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『パステル』 -17-」(2009/04/14 (火) 01:01:11) の最新版変更点

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    大地を埋め尽くす、紅い薔薇の園。 その中央には、どこか気怠そうに佇む、緑髪の乙女。 若く張りのある肌は、生命の色で溢れていて、病人めいたところなど欠片もない。 ――柿崎めぐ。それが、彼女の名前。   めぐの右側から、墓場から這い出たばかりのような薄汚れた骸骨が、馴れ馴れしく抱きついている。 白骨と化した右手が、豊かに隆起する彼女の左胸へと伸ばされ、いましも愛撫しようとしていた。 けれども、伸ばされたその手は、目的を達成できはしない。 左から、めぐを支えるジュンが、そうはさせじと掴み、引き剥がしているからだ。   ジュンは、骸骨と奪い合うように、右腕で彼女の腰を抱き寄せている。 骸骨の右腕を掴む彼の左手――その薬指には、金属特有の光華を放つ、薔薇の指輪。   だが、生々しく絡みあう3体の人影以上に異様なものも、描き込まれていた。 彼らを取り囲む、緻密な装飾を施された大小無数のドアの群れだ。 どれもが捻れ、歪んでいる。なんのために描き込まれたのか解らない。 そんなものが地平の彼方まで、隙間を埋めるタイルみたいに配されている。     「――なんだか、吸い込まれてしまいそうね」   完成した絵に目を注ぎながら、真紅が独りごちる。 横から覗き込んでいた水銀燈も、似たような感想を抱いたのか、黙って頷く。   「なあ。どうして、薔薇なんだ?」   ジュンだけは、描いた当人を振り返って、問いかけた。 雛苺が、「ほえ?」という風に、顔をあげる。 彼女はいま、三時のおやつを兼ねた昼食を、摂っているところだった。 一気呵成に絵を仕上げていたため、こんな時間になってしまったのだ。   苺オーレで、本日6個目となるチーズ蒸しパンを流し込むと、雛苺は回答した。   「ヒナの好きな花だから。  あとね、生命の象徴としての紅を、配色したかったの」 「生命の象徴としての、紅?」 「血のことでしょう」   首を傾げるジュンに代わり、さも当然と言わんばかりに、真紅が口を挟む。   「それに、紅いバラには『愛情』という意味もあるのよ。  2人の門出を飾る花としてなら、最も相応しいかも知れないのだわ」   愛情って、与える者、受ける者、どちらにとっても生きる希望だと思うから。 そう言うと、真紅は、うっとりと眼を細めた。  もしかしたら、初恋の思い出でも、瞼の裏に甦らせているのかも知れない。   そんな真紅に優しく微笑みかけて、ジュンは絵に視線を戻した。   「とりあえず、この絵によって、僕に与えられた課題は――」 「めぐの傍らを片時も離れず、伸びてくる死の手を掴んでおくこと、ねぇ。  伴侶としての義務を全うしなかったら、承知しないわよぉ」 「それは当然のことだろ。僕が言いたかったのは、もっと現実的な問題さ」 「現実的な問題って……なぁにぃ?」   おうむ返しに訊ねる水銀燈に、ジュンは「これだよ」と、絵を指差して見せた。 「僕の左手に描かれてる、この指輪。探すか、特注で作ってもらわないと」   花弁の一枚、細かなトゲに至るまで、薔薇を精巧に象ったデザインだ。 材質にもよるが、最悪、オーダーメイドになるだろう。 一品物だし、どれだけ値の張ることか……。   ところが、そんなジュンの見立ては、水銀燈によって一笑された。   「なぁんだ。そんなの、問題でもなんでもないわぁ」 「え? どういうことだよ」   まさか、その手のショップや細工職人に、心当たりがあるのだろうか。 ジュンが聞き返すと、水銀燈は小さな笑みを残したまま、頭を振った。   「探す必要なんかない、って意味よ。  私ね……貴方の探しもの、どこにあるか知ってるの」  「ホントか?! どこなんだ、それは」 「あらぁ。気づいてなかったのぉ? ずっと、貴方の近くにあったのに」 「僕の近くに? ずっと?」   考える。水銀燈とジュンの交流は、2年弱。高校生活よりも、まだ浅い。 それとて、この病院に居る間だけのこと。正味は1年にも満たない時間だろう。 彼女の知るジュンのプライベートなど、ほんの僅かに過ぎないはずだ。   ――では。 ひとつの可能性に、ジュンは思い至った。 本来ならば、まず初めに辿り着くべき答えへと。   「もしかして、めぐが持ってるのか」   彼と水銀燈の接点は、めぐの存在が大半を占める。 それを考慮しつつ、さっきの対話を思い返せば、その結論にしか達し得なかった。 いまも水銀燈が所有しているのなら、単刀直入に差し出していたはずだ。   案の定、水銀燈は、神妙な面持ちで頷いた。   「前に、私がプレゼントしたのよ。この絵と、そっくりのデザインの指輪を。  どういう偶然か知らないけど、不可思議な符合よねぇ」   言いながら、彼女は怪訝そうに、雛苺を一瞥した。 けれど、それも瞬刻。めぐが話のネタに見せびらかしたのかも、と考えたのだろう。 やおら表情から硬さを消して、水銀燈は続けた。   「ともかく、そういうことだから。めぐと指輪の交換をすれば済む話よ」 「なるほどな。それは確かに、簡単な解決策だ」   でも――と、ジュン。 彼は、居合わせた3人の乙女を順繰りに見回して、宣誓するように言った。   「やっぱり、僕はこの指輪を探すよ。そうしたいんだ。  どうせなら、対になるものを自力で用意して、持っていたいって思うから。  それにさ、君とめぐの記念の品なら、僕がもらうわけにいかないだろ」 「……律儀ねぇ。と言うか、意地っ張りなおバカさんってカンジぃ」 「貴女だって、相当な依怙地よ。やはり、バカって言った方がバカなのだわ」 「な……真紅ぅ!」 「あっ、ちょっ、なにするのよ。やめて、頬を摘まはひゃひへーふがふが」 「んもー! 2人とも、ケンカはやめるのよー」   いきなり始まった取っ組み合いに、雛苺が割り込む。 もちろん、水銀燈たちとて、時と場所くらい弁えている。 親友同士の戯れもそこそこに、水銀燈はジュンへと水を向けた。   「まあ、探すというなら、ツテが無いわけでもないわよ。  槐先生は、アクセサリーの制作にも造詣が深かったから、多分――」 「なら、相談に乗ってもらえるように、口を利いてもらえないか」 「お安いご用よ。どのみち、車も返しに行かなきゃならないし」   そのときに引き合わせるからと、水銀燈は確約した。 だが、とにもかくにも、めぐに絵を見せるのが先だ。 もう数時間が経っているし、そろそろ、彼女も目を醒ます頃合いだろう。 雛苺の食事も終わったし、3人が連れ立って病室を発とうとすると……   「待ちなさい。私も、一緒に行くわ」   ジュンたちを呼び止めた真紅は、ベッドから出ようとして、端麗な表情を歪めた。 昨日の今日だ。ちょっと動くだけでも、身体中が痛むに違いない。   「無理しないで、安静にしてなさいよぉ」 「どうしても、話したいことがあって」 「めぐに? それなら、言伝を頼まれてあげるわ」 「ダメよ。じかに会って、確かめたいの」 「……しょうがないわねぇ」   面倒くさそうな口調のわりに、水銀燈は、いそいそと真紅に手を貸す。   「真紅ってば、言い出したら聞き分けがない――って、  うひぃ……湿布くさぁい。何枚、貼ってるのよぉ」 「仕方ないでしょう。酷い打ち身なのだから」   それは、水銀燈が真紅に与えてしまった痛み。 そして、真紅が水銀燈を受け止めてくれた証し。 申し訳なくて、でも、そんな真紅の想いが嬉しくて、愛おしくて……   「まあ、おまぬけ真紅は、トクホン臭いのがお似合いかもねぇ」   なのに、ちょっと抱え起こすのにも、おまけの憎まれ口を叩いてしまう。 そんなことは、真紅だって百も承知。言わせっぱなしでは済まさない。 左腕1本といえども、水銀燈に腕を巻きつけ、しがみついた。   「うふふ……」 「な、なによぉ。気持ち悪い笑い方しないでよ」 「貴女が褒めてくれたから、喜んでいるのよ。そうだわ、お礼もしなければね。  ええ、独り占めは良くないもの。貴女にも、湿布の臭いをお裾分けするわ」 「ちょっ、やめてよ」 「ほぉ~ら、だんだん衣服に染み込んでいくのだわぁ~」  「いやーっ! 離しなさいよ、バカぁ!」   子供みたいにじゃれ合う2人を眺めながら、「あいつら仲良いな」と、ジュン。 その隣で、雛苺も苦笑まじりに相槌を打った。   「気兼ねなく幼さをさらけ出せるほど、ココロを許し合えてるのよ。  早い話が、似た者同士の腐れ縁なの」       ~  ~  ~   そんなこんなの騒動を経て、316号室を訪れた雛苺たちは、 ドアを開けるや、めぐに果物ナイフを突き付けられて竦み上がった。 さては、前途を憂えて無理心中でもするつもりか! と、思いきや――   「あ、いらっしゃい。そろそろ来るかなって、リンゴ切ってたのよ」   ――なんて、悪びれもせずに微笑む。   「あ、危ないでしょう!」   真紅が怒りを露わにするも、めぐは「平気よ」と、涼しい顔をする。 「もし、ブスッといっちゃっても、すぐ手当してもらえるってば」   そう言うことじゃなくて。真紅は溜息を吐いて、額に手を遣った。 「相変わらずねぇ」と水銀燈が呟き、ジュンが肩を竦めるあたり、これが日常茶飯事なのか。 雛苺と真紅は呆気にとられて、しばし開いた口を塞げなかった。     「ところで、あなたは?」   ナイフを片づけてベッドに戻ると、めぐは好奇の眼差しを、金髪の麗人に据えた。 訊ねられたジュンが、水銀燈に支えられて佇む真紅を一瞥する。   「彼女の名前は、真紅。水銀燈の幼なじみだそうだ。  なんか、めぐに話があるらしくてね」 「私に? どんなコトかしら」   めぐが視線で促すも、真紅は瞼を閉ざして、頸を横に振った。   「私の話は、後でいいわ。それよりも、雛苺……貴女の用件を、先に」 「う、うい。それじゃあ――」   揃って病室に来た以上、理由は言わずと知れたことだが、一応の前置き。 雛苺は、スケッチブックを開いて、めぐに差しだした。   「絵が、描きあがったなの」 「ホント? 見せて。ふぅん……とても繊細な色使いね。  この薔薇の紅、いいわね。私の好みよ。鮮やかで、とっても綺麗だわ」   それだけ言うと、めぐは両手で絵を掲げて、すべての意識を、そこに向けた。 吟味の表現そのままに、鋭く一点を凝視したり、かと思えば忙しなく眺め回したり。 なにを見て、感じているのか。絵という鏡に、どんなココロを映しているのだろう。 めぐの瞳がスケッチブックの上を走るたび、雛苺の胸も高鳴る。   そして、ふと―― 紙面を離れた彼女の視線に捉えられて、雛苺は身を固くした。   「ねえ、雛苺。ふたつ、訊いてもいいかな」 「な、なに?」 「服を脱ぎかけに描いた必要性。それから、この扉の意味は?」   めぐの声音に、激情の気配はない。あるのは、純粋な知的探求心だけ……らしい。 あくまで、生徒がテキスト片手に、教師に質問するかのような口ぶりだ。 けれど、まだ抑制されているだけで、本当は沸々と煮えたぎっているのかも。 雛苺の答え次第では、一気に吹き零れんばかりに。   「うと、ね。今回のテーマは、輪廻転生や再生じゃなく、再出発。  要するに、スタートラインの引きなおしを目的に、描いたのよ。  だから、めぐさんには、だらしなく服を着せてあるの」 「……ん? ごめん。よく分からないんだけど」 「服は、文明の産物でしょ。そして、叡智とか通則の具象でもあるわ」   それを身に着けている――とは、世間一般の常識や良識を備えている、とも言える。 新生児との重大な差違は、そこだ。産まれたての赤ん坊に、俗智はない。   「それじゃあ、このドアの群れは?」 「未来の形容。無数の扉は、可能性を。歪んでるのは、不確定の表現なのよ」 「ああ……なるほどね」   得心したらしく、めぐは頻りに頷いた。 「いろいろと、事細かに考えられてるのね。正直、意外だった」   雛苺の説明を聞いて、ジュンたちも、今更ながら納得顔をしている。 どうしても、骸骨と乙女と青年のもつれ合いに目を引かれてしまって、 それ以外の部分にまで注意が届いていなかったのだ。   「めぐさんとジュンの未来は、2人が協力しあって描き続けていくものでしょ。  ヒナが描けるのは、新しいスタートライン……物語の序曲だけなのよ」   それを根本的な解決とは、決して言えない。 めぐの心臓は、依然として癒えないのだから。   「――序曲、か」   けれど、めぐの表情は清々しかった。 彼女はいま、まさに自らの過ちに気づき、本当の意味での目的を得たのかも知れない。   「ありがとう、雛苺。新生活に入る私たちへの、なによりの贈り物よ」   雛苺に描いてもらう、とは、結局のところ他力本願。 誰のせいにもしないと言いながら、自覚ないまま、逃げ道を探していた。 病身であることに甘えて、自ら掴みに行くことを、どこかで諦めていたのだ。   でも、過ちに気づいたのなら、やり直すこともできる。 その意欲と、実行する勇気さえあれば。     めぐは、ジュンと目を合わせ、笑みを浮かべた。「もうちょっと頑張ってみるね、私」 ジュンも微笑みながら、「全力で協力するよ」と頷き、雛苺に眼を転じた。   「僕からも、礼を言わせてくれ。ありがとな」 「気に入ってもらえたなら、ヒナも、ひと安心なのよ」 「さて、次は――」   言って、めぐは穏やかな眼差しを、もう1人の乙女へと転じた。   「あなたね。私に話したいことって、なに?」 「まずは、祝福しておくわ。おめでとう、2人とも。  ところで、貴方たち。新居は、もう決まっているの?」 「僕の家で暮らす予定だけど」 「そう――」   真紅は首を傾げて、少しばかり考え込む素振りをした。 しかし、逡巡には至らず。強い意志を秘めた双眸を、ジュンとめぐに戻した。   「もし、差し支えがなければ……私と契約する気はないかしら。  私の用件と言うのはね、住み込みで働いてくれる夫婦を、探していたのよ」 「また、いきなりな話だな」   ジュンは呆れたように言うが、その胸裡では、微妙にココロを動かされていた。 彼なりに、姉を厄介払いするような状況には、呵責を感じていたのだ。   真紅の申し出を受け入れたなら、のりは今までどおり、生まれ育った家で暮らせる。 けれども、めぐは、それを望まないかも知れない。 彼が、あまり乗り気でない風を装ったのも、偏に、めぐを気遣ってのことだった。   「まあまあ。折角、こうして訪ねてくれたんだもの。  話くらいは、聞いてあげましょうよ」   ジュンの思いには、薄々、気づいていたのだろう。 途切れそうな話題を、めぐが繋げる。ひた……と、真紅を見つめながら。   「具体的に、どこに住まわせようというの?」 「私は、製茶業を営んでいてね。そこそこ広い茶畑を、保有しているの。  そこにある施設の管理を、任せたいのだわ」 「私と彼の、2人だけで?」 「昼間は、うちの従業員が常駐しているわ。夜間は、貴方たちだけになるわね。  いままでは、少ない人員をやりくりしていたのだけれど……  夜勤も大きな負担なのよ。社員のプライベートにとっても、経理の面でも」 「ふぅん……なるほどね」   会話の切れ間を縫って、雛苺がベッドに近づく。 そして、めぐの手中にあるスケッチブックを捲って、下書きのページを開いた。   「これが、いまの話に出てた、茶畑にある施設からの眺めなのよ。  鉛筆描きだから、色合いは判りにくいんだけど」 「へえ……けっこう広いんだ。ここって、山頂付近?  空が、とっても近く見えるわ。すごく綺麗な景色なんでしょうね」   感嘆の息を吐いて、めぐは、ジュンに笑顔を向けた。 「いいんじゃないかな、引き受けてみても。あなた、どう思う?」   「どう――って、あのなあ……」ジュンは、片眉を上げて、苦笑う。 「いいのかよ、そんな簡単に決めちゃっても。待遇とか、いろいろあるだろ」   それについては、即座に真紅が口を挟んだ。   「正社員としての雇用よ。資格に応じて、別途手当もつけるわ」 「――だ、そうよ。私は異存ないわ。こんな場所での暮らしにも憧れてたし。  私、アルバイトすらしたことないから、働くってことに興味もあるのよ。  それにね、彼女に雇われるのは、もう決定事項だと思うの」   この絵が、描かれた時から―― めぐは、そう言うと、スケッチブックを先程のページに戻した。   紅い薔薇の園に囲まれた、めぐと、ジュン。 真紅という乙女に重なる、気高く咲き誇る紅い薔薇のイメージ。 指摘されてから、改めて眺めると……なるほど、そう捉えられなくもない。 そこまでの思惑が、雛苺にあったかどうかは、はなはだ疑問だが。   「……そりゃまあ、めぐが望むなら、叶えてあげたいけどさ。  あまりにも不便な生活を強いられるのなら、論外だろ。  交通事情が最悪だと、もしものとき、病院への搬送が間に合わないかも。  めぐの命に関わることだし、その懸念があるなら、僕は反対だ」 「善処するわ。従業員の福利厚生を計るのも、雇用者の義務ですもの」   真紅は、その青い瞳に真摯な光を宿して、まっすぐにジュンたちを見つめた。 そこには強い意志が感じられる。おそらく、真紅は約束を違えない。 結ばれた契約を、自らのプライドにかけて履行しようとするだろう。 不安は拭いきれないものの、ジュンは「わかった」と頷いた。   「じゃあ、決まりね」めぐが手を打ち鳴らして、締め括る。 「なんだか、ワクワクしてきちゃった。一度、前もって見学にも行きたいわね」   無邪気にはしゃぐ姿は、まるっきり遠足前夜のノリだ。 そんな病人らしからぬ溌剌とした様子に、居合わせた誰もが、笑みを誘われていた。         つづく    
    大地を埋め尽くす、紅い薔薇の園。 その中央には、どこか気怠そうに佇む、緑髪の乙女。 若く張りのある肌は、生命の色で溢れていて、病人めいたところなど欠片もない。 ――柿崎めぐ。それが、彼女の名前。   めぐの右側から、墓場から這い出たばかりのような薄汚れた骸骨が、馴れ馴れしく抱きついている。 白骨と化した右手が、豊かに隆起する彼女の左胸へと伸ばされ、いましも愛撫しようとしていた。 けれども、伸ばされたその手は、目的を達成できはしない。 左から、めぐを支えるジュンが、そうはさせじと掴み、引き剥がしているからだ。   ジュンは、骸骨と奪い合うように、右腕で彼女の腰を抱き寄せている。 骸骨の右腕を掴む彼の左手――その薬指には、金属特有の光華を放つ、薔薇の指輪。   だが、生々しく絡みあう3体の人影以上に異様なものも、描き込まれていた。 彼らを取り囲む、緻密な装飾を施された大小無数のドアの群れだ。 どれもが捻れ、歪んでいる。なんのために描き込まれたのか解らない。 そんなものが地平の彼方まで、隙間を埋めるタイルみたいに配されている。     「――なんだか、吸い込まれてしまいそうね」   完成した絵に目を注ぎながら、真紅が独りごちる。 横から覗き込んでいた水銀燈も、似たような感想を抱いたのか、黙って頷く。   「なあ。どうして、薔薇なんだ?」   ジュンだけは、描いた当人を振り返って、問いかけた。 雛苺が、「ほえ?」という風に、顔をあげる。 彼女はいま、三時のおやつを兼ねた昼食を、摂っているところだった。 一気呵成に絵を仕上げていたため、こんな時間になってしまったのだ。   苺オーレで、本日6個目となるチーズ蒸しパンを流し込むと、雛苺は回答した。   「ヒナの好きな花だから。  あとね、生命の象徴としての紅を、配色したかったの」 「生命の象徴としての、紅?」 「血のことでしょう」   首を傾げるジュンに代わり、さも当然と言わんばかりに、真紅が口を挟む。   「それに、紅いバラには『愛情』という意味もあるのよ。  2人の門出を飾る花としてなら、最も相応しいかも知れないのだわ」   愛情って、与える者、受ける者、どちらにとっても生きる希望だと思うから。 そう言うと、真紅は、うっとりと眼を細めた。  もしかしたら、初恋の思い出でも、瞼の裏に甦らせているのかも知れない。   そんな真紅に優しく微笑みかけて、ジュンは絵に視線を戻した。   「とりあえず、この絵によって、僕に与えられた課題は――」 「めぐの傍らを片時も離れず、伸びてくる死の手を掴んでおくこと、ねぇ。  伴侶としての義務を全うしなかったら、承知しないわよぉ」 「それは当然のことだろ。僕が言いたかったのは、もっと現実的な問題さ」 「現実的な問題って……なぁにぃ?」   おうむ返しに訊ねる水銀燈に、ジュンは「これだよ」と、絵を指差して見せた。 「僕の左手に描かれてる、この指輪。探すか、特注で作ってもらわないと」   花弁の一枚、細かなトゲに至るまで、薔薇を精巧に象ったデザインだ。 材質にもよるが、最悪、オーダーメイドになるだろう。 一品物だし、どれだけ値の張ることか……。   ところが、そんなジュンの見立ては、水銀燈によって一笑された。   「なぁんだ。そんなの、問題でもなんでもないわぁ」 「え? どういうことだよ」   まさか、その手のショップや細工職人に、心当たりがあるのだろうか。 ジュンが聞き返すと、水銀燈は小さな笑みを残したまま、頭を振った。   「探す必要なんかない、って意味よ。  私ね……貴方の探しもの、どこにあるか知ってるの」  「ホントか?! どこなんだ、それは」 「あらぁ。気づいてなかったのぉ? ずっと、貴方の近くにあったのに」 「僕の近くに? ずっと?」   考える。水銀燈とジュンの交流は、2年弱。高校生活よりも、まだ浅い。 それとて、この病院に居る間だけのこと。正味は1年にも満たない時間だろう。 彼女の知るジュンのプライベートなど、ほんの僅かに過ぎないはずだ。   ――では。 ひとつの可能性に、ジュンは思い至った。 本来ならば、まず初めに辿り着くべき答えへと。   「もしかして、めぐが持ってるのか」   彼と水銀燈の接点は、めぐの存在が大半を占める。 それを考慮しつつ、さっきの対話を思い返せば、その結論にしか達し得なかった。 いまも水銀燈が所有しているのなら、単刀直入に差し出していたはずだ。   案の定、水銀燈は、神妙な面持ちで頷いた。   「前に、私がプレゼントしたのよ。この絵と、そっくりのデザインの指輪を。  どういう偶然か知らないけど、不可思議な符合よねぇ」   言いながら、彼女は怪訝そうに、雛苺を一瞥した。 けれど、それも瞬刻。めぐが話のネタに見せびらかしたのかも、と考えたのだろう。 やおら表情から硬さを消して、水銀燈は続けた。   「ともかく、そういうことだから。めぐと指輪の交換をすれば済む話よ」 「なるほどな。それは確かに、簡単な解決策だ」   でも――と、ジュン。 彼は、居合わせた3人の乙女を順繰りに見回して、宣誓するように言った。   「やっぱり、僕はこの指輪を探すよ。そうしたいんだ。  どうせなら、対になるものを自力で用意して、持っていたいって思うから。  それにさ、君とめぐの記念の品なら、僕がもらうわけにいかないだろ」 「……律儀ねぇ。と言うか、意地っ張りなおバカさんってカンジぃ」 「貴女だって、相当な依怙地よ。やはり、バカって言った方がバカなのだわ」 「な……真紅ぅ!」 「あっ、ちょっ、なにするのよ。やめて、頬を摘まはひゃひへーふがふが」 「んもー! 2人とも、ケンカはやめるのよー」   いきなり始まった取っ組み合いに、雛苺が割り込む。 もちろん、水銀燈たちとて、時と場所くらい弁えている。 親友同士の戯れもそこそこに、水銀燈はジュンへと水を向けた。   「まあ、探すというなら、ツテが無いわけでもないわよ。  槐先生は、アクセサリーの制作にも造詣が深かったから、多分――」 「なら、相談に乗ってもらえるように、口を利いてもらえないか」 「お安いご用よ。どのみち、車も返しに行かなきゃならないし」   そのときに引き合わせるからと、水銀燈は確約した。 だが、とにもかくにも、めぐに絵を見せるのが先だ。 もう数時間が経っているし、そろそろ、彼女も目を醒ます頃合いだろう。 雛苺の食事も終わったし、3人が連れ立って病室を発とうとすると……   「待ちなさい。私も、一緒に行くわ」   ジュンたちを呼び止めた真紅は、ベッドから出ようとして、端麗な表情を歪めた。 昨日の今日だ。ちょっと動くだけでも、身体中が痛むに違いない。   「無理しないで、安静にしてなさいよぉ」 「どうしても、話したいことがあって」 「めぐに? それなら、言伝を頼まれてあげるわ」 「ダメよ。じかに会って、確かめたいの」 「……しょうがないわねぇ」   面倒くさそうな口調のわりに、水銀燈は、いそいそと真紅に手を貸す。   「真紅ってば、言い出したら聞き分けがない――って、  うひぃ……湿布くさぁい。何枚、貼ってるのよぉ」 「仕方ないでしょう。酷い打ち身なのだから」   それは、水銀燈が真紅に与えてしまった痛み。 そして、真紅が水銀燈を受け止めてくれた証し。 申し訳なくて、でも、そんな真紅の想いが嬉しくて、愛おしくて……   「まあ、おまぬけ真紅は、トクホン臭いのがお似合いかもねぇ」   なのに、ちょっと抱え起こすのにも、おまけの憎まれ口を叩いてしまう。 そんなことは、真紅だって百も承知。言わせっぱなしでは済まさない。 左腕1本といえども、水銀燈に腕を巻きつけ、しがみついた。   「うふふ……」 「な、なによぉ。気持ち悪い笑い方しないでよ」 「貴女が褒めてくれたから、喜んでいるのよ。そうだわ、お礼もしなければね。  ええ、独り占めは良くないもの。貴女にも、湿布の臭いをお裾分けするわ」 「ちょっ、やめてよ」 「ほぉ~ら、だんだん衣服に染み込んでいくのだわぁ~」  「いやーっ! 離しなさいよ、バカぁ!」   子供みたいにじゃれ合う2人を眺めながら、「あいつら仲良いな」と、ジュン。 その隣で、雛苺も苦笑まじりに相槌を打った。   「気兼ねなく幼さをさらけ出せるほど、ココロを許し合えてるのよ。  早い話が、似た者同士の腐れ縁なの」       ~  ~  ~   そんなこんなの騒動を経て、316号室を訪れた雛苺たちは、 ドアを開けるや、めぐに果物ナイフを突き付けられて竦み上がった。 さては、前途を憂えて無理心中でもするつもりか! と、思いきや――   「あ、いらっしゃい。そろそろ来るかなって、リンゴ切ってたのよ」   ――なんて、悪びれもせずに微笑む。   「あ、危ないでしょう!」   真紅が怒りを露わにするも、めぐは「平気よ」と、涼しい顔をする。 「もし、ブスッといっちゃっても、すぐ手当してもらえるってば」   そう言うことじゃなくて。真紅は溜息を吐いて、額に手を遣った。 「相変わらずねぇ」と水銀燈が呟き、ジュンが肩を竦めるあたり、これが日常茶飯事なのか。 雛苺と真紅は呆気にとられて、しばし開いた口を塞げなかった。     「ところで、あなたは?」   ナイフを片づけてベッドに戻ると、めぐは好奇の眼差しを、金髪の麗人に据えた。 訊ねられたジュンが、水銀燈に支えられて佇む真紅を一瞥する。   「彼女の名前は、真紅。水銀燈の幼なじみだそうだ。  なんか、めぐに話があるらしくてね」 「私に? どんなコトかしら」   めぐが視線で促すも、真紅は瞼を閉ざして、頸を横に振った。   「私の話は、後でいいわ。それよりも、雛苺……貴女の用件を、先に」 「う、うい。それじゃあ――」   揃って病室に来た以上、理由は言わずと知れたことだが、一応の前置き。 雛苺は、スケッチブックを開いて、めぐに差しだした。   「絵が、描きあがったなの」 「ホント? 見せて。ふぅん……とても繊細な色使いね。  この薔薇の紅、いいわね。私の好みよ。鮮やかで、とっても綺麗だわ」   それだけ言うと、めぐは両手で絵を掲げて、すべての意識を、そこに向けた。 吟味の表現そのままに、鋭く一点を凝視したり、かと思えば忙しなく眺め回したり。 なにを見て、感じているのか。絵という鏡に、どんなココロを映しているのだろう。 めぐの瞳がスケッチブックの上を走るたび、雛苺の胸も高鳴る。   そして、ふと―― 紙面を離れた彼女の視線に捉えられて、雛苺は身を固くした。   「ねえ、雛苺。ふたつ、訊いてもいいかな」 「な、なに?」 「服を脱ぎかけに描いた必要性。それから、この扉の意味は?」   めぐの声音に、激情の気配はない。あるのは、純粋な知的探求心だけ……らしい。 あくまで、生徒がテキスト片手に、教師に質問するかのような口ぶりだ。 けれど、まだ抑制されているだけで、本当は沸々と煮えたぎっているのかも。 雛苺の答え次第では、一気に吹き零れんばかりに。   「うと、ね。今回のテーマは、輪廻転生や再生じゃなく、再出発。  要するに、スタートラインの引きなおしを目的に、描いたのよ。  だから、めぐさんには、だらしなく服を着せてあるの」 「……ん? ごめん。よく分からないんだけど」 「服は、文明の産物でしょ。そして、叡智とか通則の具象でもあるわ」   それを身に着けている――とは、世間一般の常識や良識を備えている、とも言える。 新生児との重大な差違は、そこだ。産まれたての赤ん坊に、俗智はない。   「それじゃあ、このドアの群れは?」 「未来の形容。無数の扉は、可能性を。歪んでるのは、不確定の表現なのよ」 「ああ……なるほどね」   得心したらしく、めぐは頻りに頷いた。 「いろいろと、事細かに考えられてるのね。正直、意外だった」   雛苺の説明を聞いて、ジュンたちも、今更ながら納得顔をしている。 どうしても、骸骨と乙女と青年のもつれ合いに目を引かれてしまって、 それ以外の部分にまで注意が届いていなかったのだ。   「めぐさんとジュンの未来は、2人が協力しあって描き続けていくものでしょ。  ヒナが描けるのは、新しいスタートライン……物語の序曲だけなのよ」   それを根本的な解決とは、決して言えない。 めぐの心臓は、依然として癒えないのだから。   「――序曲、か」   けれど、めぐの表情は清々しかった。 彼女はいま、まさに自らの過ちに気づき、本当の意味での目的を得たのかも知れない。   「ありがとう、雛苺。新生活に入る私たちへの、なによりの贈り物よ」   雛苺に描いてもらう、とは、結局のところ他力本願。 誰のせいにもしないと言いながら、自覚ないまま、逃げ道を探していた。 病身であることに甘えて、自ら掴みに行くことを、どこかで諦めていたのだ。   でも、過ちに気づいたのなら、やり直すこともできる。 その意欲と、実行する勇気さえあれば。     めぐは、ジュンと目を合わせ、笑みを浮かべた。「もうちょっと頑張ってみるね、私」 ジュンも微笑みながら、「全力で協力するよ」と頷き、雛苺に眼を転じた。   「僕からも、礼を言わせてくれ。ありがとな」 「気に入ってもらえたなら、ヒナも、ひと安心なのよ」 「さて、次は――」   言って、めぐは穏やかな眼差しを、もう1人の乙女へと転じた。   「あなたね。私に話したいことって、なに?」 「まずは、祝福しておくわ。おめでとう、2人とも。  ところで、貴方たち。新居は、もう決まっているの?」 「僕の家で暮らす予定だけど」 「そう――」   真紅は首を傾げて、少しばかり考え込む素振りをした。 しかし、逡巡には至らず。強い意志を秘めた双眸を、ジュンとめぐに戻した。   「もし、差し支えがなければ……私と契約する気はないかしら。  私の用件と言うのはね、住み込みで働いてくれる夫婦を、探していたのよ」 「また、いきなりな話だな」   ジュンは呆れたように言うが、その胸裡では、微妙にココロを動かされていた。 彼なりに、姉を厄介払いするような状況には、呵責を感じていたのだ。   真紅の申し出を受け入れたなら、のりは今までどおり、生まれ育った家で暮らせる。 けれども、めぐは、それを望まないかも知れない。 彼が、あまり乗り気でない風を装ったのも、偏に、めぐを気遣ってのことだった。   「まあまあ。折角、こうして訪ねてくれたんだもの。  話くらいは、聞いてあげましょうよ」   ジュンの思いには、薄々、気づいていたのだろう。 途切れそうな話題を、めぐが繋げる。ひた……と、真紅を見つめながら。   「具体的に、どこに住まわせようというの?」 「私は、製茶業を営んでいてね。そこそこ広い茶畑を、保有しているの。  そこにある施設の管理を、任せたいのだわ」 「私と彼の、2人だけで?」 「昼間は、うちの従業員が常駐しているわ。夜間は、貴方たちだけになるわね。  いままでは、少ない人員をやりくりしていたのだけれど……  夜勤も大きな負担なのよ。社員のプライベートにとっても、経理の面でも」 「ふぅん……なるほどね」   会話の切れ間を縫って、雛苺がベッドに近づく。 そして、めぐの手中にあるスケッチブックを捲って、下書きのページを開いた。   「これが、いまの話に出てた、茶畑にある施設からの眺めなのよ。  鉛筆描きだから、色合いは判りにくいんだけど」 「へえ……けっこう広いんだ。ここって、山頂付近?  空が、とっても近く見えるわ。すごく綺麗な景色なんでしょうね」   感嘆の息を吐いて、めぐは、ジュンに笑顔を向けた。 「いいんじゃないかな、引き受けてみても。あなた、どう思う?」   「どう――って、あのなあ……」ジュンは、片眉を上げて、苦笑う。 「いいのかよ、そんな簡単に決めちゃっても。待遇とか、いろいろあるだろ」   それについては、即座に真紅が口を挟んだ。   「正社員としての雇用よ。資格に応じて、別途手当もつけるわ」 「――だ、そうよ。私は異存ないわ。こんな場所での暮らしにも憧れてたし。  私、アルバイトすらしたことないから、働くってことに興味もあるのよ。  それにね、彼女に雇われるのは、もう決定事項だと思うの」   この絵が、描かれた時から―― めぐは、そう言うと、スケッチブックを先程のページに戻した。   紅い薔薇の園に囲まれた、めぐと、ジュン。 真紅という乙女に重なる、気高く咲き誇る紅い薔薇のイメージ。 指摘されてから、改めて眺めると……なるほど、そう捉えられなくもない。 そこまでの思惑が、雛苺にあったかどうかは、はなはだ疑問だが。   「……そりゃまあ、めぐが望むなら、叶えてあげたいけどさ。  あまりにも不便な生活を強いられるのなら、論外だろ。  交通事情が最悪だと、もしものとき、病院への搬送が間に合わないかも。  めぐの命に関わることだし、その懸念があるなら、僕は反対だ」 「善処するわ。従業員の福利厚生を計るのも、雇用者の義務ですもの」   真紅は、その青い瞳に真摯な光を宿して、まっすぐにジュンたちを見つめた。 そこには強い意志が感じられる。おそらく、真紅は約束を違えない。 結ばれた契約を、自らのプライドにかけて履行しようとするだろう。 不安は拭いきれないものの、ジュンは「わかった」と頷いた。   「じゃあ、決まりね」めぐが手を打ち鳴らして、締め括る。 「なんだか、ワクワクしてきちゃった。一度、前もって見学にも行きたいわね」   無邪気にはしゃぐ姿は、まるっきり遠足前夜のノリだ。 そんな病人らしからぬ溌剌とした様子に、居合わせた誰もが、笑みを誘われていた。         [[-つづく->『パステル』 -オーベルテューレ-]]

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