大変。それじゃあ、奥のほうで手当しましょうねぇ~」 「う……そ、そんな大袈裟な。ほっとけば治っちゃうのよ」 「そんなのダメよぅ! 目立たないケガほど、実は怖いんだからぁ。  お姉ちゃん、部活で応急手当の講習を受けたことあるから、任せといて」   ここにきて、やっと、雛苺はアルバイトのことを思い出した。 早く仕事に戻らなければ、日暮れまでに間に合わない。 ――が、のりは治療する気で、救急箱の中身をゴソゴソ探っている。   のりは基本的におおらかで、人当たりがよく、面倒見のいい人間だ。 しかも積極的で、意外に頑固な一面も併せ持っていた。 教師のような、継続的な辛抱強さを求められる職に就くには、いい性格だろう。 しかし、過ぎたるは及ばざるが如し。度が過ぎれば、お節介になってしまう。 ちょうど、今みたいに。   「それじゃあ、お願いしますなの」   雛苺は吐息して、素直に、擦り剥いた箇所を、のりに見せた。 ささっと手当してもらって、引き上げるのが得策。そんな判断からだ。   のりの手際の良さに感心しながら、雛苺は、片づけを手伝おうかと申し出てみた。 明日から週末で、アルバイトは休みだ。急ぎの用事もない。 けれども、彼女は雛苺の気遣いに感謝しながらも、やんわりと断った。 そして、憂いを含む笑みを浮かべた。   「お姉ちゃんね……もうすぐ、この家を離れちゃうのよぅ。  だから、ワガママだけど……後始末だけは、ね。この手で、しておきたくってぇ」 「どうしてなの? ひょっとして、お嫁に行っちゃうの?」   その問いに、彼女は、かぶりを振った。「マンションで、独り暮らし」   「この家にはジュン君と、お嫁さんが暮らすのよぅ」   ――え?  雛苺は胸裡で、のりの台詞を反芻した。3度目で、じわっと実感が戻ってきて…… 4度目にして漸く、アタマが理解した。ジュンは結婚するんだ……と。 考えてみれば、ジュンも自分も、今年で二十歳になる。 それに、服飾系の専門学校に進んだ彼は、この春に卒業して、社会人になるのだ。 所帯を持つのも、早すぎて損をすることはない。   対して、自分はどうか。大学に進んだけれど、休日にデートする恋人もなく。 バイト三昧の日々は、それなりに充足感を与えてくれるが……だけど……。   こういうの、負け犬って言うのかなぁ――なんて。 またぞろ、置いてきぼりにされた気分が甦ってくる。 雛苺は、治療を続けるのりの手元を、ぼんやりと眺めていた。       手当を済ませ、仕事に戻ろうと玄関を出た彼女を、ジュンが待っていた。   「よっ! なんともなかったか?」 「う、うい。ごめんね、心配かけちゃって」   なんとなく顔を合わせにくかったけれど、逃げ去るのも変な気がして、 雛苺は、深呼吸ひとつの後、にっこりとジュンに笑いかけた。   「それより、聞いたのよ。結婚するんですってね。おめでとうなの!」 「お、おう……ありがとな。なんか、本当に急なことでさ。  僕自身、自分のことなのに、まだ実感わいてこないって言うか」 「要するに、浮ついちゃうぐらい幸せってコトなのね」 「まあ、な」   臆面もなく惚気たジュンのみぞおちに、雛苺は頭突きを入れた。 もちろん、軽く。仔猫がじゃれるように。   「ねえねえ。ジュンのお嫁さんって、どんな子? ヒナの知らない人なの?」 「いや、知ってると思うよ。憶えてないかな。高校の頃の、学年のプリンセス」 「……あぁ。あの子なのね」   名前は失念してしまったが、面差しは、微かに憶えていた。 チャーミングという表現と制服がよく似合う、可愛らしい女の子だった。 どういった縁で結ばれたのかは、知る由もないが、いろいろ有ったのだろう。 雛苺が、ジュンと逢わなかった2年の間に。   「それじゃあね、ジュン。また、いつか――」   言って、雛苺はブレーキの壊れた自転車へと歩き出した。 その肩を掴んで引き留める、温かな感触。 ジュンの手は、いつの間にか、大きく力強く成長していた。 大切な誰かを、しっかりと守れるだろう男性的な手に。   「ちょっと待った。おまえに渡そうと思ってた物があるんだ」   言って、彼は、手にしていた古めかしい木箱を、ずいっ……と突き出した。 なぁに? 受け取って、蓋を開いた雛苺の満面が、喜色に満たされてゆく。 それは、80色セットのパステルだった。   「わぁあ……すっごぉい! どうしたの、これっ!」 「物置の整理してて、見つけたんだ。ウチの両親、世界中を飛び回っててさ。  いろんな場所で、アヤシイ物を買い漁っては、ここへ送ってくるんだよ。  蓋の裏に、注意書きっぽいのが貼ってあるんだけど、僕には読めなくってな」   ジュンが読めないということは、ラテン語とか、ロシア語だろうか。 それとも、もっと古い――くさび形文字や、甲骨文字? ……まさかね。雛苺は、蓋をひっくり返してみた。   「なぁんだ。これ、ドイツ語なのよ」 「解るのか? なんて書いてあるんだ」 「うーっと……このパステルで絵を描くと、その絵のとおりになる、って。  まだ続きがあるけど――紙が虫食いになっちゃってて、判読できないのよ」 「……ふん。なんともまあ、胡散臭いもんだな。いかにも、あいつら好みだ」   ――辟易。肩を竦めたジュンの口ぶりは、まさしく、その二文字に尽きた。 彼の小さな悪意に毒されて、柳の葉を想わせる雛苺の眉も、やにわに曇る。 歳の割にナイーブな彼女は日頃から、周囲の些細な機微にも、過敏に反応しがちだった。 それがプラスに作用するなら、素晴らしいインスピレーションも湧くのだろうけれど……。   「ご両親を『あいつら』呼ばわりするなんて、いけないのよ」 「いいんだよ。あんな、ろくでなし連中なんか、どう呼んだってさ。  ここ数年、ずっと会ってないし……もう、親って実感ないね。遠い親戚――みたいな?  そのパステルにしても、どうせ買ったことさえ忘れてんだろうからな、きっと」 「……でもぉ。それなら、ヒナが貰っちゃダメなんじゃないの?」 「構わないさ。ウチにあったって、誰も使わないし。また、ホコリ被ったままになるだけだ。  どんな上等な道具でも、使ってくれる人が居なきゃ、ただのガラクタだろ」   それに……と、少しの間を空けて、ジュンは照れくさそうに続けた。 「高校の時にさ……チョコレート貰ってたのに、いっつも、そのまんまだったから」   数年遅れの、少し早いホワイトデーのお返し――と? 変なところで律儀なんだから。雛苺は呆れて、失笑を禁じ得なかった。 彼らしいと言えば、まあ、らしいのだけれど。   そういう渡され方をされては、女の子の心情として、固辞できなくなってしまう。 このパステルが使い手のないまま、ガラクタにされてしまうのも不憫で…… 結局、雛苺は受け取ってしまった。半ば、押しつけられるカタチで。       と、まあ。こう言うと、いかにも仕方なしの渋々といった趣があるが―― 実のところ、雛苺の喜びようは大層なものだった。 ついさっきまで感じていた、鬱々とした気分が、すっかり消えてしまうほどに。 些か現金だが、気持ちの切り替えが早いのは、彼女の長所なのだ。   小さな頃から絵を描くことが好きだった彼女にとっては、画材すべてが宝物。 ましてや、不思議な効力を秘めたパステルとくれば……。   「ステキ! ステキ! あぁ~ん、なにを描くか迷っちゃうのよー」   残りの配達を片づけているときも、木箱はずっと胸に抱きしめたまま。 いつもなら疲れて重たくなっている両脚も、ステップを踏みたくてウズウズしていた。 すぐにでも試してみたい。貼ってあった説明書が真実なら、凄いことだ。 沸きあがる衝動は、雛苺の心身を、かつて無いほど浮つかせていた。         アルバイトを終えて、寄り道もせずに帰宅。 夕食の時も。風呂で1日の疲れを流し、自室で洗い髪を乾かしている間も。 雛苺のアタマには、あのパステルで絵を描きたい欲求しかなかった。   とりあえず、どんなモチーフなら、実験に最適かしら? 物理的な変化――破損とか、誰にでも簡単に再現できるテーマなら、意味はない。 およそ有り得ない絵を描いて、そのとおりに変化するかを、検証すべきだ。   でも、奇抜なテーマ――たとえば、隕石が自宅の庭に落ちたり――を描いて、 現実になったら厄介だし、その隕石にナゾの物体Xなんかが付いていたら怖すぎる。   じゃあ、自画像は? 雛苺の閃きは、幾ばくもなく、落胆に変わった。 それなら、他者に迷惑はかからない。 でも、効力が本物ならば、少しの失敗でも、取り返しのつかない事態になろう。   ドラクロワやゴヤのような写実的な絵を、狂いなく仕上げられるのであればいい。 だが、キュビズムみたいな自画像を描いて、そのとおりに顔が変わるとしたら―― 交通事故で顔面がグチャグチャに潰れる様を想像して、雛苺は、ブルッと身震いした。   「うぅっ。やっぱり……初めは無難に、静物画でいくのよー」   モデルは、何にしたらいいだろう。雛苺は、ぐるり部屋を見回した。 どうせなら変形しにくかったり、壊れにくい物を選ぶべきだろう。 それでも絵と同じ変化を遂げたなら、パステルの効果を、少しは信じられる。 彼女の視線が、本棚に飾ってある、高さ20センチほどの石像を捉えた。 何年か前、キャンプで訪れた山中に投棄されていた、ベヘモス神像だ。 横たわった状態で、腐葉土に半ば埋もれた姿に、なんとなく愁情を誘われ…… そのままにしておけなくて、わざわざ持ち帰ったものだった。   「うんっ。これなら、簡単に形が変わったりしないから、もってこいなのっ!」   雛苺は愛用のスケッチブックを手に、ベッドに座り込んだ。 明日から週末で、アルバイトは休み。絵を描く時間なら、たっぷりある。 パジャマの袖をたくし上げて、気合いも充分。     きりりと表情を引き結んで、雛苺は、茶色のパステルを手にした。         -つづく-    
    運命の巡り合わせ――とは、大概において、妄想。誤った思い込みである。 その場その時の雰囲気によって、偶然の産物でしかないものに、変なロマンを感じたに過ぎない。   しかし……ごく稀にではあるが、本当の必然にぶつかることもある。 たとえば、希有の品と、彼女の出会いのように―― 気紛れな誰かさんの、退屈しのぎの悪戯に、付き合わされた場合だ。       雛苺が、かつての同級生と約2年ぶりの再会を果たしたのは、3月のはじめ。 桃の節句と呼ばれる、麗らかな日のことだった。   美大生となって2度目に迎える、2ヶ月にもわたる長い春休み。 自転車での配達アルバイトに勤しんでいたとき、彼の家の前を通りがかったのだ。 懐かしい風景が、女子高生だった頃の記憶を、ありありと甦らせる。 かつては毎日、通学のために歩いた道も、今となっては随分と久しぶりだった。   いつも、彼の部屋の窓をチラチラと横目に窺いながら、通り過ぎるだけ―― そう……いつだって、それだけ。 劇的な変化をもたらしてくれるナニかを、ココロのどこかで期待しつつも、 彼女を引き留めるだけの理由は、遂に生まれることがなかった。     今日もまた、あの頃と同じように、何事もなく通り過ぎるだけなのか。 ちょっとだけ寂しい気持ちが、雛苺の胸を苦しくする。 今更だとは解っていても、静電気で貼りついてくる糸くずみたいな未練を、振り払えない。 払おうとすればするほど、却って意識してしまうのだ。 こんなコトでは、ダメ。ブンブンと頭を振って、雑念を粉々に砕く。 しかし、雛苺が足早に行き過ぎようとした矢先、ソレは起こった。 彼の家の門構えから、地を這うように勢いよく飛び出してきた、小さな影。 咄嗟に、猫か犬だと思った。だが、違った。 自転車の接近にビックリして、道のド真ん中で竦んだのは……真っ白なウサギ。   このままでは轢いてしまう。雛苺は息を呑んで、左右のブレーキを握り締めた。 ――が、あまりに強く握りすぎたから、ブツッ!  急なストレスに堪えきれず、ワイヤーが弾けた。   「びゃあぁっ?!」   止まらない。狼狽えるあまり急ハンドルを切り、民家の外壁に激突。 そのまま、雛苺は自転車と共に、バッタリと横倒しになってしまった。 配達途中の品は、幸いにもバッグに収められていたので、ブチ撒けずに済んだ。   時ならぬ甲高い悲鳴と、クラッシュ音を聞いたのだろう。 目を丸くした彼が、門から飛び出してきて…… そこに倒れている雛苺と視線が合うや、ハァ? と眉で八の字を描いた。   「なにやってんだ、おまえ」 「もー! 見れば解るでしょっ! 早く助けてなのーっ」 「……はいはいはい」   さも『しょーがねぇなあ』と言った風情で、彼は自転車を脇にどけて、 雛苺に手を差し伸べた。「大丈夫か?」   「そういうコトは、最初に訊いて欲しかったのよ」 「いや……こんな直線道路で、どうして壁に突っ込むかなぁって。気になるだろ、普通」 「だって! ジュンの家から、ウサギが飛び出してきたんだものっ」 「ウチじゃ飼ってないぞ、ウサギなんか。どうせノラ猫だろ。まったく、人騒がせな」 「ち、違うもん!」   両の拳を握り、ムキになって反論する雛苺のアタマを、彼―― 桜田ジュンは、ぽふぽふと叩いて、愉しげに笑った。   「解った解った。信じてやるよ」 「ぶー。なにその上から目線。失礼しちゃうのよ」 「ちびっこいだけじゃなく、子供っぽさも、相変わらずだな」 「チビはお互い様なのっ!」   べーっ! と舌を出す雛苺に、彼は悠然と、微笑で応える。   あれ? 思いがけない肩透かしに、雛苺は続ける言葉を失った。 高校の頃は、身長のことを口にするだけで、他愛ない罵りの応酬が始まったものだが。 ――たった2年。されど、2年。人が変わるには、充分すぎる時間なのか。   「それにしても、久しぶりだよな。元気そうで、なによりだよ」 「う、うい。ジュンもね」   変わっていないのは……精神的に成長していないのは、自分だけなのかも。 そんな、どこか置いてきぼりにされたような寂しさが、雛苺の胸に広がった。 水面に落とした墨汁の一滴が、ゆっくりと溶け馴染んで、淡い色を着けるみたいに。   それまでの騒がしさから一転、押し黙って俯いた雛苺に、ジュンの心配そうな眼が注がれた。   「どこか痛むのか? ちょっとウチに寄って、姉ちゃんに診てもらえよ」 「う、ううん……平気なのよ」 「いいから、こっち来いって。意地を張ったって、損するだけだぞ」   ――ホントに、平気だから。 言いかけた台詞は、彼女の唇から零れなかった。 なぜなら、ジュンに手を握られた瞬間、息と共に呑み込んでしまったのだから。 自分がアルバイトの途中だったことさえ、綺麗サッパリ忘れていた。     庭先に入ると、雛苺たちは、大小さまざまな荷物の群に出迎えられた。 なにごとだろう。引っ越しの準備だろうか……? 雛苺が訊ねると、ジュンは笑いながら、否定した。   「ないない。物置みたいになってる部屋があってさ。そこの掃除だよ。  姉ちゃんと2人がかりで昨日からやってるんだけど、ちっとも捗らなくて」   なるほど、運び出された品々は、色が変わるくらいに厚く埃を被っている。 開け放したドアの奥にも、まだまだ、あるみたいだ。 それにしても、どれだけ長く寝かせておいたら、こんな風になるのだろう。 眺めているだけで鼻がムズムズして、雛苺は顔を背け、クシャミを堪えた。       「まあまあまあぁ……。久しぶりねぇ、ヒナちゃん」   ジュンの姉、のりは、雛苺と顔を合わせるなり、パッと表情を輝かせた。 それでも、疲労困憊の様相は、隠し切れない。目元が暗く、窶れて見える。 ジュンの言っていたように、片づけに四苦八苦しているようだ。   「姉ちゃん、こいつ、チャリでコケたんだ。ちょっと診てやってよ」 「あらあらぁ、大変。それじゃあ、奥のほうで手当しましょうねぇ~」 「う……そ、そんな大袈裟な。ほっとけば治っちゃうのよ」 「そんなのダメよぅ! 目立たないケガほど、実は怖いんだからぁ。  お姉ちゃん、部活で応急手当の講習を受けたことあるから、任せといて」   ここにきて、やっと、雛苺はアルバイトのことを思い出した。 早く仕事に戻らなければ、日暮れまでに間に合わない。 ――が、のりは治療する気で、救急箱の中身をゴソゴソ探っている。   のりは基本的におおらかで、人当たりがよく、面倒見のいい人間だ。 しかも積極的で、意外に頑固な一面も併せ持っていた。 教師のような、継続的な辛抱強さを求められる職に就くには、いい性格だろう。 しかし、過ぎたるは及ばざるが如し。度が過ぎれば、お節介になってしまう。 ちょうど、今みたいに。   「それじゃあ、お願いしますなの」   雛苺は吐息して、素直に、擦り剥いた箇所を、のりに見せた。 ささっと手当してもらって、引き上げるのが得策。そんな判断からだ。   のりの手際の良さに感心しながら、雛苺は、片づけを手伝おうかと申し出てみた。 明日から週末で、アルバイトは休みだ。急ぎの用事もない。 けれども、彼女は雛苺の気遣いに感謝しながらも、やんわりと断った。 そして、憂いを含む笑みを浮かべた。   「お姉ちゃんね……もうすぐ、この家を離れちゃうのよぅ。  だから、ワガママだけど……後始末だけは、ね。この手で、しておきたくってぇ」 「どうしてなの? ひょっとして、お嫁に行っちゃうの?」   その問いに、彼女は、かぶりを振った。「マンションで、独り暮らし」   「この家にはジュン君と、お嫁さんが暮らすのよぅ」   ――え?  雛苺は胸裡で、のりの台詞を反芻した。3度目で、じわっと実感が戻ってきて…… 4度目にして漸く、アタマが理解した。ジュンは結婚するんだ……と。 考えてみれば、ジュンも自分も、今年で二十歳になる。 それに、服飾系の専門学校に進んだ彼は、この春に卒業して、社会人になるのだ。 所帯を持つのも、早すぎて損をすることはない。   対して、自分はどうか。大学に進んだけれど、休日にデートする恋人もなく。 バイト三昧の日々は、それなりに充足感を与えてくれるが……だけど……。   こういうの、負け犬って言うのかなぁ――なんて。 またぞろ、置いてきぼりにされた気分が甦ってくる。 雛苺は、治療を続けるのりの手元を、ぼんやりと眺めていた。       手当を済ませ、仕事に戻ろうと玄関を出た彼女を、ジュンが待っていた。   「よっ! なんともなかったか?」 「う、うい。ごめんね、心配かけちゃって」   なんとなく顔を合わせにくかったけれど、逃げ去るのも変な気がして、 雛苺は、深呼吸ひとつの後、にっこりとジュンに笑いかけた。   「それより、聞いたのよ。結婚するんですってね。おめでとうなの!」 「お、おう……ありがとな。なんか、本当に急なことでさ。  僕自身、自分のことなのに、まだ実感わいてこないって言うか」 「要するに、浮ついちゃうぐらい幸せってコトなのね」 「まあ、な」   臆面もなく惚気たジュンのみぞおちに、雛苺は頭突きを入れた。 もちろん、軽く。仔猫がじゃれるように。   「ねえねえ。ジュンのお嫁さんって、どんな子? ヒナの知らない人なの?」 「いや、知ってると思うよ。憶えてないかな。高校の頃の、学年のプリンセス」 「……あぁ。あの子なのね」   名前は失念してしまったが、面差しは、微かに憶えていた。 チャーミングという表現と制服がよく似合う、可愛らしい女の子だった。 どういった縁で結ばれたのかは、知る由もないが、いろいろ有ったのだろう。 雛苺が、ジュンと逢わなかった2年の間に。   「それじゃあね、ジュン。また、いつか――」   言って、雛苺はブレーキの壊れた自転車へと歩き出した。 その肩を掴んで引き留める、温かな感触。 ジュンの手は、いつの間にか、大きく力強く成長していた。 大切な誰かを、しっかりと守れるだろう男性的な手に。   「ちょっと待った。おまえに渡そうと思ってた物があるんだ」   言って、彼は、手にしていた古めかしい木箱を、ずいっ……と突き出した。 なぁに? 受け取って、蓋を開いた雛苺の満面が、喜色に満たされてゆく。 それは、80色セットのパステルだった。   「わぁあ……すっごぉい! どうしたの、これっ!」 「物置の整理してて、見つけたんだ。ウチの両親、世界中を飛び回っててさ。  いろんな場所で、アヤシイ物を買い漁っては、ここへ送ってくるんだよ。  蓋の裏に、注意書きっぽいのが貼ってあるんだけど、僕には読めなくってな」   ジュンが読めないということは、ラテン語とか、ロシア語だろうか。 それとも、もっと古い――くさび形文字や、甲骨文字? ……まさかね。雛苺は、蓋をひっくり返してみた。   「なぁんだ。これ、ドイツ語なのよ」 「解るのか? なんて書いてあるんだ」 「うーっと……このパステルで絵を描くと、その絵のとおりになる、って。  まだ続きがあるけど――紙が虫食いになっちゃってて、判読できないのよ」 「……ふん。なんともまあ、胡散臭いもんだな。いかにも、あいつら好みだ」   ――辟易。肩を竦めたジュンの口ぶりは、まさしく、その二文字に尽きた。 彼の小さな悪意に毒されて、柳の葉を想わせる雛苺の眉も、やにわに曇る。 歳の割にナイーブな彼女は日頃から、周囲の些細な機微にも、過敏に反応しがちだった。 それがプラスに作用するなら、素晴らしいインスピレーションも湧くのだろうけれど……。   「ご両親を『あいつら』呼ばわりするなんて、いけないのよ」 「いいんだよ。あんな、ろくでなし連中なんか、どう呼んだってさ。  ここ数年、ずっと会ってないし……もう、親って実感ないね。遠い親戚――みたいな?  そのパステルにしても、どうせ買ったことさえ忘れてんだろうからな、きっと」 「……でもぉ。それなら、ヒナが貰っちゃダメなんじゃないの?」 「構わないさ。ウチにあったって、誰も使わないし。また、ホコリ被ったままになるだけだ。  どんな上等な道具でも、使ってくれる人が居なきゃ、ただのガラクタだろ」   それに……と、少しの間を空けて、ジュンは照れくさそうに続けた。 「高校の時にさ……チョコレート貰ってたのに、いっつも、そのまんまだったから」   数年遅れの、少し早いホワイトデーのお返し――と? 変なところで律儀なんだから。雛苺は呆れて、失笑を禁じ得なかった。 彼らしいと言えば、まあ、らしいのだけれど。   そういう渡され方をされては、女の子の心情として、固辞できなくなってしまう。 このパステルが使い手のないまま、ガラクタにされてしまうのも不憫で…… 結局、雛苺は受け取ってしまった。半ば、押しつけられるカタチで。       と、まあ。こう言うと、いかにも仕方なしの渋々といった趣があるが―― 実のところ、雛苺の喜びようは大層なものだった。 ついさっきまで感じていた、鬱々とした気分が、すっかり消えてしまうほどに。 些か現金だが、気持ちの切り替えが早いのは、彼女の長所なのだ。   小さな頃から絵を描くことが好きだった彼女にとっては、画材すべてが宝物。 ましてや、不思議な効力を秘めたパステルとくれば……。   「ステキ! ステキ! あぁ~ん、なにを描くか迷っちゃうのよー」   残りの配達を片づけているときも、木箱はずっと胸に抱きしめたまま。 いつもなら疲れて重たくなっている両脚も、ステップを踏みたくてウズウズしていた。 すぐにでも試してみたい。貼ってあった説明書が真実なら、凄いことだ。 沸きあがる衝動は、雛苺の心身を、かつて無いほど浮つかせていた。         アルバイトを終えて、寄り道もせずに帰宅。 夕食の時も。風呂で1日の疲れを流し、自室で洗い髪を乾かしている間も。 雛苺のアタマには、あのパステルで絵を描きたい欲求しかなかった。   とりあえず、どんなモチーフなら、実験に最適かしら? 物理的な変化――破損とか、誰にでも簡単に再現できるテーマなら、意味はない。 およそ有り得ない絵を描いて、そのとおりに変化するかを、検証すべきだ。   でも、奇抜なテーマ――たとえば、隕石が自宅の庭に落ちたり――を描いて、 現実になったら厄介だし、その隕石にナゾの物体Xなんかが付いていたら怖すぎる。   じゃあ、自画像は? 雛苺の閃きは、幾ばくもなく、落胆に変わった。 それなら、他者に迷惑はかからない。 でも、効力が本物ならば、少しの失敗でも、取り返しのつかない事態になろう。   ドラクロワやゴヤのような写実的な絵を、狂いなく仕上げられるのであればいい。 だが、キュビズムみたいな自画像を描いて、そのとおりに顔が変わるとしたら―― 交通事故で顔面がグチャグチャに潰れる様を想像して、雛苺は、ブルッと身震いした。   「うぅっ。やっぱり……初めは無難に、静物画でいくのよー」   モデルは、何にしたらいいだろう。雛苺は、ぐるり部屋を見回した。 どうせなら変形しにくかったり、壊れにくい物を選ぶべきだろう。 それでも絵と同じ変化を遂げたなら、パステルの効果を、少しは信じられる。 彼女の視線が、本棚に飾ってある、高さ20センチほどの石像を捉えた。 何年か前、キャンプで訪れた山中に投棄されていた、ベヘモス神像だ。 横たわった状態で、腐葉土に半ば埋もれた姿に、なんとなく愁情を誘われ…… そのままにしておけなくて、わざわざ持ち帰ったものだった。   「うんっ。これなら、簡単に形が変わったりしないから、もってこいなのっ!」   雛苺は愛用のスケッチブックを手に、ベッドに座り込んだ。 明日から週末で、アルバイトは休み。絵を描く時間なら、たっぷりある。 パジャマの袖をたくし上げて、気合いも充分。     きりりと表情を引き結んで、雛苺は、茶色のパステルを手にした。         [[-つづく->『パステル』 -2-]]    

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