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『パステル』 -10-」(2009/03/31 (火) 00:38:34) の最新版変更点

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    家人と客人、4人で囲む、和やかで温かい食卓。 それは、どこにでもありがちな、ささやかで飾らない宴だった。   話題にのぼるのは、もっぱら、雛苺のこと。 友人を家に招くのが、よほど珍しいと見えて、家人たちは彼女を質問ぜめにした。 口達者ではない雛苺は、終始、会話のイニシアティブを掴めずじまいだった。     客間のソファに場所を移しても、語らいのペースは、相も変わらず。 有栖川の煎れてくれた紅茶、ローザミスティカの3番をチビチビと嗜みつつ、 雛苺はただ、問われることに答えるばかりで……。   (うー。2人っきりで、お話したいのにー)   薔薇水晶や、彼女の父――槐に、さも屈託なさげな笑顔を振りまく反面、 キッチンで洗い物をしている有栖川の背中へと、雛苺の意識は向けられていた。 それを具現したならば、鋭利な棘となって突き刺さっただろうほど一心に。   ――夜の更けるにつれて、雛苺の眼が時計を捉える回数も、増える。 明日は月曜日。朝からアルバイトだから、日付が変わる前に帰宅しなければ。 そこから逆算すると、ここに留まっていられる時間は、もう長くなかった。 単調なリズムで回り続ける秒針の摩擦熱が、雛苺の胸裡を、チリチリと焦がす。   (どうしたら……あ! そうなの! お手伝いするって、声を掛ければ――)   天啓のごとく湧いた閃きに、雛苺は地団駄を踏みたい気分になった。 なんたる迂闊。こんなにも単純な策略を、なぜ、もっと早くに思いつかなかったのか。   ……と、後悔するのもそこそこに、雛苺は時を惜しんで行動した。 会話の切れ間を見計らって、温くなった紅茶をイッキ呑み。 それで用済みになったカップとソーサーに、新たな役目を与えるべく、腰を浮かせた。   「お片づけくらいは、しないとねっ」     あくまでも自然を装って、キッチンに向かう。 ……が、彼女の思惑は、すぐに躓く羽目になった。   「じゃあ、私も」   やおら、薔薇水晶までが紅茶を飲み干して、ソファを立ったからだ。 これでは、有栖川と差し向かいで話し合うなど、望むべくもない。   (まさか……ヒナの企み、バレてる?)   雛苺は自問してすぐ、まさかね――と、自らの憶測をもみ消した。 薔薇水晶はただ、新しい友人である雛苺と、お喋りしたいだけなのだろう。 その気持ちが解るだけに、薔薇水晶を疎んじるなんてできず――   連れ立って、キッチンに足を踏み入れる2人。 そこでは有栖川が、機嫌よさそうにハミングしながら、食器を洗っていた。   「お姉ちゃん。これも一緒に、お願い」 「あらぁ、わざわざ持ってきてくれたのぉ?」   振り向いた微笑みは、素朴そのもので、芝居じみたところなど一片もなかった。 この人は水銀燈ではない、と断言されれば、そのとおりであるようにも思える。 雛苺の中にあった『如才ない才媛』というイメージは揺らぎ、ほころび始めていた。   「ありがとぉ」   エプロンで手を拭いて、有栖川はカップを受け取る。 その際に、湿り気の残る彼女の指が、雛苺の指と触れ合った。 ざらり……と。木綿の生地にも似た、ごわごわ引っかかる肌触り。 炊事や洗濯などの家事で、見た目よりもずっと、肌荒れしているらしい。   雛苺に指摘されるや、彼女は「やぁね」と、はにかみながら背を向けた。 そして、シンクに残る食器洗いを再開しつつ、つけ加える。   「これくらい、たいしたコトないわ。平気よ。すぐに治るから」   どこか言い訳がましい呟きは、薔薇水晶が側にいたから……なのだろうか。 恩人の愛娘であり、妹にも等しい少女に、変な気遣いをさせたくなかったから。   あくまでも、それは雛苺の当て推量に過ぎない。 有栖川の本心は、違ったかも知れない。 だけど、そうであって欲しい―― 雛苺はココロの片隅で、身勝手な願いを抱いた。 それを口に出して、無理強いするつもりなど、更々なかったけれど。   「ねぇ、雛苺。私のお部屋……行きましょ」 「え? う、うん」   誘われるまま、雛苺は後ろ髪を引かれる思いで、薔薇水晶を追った。 有栖川と話をしたい欲求が、消えたワケではない。 ただ、この場は諦めざるを得なかったし、であるなら、時間は大切に使うべきで……。 折角だし、薔薇水晶から情報を集めようと、考えなおしたのだ。     案内されたのは二階の、綺麗に片づけられた6畳間。 淡いピンクを基調とした壁紙を、人気ロックバンドのポスターや、 子犬や仔猫を被写体としたカレンダーが飾っている。 ベッドの枕元には、タキシードを着た白いウサギのぬいぐるみ。 いかにも女の子らしい部屋模様だ。   雛苺は、ウサギのぬいぐるみに眼を留めながら、回想していた。 アルバイトの配達で、ジュンの家の前を通りがかった時のことを。 ここでまた白ウサギに会ったのは、なにかの因縁だろうか。     「どうかした?」   やおら話しかけられて、雛苺は我に返った。 気を取りなおし、振り向くと、薔薇水晶の不思議そうな表情があった。   「なにか……変?」 「ううん。あのウサギさん、ミッフィーみたいで可愛いなって思ったのよ」   雛苺が繕い笑うと、薔薇水晶も、にこりと唇を綻ばせた。   「あれ……お父さまの手作り。ウサギだけど……おんりーワン」 「下手なダジャレね。だけど、ぬいぐるみの作りは、いい仕事してるなの。  いいなぁ~。ヒナも欲しいなぁ~」 「じゃあ、頼んであげる。お父さま、優しいから……きっと作ってくれる」 「ホント!? それじゃあ、ネコさんのぬいぐるみ、お願いしていい?」 「おk、把握」   淡々とした口振りながら、とても嬉しそうな面持ち。 薔薇水晶にとって、友だちのために何かをする――または、してもらう機会は、 雛苺が思っているより、ずっと稀なのかも知れない。 だからこその、喜色なのだろう。   ベッドに腰を降ろした薔薇水晶は、右隣のスペースを、揃えた指先で、ぽふぽふ……。 ここに来て、と言うことか。雛苺は誘われるまま、ベッドに腰をあずけた。   ふわり――と。 薔薇水晶の長い髪から放たれる、甘ったるいコンディショナーの薫りに包まれる。 その瞬間、ざわり……。雛苺の胸裡を逆なでたのは、なんとも形容のし難い感覚で。 強いて一言に集約するなら、麻痺とか酩酊、に近いような錯覚だった。   「ん……と」   けれど、このまま無為に過ごすわけにはいかない。 雛苺は周りに眼を走らせて、思いつくまま、言葉を迸らせた。   「とっても広くって、ステキなお部屋なのよ」 「そう? ありがと」 「あ、それとね、ばらしーのお父さま、すっごくカッコイイから驚いちゃった」   場を和ますための方便、というつもりはなかったが、期せずして同じ結果を生んだ。 「でしょ」と、満面に笑みを湛える薔薇水晶は、本当に誇らしげだった。 実際、槐は、世界を股に掛けて活躍する才器だと言うし、 そういった事情から、つい鼻を高くしてしまうのも無理からぬことだろう。   へにゃへにゃと頬を弛める薔薇水晶。 だが、やおら、背中に氷でも入れられたかのような真顔になった。   そして、「そう言えば」と。 好奇に満ちた眼差しと共に、細い指先を、雛苺のデイパックに向けた。   「雛苺は、絵を描くのよね」 「うんっ! 下手の横好きだから、ちょっと恥ずかしいんだけどぉ」   いつもの習癖で、そう口にした途端、雛苺のアタマに真紅の諫言が甦った。 過ぎた謙遜は、嫌味になる。薔薇水晶を、不快にさせてしまっただろうか? けれど、ちらと窺い見た限りでは、そんな素振りはなかった。   雛苺は小さく息を吐いて、デイパックを持ち上げ、膝に乗せると、 スケッチブックを抜き出し、開いて見せた。「これが最新作なの」 それは、双子の姉妹が丹誠こめて育てていた、茶畑のスケッチ。   「油絵の具で色づけすれば、完成よ」 「……すごく上手。このまま飾っても、充分に見栄えがする」 「ありがとなの。でも、この絵は先約があるから、あげられないのよ」 「そう……残念」   言って、薔薇水晶は、とても名残惜しそうに、長い睫毛を伏せた。 けれども、すぐにパッと目を見開いて。   「私を描くとしたら、どれくらい時間かかる?」 「え、と。構図にもよるけど――」   描いて欲しいの? 問うと、薔薇水晶は口元を綻ばせて、コクコクと頷いた。 どうやら相当に、雛苺の絵を気に入ってくれたらしい。 ぜひにと求められたら嬉しいし、描いてあげたくなるのが人情というもの。 雛苺は、タイムリミットを念頭に置きながら、おおよその時間を見積もった。   「んー、そうね。バストアップのラフなら、30分くらいで描けると思うの」 「バストの…………裸婦? 脱ぐの?」   訊いておきながら、薔薇水晶は答えも待たずに、パジャマのボタンを外し始める。 雛苺は、慌てて彼女の手を掴んで、止めた。   「脱がなくていいのっ! ラフスケッチのコトなのよ」 「……ああ。そゆこと」 「うい。じゃあ、楽にしてね。30分ほど、じっとしてられるポーズで」 「解った。これで、いい?」   薔薇水晶は、ころりとベッドに横たわり、すらりと形のいい顎を、腕に乗せた。 これなら、確かに身動きは少なくて済むし、疲れもするまい。 雛苺は、モデルの正面に腰を降ろすと、深呼吸を繰り返して…… 徐に、鉛筆を手にした。     ~  ~  ~   ――こうなるだろうことは、自然な成り行きだったし、予測の範疇だった。 ベッドに横臥した薔薇水晶は、すっかり寝入っている。 最後まで空白だった表情を描き足し、雛苺は大きく吐息して、鉛筆を手放した。   「気持ちよさそうな寝顔ね」   別れの挨拶くらいはと思ったけれど、ここで叩き起こすのも、可哀想な気がする。 雛苺は、枕元に置かれた目覚まし時計を見遣って、時刻を確かめた。 すっかり夜も更けたが、まだ終電には間に合いそうだ。   無防備に眠りこける乙女の絵を、そっと机に置いて、雛苺は滑るように部屋を出た。     それにしても、最寄り駅までは、どのくらい離れているのだろう? この辺りの道にも不案内だ。地図を書いてもらうか、送ってもらう他はない。   ――じゃあ、それを誰に頼もうか。 思った次の瞬間にはもう、雛苺は笑顔いっぱいで、両手に拳を握っていた。   「そうなのっ。いまこそ、2人っきりで話をするチャンスなのよ!」   まだ深夜と言うには早いし、よもや、来客中に眠るほど不用心でもあるまい。 きっと対話ができる。確信する雛苺の耳に、有栖川の声が甦った。     階段を降りてくる、軽やかな気配を察したのだろう。応接間から、ひょいと顔が覗いた。 でも、それは意中の人ではなくて――   「おや、もう帰るのかい?」   薔薇水晶の父親、槐は穏やかに微笑みながら、さらに継いだ。「薔薇水晶は?」   「絵のモデルをしてて、そのまま眠っちゃったのよ」 「やれやれ。困った娘だ」   階段を降りきった雛苺と入れ替わりに、長身の槐は背を屈め、階段を昇り始めた。 その途中、はたと立ち止まって、雛苺に囁きかけた。   「これからも、仲良くしてやってほしい」   薔薇水晶のことだろう。雛苺は笑顔で応じる。「もちろんなの」 「ありがとう」槐も、目尻を下げた。   「あの子は、僕に似たらしく、他人とのコミュニケーションが下手でね。  母親を早くに亡くしたことが、影響しているんだろうな」   言うと、槐は寂しさを張りつかせた顔を、つ……と背けた。   雛苺には、彼や薔薇水晶の心情が、なんとなく理解できた。 女の子にとって、母親とは最も身近な同性であり、歳の離れた姉のような存在でもある。 父親では、どれだけ愛情を注ごうとも、そういった役割を演じきれない。 だからと言って、父も娘も、軽々しく『再婚』の選択肢を切り出せなくて―― 多感な時期を母もなく過ごした少女は、どこか頑なで冷めた娘に育ってしまったのだろう。   有栖川の登場は、この父娘にとって大きな転機となったのは、間違いない。 彼女を、ひとつ屋根の下に住まわせて……人助けのつもりが救われていた、と。   「よろしく頼むよ」 「はい、なの」   頷いた雛苺に微笑みかけて、槐は再び、階段を昇り始めた。 その背に、おずおずと問いかける。「あのぉ……有栖川さんは?」   「彼女なら、入浴中じゃないかな。いつも、最後に使っているから」   だったら、ほどなく会えるだろう。 槐を見送って、雛苺は歩きだした。向かう先は、応接間ではなく、バスルーム。 一応、ドア越しにでも、用件くらいは伝えておこうと思っていた。 そうしておけば、余計な前置きなしに、話を進められるから。     ぱしゃ……ぱしゃ……。 ドアの向こうから聞こえる、水の砕ける音は、シャワーのものではなかった。 すっかり冷めた浴槽の残り湯を、洗面器で汲んでは、浴びているようだ。 居候だからと、水道代は疎か、追い焚きするガス代さえ憚っているのかも知れない。   ひとつ深呼吸して、雛苺は、ドアをノックした。 ――いや。するつもりが、彼女の拳は、ものの見事に空振りしていた。 なんの前触れもなく、ドアが引き開けられたせいで。   「きゃぁっ?!」   有栖川も、まさか、そこに人が立っているとは思わなかったのだろう。 黄色い悲鳴をあげて、タオルを取り落とし、手で胸を隠す慌てぶりだった。 いささか大仰にも感じられたが、それだけ油断していた証だろうと、雛苺は強引に納得した。   「もう! まいっちんぐ……じゃなくて! これは一体、なんのつもり?」 「ごご、ごめんなさいなのっ。ヒナ、別に驚かすつもりじゃ」 「じゃあ、なに? まさか、盗撮――」 「誤解なのよー」   雛苺は俯き、巧く説明できない苛立ちから、自分のアタマをポカポカと叩いた。 その様子を見て、有栖川も、ふう……と溜息を漏らした。   「とにかく、先に身体を拭かせてもらえないかしら。風邪ひいちゃうわ」   あたふたと背を向けた雛苺は、後ろでバスタオルを広げる乙女に、用件を告げた。 表向きの、帰り道についてのことだけを。   『真紅』という単語は、吐き出せず、飲み込めず…… 喉に刺さった魚の小骨みたいに、雛苺をヤキモキさせ続けていた。         -つづく-    
    家人と客人、4人で囲む、和やかで温かい食卓。 それは、どこにでもありがちな、ささやかで飾らない宴だった。   話題にのぼるのは、もっぱら、雛苺のこと。 友人を家に招くのが、よほど珍しいと見えて、家人たちは彼女を質問ぜめにした。 口達者ではない雛苺は、終始、会話のイニシアティブを掴めずじまいだった。     客間のソファに場所を移しても、語らいのペースは、相も変わらず。 有栖川の煎れてくれた紅茶、ローザミスティカの3番をチビチビと嗜みつつ、 雛苺はただ、問われることに答えるばかりで……。   (うー。2人っきりで、お話したいのにー)   薔薇水晶や、彼女の父――槐に、さも屈託なさげな笑顔を振りまく反面、 キッチンで洗い物をしている有栖川の背中へと、雛苺の意識は向けられていた。 それを具現したならば、鋭利な棘となって突き刺さっただろうほど一心に。   ――夜の更けるにつれて、雛苺の眼が時計を捉える回数も、増える。 明日は月曜日。朝からアルバイトだから、日付が変わる前に帰宅しなければ。 そこから逆算すると、ここに留まっていられる時間は、もう長くなかった。 単調なリズムで回り続ける秒針の摩擦熱が、雛苺の胸裡を、チリチリと焦がす。   (どうしたら……あ! そうなの! お手伝いするって、声を掛ければ――)   天啓のごとく湧いた閃きに、雛苺は地団駄を踏みたい気分になった。 なんたる迂闊。こんなにも単純な策略を、なぜ、もっと早くに思いつかなかったのか。   ……と、後悔するのもそこそこに、雛苺は時を惜しんで行動した。 会話の切れ間を見計らって、温くなった紅茶をイッキ呑み。 それで用済みになったカップとソーサーに、新たな役目を与えるべく、腰を浮かせた。   「お片づけくらいは、しないとねっ」     あくまでも自然を装って、キッチンに向かう。 ……が、彼女の思惑は、すぐに躓く羽目になった。   「じゃあ、私も」   やおら、薔薇水晶までが紅茶を飲み干して、ソファを立ったからだ。 これでは、有栖川と差し向かいで話し合うなど、望むべくもない。   (まさか……ヒナの企み、バレてる?)   雛苺は自問してすぐ、まさかね――と、自らの憶測をもみ消した。 薔薇水晶はただ、新しい友人である雛苺と、お喋りしたいだけなのだろう。 その気持ちが解るだけに、薔薇水晶を疎んじるなんてできず――   連れ立って、キッチンに足を踏み入れる2人。 そこでは有栖川が、機嫌よさそうにハミングしながら、食器を洗っていた。   「お姉ちゃん。これも一緒に、お願い」 「あらぁ、わざわざ持ってきてくれたのぉ?」   振り向いた微笑みは、素朴そのもので、芝居じみたところなど一片もなかった。 この人は水銀燈ではない、と断言されれば、そのとおりであるようにも思える。 雛苺の中にあった『如才ない才媛』というイメージは揺らぎ、ほころび始めていた。   「ありがとぉ」   エプロンで手を拭いて、有栖川はカップを受け取る。 その際に、湿り気の残る彼女の指が、雛苺の指と触れ合った。 ざらり……と。木綿の生地にも似た、ごわごわ引っかかる肌触り。 炊事や洗濯などの家事で、見た目よりもずっと、肌荒れしているらしい。   雛苺に指摘されるや、彼女は「やぁね」と、はにかみながら背を向けた。 そして、シンクに残る食器洗いを再開しつつ、つけ加える。   「これくらい、たいしたコトないわ。平気よ。すぐに治るから」   どこか言い訳がましい呟きは、薔薇水晶が側にいたから……なのだろうか。 恩人の愛娘であり、妹にも等しい少女に、変な気遣いをさせたくなかったから。   あくまでも、それは雛苺の当て推量に過ぎない。 有栖川の本心は、違ったかも知れない。 だけど、そうであって欲しい―― 雛苺はココロの片隅で、身勝手な願いを抱いた。 それを口に出して、無理強いするつもりなど、更々なかったけれど。   「ねぇ、雛苺。私のお部屋……行きましょ」 「え? う、うん」   誘われるまま、雛苺は後ろ髪を引かれる思いで、薔薇水晶を追った。 有栖川と話をしたい欲求が、消えたワケではない。 ただ、この場は諦めざるを得なかったし、であるなら、時間は大切に使うべきで……。 折角だし、薔薇水晶から情報を集めようと、考えなおしたのだ。     案内されたのは二階の、綺麗に片づけられた6畳間。 淡いピンクを基調とした壁紙を、人気ロックバンドのポスターや、 子犬や仔猫を被写体としたカレンダーが飾っている。 ベッドの枕元には、タキシードを着た白いウサギのぬいぐるみ。 いかにも女の子らしい部屋模様だ。   雛苺は、ウサギのぬいぐるみに眼を留めながら、回想していた。 アルバイトの配達で、ジュンの家の前を通りがかった時のことを。 ここでまた白ウサギに会ったのは、なにかの因縁だろうか。     「どうかした?」   やおら話しかけられて、雛苺は我に返った。 気を取りなおし、振り向くと、薔薇水晶の不思議そうな表情があった。   「なにか……変?」 「ううん。あのウサギさん、ミッフィーみたいで可愛いなって思ったのよ」   雛苺が繕い笑うと、薔薇水晶も、にこりと唇を綻ばせた。   「あれ……お父さまの手作り。ウサギだけど……おんりーワン」 「下手なダジャレね。だけど、ぬいぐるみの作りは、いい仕事してるなの。  いいなぁ~。ヒナも欲しいなぁ~」 「じゃあ、頼んであげる。お父さま、優しいから……きっと作ってくれる」 「ホント!? それじゃあ、ネコさんのぬいぐるみ、お願いしていい?」 「おk、把握」   淡々とした口振りながら、とても嬉しそうな面持ち。 薔薇水晶にとって、友だちのために何かをする――または、してもらう機会は、 雛苺が思っているより、ずっと稀なのかも知れない。 だからこその、喜色なのだろう。   ベッドに腰を降ろした薔薇水晶は、右隣のスペースを、揃えた指先で、ぽふぽふ……。 ここに来て、と言うことか。雛苺は誘われるまま、ベッドに腰をあずけた。   ふわり――と。 薔薇水晶の長い髪から放たれる、甘ったるいコンディショナーの薫りに包まれる。 その瞬間、ざわり……。雛苺の胸裡を逆なでたのは、なんとも形容のし難い感覚で。 強いて一言に集約するなら、麻痺とか酩酊、に近いような錯覚だった。   「ん……と」   けれど、このまま無為に過ごすわけにはいかない。 雛苺は周りに眼を走らせて、思いつくまま、言葉を迸らせた。   「とっても広くって、ステキなお部屋なのよ」 「そう? ありがと」 「あ、それとね、ばらしーのお父さま、すっごくカッコイイから驚いちゃった」   場を和ますための方便、というつもりはなかったが、期せずして同じ結果を生んだ。 「でしょ」と、満面に笑みを湛える薔薇水晶は、本当に誇らしげだった。 実際、槐は、世界を股に掛けて活躍する才器だと言うし、 そういった事情から、つい鼻を高くしてしまうのも無理からぬことだろう。   へにゃへにゃと頬を弛める薔薇水晶。 だが、やおら、背中に氷でも入れられたかのような真顔になった。   そして、「そう言えば」と。 好奇に満ちた眼差しと共に、細い指先を、雛苺のデイパックに向けた。   「雛苺は、絵を描くのよね」 「うんっ! 下手の横好きだから、ちょっと恥ずかしいんだけどぉ」   いつもの習癖で、そう口にした途端、雛苺のアタマに真紅の諫言が甦った。 過ぎた謙遜は、嫌味になる。薔薇水晶を、不快にさせてしまっただろうか? けれど、ちらと窺い見た限りでは、そんな素振りはなかった。   雛苺は小さく息を吐いて、デイパックを持ち上げ、膝に乗せると、 スケッチブックを抜き出し、開いて見せた。「これが最新作なの」 それは、双子の姉妹が丹誠こめて育てていた、茶畑のスケッチ。   「油絵の具で色づけすれば、完成よ」 「……すごく上手。このまま飾っても、充分に見栄えがする」 「ありがとなの。でも、この絵は先約があるから、あげられないのよ」 「そう……残念」   言って、薔薇水晶は、とても名残惜しそうに、長い睫毛を伏せた。 けれども、すぐにパッと目を見開いて。   「私を描くとしたら、どれくらい時間かかる?」 「え、と。構図にもよるけど――」   描いて欲しいの? 問うと、薔薇水晶は口元を綻ばせて、コクコクと頷いた。 どうやら相当に、雛苺の絵を気に入ってくれたらしい。 ぜひにと求められたら嬉しいし、描いてあげたくなるのが人情というもの。 雛苺は、タイムリミットを念頭に置きながら、おおよその時間を見積もった。   「んー、そうね。バストアップのラフなら、30分くらいで描けると思うの」 「バストの…………裸婦? 脱ぐの?」   訊いておきながら、薔薇水晶は答えも待たずに、パジャマのボタンを外し始める。 雛苺は、慌てて彼女の手を掴んで、止めた。   「脱がなくていいのっ! ラフスケッチのコトなのよ」 「……ああ。そゆこと」 「うい。じゃあ、楽にしてね。30分ほど、じっとしてられるポーズで」 「解った。これで、いい?」   薔薇水晶は、ころりとベッドに横たわり、すらりと形のいい顎を、腕に乗せた。 これなら、確かに身動きは少なくて済むし、疲れもするまい。 雛苺は、モデルの正面に腰を降ろすと、深呼吸を繰り返して…… 徐に、鉛筆を手にした。     ~  ~  ~   ――こうなるだろうことは、自然な成り行きだったし、予測の範疇だった。 ベッドに横臥した薔薇水晶は、すっかり寝入っている。 最後まで空白だった表情を描き足し、雛苺は大きく吐息して、鉛筆を手放した。   「気持ちよさそうな寝顔ね」   別れの挨拶くらいはと思ったけれど、ここで叩き起こすのも、可哀想な気がする。 雛苺は、枕元に置かれた目覚まし時計を見遣って、時刻を確かめた。 すっかり夜も更けたが、まだ終電には間に合いそうだ。   無防備に眠りこける乙女の絵を、そっと机に置いて、雛苺は滑るように部屋を出た。     それにしても、最寄り駅までは、どのくらい離れているのだろう? この辺りの道にも不案内だ。地図を書いてもらうか、送ってもらう他はない。   ――じゃあ、それを誰に頼もうか。 思った次の瞬間にはもう、雛苺は笑顔いっぱいで、両手に拳を握っていた。   「そうなのっ。いまこそ、2人っきりで話をするチャンスなのよ!」   まだ深夜と言うには早いし、よもや、来客中に眠るほど不用心でもあるまい。 きっと対話ができる。確信する雛苺の耳に、有栖川の声が甦った。     階段を降りてくる、軽やかな気配を察したのだろう。応接間から、ひょいと顔が覗いた。 でも、それは意中の人ではなくて――   「おや、もう帰るのかい?」   薔薇水晶の父親、槐は穏やかに微笑みながら、さらに継いだ。「薔薇水晶は?」   「絵のモデルをしてて、そのまま眠っちゃったのよ」 「やれやれ。困った娘だ」   階段を降りきった雛苺と入れ替わりに、長身の槐は背を屈め、階段を昇り始めた。 その途中、はたと立ち止まって、雛苺に囁きかけた。   「これからも、仲良くしてやってほしい」   薔薇水晶のことだろう。雛苺は笑顔で応じる。「もちろんなの」 「ありがとう」槐も、目尻を下げた。   「あの子は、僕に似たらしく、他人とのコミュニケーションが下手でね。  母親を早くに亡くしたことが、影響しているんだろうな」   言うと、槐は寂しさを張りつかせた顔を、つ……と背けた。   雛苺には、彼や薔薇水晶の心情が、なんとなく理解できた。 女の子にとって、母親とは最も身近な同性であり、歳の離れた姉のような存在でもある。 父親では、どれだけ愛情を注ごうとも、そういった役割を演じきれない。 だからと言って、父も娘も、軽々しく『再婚』の選択肢を切り出せなくて―― 多感な時期を母もなく過ごした少女は、どこか頑なで冷めた娘に育ってしまったのだろう。   有栖川の登場は、この父娘にとって大きな転機となったのは、間違いない。 彼女を、ひとつ屋根の下に住まわせて……人助けのつもりが救われていた、と。   「よろしく頼むよ」 「はい、なの」   頷いた雛苺に微笑みかけて、槐は再び、階段を昇り始めた。 その背に、おずおずと問いかける。「あのぉ……有栖川さんは?」   「彼女なら、入浴中じゃないかな。いつも、最後に使っているから」   だったら、ほどなく会えるだろう。 槐を見送って、雛苺は歩きだした。向かう先は、応接間ではなく、バスルーム。 一応、ドア越しにでも、用件くらいは伝えておこうと思っていた。 そうしておけば、余計な前置きなしに、話を進められるから。     ぱしゃ……ぱしゃ……。 ドアの向こうから聞こえる、水の砕ける音は、シャワーのものではなかった。 すっかり冷めた浴槽の残り湯を、洗面器で汲んでは、浴びているようだ。 居候だからと、水道代は疎か、追い焚きするガス代さえ憚っているのかも知れない。   ひとつ深呼吸して、雛苺は、ドアをノックした。 ――いや。するつもりが、彼女の拳は、ものの見事に空振りしていた。 なんの前触れもなく、ドアが引き開けられたせいで。   「きゃぁっ?!」   有栖川も、まさか、そこに人が立っているとは思わなかったのだろう。 黄色い悲鳴をあげて、タオルを取り落とし、手で胸を隠す慌てぶりだった。 いささか大仰にも感じられたが、それだけ油断していた証だろうと、雛苺は強引に納得した。   「もう! まいっちんぐ……じゃなくて! これは一体、なんのつもり?」 「ごご、ごめんなさいなのっ。ヒナ、別に驚かすつもりじゃ」 「じゃあ、なに? まさか、盗撮――」 「誤解なのよー」   雛苺は俯き、巧く説明できない苛立ちから、自分のアタマをポカポカと叩いた。 その様子を見て、有栖川も、ふう……と溜息を漏らした。   「とにかく、先に身体を拭かせてもらえないかしら。風邪ひいちゃうわ」   あたふたと背を向けた雛苺は、後ろでバスタオルを広げる乙女に、用件を告げた。 表向きの、帰り道についてのことだけを。   『真紅』という単語は、吐き出せず、飲み込めず…… 喉に刺さった魚の小骨みたいに、雛苺をヤキモキさせ続けていた。         [[-つづく->『パステル』 -11-]]

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