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『パステル』 -9-」(2009/03/01 (日) 02:28:27) の最新版変更点

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    薄っぺらなガラス一枚で隔てられた向こうは、宵の口。 引きも切らさず車窓を過ぎゆく光華は、夜の訪れるにつれて数を増してゆく。   薔薇水晶と、雛苺――疾駆する車内に、2人だけ。 ジョナサンの駐車場を出てから、もう相当な時間が経っていた。 助手席に座る雛苺は、窓越しの景色に、そわそわと目を彷徨わせるばかりで。 その落ち着きのなさは、隠し事が下手な彼女の、逡巡の表れだった。     薔薇水晶が見せてくれた、携帯電話の待ち受け画像―― たおやかな乙女の微笑みが、雛苺のアタマに焼き付いて離れなかった。   あの銀髪の女性が、水銀燈その人であるなら…… 真紅に教えれば、すべての予定をキャンセルしてでも、同行を申し出たに違いない。 彼女は、それこそ無我夢中で、幼なじみの行方を探していたのだから。   けれど……そうと知っていながら、雛苺は敢えて、真紅に伝えなかった。 正確には、言い出す余裕がなかった。 いきなりのことでアタマが働かず、金糸雀かサラに、伝言を頼む発想もなくて。   「あの、ね」   信号待ちで停車したのを見計らって、雛苺は切り出す。 「なに?」と、ハンドルを握る薔薇水晶が、不思議そうに首を捻った。 「おトイレ……行きたくなった? なら、どこかのコンビニに――」   そうじゃなくて。 雛苺は、頭と手を横に振って、続けた。「訊き忘れてたのよ」   さらに言いかけたところで、間が悪く、信号が青に変わる。 薔薇水晶は前に向きなおると、徐に、アクセルを踏み込んだ。 思いがけず急な加速が、彼女たちの痩身を、ぐん……と、シートに沈み込ませる。 いつもより重たく感じるアタマを、ヘッドレストに預けたまま、雛苺は口を開いた。   「薔薇水晶の、お姉ちゃんのことだけど――」   運命の糸車は、この車のタイヤと同じ速さで、目まぐるしく廻りだしている。 それによって紡がれる糸は一体、どのような未来を、たぐり寄せているのだろう。 およそ考えにくいことだが、他人のそら似という可能性は、捨てきれない。 本人だったとしても、決別の理由が理由だけに、いきなり引き合わせるのは、どうか……。   やはり、実際に会って、確かめてからにしよう。再会の席は、日を改めて設ければいい。 ――と、さんざん悩んで辿り着いた結論ながらも、雛苺は依然、迷いを払拭できずにいた。 進むべきなのか。今更ながらでも、取って返すべきなのか。   雛苺は、頬に不自然な強ばりを感じた。携帯電話を握る手にも、チカラが入っている。 ひとつのことに気を取られると、知らず、胸に蟠る煩悶が顔に表れてしまう。 巧く立ち回れない自分。自嘲めいた作り笑いで、強ばりを突き崩し、雛苺は続けた。   「お名前は、なんていうなの?」 「有栖川アリス」   目の覚めるような即答。「推理作家みたいで、かっこいいでしょ」 言って、薔薇水晶は「でも、文章は苦手らしいけど」と、口元を弛めた。   一方、雛苺は『鍵姫物語』という漫画を想像していたが、 その話題を出汁にして、薔薇水晶と一緒になって笑う気には、なれなかった。 真に欲する答えを得られなかった憤懣が、そうさせていたのだ。    「水銀燈……じゃなくて?」試みに、彼女は手の内にあるカードを一枚、明かしてみる。 ――が、薔薇水晶は、きょとんとした面持ちで、素っ気なく「誰、それ?」と。   しらばっくれている風ではない。少なくとも、雛苺には、そう感じられた。 大体、それらしい嘘を吐くのなら、答えるまでに不自然な間が空きそうなものだ。 それがない……と言うことは、本当に知らないのか。 さもなくば、どんな時でも自然体を装えるように、普段から訓練されているのか。   雛苺は、我ながら荒唐無稽な発想に、微苦笑を禁じ得なかった。 まったくないと言い切る根拠もないが、それにしても、後者の線は考えにくい。 やはり、本当に知らないと見るのが正解だろう。   と言って、有栖川アリスという女性が、赤の他人と断定するのは早計にすぎる。 水銀燈が身分を隠すために、名を偽っているのかも知れない。 はたまた、別の理由だって考えられる。 たとえば、花瓶をぶつけられた後遺症で、記憶障害を引き起こしている……とか。   挙げようと思えば、推測の2、3は列記できた。 だが、それらはすべて雛苺の勝手な見解であり、およそ適正とは言い難い。 話したことは疎か、会ってさえないのだから、率直に言えば中傷の類だ。 真紅に聞かされた話だけでは、水銀燈の本当の姿まで見抜けるはずもなかった。   「うっと……ね。ちょっと、失礼なコト訊いてもいい?」 「……程度にもよるわ」   いきなり、薔薇水晶の声に、不穏な響きが宿る。 「侮辱するなら、友だちでも許さない」   「ち、違うの! そういう意味じゃなくて」 「じゃあ……なに?」 「2人は、実の姉妹なのかなって」 「違う」   またもや即答。しかも、えらく端的だ。 人見知りとまでは言わずとも、口数の少なさが、内向的な感じを醸している。 雛苺は薔薇水晶に対して、会話慣れしていない印象を抱いた。 友だちが少ない……と言っていたのは、紛れもない事実なのだろう。   「それじゃ、お隣とか、ご近所の人? いつから知り合いなの?」   こういうタイプは、趣味とか、共通の話題になると、急に多弁になったりする。 それを知っていた雛苺が水を向けると、案の定、薔薇水晶は滔々と語り始めた。 彼女の話によれば、2年ほど前の事件が、発端だという。   「うちの前で倒れていたの。ひどく衰弱してて――昏睡状態だった。  お医者さまにも、あと少しで手遅れだったって言われた」   しかも、この行き倒れ娘は、一冊の小説と、わずかな小銭しか持っていなかった。 名前はもちろん、どこの誰とも判らず。外国人である可能性も、否定できない。 と言って、瀕死の病身と知りつつ厄介払いするなんてワケにもいかず…… やむを得ず、薔薇水晶の父親が、医療費などを肩代わりしたとのことだった。   「警察には、通報しなかったなの?」 「そのつもりだった。なにかの事件に、巻き込まれたのかも知れないから」   それが当然の判断だし、常識的な対応だ。 身元の証明が為されれば、そちらの親族に、立て替えた医療費も請求できる。   ところが、薔薇水晶は「でもね――」と。 そう簡単な話ではなかったことを、暗に告げた。   「話を聞いたら、お姉ちゃんには、身寄りがないことが判って」 「それなら、なおさら警察に任せたほうが、よかったんじゃないの?」   だのに、有栖川女史は今なお、『お姉ちゃん』のポジションに収まっている。 警察への通報が、なされなかった証拠だ。 どうして? 雛苺が問うと、薔薇水晶は当時のことを思い出したらしく、声を落とした。   「だって……お姉ちゃん、泣きながら縋りついてきて、お願いするんだもの。  それだけは、やめて。なんでもするから、そばに置いてください……って」   なぜ、そこまで警察沙汰になることを嫌がるのだろう。 事件に巻き込まれているのか訊くと、それについては、きっぱり否定したという。 薔薇水晶も、彼女の父親も、理解に苦しんだろうことは想像に難くない。   「仕方ないから、お医者さまとも相談して、うちで預かることになった。  症状が快復して、気持ちが落ち着けば、彼女の考えも変わるだろうと――」   そして、2年を経てなお、家族ごっこは続いているワケだ。 ぬるま湯に浸かるような生活の心地よさに溺れ、闖入者への警戒心さえ忘れて。 それほどまでに、有栖川と名乗った女性は、出来た人物なのだろうか。   「お姉ちゃんって、どんな人なの?」   ややあって放たれた雛苺の問い掛けに、薔薇水晶は一転して、声を弾ませる。 「とってもステキな人! 優しいし、知的だし……私にとって憧れの存在よ」   随分とまあ、懐いている。 人づきあいに奥手らしい薔薇水晶をして、ここまで慕わしめるのだから、 確かに、並大抵の女性ではないようだ。 少なくとも、人心を掌握する術には長けているみたいと、雛苺は推察した。   如才ない才媛―― 真紅の自宅で、初めて水銀燈の写真を見たときの直感が、胸に甦る。 よく言えば怜悧。悪く言えば狡猾。 考えれば考えるほど、まだ見ぬ『お姉ちゃん』に、水銀燈のイメージが重なる。   「ヒナも、早く会ってみたいのよ。とっても楽しみなの」   雛苺は、胸の動悸を抑え込むように手を当てながら、にこやかに返した。 その言葉も、笑顔も、決して社交辞令のお愛想などではなかった。     ~  ~  ~   ――右肩を揺すられ、雛苺は、「ぴゃぁっ」と息を呑んで仰け反った。 いつの間にか、微睡んでいたらしい。 指先で目元をこすりつつ、左に顔を向けた彼女の視界を、コンクリート壁が遮った。   「着いた……なの?」 「うん。車庫入れが済んだとこ」   皓々たる蛍光灯の明かりが、彼女らの置かれた世界の全貌を、露わにしている。 薔薇水晶の言葉どおり、ガレージなのだろう。 車のボンネットの先には、頑丈そうなシャッターが降ろされていた。   「ここから、すぐ家に入れる」   ついてきて、と。買い物袋を手にして、薔薇水晶は車を降りた。 彼女を追いかけて、雛苺もドアを開ける。 あらためて見渡すガレージは、意外に広く、物置も兼ねているらしかった。   「……こっちよ」 「あっ、待ってなの」   薔薇水晶は既に、ガレージの片隅に設けられたドアのノブに、キーを差し込んでいた。 そこが、本来の玄関に抜けるための通路なのだろう。 開けられたドア越しに、上へと続く階段が見えた。 ガレージ内の消灯と、ドアの施錠を済ませて、薔薇水晶が先に立つ。   「足元、気をつけてね」 「うい」   雛苺はデイパックを背負いなおして、しっかりと足を踏みしめる。「んしょんしょ」 そうして、コンクリート製の階段を十段ほど登ると、やおら視界が開けた。 小さなロビー。足元は、茶褐色のタイル張り。重厚なウッドのドアが、ひとつ。 早い話が、この家の玄関だった。   「ただいま」   薔薇水晶の呼びかけに、家の奥から、ぺたしぺたし……。 小走りに近づいてくるスリッパの音と、鈴の音を思わす女性の声が、2人を出迎える。   「お帰りなさぁい」   瞬間、雛苺の全身を、電気が駆け抜けた。 その声の主こそ、彼女が会いたいと切望した人だと、直感で悟っていた。 おずおずと顔を上げれば、銀糸のような髪をリボンで束ねた、エプロン姿の女性が……。   やっと会えた。興味本位で先走った感はあるが、それ以上に、歓喜の念が勝っている。 逸る気持ちが、雛苺の足を、前に出させたがっている。 だが一方で、緊張のあまり身体が竦み、腰が引けるのを抑えきれない。 ――結局、雛苺は薔薇水晶の背に隠れて、固唾を呑むことしかできずに。   「ただいま、お姉ちゃん。友だち……連れてきた」 「あらぁ、珍しい。その子ね? いらっしゃぁい」   口振りこそ大仰な感じだけれど、その表情は、とても嬉しそうだ。 「こんばんわぁ」と向けられた笑顔に勇気を得て、雛苺もはにかみ、進み出た。   「う、と……こ、こんばんわ、なのよ。雛苺っていいます、よろしくなの」 「私の名前は、有栖川アリスよ。こちらこそ、よろしくねぇ」   歌うように言って、有栖川は、たおやかにお辞儀をした。 なんとも落ち着いた物腰だ。親しげで、取っつき難さや、壁を感じさせない。 その割に、押しつけがましさや、ベタベタした馴れ馴れしさなどなくて…… 雛苺は、沢を吹き抜ける風に包まれたような、爽やかな心持ちにさせられた。   「さぁさぁ。挨拶は、このくらいにしておきましょう。  お客さまを、いつまでも玄関に立たせてるなんて、失礼にも程があるわぁ」 「そだね。雛苺……遠慮なく上がって」   そこへもって、2人から誘われれば、断れるはずもない。 もっとも、雛苺とて最初から、すんなり引き上げる気ではなかったけれど。 「それじゃ……ちょっとだけ、お邪魔しますなの」 「ちょっとだなんて言わず、お夕飯、食べていかない?」   三和土に腰を降ろした薔薇水晶が、靴を脱ぎながら、雛苺に訊ねる。 そして間髪いれず、振り返って、もう一言。「いいよね、お姉ちゃん?」 問われた有栖川は、慌てた様子もなく頷いた。   「ええ。材料なら残ってるし、もう1人分くらい、すぐに用意できるわ。  貴女は先に、お風呂に入ってきちゃいなさぁい」 「そうする。これ……ローザミスティカ。教えてもらったお店で、買ってきた」   ずい、と。薔薇水晶が、紅茶の缶が詰まった袋を差し出す。 その思いがけない量には、さすがの有栖川も目を丸くした。   「あらまぁ。随分と、まとめ買いしてきたのねぇ」 「7種類もあったから……ひととおり揃えてみたの。こんぷりーと」 「それじゃ、食後に頂く紅茶は、先生に選んでもらいしょうねぇ」   くすくす……。有栖川は、幸せそうに微笑みながら、袋を受け取った。 こうして見ると、お姉ちゃんというより、むしろ若いお母さん、みたいな印象だ。 些細な立ち居振る舞いにも、大きな包容力を感じとれた。   軽やかに階段を昇ってゆく薔薇水晶を見送ると、有栖川は、その笑顔を雛苺へと向けた。   「さ、貴女も、上がってちょうだぁい。すぐに、お茶を煎れるわね」 「あの……ホントに、お構いなくなのよ」   もちろん、それは建前。本音は、大いに構ってもらいたかった。 理想は、2人っきりで話せる状況だけれど……どうやって、そこまで誘導したものか。   雛苺のアタマに、あのパステルが思い浮かぶ。 ……が、悠長に絵を描く暇があるなら、折を見て、直撃リポートするほうが早かろう。 声を掛けるキッカケを見つけたら、それらしいネタ振りで―― たとえば、彼女が倒れるときまで持っていたという、小説についてでもいい。     チャンスは食後の、わずかな時間。 それまでは、自然な動作を心がけなければ。 くれぐれも、意識しすぎてボロを出さないように。     前を行く有栖川の、さらさらと揺れる銀髪と腰つきに目を注ぎながら、 雛苺は、それに向けてのディスカッションを始めていた。         [[-つづく->『パステル』 -10-]]    
    薄っぺらなガラス一枚で隔てられた向こうは、宵の口。 引きも切らさず車窓を過ぎゆく光華は、夜の訪れるにつれて数を増してゆく。   薔薇水晶と、雛苺――疾駆する車内に、2人だけ。 ジョナサンの駐車場を出てから、もう相当な時間が経っていた。 助手席に座る雛苺は、窓越しの景色に、そわそわと目を彷徨わせるばかりで。 その落ち着きのなさは、隠し事が下手な彼女の、逡巡の表れだった。     薔薇水晶が見せてくれた、携帯電話の待ち受け画像―― たおやかな乙女の微笑みが、雛苺のアタマに焼き付いて離れなかった。   あの銀髪の女性が、水銀燈その人であるなら…… 真紅に教えれば、すべての予定をキャンセルしてでも、同行を申し出たに違いない。 彼女は、それこそ無我夢中で、幼なじみの行方を探していたのだから。   けれど……そうと知っていながら、雛苺は敢えて、真紅に伝えなかった。 正確には、言い出す余裕がなかった。 いきなりのことでアタマが働かず、金糸雀かサラに、伝言を頼む発想もなくて。   「あの、ね」   信号待ちで停車したのを見計らって、雛苺は切り出す。 「なに?」と、ハンドルを握る薔薇水晶が、不思議そうに首を捻った。 「おトイレ……行きたくなった? なら、どこかのコンビニに――」   そうじゃなくて。 雛苺は、頭と手を横に振って、続けた。「訊き忘れてたのよ」   さらに言いかけたところで、間が悪く、信号が青に変わる。 薔薇水晶は前に向きなおると、徐に、アクセルを踏み込んだ。 思いがけず急な加速が、彼女たちの痩身を、ぐん……と、シートに沈み込ませる。 いつもより重たく感じるアタマを、ヘッドレストに預けたまま、雛苺は口を開いた。   「薔薇水晶の、お姉ちゃんのことだけど――」   運命の糸車は、この車のタイヤと同じ速さで、目まぐるしく廻りだしている。 それによって紡がれる糸は一体、どのような未来を、たぐり寄せているのだろう。 およそ考えにくいことだが、他人のそら似という可能性は、捨てきれない。 本人だったとしても、決別の理由が理由だけに、いきなり引き合わせるのは、どうか……。   やはり、実際に会って、確かめてからにしよう。再会の席は、日を改めて設ければいい。 ――と、さんざん悩んで辿り着いた結論ながらも、雛苺は依然、迷いを払拭できずにいた。 進むべきなのか。今更ながらでも、取って返すべきなのか。   雛苺は、頬に不自然な強ばりを感じた。携帯電話を握る手にも、チカラが入っている。 ひとつのことに気を取られると、知らず、胸に蟠る煩悶が顔に表れてしまう。 巧く立ち回れない自分。自嘲めいた作り笑いで、強ばりを突き崩し、雛苺は続けた。   「お名前は、なんていうなの?」 「有栖川アリス」   目の覚めるような即答。「推理作家みたいで、かっこいいでしょ」 言って、薔薇水晶は「でも、文章は苦手らしいけど」と、口元を弛めた。   一方、雛苺は『鍵姫物語』という漫画を想像していたが、 その話題を出汁にして、薔薇水晶と一緒になって笑う気には、なれなかった。 真に欲する答えを得られなかった憤懣が、そうさせていたのだ。    「水銀燈……じゃなくて?」試みに、彼女は手の内にあるカードを一枚、明かしてみる。 ――が、薔薇水晶は、きょとんとした面持ちで、素っ気なく「誰、それ?」と。   しらばっくれている風ではない。少なくとも、雛苺には、そう感じられた。 大体、それらしい嘘を吐くのなら、答えるまでに不自然な間が空きそうなものだ。 それがない……と言うことは、本当に知らないのか。 さもなくば、どんな時でも自然体を装えるように、普段から訓練されているのか。   雛苺は、我ながら荒唐無稽な発想に、微苦笑を禁じ得なかった。 まったくないと言い切る根拠もないが、それにしても、後者の線は考えにくい。 やはり、本当に知らないと見るのが正解だろう。   と言って、有栖川アリスという女性が、赤の他人と断定するのは早計にすぎる。 水銀燈が身分を隠すために、名を偽っているのかも知れない。 はたまた、別の理由だって考えられる。 たとえば、花瓶をぶつけられた後遺症で、記憶障害を引き起こしている……とか。   挙げようと思えば、推測の2、3は列記できた。 だが、それらはすべて雛苺の勝手な見解であり、およそ適正とは言い難い。 話したことは疎か、会ってさえないのだから、率直に言えば中傷の類だ。 真紅に聞かされた話だけでは、水銀燈の本当の姿まで見抜けるはずもなかった。   「うっと……ね。ちょっと、失礼なコト訊いてもいい?」 「……程度にもよるわ」   いきなり、薔薇水晶の声に、不穏な響きが宿る。 「侮辱するなら、友だちでも許さない」   「ち、違うの! そういう意味じゃなくて」 「じゃあ……なに?」 「2人は、実の姉妹なのかなって」 「違う」   またもや即答。しかも、えらく端的だ。 人見知りとまでは言わずとも、口数の少なさが、内向的な感じを醸している。 雛苺は薔薇水晶に対して、会話慣れしていない印象を抱いた。 友だちが少ない……と言っていたのは、紛れもない事実なのだろう。   「それじゃ、お隣とか、ご近所の人? いつから知り合いなの?」   こういうタイプは、趣味とか、共通の話題になると、急に多弁になったりする。 それを知っていた雛苺が水を向けると、案の定、薔薇水晶は滔々と語り始めた。 彼女の話によれば、2年ほど前の事件が、発端だという。   「うちの前で倒れていたの。ひどく衰弱してて――昏睡状態だった。  お医者さまにも、あと少しで手遅れだったって言われた」   しかも、この行き倒れ娘は、一冊の小説と、わずかな小銭しか持っていなかった。 名前はもちろん、どこの誰とも判らず。外国人である可能性も、否定できない。 と言って、瀕死の病身と知りつつ厄介払いするなんてワケにもいかず…… やむを得ず、薔薇水晶の父親が、医療費などを肩代わりしたとのことだった。   「警察には、通報しなかったなの?」 「そのつもりだった。なにかの事件に、巻き込まれたのかも知れないから」   それが当然の判断だし、常識的な対応だ。 身元の証明が為されれば、そちらの親族に、立て替えた医療費も請求できる。   ところが、薔薇水晶は「でもね――」と。 そう簡単な話ではなかったことを、暗に告げた。   「話を聞いたら、お姉ちゃんには、身寄りがないことが判って」 「それなら、なおさら警察に任せたほうが、よかったんじゃないの?」   だのに、有栖川女史は今なお、『お姉ちゃん』のポジションに収まっている。 警察への通報が、なされなかった証拠だ。 どうして? 雛苺が問うと、薔薇水晶は当時のことを思い出したらしく、声を落とした。   「だって……お姉ちゃん、泣きながら縋りついてきて、お願いするんだもの。  それだけは、やめて。なんでもするから、そばに置いてください……って」   なぜ、そこまで警察沙汰になることを嫌がるのだろう。 事件に巻き込まれているのか訊くと、それについては、きっぱり否定したという。 薔薇水晶も、彼女の父親も、理解に苦しんだろうことは想像に難くない。   「仕方ないから、お医者さまとも相談して、うちで預かることになった。  症状が快復して、気持ちが落ち着けば、彼女の考えも変わるだろうと――」   そして、2年を経てなお、家族ごっこは続いているワケだ。 ぬるま湯に浸かるような生活の心地よさに溺れ、闖入者への警戒心さえ忘れて。 それほどまでに、有栖川と名乗った女性は、出来た人物なのだろうか。   「お姉ちゃんって、どんな人なの?」   ややあって放たれた雛苺の問い掛けに、薔薇水晶は一転して、声を弾ませる。 「とってもステキな人! 優しいし、知的だし……私にとって憧れの存在よ」   随分とまあ、懐いている。 人づきあいに奥手らしい薔薇水晶をして、ここまで慕わしめるのだから、 確かに、並大抵の女性ではないようだ。 少なくとも、人心を掌握する術には長けているみたいと、雛苺は推察した。   如才ない才媛―― 真紅の自宅で、初めて水銀燈の写真を見たときの直感が、胸に甦る。 よく言えば怜悧。悪く言えば狡猾。 考えれば考えるほど、まだ見ぬ『お姉ちゃん』に、水銀燈のイメージが重なる。   「ヒナも、早く会ってみたいのよ。とっても楽しみなの」   雛苺は、胸の動悸を抑え込むように手を当てながら、にこやかに返した。 その言葉も、笑顔も、決して社交辞令のお愛想などではなかった。     ~  ~  ~   ――右肩を揺すられ、雛苺は、「ぴゃぁっ」と息を呑んで仰け反った。 いつの間にか、微睡んでいたらしい。 指先で目元をこすりつつ、左に顔を向けた彼女の視界を、コンクリート壁が遮った。   「着いた……なの?」 「うん。車庫入れが済んだとこ」   皓々たる蛍光灯の明かりが、彼女らの置かれた世界の全貌を、露わにしている。 薔薇水晶の言葉どおり、ガレージなのだろう。 車のボンネットの先には、頑丈そうなシャッターが降ろされていた。   「ここから、すぐ家に入れる」   ついてきて、と。買い物袋を手にして、薔薇水晶は車を降りた。 彼女を追いかけて、雛苺もドアを開ける。 あらためて見渡すガレージは、意外に広く、物置も兼ねているらしかった。   「……こっちよ」 「あっ、待ってなの」   薔薇水晶は既に、ガレージの片隅に設けられたドアのノブに、キーを差し込んでいた。 そこが、本来の玄関に抜けるための通路なのだろう。 開けられたドア越しに、上へと続く階段が見えた。 ガレージ内の消灯と、ドアの施錠を済ませて、薔薇水晶が先に立つ。   「足元、気をつけてね」 「うい」   雛苺はデイパックを背負いなおして、しっかりと足を踏みしめる。「んしょんしょ」 そうして、コンクリート製の階段を十段ほど登ると、やおら視界が開けた。 小さなロビー。足元は、茶褐色のタイル張り。重厚なウッドのドアが、ひとつ。 早い話が、この家の玄関だった。   「ただいま」   薔薇水晶の呼びかけに、家の奥から、ぺたしぺたし……。 小走りに近づいてくるスリッパの音と、鈴の音を思わす女性の声が、2人を出迎える。   「お帰りなさぁい」   瞬間、雛苺の全身を、電気が駆け抜けた。 その声の主こそ、彼女が会いたいと切望した人だと、直感で悟っていた。 おずおずと顔を上げれば、銀糸のような髪をリボンで束ねた、エプロン姿の女性が……。   やっと会えた。興味本位で先走った感はあるが、それ以上に、歓喜の念が勝っている。 逸る気持ちが、雛苺の足を、前に出させたがっている。 だが一方で、緊張のあまり身体が竦み、腰が引けるのを抑えきれない。 ――結局、雛苺は薔薇水晶の背に隠れて、固唾を呑むことしかできずに。   「ただいま、お姉ちゃん。友だち……連れてきた」 「あらぁ、珍しい。その子ね? いらっしゃぁい」   口振りこそ大仰な感じだけれど、その表情は、とても嬉しそうだ。 「こんばんわぁ」と向けられた笑顔に勇気を得て、雛苺もはにかみ、進み出た。   「う、と……こ、こんばんわ、なのよ。雛苺っていいます、よろしくなの」 「私の名前は、有栖川アリスよ。こちらこそ、よろしくねぇ」   歌うように言って、有栖川は、たおやかにお辞儀をした。 なんとも落ち着いた物腰だ。親しげで、取っつき難さや、壁を感じさせない。 その割に、押しつけがましさや、ベタベタした馴れ馴れしさなどなくて…… 雛苺は、沢を吹き抜ける風に包まれたような、爽やかな心持ちにさせられた。   「さぁさぁ。挨拶は、このくらいにしておきましょう。  お客さまを、いつまでも玄関に立たせてるなんて、失礼にも程があるわぁ」 「そだね。雛苺……遠慮なく上がって」   そこへもって、2人から誘われれば、断れるはずもない。 もっとも、雛苺とて最初から、すんなり引き上げる気ではなかったけれど。 「それじゃ……ちょっとだけ、お邪魔しますなの」 「ちょっとだなんて言わず、お夕飯、食べていかない?」   三和土に腰を降ろした薔薇水晶が、靴を脱ぎながら、雛苺に訊ねる。 そして間髪いれず、振り返って、もう一言。「いいよね、お姉ちゃん?」 問われた有栖川は、慌てた様子もなく頷いた。   「ええ。材料なら残ってるし、もう1人分くらい、すぐに用意できるわ。  貴女は先に、お風呂に入ってきちゃいなさぁい」 「そうする。これ……ローザミスティカ。教えてもらったお店で、買ってきた」   ずい、と。薔薇水晶が、紅茶の缶が詰まった袋を差し出す。 その思いがけない量には、さすがの有栖川も目を丸くした。   「あらまぁ。随分と、まとめ買いしてきたのねぇ」 「7種類もあったから……ひととおり揃えてみたの。こんぷりーと」 「それじゃ、食後に頂く紅茶は、先生に選んでもらいしょうねぇ」   くすくす……。有栖川は、幸せそうに微笑みながら、袋を受け取った。 こうして見ると、お姉ちゃんというより、むしろ若いお母さん、みたいな印象だ。 些細な立ち居振る舞いにも、大きな包容力を感じとれた。   軽やかに階段を昇ってゆく薔薇水晶を見送ると、有栖川は、その笑顔を雛苺へと向けた。   「さ、貴女も、上がってちょうだぁい。すぐに、お茶を煎れるわね」 「あの……ホントに、お構いなくなのよ」   もちろん、それは建前。本音は、大いに構ってもらいたかった。 理想は、2人っきりで話せる状況だけれど……どうやって、そこまで誘導したものか。   雛苺のアタマに、あのパステルが思い浮かぶ。 ……が、悠長に絵を描く暇があるなら、折を見て、直撃リポートするほうが早かろう。 声を掛けるキッカケを見つけたら、それらしいネタ振りで―― たとえば、彼女が倒れるときまで持っていたという、小説についてでもいい。     チャンスは食後の、わずかな時間。 それまでは、自然な動作を心がけなければ。 くれぐれも、意識しすぎてボロを出さないように。     前を行く有栖川の、さらさらと揺れる銀髪と腰つきに目を注ぎながら、 雛苺は、それに向けてのディスカッションを始めていた。         [[-つづく->『パステル』 -10-]]

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