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『歪みの国の少女』 ~繋げる希望~」(2009/07/05 (日) 21:50:44) の最新版変更点

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     《 元気にしていますか? おなかを壊したり、していませんか? 》     書き出しは、いつも同じ。少女も、いつものように、ふ……と口の端を弛めた。 彼女はいつだって、なにをさておいても、手紙の枕に少女を気づかう言葉を置く。 それは、おそらく無意識下での、ごく自然発生的なもの。 彼女の――変に気位が高く依怙地な義妹の胸に宿る、義姉への愛情の発露なのだろう。   顔を合わせれば、生意気な憎まれ口しか叩かないのに……。 そんな感想と共に、義妹の澄ました様子が思い出されて、少女は頬を綻ばせた。 要するに、あの娘は他者との距離の取り方が、まだ上手じゃないのだ、と。      手にした便箋を、鼻先が触れるほどに寄せて、静かに、ゆっくりと、息を吸い込む。 恥知らずな【R機関】に検閲され、【処理】を施された、封のない手紙。 けれど、少女の切望していたものは、ちゃんと残っていた。   真新しい紙の滑らかなにおい。ツンと鼻腔を突くインクのにおい。 小さな孤児院の中に満ち満ちた、静謐で平穏な暮らしの、懐かしいにおい。 それらの隙間から、針の如く細かに抜けてくる、義妹たちの柔らかな髪のにおい。 少女の胸に、愛おしい気持ちが大きく膨らんだ。   ふ……。少女は深い安堵から、目元を和ませた。これも、いつものこと。 「よかった」と独りごちると、改めて便箋を遠ざけ、整然と並んだ文章に目を落とした。 その中に、生真面目な彼女にしては珍しく、ぐりぐりと塗りつぶした訂正箇所が、ちらほら。 いつも目にする【R機関】の【処理】とは違う。明らかに、書いた本人の手による仕事だ。   うっかり字を間違えたのか。……いや、それなら書き直すはずだ。真紅ならば。 過剰とも思える配慮から、【こちら】を刺激しかねないデリケートな単語を亡き者にしたのだろう。     手紙の内容は、【あちら】での、他愛のない日常生活のこと。 父も義妹たちも、つつがなく暮らしているようだ。   「……よかった」   もう一度、独り言を繰り返して、少女は胸を撫でおろした。 けれど、その整った顔立ちには、妙齢の乙女らしからぬ苦悩が刻まれている。 いつだって、少女の風貌から憂いが消えることはなかった。 決して消えることのない翳りが、油汚れの如くに、しつこく染みついていた。     すべては、あの日からだ。少女は瞑目して、過去の記憶を掘り返す。 孤児院での、貧しく質素ながら、心はいつでも豊かだった日々。 優しくて、大きくて、温かい父の存在。 やんちゃで手の掛かる、それでも可愛くて仕方がない義妹たち……。    「お父さま……みんな……」   帰りたい――と、双眸を潤ませる。好きで、こんな場所に来たのではない。 その想いが、憤りの芽となって、少女の胸裡で燻っていた。    同じことの繰り返し。 たった一人、家族と引き裂かれてしまった、あの日から。          『歪みの国の少女』 ~繋げる希望~       読み終えた手紙を、机の上に滑らせて、少女は窓辺に歩み寄った。 真っ新なレースのカーテンの端を摘んで、澄んだ瞳を、外の世界に彷徨わせる。 その表情は、相も変わらず暗い。若く瑞々しい唇を、キュッと噛んでいる。 あと少しの刺激に背を押されれば、泣きだしてしまいそうな気配だった。   ここは、少女のために設えられた部屋。 瀟洒な屋敷の中の、なに不自由のない生活を約束された空間だった。 とは言っても、すべての望みが叶えられることなど、ないのだけれど……。   ドアがノックされる音に、少女はハッと振り返って、「どうぞ」と。 扉の向こうの訪問者に呼びかけた時にはもう、愛くるしい笑みを完成させていた。 こんなことばかり巧くなっても仕方がないのに、と胸裡で自嘲しながら。   「失礼するよ」   ドアノブの廻る音がしてすぐに、訪問者のよく通る声が告げた。 穏やかだが、抑揚のある口振り。ある種の威厳も、低く響く声音に潜んでいる。 室内へと、自らの座る車椅子を進めてくる姿だって、実に矍鑠としたものだ。 少女は駆け寄ろうとしたが、老紳士に手で遮られ、浮かした踵を絨毯に沈めた。   「どうかね。不便なことは、ないかね?」 「ええ。結菱さんには、お世話になってばかりで。なんてお礼を言ったらいいのか」 「慣れないものだな。そう畏まることはないと言い続けて、ひと月が経つのに」   口調とは裏腹に、老紳士の猛禽を彷彿させる眼光が、雪の溶けるように和らぐ。 少女も、気恥ずかしげに俯いて、透けるほどに白い頬を、春めいた桜色に染めた。 この眺め、事情を知らない者の目には、孫娘と好々爺と映りそうである。 が、もちろん違う。少女と結菱は、ほんの一ヶ月前まで赤の他人同士だった。   少女の前で車椅子を止めた結菱の視線が、机の上の手紙へと吸い寄せられる。 彼の老眼では、文面を判読できない。けれど、およその内容は把握しているらしい。   「ご家族は、元気にしているようだね」 「ええ。みんな、特に変わりないみたい」 「結構なことだ。しかし、不憫なことでもある」   言って、鷹揚に頷いた結菱は、節くれ立った手を伸ばして少女の白い手を包み込んだ。 労るように。慰めるように。そして、どこか愛おしげに。   「悔やまれてならない。私に、あと少しの若さと権力があれば、と」 「そんな……なにを謙遜するのですか。結菱さんは立派に――」 「立派かね。満足に歩くことすら叶わず、老醜を晒しているだけの、この私が」   老人の嗄れた自己批判は、少女の喉の奥に、苦くて重々しい塊を残した。 「やめてください!」瞼を閉ざして、いやいやをする。「そんな風に言わないで」 少女の眉間に刻まれた深い皺に、辛い心境が、如実に現れていた。    「すまない。失言だったようだ」 照れ臭さを露わに話す結菱の表情には、思春期の少年のような顔が垣間見えた。   「いかんな、年寄りは。つい、気弱になって、愚痴ばかり零してしまう」 「老若は関係ないんじゃないかしら。こんな状況だもの、誰だって卑屈になるわ」 「こんな状況では、か」   ふたりは揃って窓に顔を向け、ぼんやりと外の景色を眺めた。 薄いガラス一枚で隔てられた先には、長閑で平々凡々とした街並みが広がっている。 ありとあらゆる、すべての物が、溢れんばかりの日射しを浴びて輝いていた。 その美しく平穏な景観に、彼らを悲観させる要素などは、微塵も窺えない。   けれど、少女も老紳士も知っている。 ここにある輝きは平和の縮図などではなく、死に逝く者たちの断末魔であることを。 長閑なのではない。この街は病魔に蝕まれて、息も絶え絶えに横たわっているだけだ。   「あと――」   言いかけて、少女は力なく、放たれるはずだった問いを呑み込んだ。 どれだけの猶予があるのかなど、誰にも確約できはしない。 結菱にも。少女にも。おそらくは、ノーベル賞を授与されるほどの物理学者でさえも。   「窓を、開けてくれないかね」   少女は求められるまま、レースのカーテンを左右に分けて、観音開きの窓を開け放った。 結菱は頷き、吹く込む風に抗い、窓の先に突きだしたテラスへと車椅子を進める。 彼に続いて、少女も降り注ぐ陽光の下に出た。   「風のにおいは、変わらないものだな」 「そう……なの?」 「うむ。君には馴染みが薄いだろうが、私にとっては何十年と慣れ親しんだ風だ。  鮭が自分の生まれた川の水を忘れないように、私もまた、この風を忘れはしない」   少女にそう告げた老紳士の横顔には、懐旧だけではない、様々な想いが浮かんでいた。 いろいろな事があったのだろう。少女の想像など及びもしない、喜怒哀楽が。 そして数多の思い出を抱きながら、結菱は役を演じきった俳優として、舞台袖に消えるはずだった。 なのに、とんだカーテンコールが待っていたものだ。   少女は緑青の浮いたブロンズの手すりに凭れて、目を閉じ、吹き抜ける風に身を委ねた。 【こちら】にある物すべては、【歪み】に汚染された忌々しい代物―― けれど、少女は頬を撫でてゆく柔らかな風を、確かに心地よいと感じていた。   叶うものならば、ココロを託してしまいたい。そんな想いが、少女の胸に募る。 この気持ちに【歪み】が生じてしまう前に、大好きな人たちに届けて……と。     「お茶にしないかね」   穏やかな老紳士の声に、少女は瞼を開く。微笑み、頷いた。 「いいですね。それでは、すぐに支度しましょう」   気持ちのいい陽気だった。一時の錯覚でも、苦い境遇を忘れられそうな気がした。 ひらり、と。少女は飛んだ。テラスの手すりの向こうへと、華奢な身体を躍らせた。 けれども、階下に墜落したりはしない。 ここは【歪み】の世界。ダリの絵を彷彿させる、【記憶の固執】を嘲笑う非常識な世界。 眼に映る物すべてが【現】であり、また【幻】でもあるのだから。   それこそ一瞬のうちに、少女は屋敷の厨房に辿り着いていた。 冷蔵庫で湯を沸かしつつ、広げたキッチンタオルに、ティーセットを並べる。 【歪み】に対するせめてもの逆心から、茶葉だけは、なんの捻りもない銘柄を選んだ。 結菱の待つテラスまで戻るときも、少女はきちんと歩き、階段を昇った。   ティーセットを載せたキッチンタオルを手に、器用に自室のドアを開ける。 それを、机に仮置きしてから、少女はテラスに小ぶりのテーブルを運び出した。   「お待たせしました」 「いいさ。至福のひとときを迎えるためには、待つことも大切な儀式なのだよ」   さらりと、気障ったらしさを感じさせずに言える老紳士の格好よさが、少女は好きだった。 威厳と円熟味を備えた結菱に、今は離れて暮らす父の影を、重ねていたのかもしれない。 カップを並べながら、少女は父にしていたように、懐っこく微笑みかけた。   「いい香りだ。ダージリンかね」 「ええ。別のお茶が、よかったかしら」 「そうではない。この香りも、まだ【歪】んでいないのだなと、嬉しくなってね」 「……そうね。ええ、本当に」   カップは、ウェッジウッドのボーンチャイナ。 乳白色の器は日射しを吸い込んで、蛍のように淡く光って見える。 そこに満たされた深紅の液体は、束の間、老人と少女の瞳と鼻腔を愉しませた。   「――美味しい」 まだ舌を火傷するほど熱い紅茶をひと啜りして、少女が独りごちた。 「こう感じる私たちの味覚も……いずれは【歪み】に蝕まれてしまうのでしょうか」   結菱は、うむ、と唸った。「いずれは、そうなるのだろうな」 即座に、少女が問う。「どうしても? 逃れる術は……絶対にない?」   諦めと後悔を以て、この状況に慣れてゆく道を、歩み続けるより他にない―― だとしたら、あまりにも虚しすぎると、少女は思った。 この【歪み】の世界を生みだしたのは、人間の弱くて甘えた心ではないか。 それを克服する術もまた、人間の心で生み出せるはずなのに。    「とても残念だが、【R機関】は外科手術だけが唯一の治療法だと信じ切っている」 「あるいは、信じたいのかもしれないわね。誤った教条主義だけど」 「確かに、そういう面はある。連中が推進するプロジェクトは、中世の対症療法だよ。  目の前の安寧を得ることに躍起で、問題の抜本的な解決には怠慢なままなのだ」   だから、やがて世界は自滅する形で【歪み】に呑まれるだろうと、結菱は続けた。 少女にも、それは解る気がした。失敗は挽回によってこそ払拭されるもの。 しかしながら【R機関】の方策には、そこに至るための確たる道筋が見られなかった。     およそ半年前まで、栄華を極めていた人類。 巷には、種々雑多な願望を短時間で可能にする文明の利器が、溢れていた。 そこに暮らす大多数の人間は小利口な怠け者であり、いつだって楽することを考えていた。   それを絶対悪だと論ずるつもりなど、少女にはない。 なぜならば、楽をしたい欲求が、少なからず偉大な発明を生んできたからだ。 少女も、この世に誕生してから数え切れないほど、先人の恩恵に与ってきた。 だから、たぶん人類は、小利口な怠け者のままが最も幸せだったのだろう、とは思う。     ――ある日、またひとつ偉大な発明が、人類史の中に生み落とされた。 多くの人間が脳裏に描いては、苦笑の糧にしてきた【夢】の装置。 【夢】は人々の絶大な支持を以て、モバイルフォンの如く、速やかに普及していった。   「もしも、【テレポ】……瞬間移動装置が、発明されていなかったら」 「よしなさい。詮ないことだ。過去を悔やむだけでは、取り返しなどつかんよ」 「解っています、それは。でも――」    考えてしまう。見えない未来より、見てきた過去を思う方が楽だから。 けれど、それでは【R機関】と大差ないのだろう。所詮は、その場しのぎ。   少女は、冷えてゆく紅茶に目を落としながら、事故の記憶を呼び覚ました。 【テレポ】の氾濫と乱用による、世界規模の【歪み】の発生―― その原因は、装置が使われる度に生じた、時空の微細な瑕疵によるものだった。 被害は瞬く間に、GPSを媒介して地球全体に拡散した。   なす術なく動揺する人類に、更なる追い打ちがかけられる。 人体もまた時空を構成する一要素であり、【歪み】汚染者が更なる【歪み】を生むとのレポートが、それだ。   ただちに国境を越えた修復(Restoration)のための対策組織――通称【R機関】が編成され、 検査によって汚染者【歪徒】を狩りだし、隔離収容が始められた。   それは巨大な力による、正義という欺瞞の下に行われた人権弾圧。 大多数の人間が【歪徒】としての自覚症状もないまま、捕縛、収監された。 【テレポ】を使うどころか、触れたことさえなかった少女すらも、問答無用に。   しかし、その努力は皮肉にも、焼け石に水どころか、火に油を注ぐ結果となった。 砂の一粒が、吹き寄せられて岩となり、いつか山を形づくるように。 朝露の一滴が、せせらぎを生んで、やがては海を成すように。 隔離によって凝縮された【歪み】は増殖し、もはや手の施しようがないほど巨大に膨れ上がっている。 ――それが、少女たちの暮らす【こちら】の世界。     「あ……」 不意に、耳障りなサイレンが街に鳴り響き、少女は顔を顰めた。「また、脱走」 結菱もまた、苦虫を噛みつぶしたような面持ちになる。   「無理もない。望まぬ世界に閉じこめられて、安穏でいられる者などいない」   彼らは言わば、情報弱者だった。それも極度の。 携帯電話もインターネットも、テレビやラジオなどのメディアも、この隔離エリアには存在しない。 【歪み】が電磁波やウェブにより伝播、拡散するのを防ぐ目的からだ。 ただひとつ許された【あちら】との通信手段は、【R機関】の検閲を介する手紙のみ。 そんな収容生活に恐慌をきたした【歪徒】が、やがて外との繋がりを求め、脱走者となる。   彼ら脱走者が、どのような末路を辿るのかは、想像力を逞しくするより他にない。 一度として、彼らが戻った試しはなかった。出ていったきり、消えてしまう。 【あちら】からすれば、少女や結菱もまた既に、亡霊【ワイト】なのかもしれないけれど。   「それでも……」 少女は両手でティーカップを包みながら、呟く。「希望は、捨てたくない」   明日には、奇跡が起きるかもしれない。 【歪み】を矯正する技術が確立されて、家族の元に帰れるかもしれないのに…… その望みを、自ら摘み取ってしまうのは、自殺と同じではないか。   「だから、手紙を書くわ。家族にも、友だちにも、ずっと伝え続けるつもりです。  私は絶対に、挫けたりしない……って」   紡ぐことは、繋げること。少女は、そう信じた。信じていたかった。 【あちら】の人々がn[negation]のフィールドと揶揄して忌み嫌う、この【歪み】の国で、 真っ直ぐに生きることもまた、形を変えた【歪み】なのかもしれないけれど。 それでも、無気力にnの意味を[necropolis]へと変えてしまうよりは幸せだろう、と。   「そうだな。それこそが、正解なのかもしれん」 結菱は柔和に笑って、静けさの戻った街並みに、目を彷徨わせた。 「君のような強い存在が、いつの時代も道を切り開いて、人々を導いてきたのだろう」   強いだなんて――と。はにかみながら、少女は両手で頬を包んだ。  女の子に強いという形容は、褒めているのか、いないのか。 ひとまずは、好意的に捉えておいた。   「あ……あの」 「うん?」 「お茶が済んだら」 「ふむ」 「少し、歩きませんか。いい天気だし……お買い物のついでに」   なぜ、そんな心境になったものか。実のところ、少女にもよく解らなかった。 ただ唯一、確かなことがあるとしたら、   「それはいい提案だ」 老紳士が、自分の誘いを快諾してくれた事実に対して、歓喜していることだ。   胸躍る昂揚の理由を問われても、嬉しいからとしか答えようがない。 この閉塞空間にあって、少女の孤独に潰されそうな心が、渇望していたのだろう。 父性の包容力を。安心して身を委ねられる力強さを。   老紳士に好意を寄せたのも、きっと、そんな姑息な理由からに相違ない―― 少女は一息に紅茶を飲み干しながら、独り合点した。        その日の夜更け、少女は手紙の返事をしたためた。       《 お変わりありませんか、お父さま。みんなも、元気にしている?    私のことは心配しないで。毎日、心静かに暮らしています 》     ――みんなに会えないのは、とても寂しいけれど。 少女は胸の痛みに眉を曇らせながら、便箋の右下に小さく“水銀燈”と署名して、万年筆を置いた。 それから、仄暗いランプの灯りの下で、机の傍らにある姿見の鏡を覗き込んだ。   ああ……。憂い顔の少女の唇から、苦渋に満ちた吐息が漏れる。 検閲される手紙に、迂闊なことは書けない。その欲求不満からだ。 この文面をして、【R機関】に脱走者予備軍とマークされることは、大いにあり得た。   ――檻の中のモルモット。それ以外の、何者でもない。もう嫌……。 抑鬱を紛らそうと、少女は自らの鏡像に、父や義妹たちの面影を映そうとした。 そんなときだ。少女の中に、天啓の如く妙案が閃いたのは。    「そうよ……会いに行けないのなら、来てもらえばいいんだわ」   こんな単純な発想の転換が、どうして今まで、浮かばなかったものか。 少女は嬉々として、置いたばかりの万年筆を手に取った。 不思議なことに、アイデアは後から後から、滾々と溢れてきた。   父や義妹たちに【歪み】を植えつける手段は、手紙しかない。 そして【R機関】の検閲と処理を潜り抜けるためには、自然な文面が望ましい。 ならば、と。少女は、手紙を書き直した。文脈も、簡素だが難解なものへと。 慣れない作業に四苦八苦しながらも、異様なまでの情熱が、尽きることはなかった。   「……できた」満足そうに呟く少女の手には、書きあげた手紙。 そこに整然と並ぶのは、反射文字のアルファベット。鏡に映さなければ読めない四行詩だ。 これを見た家族は、どんな顔をするだろう。想像して、少女は、くくっと含み笑った。     ぱたぱた……。灯されたランプにぶつかって、一匹の蛾が机に落ちた。 仰向けになった蛾は、羽根をばたつかせつつ、六本の脚で頻りに宙を掻いている。 少女は、琥珀色の隻眼で、その様子をしばし面白そうに観察すると―― やおら、手にした万年筆を振り下ろし、ペン先で蛾を串刺しにした。   ぷちっ。蛾の脚が、断末魔の苦しみに震えながら、縮こまってゆく。 その変化を、怪しく濡れた瞳で眺めて、少女はまた、くすくすと忍び笑う。 ランプの光を浴びて、背後に長く伸びた少女の影が、ゆら、ゆらり……。 炎の加減で怪しく蠢くそれは、真っ黒いドラゴンを彷彿させた。     「私からの招待状よ。さあ、みんな一緒に、会いにいらっしゃい。  ここは暗くて、何も見えない。とても、とても寂しい場所なの。  だから急いで。早く、早く――私の心が壊れてしまう前に」     戯けるように、しかし切羽詰まった調子で、少女は夜闇に囁く。 その爛々と輝く瞳の奥には、妖しい炎が揺らめいていた。          〆  

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