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「『パステル』 -16-」(2009/04/14 (火) 00:58:30) の最新版変更点
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2人に席を外してもらうと、雛苺はドアを閉めるだけに止まらず、施錠までした。
ここは病院。看護士の入室すら拒むなんて、もってのほかと承知はしている。
だが、闖入者の出現で気を散らされる嫌悪感のほうが、今は勝っていた。
覚悟はしてきた。雛苺なりに、熟慮だってしたつもりだ。
けれども、いざ事に当たろうとすると、怖じ気づいてしまう。
内側から肺腑を圧迫してくる怖れが、雛苺に歪んだ昂りをもたらし、手を震えさせた。
「なんのお構いもできないけど、ゆっくりしていってね」
のほほんとした口調は、雛苺の緊張を見抜いての心遣いか。
めぐはベッドに仰臥すると、ひとつだけあるスツールを、雛苺に勧めた。
「ごめんね。あなたにも予定があって忙しいでしょうけど、少しだけ休ませて。
あーぁ、これしきで疲れるなんて……体力、かなり落ちてるなぁ」
了承のしるしに、雛苺が頷く。めぐの体調をなおざりにする気は、更々なかった。
16歳の秋に倒れてから、もう4年――
そんな長きにわたる入院生活を送っていれば、どうしたって筋力は衰えよう。
「大丈夫なの? お水かジュース、飲む?」
「ううん……今は、いいわ」
スツールに座るなり訊ねた雛苺に、めぐは枕に預けた頭を、力なく振って見せた。
容態は安定しているようだが、どうしても、血色の悪さが目につく。
病苦による憂鬱のためか。あるいは、これこそが死相と呼ばれるモノなのか。
ともあれ、黙ったままで居ると、意気消沈の空気に呑まれてしまいそうで……
雛苺は、努めて陽気な声をだして、水を向けた。
「ところで、めぐさんとジュンって、いつから交際してたの?」
「えっ? ……いきなりね。そんなこと訊きたいわけ?」
「ヒナだって女の子だもん。他の子の恋愛には、興味あるのよー」
興味があるのは確かだが、雛苺の真意は他にある。
絵にココロを宿すため、めぐの人柄を、もっと知りたかったのだ。
「ジュンのこと、好き?」
「もちろんよ。結婚を承諾するほどだもの」
「彼の、どんなところを好きになったの?」
「どんな……って、まあ、いろいろよ。意外性とか、包容力とか――
例を挙げてたらキリないし、とても一言じゃ語り尽くせないわ。
知れば知るほど好きになって、好きになるから、もっと知りたくなるのね」
だらしなく緩んだ顔を見られたくなかったのか。めぐは窓の外へと顔を向けた。
そうすることで、却って、朱に染まる耳が丸見えになるとも気づかずに。
「馴れ初めは、高校に入って、ひと月も経たない頃だったっけ……。
なにかの用事で――詳細は忘れたけど、放課後も遅くまで校舎に残ってたの。
それで、階段を昇ってる最中に、いきなり眩暈がしてね。
手摺を掴もうとしたけど、間に合わなくて。その直後、足を踏み外してたわ」
「そのとき助けてくれたのが、ジュン?」
「ええ。と言っても、彼は小柄だったから、私を支えきれなくって。
もつれ合いながら、踊り場まで転げ落ちちゃったわけ」
「うわ……危ないのよー」
「まだ5段目くらいだったから、打撲と擦り傷くらいで済んだのね。
結局は、それが重い後遺症を残すことになったんだけど」
どういう意味か。頸を傾げる雛苺をよそに、めぐはクスクスと笑みを漏らす。
そして、くるりと寝返りを打って、穏やかな笑みを雛苺に向けた。
「物の弾みって、ホントに不思議だと思わない?
あんな、マンガみたいなことが、いきなり現実になってしまうんだもの」
「うゆ……あんなって、どんな?」
なおのことワケが解らない雛苺に、めぐは自分の唇を指でなぞって見せる。
階段で、もつれ合いながら転げ落ちた。
マンガみたいなこと。そして、唇――
それって、もしかして。雛苺もようやく、ひとつの可能性に行き着いた。
「あんなもの、とてもキスと呼べるようなコトじゃなかったのにね。
でも、その……初めて……だったし、なんだか変に意識しちゃって」
「ふえ~。そんな事件があったなんて、ジュンは話してくれなかったのよ」
「話せっこないわよ。わざわざ言いふらすほどのコトでもないでしょ」
言ってしまえば、ただの事故。けれど、あまりにもショッキングな体験。
少年と少女の青いココロは、些細な触れ合いから、微妙に絡みついてしまったわけだ。
「放課後のことだったし、誰に見られてたわけでもないんだけど……ね。
それから後、しばらくは人目を気にして、彼も私も素っ気ないフリしてたわ。
廊下で擦れ違っても、視線が交わりそうになると、すぐ目を逸らしたり」
「つまり、咄嗟に知らんぷりしちゃうくらい、意識し合ってたのね」
「可愛いものよね。だけど、いまでは後悔してるわ。もっと話しておけばよかった。
あの時期、あの年頃の感性でしか話せないコトって、あると思うから」
その年の秋――
高校に進学して初参加の文化祭で、学年のプリンセスに選ばれたりもしたけれど、
あの頃、めぐは確かに、人並みの青春を謳歌していた。
ジュンと親しくお喋りすることだって、しようと思えば、普通にできたはずだ。
だが、夢のように楽しい時間ほど、いつの間にか失われているもので……
彼女の華やかな高校生活は、無残にも幕を下ろされた。
他の女の子たちみたいに、週末には友だちと遊んだり、部活に励むこともなく、
たった独り、この病室に押し込められてしまったのである。
「この部屋――」
ふと、遠い眼をして、めぐが吐露する。「広すぎて、ずっと嫌いだった」
苦々しく紡がれた、過去形。
その意味するところは、雛苺にも、なんとなく察しがついた。
触れ合えるモノがなければ、人は誰でも、不安になってしまうものだから。
「誰か――ジュンは、お見舞いに来なかったの?」
「来てくれたわよ。入院して数日後の夕方、人目を憚るように、たった一人で。
様子を見にきただけだから――私と目も合わせずに、彼は言ったわ。
早くよくなって、学校に来いよ……ともね。あの言葉、とても痛かったっけ」
事情を知らない者ならではの、無責任な台詞だ。
めぐは、どう答えたのだろう。無思慮な少年に、怒りをぶつけただろうか。
雛苺が訊くと、彼女は照れ笑って、掴んだ毛布を口元に手繰り寄せた。
「腹は立ったけど、怒鳴ったりはしなかったわ。もう帰って。そう告げただけ。
そうしたらね、彼ったら去り際に、とても寂しそうな顔をするんだもの。
私も、なんか急に胸がキュンとなっちゃって…………ありがと、って。
来てくれて嬉しかった――彼の背中に、そう話しかけてた」
なんというノロケ。夕暮れの病室で2人きりというのも、青春ドラマにありがちな画だ。
水銀燈がこの場にいたら、奇声をあげて床を転がり回り、背中を掻きむしったことだろう。
恋愛には疎い雛苺でさえ、あわやスツールごとひっくり返るところだった。
「それから、ジュンは毎日のように?」
「毎日ではないけど、頻繁に顔を見せてくれるようになったわ。
半年くらいは、そんな感じで……交わす言葉も、時間と共に増えていった。
彼は知的で、思いやりがあって、ちょっと繊細すぎる面もあるけど、
私が出逢ってきた男の子たちの中では、1番ステキだった」
「ういー。ごちそうさまなのよー」
雛苺が、さも辟易した顔になる。素直な性格は、嫌味を上手に隠さない。
如才なく振る舞えない辺り、大人になり切れていない証しなのだろう。
めぐは察して、苦笑した。
「ごめんね、ノロケてばかりで。こんなもので、もう充分かな」
「う……ううん。水を差しちゃって、ごめんなさいなの。続けて?」
「続けてって言われても、ここから先は、あまり楽しくないんだけど」
それでも構わないから。雛苺が促すと、めぐも躊躇いがちに頷き、口を開いた。
「初めのうちは、彼の優しさが心地よかった。
一緒に過ごす時間が楽しすぎて、夢中に求めてしまうくらいに。
でも、私は、そんな関係にだんだんと不満と息苦しさを覚えていったわ。
だから、ある日、彼に告げたの。もう来ないで……って。
もし来るならば、そのときは……私と一緒に死んでよ、と」
「……どうして?」
「火に炙られた物が焦げるようにね、私のココロも爛れ始めていたから」
ジュンの訪れを待ち侘びる時間は、やがて、不安と苛立ちを生むだけとなった。
来てくれると、次はいつ来られるのかと執拗に問い詰め、
来てくれなければ、どうして来なかったのかと、ねちっこく詮索した。
そんな自分の醜さと死への恐れ、募る寂しさから、毎晩のように慟哭したと、めぐは語った。
「あの頃の私って、とにかく嫌な子でね……私自身、自分が嫌いだった。
いつ壊れるとも解らない不良品の心臓を呪い、こんな身体に生んだ両親を怨んで――
彼にだけは見られたくなかったのよね。どんどん醜悪になってゆく私を」
だから、扉を閉ざした。現実から目を背けて、逃げた。
ジュンも辛かったのだろう。それからは、ぱったりと来なくなったと言う。
そして、支えを失った多感な少女は、ますます情緒不安定になっていった。
「パパとママも、多忙なスケジュールをやりくりして、お見舞いに来てくれた。
それなのに、私……あるとき癇癪を起こして、『死ね』だなんて――
私がこんなに苦しんでるのは、全部、あなたたちのせいだ。責任とってよ、と」
雛苺に見られていることも構わず、めぐは、瞳と声を潤ませた。
「なんで、あんなこと言っちゃったのかな、私…………どうして」
誰かのせいで――なんて、無力な被害者ぶるのは、イヤ。
めぐは、そう言っていた。
たとえ愚かな選択をして、傷ついたとしても、その結果を誇りたい――とも。
あれは、いまも胸に蟠る彼女の後悔が、言わしめたに違いない。
雛苺は、か細く嗚咽するめぐの頭を撫でながら、真紅と水銀燈のことを回想していた。
過失に囚われ、もがき苦しみ続けている姿が、彼女たちと重なったからだ。
みんな、それぞれに抱える悩みがある。人によって、その重さが違うだけ。
そんな理屈は、雛苺にだって解っている。解ってはいるのだけど……
やはり、親しい人の打ち沈む姿は、純真な彼女を、やるせない気持ちにさせた。
「もう泣かないで。ヒナが、悪い夢から覚ましてあげるのよ」
生きとし生ける者、悉く、死と肩を組んで産まれてくる。
けれど、いつか死ぬから、なんだと言うのか。
そんなもの、人生を諦めるに足る理由とはならない。
どれだけ限られた時間であっても――
――否。限りあるからこそ。
雛苺は、しゃくり上げる幼子を宥める母親のように、そっと話しかけた。
「だから……めぐさんも、ヒナに協力してね」
それに応えて、彼女はパジャマの袖で目元を拭った。
「……解ったわ。あなたの言うとおりにする」
「うい。それじゃあ――始めるのよ
こまめに休憩は挿むつもりだけど、疲れちゃったら遠慮なく言ってね」
病室のカーテンを閉じながら、雛苺は、めぐに微笑みかけた。
~ ~ ~
「疲れてない? もう少ししたら、ちょっと休憩なのよ」
描くことに集中しながらも、めぐを気遣うことも忘れない。
けれど、おっとりした口調とは対照的に、めぐを捉える雛苺の視線は鋭かった。
こんなにも、じっくりと誰かに観察されたこと、いままであったかしら。
めぐは、ぞわぞわした得も言えない感覚に戸惑いながらも、小さく頷いた。
雛苺も満足そうに微笑み返して、また話しかける。
「……そう言えば、その後は、どうなの?」
「どうって、なにが?」
「ご両親とは、仲直りしたのかなぁって」
「ああ、そのこと」
めぐの目元が緩む。唇にも、うっすらと笑みが浮かんでいた。
けれども、それはどこか寂しげな気配を匂わせている。
「もちろん、謝ったわよ。電話で、だけどね。
彼と結婚するって決心したその日に、報告がてらに」
「赦してもらえたの?」
「さぁ……どうかな。パパは『そうか』とだけ。ママは、なにも言わなかった。
バカな娘だと呆れられて、愛想を尽かされたんだと、そのときは思ったわ。
いままでの所業を考えたら、それも当然だなぁって。
覚悟してたけどね、現実のものになると、やっぱり、少し落ち込んだわ。
でも、最近ふと気づいたの。泣くのを堪えてて、喋れなかったのかもって」
あれから一度も会って話してないし、電話もしないから、分からないけど。
そう言った彼女の瞳が、雛苺には、心なし潤んで見えた。
「自分たちの娘を愛してない親は、いないのよ」
だから、めぐの見立ては、きっと正しい。
雛苺は無垢な笑みを口元に湛えながら、デッサンの手を止めた。
「ふゆぅ~。ここで一旦、休憩するのよー。お疲れさまなの」
「ん……思ったより緊張するものね、モデルって」
やや上擦った声で言いながら、めぐは、はだけたパジャマの上に毛布を被った。
いきなりセミヌードになることを求められたときは焦ったものの、
雛苺の真摯な眼差しに射抜かれている間に、動揺や羞恥心は収まっていった。
「ねえ、雛苺。進み具合を見せてもらっても、いい?」
「ぜんぜん構わないのよー。こんな感じなの」
見せられたスケッチブックには、中央に、うしろ髪を掻き上げて佇む、めぐの姿。
その右隣に、別の人影を見て、めぐはスケッチブックを取り落としそうになった。
あろうことか、彼女は絵の中で背後から抱擁され、口づけされかけていた。
それも、なにひとつ身に纏うもののない骸骨によって。
骸骨の左腕は、その見かけによらず、めぐの腰を力強く搦め捕っている。
そして、生気のカケラもない右腕は、はだけられた胸元のふくらみへと――
さっきまでの、雛苺の鋭い視線――
もしかして、常人の目には見えないモノを、視ていたとでも言うのか。
おどろおどろしい空気に気圧されながら、めぐは嘆息した。
「これ、どういう意味?」
「死のイメージ。めぐさんの左胸を、鷲掴みにしようとしてるのは……」
「心臓を――ってコトね。なるほど」
言って、めぐは思わず、自分の左胸に手を宛った。
ちょっと強めに押し当てると、微かな鼓動が、一定のテンポで掌に伝わってくる。
この描かれた骸骨が、その目的を遂げたとしたら……どんな感じかな?
やっぱり、キュッと心臓が縮こまって、そのまま停まってしまう?
めぐは奇妙な想像をしながら、スケッチブックを雛苺に返した。
「あなたの絵、初めて見たけど……とても上手ね。骸骨とか、本物みたい」
「いっぱい練習してきたんだから、当たり前なのよー。
骨格とか筋肉の仕組みを知らなきゃ、躍動感のある、ココロの宿る絵は描けないわ。
ただ闇雲にデッサンを繰り返しても、空っぽの器を粗製濫造するだけなの」
「そういうもの?」
「うい! と言っても、ヒナの勝手な解釈に過ぎないんだけど。えへへ……」
絵を描かないめぐには、釈然としない説明だったらしい。
けれども、もっと雛苺の描く絵を見てみたいと……
純粋な興味を芽吹かせるには、それでも充分な様子だった。
「どれくらいで完成しそう?」
「まだ鉛筆での下書きなのよ。パステルの出番は、それが済んでからなの。
とりあえず……あと30分くらい頑張ってね」
「そんなもので描きあがるわけ? もっと掛かるかと思ってたけど」
「下書きが終わるまでの時間よ。着色するのは、午後になっちゃう。
でも、今日中には完成させるから、任せといてなの」
「……そう。楽しみにしてるわ」
微塵も不安を感じさせない、相手を信用しきっている者の口ぶり。
めぐは、肩に掛けていた毛布を脇に除けて、挑むように雛苺を見つめた。
「さぁ、そろそろ再開しましょ」
「具合は、平気? 辛いようなら、先にジュンを描いてくるけど」
「問題ないわ。気にしないで、始めて」
まったくの強がりでもなさそうだ。描き始めより、めぐの顔色はよくなっている。
……が、彼女の体力を思えば、手早く終わらせるに越したことはない。
雛苺は表情を引き結んで、使い慣れた鉛筆を手に取った。
それから20分ほどで下書きが終わるや、めぐはグッタリと横たわった。
同じ姿勢のままでいるのも、これでなかなか、くたびれるものだ。
ましてや、長期にわたる入院で筋力の衰えた彼女なら、なおのこと。
「ホントに、お疲れさまなのよ。ゆっくり休んでね」
「……ん。ちょっと頑張りすぎちゃったみたい。少し、眠るわ」
「解ったの。それじゃ、また後で」
雛苺の労いに、めぐは唇に薄い笑みを作って応えると、瞼を閉ざした。
せめて楽しい夢に浸ってほしい……眠っている間だけでも。
もう一度だけ、ベッドに同情の眼を向けてから、雛苺は316号室を後にした。
「おかえりなさい。もう終わったの?」
入室するや話しかけてきた真紅に、雛苺は「半分だけ」と、曖昧に頷く。
水銀燈も、ジュンも、真紅の病室に場所を移し、語らいながら待っていたらしい。
雛苺の帰りを知り、腰を浮かせたジュンを、雛苺は急いで呼び止めた。
「あ、待ってなの。めぐさん、少し眠るって」
「そうなのか? じゃあ、邪魔しないほうがいいな」
「うんうん。それでね、いまのうちに、ジュンも描いておきたいのよ」
「僕も?」
ジュンが、怪訝な顔をする。水銀燈は、呆れたように鼻を鳴らした。
「おバカさん。もう忘れたのぉ? めぐが言ってたでしょ。
私と彼の未来を描かせてあげる……って」
「あ、ああ……そうか。僕も含まれてるんだよな」
「うい! ここで描いちゃうから、用意してなのよー」
めぐの代役は水銀燈に頼んで、雛苺は、ジュンにポーズの注文をつけた。
それだけすると、彼女は人が変わったように、鉛筆を走らせ始めた。
気持ちを高めたりとか、精神集中するなどの前振りは、一切なし。
めぐが目を醒ますまでに、完成させたい――
まるで、噴火を彷彿させる雛苺の熱意が、居合わせた人々の口を噤ませる。
端で見守る真紅でさえ、絵のモデルになったかのように、身じろぎもできなかった。
つづく
2人に席を外してもらうと、雛苺はドアを閉めるだけに止まらず、施錠までした。
ここは病院。看護士の入室すら拒むなんて、もってのほかと承知はしている。
だが、闖入者の出現で気を散らされる嫌悪感のほうが、今は勝っていた。
覚悟はしてきた。雛苺なりに、熟慮だってしたつもりだ。
けれども、いざ事に当たろうとすると、怖じ気づいてしまう。
内側から肺腑を圧迫してくる怖れが、雛苺に歪んだ昂りをもたらし、手を震えさせた。
「なんのお構いもできないけど、ゆっくりしていってね」
のほほんとした口調は、雛苺の緊張を見抜いての心遣いか。
めぐはベッドに仰臥すると、ひとつだけあるスツールを、雛苺に勧めた。
「ごめんね。あなたにも予定があって忙しいでしょうけど、少しだけ休ませて。
あーぁ、これしきで疲れるなんて……体力、かなり落ちてるなぁ」
了承のしるしに、雛苺が頷く。めぐの体調をなおざりにする気は、更々なかった。
16歳の秋に倒れてから、もう4年――
そんな長きにわたる入院生活を送っていれば、どうしたって筋力は衰えよう。
「大丈夫なの? お水かジュース、飲む?」
「ううん……今は、いいわ」
スツールに座るなり訊ねた雛苺に、めぐは枕に預けた頭を、力なく振って見せた。
容態は安定しているようだが、どうしても、血色の悪さが目につく。
病苦による憂鬱のためか。あるいは、これこそが死相と呼ばれるモノなのか。
ともあれ、黙ったままで居ると、意気消沈の空気に呑まれてしまいそうで……
雛苺は、努めて陽気な声をだして、水を向けた。
「ところで、めぐさんとジュンって、いつから交際してたの?」
「えっ? ……いきなりね。そんなこと訊きたいわけ?」
「ヒナだって女の子だもん。他の子の恋愛には、興味あるのよー」
興味があるのは確かだが、雛苺の真意は他にある。
絵にココロを宿すため、めぐの人柄を、もっと知りたかったのだ。
「ジュンのこと、好き?」
「もちろんよ。結婚を承諾するほどだもの」
「彼の、どんなところを好きになったの?」
「どんな……って、まあ、いろいろよ。意外性とか、包容力とか――
例を挙げてたらキリないし、とても一言じゃ語り尽くせないわ。
知れば知るほど好きになって、好きになるから、もっと知りたくなるのね」
だらしなく緩んだ顔を見られたくなかったのか。めぐは窓の外へと顔を向けた。
そうすることで、却って、朱に染まる耳が丸見えになるとも気づかずに。
「馴れ初めは、高校に入って、ひと月も経たない頃だったっけ……。
なにかの用事で――詳細は忘れたけど、放課後も遅くまで校舎に残ってたの。
それで、階段を昇ってる最中に、いきなり眩暈がしてね。
手摺を掴もうとしたけど、間に合わなくて。その直後、足を踏み外してたわ」
「そのとき助けてくれたのが、ジュン?」
「ええ。と言っても、彼は小柄だったから、私を支えきれなくって。
もつれ合いながら、踊り場まで転げ落ちちゃったわけ」
「うわ……危ないのよー」
「まだ5段目くらいだったから、打撲と擦り傷くらいで済んだのね。
結局は、それが重い後遺症を残すことになったんだけど」
どういう意味か。頸を傾げる雛苺をよそに、めぐはクスクスと笑みを漏らす。
そして、くるりと寝返りを打って、穏やかな笑みを雛苺に向けた。
「物の弾みって、ホントに不思議だと思わない?
あんな、マンガみたいなことが、いきなり現実になってしまうんだもの」
「うゆ……あんなって、どんな?」
なおのことワケが解らない雛苺に、めぐは自分の唇を指でなぞって見せる。
階段で、もつれ合いながら転げ落ちた。
マンガみたいなこと。そして、唇――
それって、もしかして。雛苺もようやく、ひとつの可能性に行き着いた。
「あんなもの、とてもキスと呼べるようなコトじゃなかったのにね。
でも、その……初めて……だったし、なんだか変に意識しちゃって」
「ふえ~。そんな事件があったなんて、ジュンは話してくれなかったのよ」
「話せっこないわよ。わざわざ言いふらすほどのコトでもないでしょ」
言ってしまえば、ただの事故。けれど、あまりにもショッキングな体験。
少年と少女の青いココロは、些細な触れ合いから、微妙に絡みついてしまったわけだ。
「放課後のことだったし、誰に見られてたわけでもないんだけど……ね。
それから後、しばらくは人目を気にして、彼も私も素っ気ないフリしてたわ。
廊下で擦れ違っても、視線が交わりそうになると、すぐ目を逸らしたり」
「つまり、咄嗟に知らんぷりしちゃうくらい、意識し合ってたのね」
「可愛いものよね。だけど、いまでは後悔してるわ。もっと話しておけばよかった。
あの時期、あの年頃の感性でしか話せないコトって、あると思うから」
その年の秋――
高校に進学して初参加の文化祭で、学年のプリンセスに選ばれたりもしたけれど、
あの頃、めぐは確かに、人並みの青春を謳歌していた。
ジュンと親しくお喋りすることだって、しようと思えば、普通にできたはずだ。
だが、夢のように楽しい時間ほど、いつの間にか失われているもので……
彼女の華やかな高校生活は、無残にも幕を下ろされた。
他の女の子たちみたいに、週末には友だちと遊んだり、部活に励むこともなく、
たった独り、この病室に押し込められてしまったのである。
「この部屋――」
ふと、遠い眼をして、めぐが吐露する。「広すぎて、ずっと嫌いだった」
苦々しく紡がれた、過去形。
その意味するところは、雛苺にも、なんとなく察しがついた。
触れ合えるモノがなければ、人は誰でも、不安になってしまうものだから。
「誰か――ジュンは、お見舞いに来なかったの?」
「来てくれたわよ。入院して数日後の夕方、人目を憚るように、たった一人で。
様子を見にきただけだから――私と目も合わせずに、彼は言ったわ。
早くよくなって、学校に来いよ……ともね。あの言葉、とても痛かったっけ」
事情を知らない者ならではの、無責任な台詞だ。
めぐは、どう答えたのだろう。無思慮な少年に、怒りをぶつけただろうか。
雛苺が訊くと、彼女は照れ笑って、掴んだ毛布を口元に手繰り寄せた。
「腹は立ったけど、怒鳴ったりはしなかったわ。もう帰って。そう告げただけ。
そうしたらね、彼ったら去り際に、とても寂しそうな顔をするんだもの。
私も、なんか急に胸がキュンとなっちゃって…………ありがと、って。
来てくれて嬉しかった――彼の背中に、そう話しかけてた」
なんというノロケ。夕暮れの病室で2人きりというのも、青春ドラマにありがちな画だ。
水銀燈がこの場にいたら、奇声をあげて床を転がり回り、背中を掻きむしったことだろう。
恋愛には疎い雛苺でさえ、あわやスツールごとひっくり返るところだった。
「それから、ジュンは毎日のように?」
「毎日ではないけど、頻繁に顔を見せてくれるようになったわ。
半年くらいは、そんな感じで……交わす言葉も、時間と共に増えていった。
彼は知的で、思いやりがあって、ちょっと繊細すぎる面もあるけど、
私が出逢ってきた男の子たちの中では、1番ステキだった」
「ういー。ごちそうさまなのよー」
雛苺が、さも辟易した顔になる。素直な性格は、嫌味を上手に隠さない。
如才なく振る舞えない辺り、大人になり切れていない証しなのだろう。
めぐは察して、苦笑した。
「ごめんね、ノロケてばかりで。こんなもので、もう充分かな」
「う……ううん。水を差しちゃって、ごめんなさいなの。続けて?」
「続けてって言われても、ここから先は、あまり楽しくないんだけど」
それでも構わないから。雛苺が促すと、めぐも躊躇いがちに頷き、口を開いた。
「初めのうちは、彼の優しさが心地よかった。
一緒に過ごす時間が楽しすぎて、夢中に求めてしまうくらいに。
でも、私は、そんな関係にだんだんと不満と息苦しさを覚えていったわ。
だから、ある日、彼に告げたの。もう来ないで……って。
もし来るならば、そのときは……私と一緒に死んでよ、と」
「……どうして?」
「火に炙られた物が焦げるようにね、私のココロも爛れ始めていたから」
ジュンの訪れを待ち侘びる時間は、やがて、不安と苛立ちを生むだけとなった。
来てくれると、次はいつ来られるのかと執拗に問い詰め、
来てくれなければ、どうして来なかったのかと、ねちっこく詮索した。
そんな自分の醜さと死への恐れ、募る寂しさから、毎晩のように慟哭したと、めぐは語った。
「あの頃の私って、とにかく嫌な子でね……私自身、自分が嫌いだった。
いつ壊れるとも解らない不良品の心臓を呪い、こんな身体に生んだ両親を怨んで――
彼にだけは見られたくなかったのよね。どんどん醜悪になってゆく私を」
だから、扉を閉ざした。現実から目を背けて、逃げた。
ジュンも辛かったのだろう。それからは、ぱったりと来なくなったと言う。
そして、支えを失った多感な少女は、ますます情緒不安定になっていった。
「パパとママも、多忙なスケジュールをやりくりして、お見舞いに来てくれた。
それなのに、私……あるとき癇癪を起こして、『死ね』だなんて――
私がこんなに苦しんでるのは、全部、あなたたちのせいだ。責任とってよ、と」
雛苺に見られていることも構わず、めぐは、瞳と声を潤ませた。
「なんで、あんなこと言っちゃったのかな、私…………どうして」
誰かのせいで――なんて、無力な被害者ぶるのは、イヤ。
めぐは、そう言っていた。
たとえ愚かな選択をして、傷ついたとしても、その結果を誇りたい――とも。
あれは、いまも胸に蟠る彼女の後悔が、言わしめたに違いない。
雛苺は、か細く嗚咽するめぐの頭を撫でながら、真紅と水銀燈のことを回想していた。
過失に囚われ、もがき苦しみ続けている姿が、彼女たちと重なったからだ。
みんな、それぞれに抱える悩みがある。人によって、その重さが違うだけ。
そんな理屈は、雛苺にだって解っている。解ってはいるのだけど……
やはり、親しい人の打ち沈む姿は、純真な彼女を、やるせない気持ちにさせた。
「もう泣かないで。ヒナが、悪い夢から覚ましてあげるのよ」
生きとし生ける者、悉く、死と肩を組んで産まれてくる。
けれど、いつか死ぬから、なんだと言うのか。
そんなもの、人生を諦めるに足る理由とはならない。
どれだけ限られた時間であっても――
――否。限りあるからこそ。
雛苺は、しゃくり上げる幼子を宥める母親のように、そっと話しかけた。
「だから……めぐさんも、ヒナに協力してね」
それに応えて、彼女はパジャマの袖で目元を拭った。
「……解ったわ。あなたの言うとおりにする」
「うい。それじゃあ――始めるのよ
こまめに休憩は挿むつもりだけど、疲れちゃったら遠慮なく言ってね」
病室のカーテンを閉じながら、雛苺は、めぐに微笑みかけた。
~ ~ ~
「疲れてない? もう少ししたら、ちょっと休憩なのよ」
描くことに集中しながらも、めぐを気遣うことも忘れない。
けれど、おっとりした口調とは対照的に、めぐを捉える雛苺の視線は鋭かった。
こんなにも、じっくりと誰かに観察されたこと、いままであったかしら。
めぐは、ぞわぞわした得も言えない感覚に戸惑いながらも、小さく頷いた。
雛苺も満足そうに微笑み返して、また話しかける。
「……そう言えば、その後は、どうなの?」
「どうって、なにが?」
「ご両親とは、仲直りしたのかなぁって」
「ああ、そのこと」
めぐの目元が緩む。唇にも、うっすらと笑みが浮かんでいた。
けれども、それはどこか寂しげな気配を匂わせている。
「もちろん、謝ったわよ。電話で、だけどね。
彼と結婚するって決心したその日に、報告がてらに」
「赦してもらえたの?」
「さぁ……どうかな。パパは『そうか』とだけ。ママは、なにも言わなかった。
バカな娘だと呆れられて、愛想を尽かされたんだと、そのときは思ったわ。
いままでの所業を考えたら、それも当然だなぁって。
覚悟してたけどね、現実のものになると、やっぱり、少し落ち込んだわ。
でも、最近ふと気づいたの。泣くのを堪えてて、喋れなかったのかもって」
あれから一度も会って話してないし、電話もしないから、分からないけど。
そう言った彼女の瞳が、雛苺には、心なし潤んで見えた。
「自分たちの娘を愛してない親は、いないのよ」
だから、めぐの見立ては、きっと正しい。
雛苺は無垢な笑みを口元に湛えながら、デッサンの手を止めた。
「ふゆぅ~。ここで一旦、休憩するのよー。お疲れさまなの」
「ん……思ったより緊張するものね、モデルって」
やや上擦った声で言いながら、めぐは、はだけたパジャマの上に毛布を被った。
いきなりセミヌードになることを求められたときは焦ったものの、
雛苺の真摯な眼差しに射抜かれている間に、動揺や羞恥心は収まっていった。
「ねえ、雛苺。進み具合を見せてもらっても、いい?」
「ぜんぜん構わないのよー。こんな感じなの」
見せられたスケッチブックには、中央に、うしろ髪を掻き上げて佇む、めぐの姿。
その右隣に、別の人影を見て、めぐはスケッチブックを取り落としそうになった。
あろうことか、彼女は絵の中で背後から抱擁され、口づけされかけていた。
それも、なにひとつ身に纏うもののない骸骨によって。
骸骨の左腕は、その見かけによらず、めぐの腰を力強く搦め捕っている。
そして、生気のカケラもない右腕は、はだけられた胸元のふくらみへと――
さっきまでの、雛苺の鋭い視線――
もしかして、常人の目には見えないモノを、視ていたとでも言うのか。
おどろおどろしい空気に気圧されながら、めぐは嘆息した。
「これ、どういう意味?」
「死のイメージ。めぐさんの左胸を、鷲掴みにしようとしてるのは……」
「心臓を――ってコトね。なるほど」
言って、めぐは思わず、自分の左胸に手を宛った。
ちょっと強めに押し当てると、微かな鼓動が、一定のテンポで掌に伝わってくる。
この描かれた骸骨が、その目的を遂げたとしたら……どんな感じかな?
やっぱり、キュッと心臓が縮こまって、そのまま停まってしまう?
めぐは奇妙な想像をしながら、スケッチブックを雛苺に返した。
「あなたの絵、初めて見たけど……とても上手ね。骸骨とか、本物みたい」
「いっぱい練習してきたんだから、当たり前なのよー。
骨格とか筋肉の仕組みを知らなきゃ、躍動感のある、ココロの宿る絵は描けないわ。
ただ闇雲にデッサンを繰り返しても、空っぽの器を粗製濫造するだけなの」
「そういうもの?」
「うい! と言っても、ヒナの勝手な解釈に過ぎないんだけど。えへへ……」
絵を描かないめぐには、釈然としない説明だったらしい。
けれども、もっと雛苺の描く絵を見てみたいと……
純粋な興味を芽吹かせるには、それでも充分な様子だった。
「どれくらいで完成しそう?」
「まだ鉛筆での下書きなのよ。パステルの出番は、それが済んでからなの。
とりあえず……あと30分くらい頑張ってね」
「そんなもので描きあがるわけ? もっと掛かるかと思ってたけど」
「下書きが終わるまでの時間よ。着色するのは、午後になっちゃう。
でも、今日中には完成させるから、任せといてなの」
「……そう。楽しみにしてるわ」
微塵も不安を感じさせない、相手を信用しきっている者の口ぶり。
めぐは、肩に掛けていた毛布を脇に除けて、挑むように雛苺を見つめた。
「さぁ、そろそろ再開しましょ」
「具合は、平気? 辛いようなら、先にジュンを描いてくるけど」
「問題ないわ。気にしないで、始めて」
まったくの強がりでもなさそうだ。描き始めより、めぐの顔色はよくなっている。
……が、彼女の体力を思えば、手早く終わらせるに越したことはない。
雛苺は表情を引き結んで、使い慣れた鉛筆を手に取った。
それから20分ほどで下書きが終わるや、めぐはグッタリと横たわった。
同じ姿勢のままでいるのも、これでなかなか、くたびれるものだ。
ましてや、長期にわたる入院で筋力の衰えた彼女なら、なおのこと。
「ホントに、お疲れさまなのよ。ゆっくり休んでね」
「……ん。ちょっと頑張りすぎちゃったみたい。少し、眠るわ」
「解ったの。それじゃ、また後で」
雛苺の労いに、めぐは唇に薄い笑みを作って応えると、瞼を閉ざした。
せめて楽しい夢に浸ってほしい……眠っている間だけでも。
もう一度だけ、ベッドに同情の眼を向けてから、雛苺は316号室を後にした。
「おかえりなさい。もう終わったの?」
入室するや話しかけてきた真紅に、雛苺は「半分だけ」と、曖昧に頷く。
水銀燈も、ジュンも、真紅の病室に場所を移し、語らいながら待っていたらしい。
雛苺の帰りを知り、腰を浮かせたジュンを、雛苺は急いで呼び止めた。
「あ、待ってなの。めぐさん、少し眠るって」
「そうなのか? じゃあ、邪魔しないほうがいいな」
「うんうん。それでね、いまのうちに、ジュンも描いておきたいのよ」
「僕も?」
ジュンが、怪訝な顔をする。水銀燈は、呆れたように鼻を鳴らした。
「おバカさん。もう忘れたのぉ? めぐが言ってたでしょ。
私と彼の未来を描かせてあげる……って」
「あ、ああ……そうか。僕も含まれてるんだよな」
「うい! ここで描いちゃうから、用意してなのよー」
めぐの代役は水銀燈に頼んで、雛苺は、ジュンにポーズの注文をつけた。
それだけすると、彼女は人が変わったように、鉛筆を走らせ始めた。
気持ちを高めたりとか、精神集中するなどの前振りは、一切なし。
めぐが目を醒ますまでに、完成させたい――
まるで、噴火を彷彿させる雛苺の熱意が、居合わせた人々の口を噤ませる。
端で見守る真紅でさえ、絵のモデルになったかのように、身じろぎもできなかった。
[[-つづく->『パステル』 -17-]]