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「『もしも・・・』」(2007/01/12 (金) 10:24:46) の最新版変更点
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削除された行は赤色になります。
<p><br>
『もしも・・・』<br>
<br>
<br>
<br>
【――もしも、貴方と出会えなかったら】<br>
<br>
きっと、私はまだ本気の恋をしていなかったと思う。<br>
貴方という人に想いを馳せ、ちょっとした仕種を思い浮かべるとき……。<br>
私は、とても満ち足りた気分になる。<br>
そして、もっともっと親密になりたいと思ってしまう。<br>
<br>
<br>
「ジュン。今日……一緒に帰ろ?」<br>
<br>
六限目は別の教室で行われる。移動中、薔薇水晶は廊下でジュンに話しかけた。<br>
別に、放課後に何か用事がある訳じゃない。<br>
少しでも長い間、ジュンと一緒に過ごしたかったからだ。<br>
そんな薔薇水晶の思惑を気にする風もなく、ジュンは気軽に応じた。<br>
<br>
「ああ、いいよ」<br>
「ホント? じゃあ……あの、下駄箱のところで待っててくれる?<br>
私……今週は掃除当番だから」<br>
「ん、解った。そんじゃ、待ってるからな」<br>
<br>
お願いね、と返事をしながら、薔薇水晶は心の中で「よしっ!」と歓声を上げていた。<br>
これで、今日も二人きりで、いろいろな話題に花を咲かせられる。<br>
ジュンのことを、もっと聞かせてもらえる。<br>
好きな食べ物とか教えてもらって、お弁当を作って上げる事が出来る。<br>
<br>
<br>
<br>
<br>
【――帰り道の事を考えるだけで、私は、すっかり夢見心地になっていた】<br>
<br>
授業なんて上の空。先生に質問されても、生返事。<br>
おかげで、笹塚くんと並んで、廊下に立たされてしまった。<br>
<br>
でも、そんなことは大した苦にならない。だって、ジュンと一緒に帰れるんだから。<br>
たった、それだけの事なのに……。<br>
どうして、こんなに嬉しいんだろう?<br>
<br>
<br>
「お待たせぇ。ゴメンね……ジュン」<br>
「いや、構わないよ。急ぎの用事が有るわけでもないしな」<br>
「そうなんだ? よかった♥」<br>
「なんだか、凄く嬉しそうだな。今日は、なにか良いことでも有ったのか?」<br>
「有ったよ~。それも、たった今……ね」<br>
「へぇ。掃除中に、お金でも拾ったのかい?」<br>
<br>
――これだもんなぁ。<br>
薔薇水晶は、ジュンに悟られない様に、小さく吐息した。<br>
天然ボケというか、激ニブというか。<br>
<br>
「それじゃ……帰ろ?」<br>
「ああ。ところでさ、今日これから、薔薇水晶は予定ってあるか?」<br>
「? ううん……特に、ないけど」<br>
「じゃあさ。喫茶店『えんじゅ』に寄っていかないか。たまには奢るよ」<br>
「え、でも……良いの?」<br>
「前に、ケーキバイキングに行きたいって言ってただろ」<br>
「憶えてて……くれたんだ?」<br>
<br>
<br>
<br>
<br>
【――屈託なく笑うジュンを見て、私の小さな胸は熱くなった】<br>
<br>
私ですら、いつ言ったのか忘れていた事を、彼は憶えてくれていた。<br>
それが、言葉で巧く表現できないほど嬉しかった。<br>
<br>
<br>
「バレンタインに、チョコ貰ったしさ。まあ……なんて言うのかな。<br>
ホワイトデーには早いけど、そのお返しってコトで」<br>
「えへへ……ありがとぉ、ジュン♥ そういう事なら、遠慮なく」<br>
「まあ、ちょっとは手加減してくれよ」<br>
「さぁて、どうしよっかなぁ♪」<br>
<br>
それから、薔薇水晶とジュンは様々な事を話し、笑い合った。<br>
互いの趣味のこと。好きな食べ物は何か。他にも、いろいろと――<br>
それは薔薇水晶の人生にとって、とても有意義な時間だった。<br>
<br>
「今日は、ありがとう。今度……お礼するから」<br>
「別に、気にしなくて良いのに」<br>
「いいの。私が、そうしたいんだもん♪」<br>
「……そっか。なら、気長に待ってるよ」<br>
<br>
んもう、期待しててよ。ホント、張り合い無いんだから。<br>
でも、その方がジュンらしいのかな?<br>
<br>
ジュンと並んで歩く、夕焼けの帰り道。<br>
薔薇水晶の表情から、笑顔が絶える事はなかった。<br>
<br>
<br>
<br>
<br>
【――今朝は、早起きして、彼のお弁当を作ってみた。ビックリしてくれるかな?】<br>
<br>
我ながら巧く出来たとは思うけど、ジュンの口に合うかどうか……ちょっと心配。<br>
<br>
<br>
「しまった……出遅れたぁ」<br>
<br>
四限目の授業中、昼のことばかり考えていた薔薇水晶は、先生に注意されてしまった。<br>
それだけならまだしも、プリントを回収して、職員室に届ける役目まで仰せつかった。<br>
駆け足で教室に戻ったものの、ジュン達は既に居ない。<br>
みんな、屋上に行ってしまったのだ。<br>
<br>
(ジュンのために、早起きしてお弁当を作ったのに)<br>
<br>
階段を駆け上って、屋上の扉を開くと、向かい風に乗って聞き慣れた声が届いた。<br>
よかった。みんな、まだ食べ終わってないみたい。<br>
扉を全開にして、みんなの姿を探す薔薇水晶の瞳に、彼の姿が飛び込んできた。<br>
<br>
翠星石と楽しげに話しながら、サンドウィッチを貰って食べるジュンが――<br>
<br>
<br>
薔薇水晶の胸が、ズキンと痛んだ。<br>
どうして、そんなに仲良さそうにしてるの?<br>
ああ、そうか。ジュンは、誰にでも優しかったっけ。<br>
きっと、そういう事なのね。<br>
<br>
「すっかり……遅くなっちゃった」<br>
<br>
寂しげに呟きながら、薔薇水晶は重い脚を引きずる様にして、みんなの輪に混じった。<br>
<br>
<br>
<br>
<br>
【――あ~あ。渡しそびれちゃった。折角、作ったのに】<br>
<br>
まさか、自分で食べることになるなんて…………惨めだなぁ。<br>
<br>
<br>
午後の授業も、薔薇水晶は全く聞いていなかった。<br>
馬耳東風。右から入って、左に抜ける状態だった。<br>
<br>
(そもそも、お弁当を作って上げるって、言ってなかったもんね。<br>
うん。今日は帰り道に、それとなく伝えてみよう)<br>
<br>
六限目が終わるや、薔薇水晶はジュンと一緒に帰る約束を取り付けた。<br>
昨日と同じく、下駄箱で待っていてもらう。<br>
早く、掃除を終わらせちゃおう。<br>
箒で床を掃きつつ、何気なく窓の外に目を遣る薔薇水晶。<br>
すると、ケヤキの下に見知った人影を認めた。<br>
<br>
「ん? あれは……ジュンと……」<br>
<br>
――翠星石。<br>
昼食の光景が、薔薇水晶の脳裏に甦った。仲良さそうに振る舞う、二人の姿が。<br>
でも、たまたま会って、立ち話をしてるだけかも知れない。<br>
そうよ。きっと、そう。<br>
<br>
けれど、薔薇水晶の淡い期待を裏切るように、ジュンの手が彼女の肩に置かれた。<br>
二人の距離が近付いていく。二人の顔が、せり出したケヤキの枝に隠れた。<br>
なに? なにをしてるの? あの二人は……なにを?<br>
<br>
薔薇水晶は激しい動悸に目眩を覚えて、箒の柄にしがみついていた。<br>
<br>
<br>
<br>
<br>
【――多分、キス……してた】<br>
<br>
あの二人が、そんな関係だったなんて…………ちっとも知らなかった。<br>
独りで浮かれていたのが馬鹿馬鹿しくて、恥ずかしくって……。<br>
私は、死にたいとすら思った。<br>
<br>
<br>
(こんな気持ちじゃ、顔も合わせられない)<br>
<br>
結局、薔薇水晶はコッソリと靴を持って、裏門から独りで帰ってしまった。<br>
ジュンには悪いけれど……ううん……彼には、翠星石が居る。<br>
私なんか、待ってなくたっていい。<br>
<br>
(明日、謝ればいいよね)<br>
<br>
トボトボと歩く帰り道。<br>
こうして、ゆっくり歩いていれば、彼が追ってきてくれるかも知れない。<br>
時折、呼ばれたような気がして振り返るけれど、そこには誰も居ない。<br>
そうよね。人生、そうそうハッピーエンドばかりじゃないし。<br>
<br>
結局、家に着くまで、ジュンは追い付いて来なかった。<br>
自分が彼を置き去りにしてきたくせに、なんだか無性に腹立たしかった。<br>
ジュンにとって、私なんか所詮、その程度だったのだ。<br>
<br>
私に誤解を抱かせたのは、ジュンのせい――<br>
ジュンが誰にでも優しいから、こんな気持ちになってしまったのだ。<br>
<br>
「許……せない」<br>
<br>
薔薇水晶の金眼に、激情の炎が灯った。<br>
<br>
<br>
<br>
<br>
【――許せない。彼が許せない。絶対に、許せない!】<br>
<br>
ノロッテヤル。<br>
<br>
<br>
自室に籠もると、薔薇水晶はカッターで右の人差し指を傷つけた。<br>
じわりと滲み出した血をひと舐めして、便箋に血文字を書き綴っていく。<br>
たった一句、恨みの言葉を。<br>
<br>
その夜遅くに、薔薇水晶は桜田家の郵便受けに、封筒を投じた。<br>
宛名は、桜田ジュン。差出人は書いたりしない。<br>
私の恨みを、受け取ってね。<br>
<br>
薔薇水晶はククッ……と含み笑って、その場を後にした。<br>
<br>
<br>
<br>
<br>
翌朝、薔薇水晶は教室に入るなり、待ち構えていたジュンに連れ立された。<br>
そのまま、人目を憚るように屋上へ向かう。<br>
授業前ということもあって、誰も居なかった。<br>
<br>
「なぁに、ジュン? こんな所に連れてきて」<br>
「どうして、昨日は約束をすっぽかした? それに、この手紙――」<br>
<br>
昨夜、薔薇水晶が投函した封筒を、ジュンは取り出した。<br>
<br>
「どういうつもりなんだ? 何か、誤解してるんじゃないか?」<br>
「だとしたら……それは……ジュンのせいだよ。<br>
ジュンが、誰にでも優しいから……誤解しちゃうんだよ」<br>
<br>
<br>
<br>
<br>
【――私は、見てたの。貴方が、翠星石とキスしてるところを】<br>
<br>
「はぁ? なんだか、訳が解らなくなってきた」<br>
「良いよ、解らなくても。ジュンは…………翠星石と仲良くしてれば良いのよ」<br>
「? なんで、翠星石が出て来るんだ?」<br>
「トボケなくても良いのに。昨日……ケヤキの下で……キス……してたクセにっ!」<br>
<br>
ぽか~ん。<br>
表現するなら、ジュンはまさに、そんな顔をしていた。<br>
そして、やおら吹き出したかと思うと、腹を抱えて笑い転げた。<br>
<br>
「なっ! なんで笑うのっ?」<br>
「だって……お前……あははははっ…………は、腹いてぇ」<br>
「んもう! 私の方がワケ解らないよっ!」<br>
「いやぁ……悪い。でもさぁ……この手紙の意味が、解ったから」<br>
<br>
眦の涙を指で拭いながら、ジュンは封筒から、便箋を抜き出して広げた。<br>
<br>
<br>
『祝ってやる』<br>
<br>
<br>
そこには、ハッキリと、そう書かれていた。<br>
なんてことだろう。呪ってやると書いたつもりが、思いっ切り間違えてる。<br>
薔薇水晶は、あまりの羞恥に耳まで真っ赤にして俯いた。<br>
<br>
「僕と翠星石は、そんな関係じゃないよ」<br>
<br>
<br>
<br>
<br>
【――いま、ジュンは何て言った? 聞き間違い……じゃない、よね?】<br>
<br>
ジュンは、もう一度だけ明言した。<br>
<br>
「そんな関係じゃないんだ。昨日のは、翠星石の髪に虫が付いてたから、<br>
取ってあげてたんだよ。それとも、僕らがキスしてるって確かめたのか?」<br>
「う……それは……してない」<br>
「じゃあ、薔薇水晶の誤解だったってコトだな。約束すっぽかしてくれたし」<br>
「ご……ごめんなさい……私」<br>
<br>
身を竦めて項垂れる薔薇水晶に、ジュンは「そうだなぁ」と意地の悪い声色で迫った。<br>
<br>
「本当に、反省してるのか?」<br>
「うん……してます。ごめん」<br>
「だったら、明日は弁当でも作って来てもらおうかな」<br>
「えっ?」<br>
「約束をすっぽかした分は、それでチャラだ」<br>
「わ、解ったわ。明日……必ず、作ってくるから」<br>
<br>
思いがけない提案に面食らったものの、薔薇水晶はコクコクと頷き、即答した。<br>
なんだか、馬鹿みたい。なにをしてたんだろう、私は。<br>
不意に、自分でも気付かない内に、涙が零れていた。<br>
<br>
「おいおい……許すって言ってんだから、泣くなよ」<br>
「だって……う…………うわぁ……ん」<br>
「――ったく。しょうがないなぁ。ほら、こっち来いよ」<br>
<br>
抱き締められて、薔薇水晶はジュンの胸で泣き続けた。<br>
<br>
<br>
<br>
<br>
【――なんだか、恥ずかしい。人前で、あんなに泣いたのは久しぶりだったから】<br>
<br>
誰も来ない屋上で、薔薇水晶はジュンと肩を寄せ合っていた。<br>
誰の目も憚らないから、大胆になっているのかも知れない。<br>
今なら、言えそう。薔薇水晶は、すうっ……と、大きく息を吸った。<br>
<br>
「あのね、ジュン。私は…………ジュンが、大好きだよ♥」<br>
「そっか……なんとなく、そうじゃないかって思ってた」<br>
「……ホント?」<br>
「うん。こういうのって、僕が言うべきだったんだろうな、やっぱ」<br>
「別に良いよ。ジュンの気持ちが解ったんだから……もう良いの」<br>
<br>
人生は、ハッピーエンドばかりじゃないと思っていたけど――<br>
ほんの少し勇気を出すだけで、掴める幸福って、あるものなのね。<br>
それなら……もっと勇気を出せば、もっともっと幸せな気持ちになれるのかな?<br>
<br>
<br>
<br>
<br>
【――試してみよう】<br>
<br>
ちゅっ!<br>
薔薇水晶は徐に両手でジュンの頬を挟んで、触れ合うだけのキスを交わした。<br>
<br>
「なっ……ば、薔薇水晶っ!」<br>
「えへっ♪ もらっちゃったぁ♥」<br>
「こいつっ!」<br>
「きゃぁ、ごめ~ん」<br>
<br>
三月の弱々しい日射しの下で、ジュンと薔薇水晶はふざけ合った。<br>
とても、満ち足りた気分で。<br>
<br>
<br>
<br>
<br>
もしも……勇気を出せなかったら。<br>
私はきっと、本当の愛を知らなかったと思う。<br>
だから今は、ちょっとだけ頑張れた自分を、褒めてあげよう。<br>
<br>
<br>
【――よく、頑張ったね……私】<br>
<br>
</p>
<hr>
<p> </p>
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『もしも・・・』<br>
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【――もしも、貴方と出会えなかったら】<br>
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きっと、私はまだ本気の恋をしていなかったと思う。<br>
貴方という人に想いを馳せ、ちょっとした仕種を思い浮かべるとき……。<br>
私は、とても満ち足りた気分になる。<br>
そして、もっともっと親密になりたいと思ってしまう。<br>
<br>
<br>
「ジュン。今日……一緒に帰ろ?」<br>
<br>
六限目は別の教室で行われる。移動中、薔薇水晶は廊下でジュンに話しかけた。<br>
別に、放課後に何か用事がある訳じゃない。<br>
少しでも長い間、ジュンと一緒に過ごしたかったからだ。<br>
そんな薔薇水晶の思惑を気にする風もなく、ジュンは気軽に応じた。<br>
<br>
「ああ、いいよ」<br>
「ホント? じゃあ……あの、下駄箱のところで待っててくれる?<br>
私……今週は掃除当番だから」<br>
「ん、解った。そんじゃ、待ってるからな」<br>
<br>
お願いね、と返事をしながら、薔薇水晶は心の中で「よしっ!」と歓声を上げていた。<br>
これで、今日も二人きりで、いろいろな話題に花を咲かせられる。<br>
ジュンのことを、もっと聞かせてもらえる。<br>
好きな食べ物とか教えてもらって、お弁当を作って上げる事が出来る。<br>
<br>
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<br>
【――帰り道の事を考えるだけで、私は、すっかり夢見心地になっていた】<br>
<br>
授業なんて上の空。先生に質問されても、生返事。<br>
おかげで、笹塚くんと並んで、廊下に立たされてしまった。<br>
<br>
でも、そんなことは大した苦にならない。だって、ジュンと一緒に帰れるんだから。<br>
たった、それだけの事なのに……。<br>
どうして、こんなに嬉しいんだろう?<br>
<br>
<br>
「お待たせぇ。ゴメンね……ジュン」<br>
「いや、構わないよ。急ぎの用事が有るわけでもないしな」<br>
「そうなんだ? よかった♥」<br>
「なんだか、凄く嬉しそうだな。今日は、なにか良いことでも有ったのか?」<br>
「有ったよ~。それも、たった今……ね」<br>
「へぇ。掃除中に、お金でも拾ったのかい?」<br>
<br>
――これだもんなぁ。<br>
薔薇水晶は、ジュンに悟られない様に、小さく吐息した。<br>
天然ボケというか、激ニブというか。<br>
<br>
「それじゃ……帰ろ?」<br>
「ああ。ところでさ、今日これから、薔薇水晶は予定ってあるか?」<br>
「? ううん……特に、ないけど」<br>
「じゃあさ。喫茶店『えんじゅ』に寄っていかないか。たまには奢るよ」<br>
「え、でも……良いの?」<br>
「前に、ケーキバイキングに行きたいって言ってただろ」<br>
「憶えてて……くれたんだ?」<br>
<br>
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【――屈託なく笑うジュンを見て、私の小さな胸は熱くなった】<br>
<br>
私ですら、いつ言ったのか忘れていた事を、彼は憶えてくれていた。<br>
それが、言葉で巧く表現できないほど嬉しかった。<br>
<br>
<br>
「バレンタインに、チョコ貰ったしさ。まあ……なんて言うのかな。<br>
ホワイトデーには早いけど、そのお返しってコトで」<br>
「えへへ……ありがとぉ、ジュン♥ そういう事なら、遠慮なく」<br>
「まあ、ちょっとは手加減してくれよ」<br>
「さぁて、どうしよっかなぁ♪」<br>
<br>
それから、薔薇水晶とジュンは様々な事を話し、笑い合った。<br>
互いの趣味のこと。好きな食べ物は何か。他にも、いろいろと――<br>
それは薔薇水晶の人生にとって、とても有意義な時間だった。<br>
<br>
「今日は、ありがとう。今度……お礼するから」<br>
「別に、気にしなくて良いのに」<br>
「いいの。私が、そうしたいんだもん♪」<br>
「……そっか。なら、気長に待ってるよ」<br>
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んもう、期待しててよ。ホント、張り合い無いんだから。<br>
でも、その方がジュンらしいのかな?<br>
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ジュンと並んで歩く、夕焼けの帰り道。<br>
薔薇水晶の表情から、笑顔が絶える事はなかった。<br>
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【――今朝は、早起きして、彼のお弁当を作ってみた。ビックリしてくれるかな?】<br>
<br>
我ながら巧く出来たとは思うけど、ジュンの口に合うかどうか……ちょっと心配。<br>
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「しまった……出遅れたぁ」<br>
<br>
四限目の授業中、昼のことばかり考えていた薔薇水晶は、先生に注意されてしまった。<br>
それだけならまだしも、プリントを回収して、職員室に届ける役目まで仰せつかった。<br>
駆け足で教室に戻ったものの、ジュン達は既に居ない。<br>
みんな、屋上に行ってしまったのだ。<br>
<br>
(ジュンのために、早起きしてお弁当を作ったのに)<br>
<br>
階段を駆け上って、屋上の扉を開くと、向かい風に乗って聞き慣れた声が届いた。<br>
よかった。みんな、まだ食べ終わってないみたい。<br>
扉を全開にして、みんなの姿を探す薔薇水晶の瞳に、彼の姿が飛び込んできた。<br>
<br>
翠星石と楽しげに話しながら、サンドウィッチを貰って食べるジュンが――<br>
<br>
<br>
薔薇水晶の胸が、ズキンと痛んだ。<br>
どうして、そんなに仲良さそうにしてるの?<br>
ああ、そうか。ジュンは、誰にでも優しかったっけ。<br>
きっと、そういう事なのね。<br>
<br>
「すっかり……遅くなっちゃった」<br>
<br>
寂しげに呟きながら、薔薇水晶は重い脚を引きずる様にして、みんなの輪に混じった。<br>
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【――あ~あ。渡しそびれちゃった。折角、作ったのに】<br>
<br>
まさか、自分で食べることになるなんて…………惨めだなぁ。<br>
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<br>
午後の授業も、薔薇水晶は全く聞いていなかった。<br>
馬耳東風。右から入って、左に抜ける状態だった。<br>
<br>
(そもそも、お弁当を作って上げるって、言ってなかったもんね。<br>
うん。今日は帰り道に、それとなく伝えてみよう)<br>
<br>
六限目が終わるや、薔薇水晶はジュンと一緒に帰る約束を取り付けた。<br>
昨日と同じく、下駄箱で待っていてもらう。<br>
早く、掃除を終わらせちゃおう。<br>
箒で床を掃きつつ、何気なく窓の外に目を遣る薔薇水晶。<br>
すると、ケヤキの下に見知った人影を認めた。<br>
<br>
「ん? あれは……ジュンと……」<br>
<br>
――翠星石。<br>
昼食の光景が、薔薇水晶の脳裏に甦った。仲良さそうに振る舞う、二人の姿が。<br>
でも、たまたま会って、立ち話をしてるだけかも知れない。<br>
そうよ。きっと、そう。<br>
<br>
けれど、薔薇水晶の淡い期待を裏切るように、ジュンの手が彼女の肩に置かれた。<br>
二人の距離が近付いていく。二人の顔が、せり出したケヤキの枝に隠れた。<br>
なに? なにをしてるの? あの二人は……なにを?<br>
<br>
薔薇水晶は激しい動悸に目眩を覚えて、箒の柄にしがみついていた。<br>
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【――多分、キス……してた】<br>
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あの二人が、そんな関係だったなんて…………ちっとも知らなかった。<br>
独りで浮かれていたのが馬鹿馬鹿しくて、恥ずかしくって……。<br>
私は、死にたいとすら思った。<br>
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(こんな気持ちじゃ、顔も合わせられない)<br>
<br>
結局、薔薇水晶はコッソリと靴を持って、裏門から独りで帰ってしまった。<br>
ジュンには悪いけれど……ううん……彼には、翠星石が居る。<br>
私なんか、待ってなくたっていい。<br>
<br>
(明日、謝ればいいよね)<br>
<br>
トボトボと歩く帰り道。<br>
こうして、ゆっくり歩いていれば、彼が追ってきてくれるかも知れない。<br>
時折、呼ばれたような気がして振り返るけれど、そこには誰も居ない。<br>
そうよね。人生、そうそうハッピーエンドばかりじゃないし。<br>
<br>
結局、家に着くまで、ジュンは追い付いて来なかった。<br>
自分が彼を置き去りにしてきたくせに、なんだか無性に腹立たしかった。<br>
ジュンにとって、私なんか所詮、その程度だったのだ。<br>
<br>
私に誤解を抱かせたのは、ジュンのせい――<br>
ジュンが誰にでも優しいから、こんな気持ちになってしまったのだ。<br>
<br>
「許……せない」<br>
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薔薇水晶の金眼に、激情の炎が灯った。<br>
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【――許せない。彼が許せない。絶対に、許せない!】<br>
<br>
ノロッテヤル。<br>
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自室に籠もると、薔薇水晶はカッターで右の人差し指を傷つけた。<br>
じわりと滲み出した血をひと舐めして、便箋に血文字を書き綴っていく。<br>
たった一句、恨みの言葉を。<br>
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その夜遅くに、薔薇水晶は桜田家の郵便受けに、封筒を投じた。<br>
宛名は、桜田ジュン。差出人は書いたりしない。<br>
私の恨みを、受け取ってね。<br>
<br>
薔薇水晶はククッ……と含み笑って、その場を後にした。<br>
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翌朝、薔薇水晶は教室に入るなり、待ち構えていたジュンに連れ立された。<br>
そのまま、人目を憚るように屋上へ向かう。<br>
授業前ということもあって、誰も居なかった。<br>
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「なぁに、ジュン? こんな所に連れてきて」<br>
「どうして、昨日は約束をすっぽかした? それに、この手紙――」<br>
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昨夜、薔薇水晶が投函した封筒を、ジュンは取り出した。<br>
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「どういうつもりなんだ? 何か、誤解してるんじゃないか?」<br>
「だとしたら……それは……ジュンのせいだよ。<br>
ジュンが、誰にでも優しいから……誤解しちゃうんだよ」<br>
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【――私は、見てたの。貴方が、翠星石とキスしてるところを】<br>
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「はぁ? なんだか、訳が解らなくなってきた」<br>
「良いよ、解らなくても。ジュンは…………翠星石と仲良くしてれば良いのよ」<br>
「? なんで、翠星石が出て来るんだ?」<br>
「トボケなくても良いのに。昨日……ケヤキの下で……キス……してたクセにっ!」<br>
<br>
ぽか~ん。<br>
表現するなら、ジュンはまさに、そんな顔をしていた。<br>
そして、やおら吹き出したかと思うと、腹を抱えて笑い転げた。<br>
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「なっ! なんで笑うのっ?」<br>
「だって……お前……あははははっ…………は、腹いてぇ」<br>
「んもう! 私の方がワケ解らないよっ!」<br>
「いやぁ……悪い。でもさぁ……この手紙の意味が、解ったから」<br>
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眦の涙を指で拭いながら、ジュンは封筒から、便箋を抜き出して広げた。<br>
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『祝ってやる』<br>
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そこには、ハッキリと、そう書かれていた。<br>
なんてことだろう。呪ってやると書いたつもりが、思いっ切り間違えてる。<br>
薔薇水晶は、あまりの羞恥に耳まで真っ赤にして俯いた。<br>
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「僕と翠星石は、そんな関係じゃないよ」<br>
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【――いま、ジュンは何て言った? 聞き間違い……じゃない、よね?】<br>
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ジュンは、もう一度だけ明言した。<br>
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「そんな関係じゃないんだ。昨日のは、翠星石の髪に虫が付いてたから、<br>
取ってあげてたんだよ。それとも、僕らがキスしてるって確かめたのか?」<br>
「う……それは……してない」<br>
「じゃあ、薔薇水晶の誤解だったってコトだな。約束すっぽかしてくれたし」<br>
「ご……ごめんなさい……私」<br>
<br>
身を竦めて項垂れる薔薇水晶に、ジュンは「そうだなぁ」と意地の悪い声色で迫った。<br>
<br>
「本当に、反省してるのか?」<br>
「うん……してます。ごめん」<br>
「だったら、明日は弁当でも作って来てもらおうかな」<br>
「えっ?」<br>
「約束をすっぽかした分は、それでチャラだ」<br>
「わ、解ったわ。明日……必ず、作ってくるから」<br>
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思いがけない提案に面食らったものの、薔薇水晶はコクコクと頷き、即答した。<br>
なんだか、馬鹿みたい。なにをしてたんだろう、私は。<br>
不意に、自分でも気付かない内に、涙が零れていた。<br>
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「おいおい……許すって言ってんだから、泣くなよ」<br>
「だって……う…………うわぁ……ん」<br>
「――ったく。しょうがないなぁ。ほら、こっち来いよ」<br>
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抱き締められて、薔薇水晶はジュンの胸で泣き続けた。<br>
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【――なんだか、恥ずかしい。人前で、あんなに泣いたのは久しぶりだったから】<br>
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誰も来ない屋上で、薔薇水晶はジュンと肩を寄せ合っていた。<br>
誰の目も憚らないから、大胆になっているのかも知れない。<br>
今なら、言えそう。薔薇水晶は、すうっ……と、大きく息を吸った。<br>
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「あのね、ジュン。私は…………ジュンが、大好きだよ♥」<br>
「そっか……なんとなく、そうじゃないかって思ってた」<br>
「……ホント?」<br>
「うん。こういうのって、僕が言うべきだったんだろうな、やっぱ」<br>
「別に良いよ。ジュンの気持ちが解ったんだから……もう良いの」<br>
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人生は、ハッピーエンドばかりじゃないと思っていたけど――<br>
ほんの少し勇気を出すだけで、掴める幸福って、あるものなのね。<br>
それなら……もっと勇気を出せば、もっともっと幸せな気持ちになれるのかな?<br>
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【――試してみよう】<br>
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ちゅっ!<br>
薔薇水晶は徐に両手でジュンの頬を挟んで、触れ合うだけのキスを交わした。<br>
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「なっ……ば、薔薇水晶っ!」<br>
「えへっ♪ もらっちゃったぁ♥」<br>
「こいつっ!」<br>
「きゃぁ、ごめ~ん」<br>
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三月の弱々しい日射しの下で、ジュンと薔薇水晶はふざけ合った。<br>
とても、満ち足りた気分で。<br>
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もしも……勇気を出せなかったら。<br>
私はきっと、本当の愛を知らなかったと思う。<br>
だから今は、ちょっとだけ頑張れた自分を、褒めてあげよう。<br>
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【――よく、頑張ったね……私】<br>
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