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『絵のココロ』」(2007/01/11 (木) 00:19:33) の最新版変更点

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<p> <br>  <br>   『絵のココロ』<br>  <br>  <br>  <br> 雪華綺晶は、ゴールデンウィークの連休を利用して、別荘を訪れていた。<br> ただ、趣味のためだけに。<br> 普段は忙しくて、なかなか打ち込むことが出来ない、彼女の趣味。<br> <br> それは、油絵を描くことだった。<br> <br> 別荘のベランダからの眺望は、絶景の一言に尽きる。<br> 緑豊かな森と、山々の懐に抱かれた、小さな湖。<br> 彼女は、小さな頃から、この景色が大好きだった。<br> <br>  「さて、と。少し休んだら、デッサンに行きましょう」<br> <br> 部屋の隅に荷物を置いて、スケッチブックとペンケースを取り出す。<br> ペンケースの中には、様々な芯の鉛筆が収められている。<br> どの芯も、先が鋭く削られていた。<br> <br>  「今日は、湖の畔まで歩いてみようかしら」<br> <br> ベランダ越しに、煌めく水面を見遣る。<br> すると、湖の岸辺に、小さな人影が見えた。<br> 遠い上に、陽光の反射で良く判らないけれど、髪の長さから女の子らしいと見当が付いた。<br> その子は、膝くらいまで湖に入り、立っている。<br> <br> はしゃぐでもなく、動き回るでもなく……。<br> ただ、その場に立つ尽くすのみだった。<br> <br> あの子は、何をしているのかしら?<br> 雪華綺晶は、興味をそそられた。不思議な魅力を感じた。<br> そして気付けば、スケッチブックを広げて、さらさらと湖に立つ少女を描いていた。<br> <br> ラフスケッチながら、なかなかの出来映え。<br> これを元にして、後でキャンバスに描いてみましょう。<br> 会心の笑みを浮かべながら、もう一度、湖に目を向ける雪華綺晶。<br> けれど、そこにはもう、あの少女の姿は無かった。<br> <br>  「近所の子供かも、知れませんわね」<br> <br> だったら、その内に、また会える。<br> 今度は、近くで描かせて貰おう。心の底から、そう思った。<br> <br> <br> <br> <br> 湖の畔まで、散歩がてらの二十分。<br> 意外に、歩き出がある。五月の陽気でも、全身、汗でびっしょりだった。<br> イーゼルやキャンバスを担いで来るには、少しばかりキツい。<br> <br> スケッチブックで顔を扇ぎつつ、周囲を見回すと、お誂え向きの場所を見付けた。<br> 木陰のベンチ。しかも、周りに人は居ない。<br> 雪華綺晶は、そそくさとベンチに座って、眼前に広がる光景にココロを解き放った。<br> <br> <br> ――風のそよぐ音。揺れる木立のざわめき。<br> ――波立つ水面が、岸辺でちゃぷちゃぷと砕ける音。<br> <br> 有りとあらゆる自然現象が、雪華綺晶の創作意欲を掻き立ててくれる。<br> <br> スケッチブックに、鉛筆を走らせる。<br> 時折、目の前の風景に目を遣り、再びデッサンに勤しむ。<br> そんな事を、どのくらい続けていただろうか。<br> <br>  「お姉ちゃん……絵……上手だね」<br> <br> いきなり背後から声を掛けられ、雪華綺晶は胸から心臓が飛び出すくらい驚いた。<br> 振り返ると、薄紫のドレスを着た女の子が、木にもたれかかっていた。<br> 右眼には、お洒落なデザインの眼帯。<br> 近くで、仮装パーティーでも有ったのかしら?<br> にしては、何処かで会ったような……無いような。<br> 雪華綺晶は既視感を覚えて、少女をじろじろと眺め回していた。<br> <br>  「…………失礼じゃない?」<br> <br> 徐に言われて、雪華綺晶は我に返った。確かに、失礼だ。<br> 初対面の人を観察してしまうなんて。<br> <br>  「ごめんなさい。悪気は無かったのよ」<br>  「…………」<br>  「ただ、以前にも、お会いしてたかしら……と」<br> <br> 雪華綺晶が告げると、少女はくすくす……と笑った。<br> <br>  「会ったこと……ある……かもね」<br>  「貴女、お名前は?」<br>  「……薔薇……水晶」<br> <br> 薔薇水晶? 口の中で、何度か呟いてみる。<br> 記憶を辿っても、そんな名前の子は知らなかった。<br> そもそも、目の前の少女は、どう見ても小学生高学年から中学生くらい。<br> その年齢の子に、知り合いは居なかった。<br> <br>  (本当に、以前に会っているのでしょうか?)<br> <br> 雪華綺晶の戸惑いを、表情から読み取ったのだろう。<br> 目を細めて笑った薔薇水晶は、雪華綺晶の手にあるスケッチブックを指差した。<br> <br>  「さっき…………描いてくれてたでしょ」<br>  「え? ……ああっ!」<br> <br> 『さっき』というキーワードを得て、雪華綺晶はスケッチブックを手繰った。<br> 別荘の部屋から、衝動的に描いてしまったラフスケッチ。<br> あの時は、後ろ姿しか描いていない。<br> けれど、改めて見直してみると、確かに少女のドレスと、絵の中の少女の服は似ていた。<br> <br>  「私がスケッチしていた事が、分かったと言うの?」<br> <br> そんな筈はない。だって、湖畔から別荘まで、徒歩で二十分もかかるのだもの。<br> それだけの距離が、隔たっているのに……。<br> 雪華綺晶の戸惑いを余所に、薔薇水晶は、にこにこと無邪気に笑っていた。<br> <br>  「ねえ、お姉ちゃん。もっと……私の絵……描いて?」<br>  「え、ええ。良いですわよ、勿論」<br> <br> 薔薇水晶に促されるまま、雪華綺晶はスケッチブックに、少女の似顔絵を描いた。<br> 柔らかそうな髪、なだらかな頬のライン。<br> 髪飾りの紫水晶と、洒落た眼帯は、いいアクセントになる。<br> <br> しかし……。<br> 不思議なことに、彼女の右眼を描くことに、強い抵抗を覚えた。<br> 画竜点睛ではないけれど、これでは完成しない。<br> さんざん迷った挙げ句、雪華綺晶は少女の右眼を、閉じた状態で描いた。<br> <br>  「はい、出来ましたわ」<br>  「どれどれ……わぁ……上手上手」<br>  「お粗末様ですわ。でも、喜んで頂けたなら、描いた意味がありましたわね」<br>  「ねぇねぇ……今度は……もう少し、大人っぽく描いてみて?」<br> <br> ――大人っぽく? また、おかしな注文が付いたものですね。<br> おそらく、少女が抱く、大人の女性への憧れを具体化して欲しいのだろう。<br> 雪華綺晶は「そうですわねぇ」と微笑しながら、少女の成長した姿を想像した。<br> <br> 女子高生の薔薇水晶。髪は、長いまま。面差しを、今よりも細めに描く。<br> そこで、初めて気が付いた。この娘……将来、スッゴイ美人になる。<br> けれども、いざ完成の段になると、やはり右眼を描くことに抵抗を感じた。<br> <br> 何故なのだろう?<br> 今まで、人物画は何枚も描いてきた。<br> しかし、一度だって、こんな気持ちになった事など無かった。<br> <br> 結局、この絵も右眼を閉ざした笑顔にして、描き上げた。<br> <br>  「はい、おまちどおさま」<br>  「わぁい。スゴイスゴイ……カッコイイなぁ」<br> <br> 薔薇水晶は、大人になった自分の絵を見て、夢見がちな目になった。<br> 雪華綺晶には、薔薇水晶の気持ちが解った。<br> 自分にも、同じような時期があったから。<br> 将来の自分に、根拠のない妄想を重ね、勝手に憧れて……自己嫌悪に陥ったり。<br> <br>  「でも、どうして、目が閉じてるの?」<br>  「その方が、可愛らしいからですわ」<br> <br> ――ごめんなさい。嘘つきました。<br> 本当は、描きたくなかったからだ。今日は、どうしてしまったのだろう。<br> もしかしたら、旅の疲れが出たのかも知れない。<br> <br>  「お姉ちゃん……もっと、描いて?」<br>  「ごめんなさい、薔薇水晶ちゃん。今日はもう、疲れてしまったの。<br>   明日で、構わないでしょうか?」<br>  「しょうがないなぁ…………じゃあ、明日ね? それと、私を呼ぶ時は、<br>   薔薇しぃ――で良いから」<br>  「え、ええ。それじゃあ、薔薇しぃ。また、明日ね」<br> <br> 別れの挨拶を交わすと、薔薇水晶は脱兎の如く駆け出し、木陰に消えた。<br> 本当に、不思議な少女だ。<br> 彼女をモデルに絵を描くのも、決して厭ではなかった。<br> ただ一点――眼を描き入れたくない事を除けば。<br> <br>  「明日も……来てくれるのでしょうか?」<br> <br> <br> <br> <br> 東の空が、白々と明るみ始めた早朝。<br> 山奥の清々しい空気を満喫しながら、雪華綺晶は別荘のベランダで、軽い食事を摂っていた。<br> とても優雅で、贅沢な気分だ。<br> <br>  「今日も、納得のいく絵が描けたら良いですわね」<br> <br> 良い絵が描けるとき……。<br> それは、大概、今朝のように寝覚めが良く、気分がスッキリと優れている時だ。<br> 雪華綺晶は、昨日の少女、薔薇水晶に想いを巡らした。<br> 今日は、あの子の眼を描き込んであげられるだろうか?<br> <br> 昨夜は疲れからか、スケッチを見直す間もなく、眠りに就いてしまった。<br> スケッチブックに手を伸ばした雪華綺晶は、湖の湖畔に立つ人影に気付いて、視線を向けた。<br> <br>  「……薔薇しぃちゃん?」<br> <br> 薔薇水晶は、昨日と同じように、湖に足を浸して立っていた。<br> 違いを挙げれば、今朝は、こちらを向いている――と言うこと。<br> <br>  「随分と早起きなのね、あの子」<br> <br> 素早く身支度を整え、雪華綺晶はキャノンデールのマウンテンバイクに跨ると、<br> まっしぐらに湖畔を目指した。<br> <br> <br> <br> <br> 雪華綺晶が湖畔に着くと、昨日のベンチに、薔薇水晶が座っていた。<br> けれど、その姿は小学生ではなく、自分と同い年くらいに成長していた。<br> 一瞬、別人かと思ったほどだ。<br> <br>  「おはよう…………お姉ちゃん」<br>  「薔薇しぃ、貴女……何故、大きくなっているの?」<br>  「お姉ちゃんが……描いてくれたから……お姉ちゃんのお陰」<br>  「わたしの、お陰?」<br> <br> 狐に摘まれた様な顔をする雪華綺晶に、薔薇水晶は突拍子もない事を語り始めた。<br> <br>  「私は……この湖の……精霊だよ」<br>  「……はい?!」<br>  「信じなくても良いよ。でも……ホントのことだから」<br>  「わ、解りましたわ。とりあえず、続けて下さいな」<br> <br> 落ち着いて返事をしたつもりだったが、雪華綺晶の声は、緊張で戦慄いていた。<br> なにを怖がっているのだろう。こんな事、有り得るはずがないのに。<br> そんな彼女を和ますように、薔薇水晶は湖の水面の如く穏やかな笑みを浮かべた。<br> <br>  「私は……もうすぐ消えるの」<br> <br> そう前置いて、薔薇水晶は、つらつらと身の上を話し続けた。<br> 人々の信仰心が薄れるにつれて、力を失い、実体化が難しくなったこと。<br> もうすぐ消えゆく運命だと悟って、せめて自分の存在した証を残したかったこと。<br> 絵を描いてくれる人を、一日千秋の想いで、ずっと待ち続けたこと。<br> でも、誰も自分の存在に気付いてくれなかったこと。<br> <br>  「だからね……お姉ちゃんが気付いてくれて……<br>   私を描いてくれた時は、とっても嬉しかったんだよ♪」<br> <br> 言って、薔薇水晶は満面の笑みを、雪華綺晶に向けた。<br> 彼女の瞳が、潤んでいるのが分かった。<br> ベンチから立ち上がって、薔薇水晶は両腕を広げ、雪華綺晶の前で、くるりと回って見せた。<br> <br>  「ねぇ……あと一枚だけ……私を描いてくれない?<br>   私が、消えてしまう前に……。あと……一枚だけ」<br>  「……喜んで……描いて差し上げますわ」<br> <br> 知らず知らずの内に、雪華綺晶は涙を流していた。<br> これでは描けない。しっかりするのよ、私。<br> 雪華綺晶はハンカチで目元を拭い、ベンチに腰掛けて、深呼吸を繰り返した。<br> スケッチブックを開いて、意識を集中する。<br> <br> <br> 一期一会……この出会いを描く為に、全身全霊を注ぐ。<br> <br> 薔薇水晶は愉しそうに笑いながら、膝まで湖に入って、はしゃいでいる。<br> 無邪気な笑顔。<br> その一瞬を、雪華綺晶は切り取って、スケッチブックの中に貼り付けた。<br> <br> そして最後に、描けなかった想いを――<br> 薔薇水晶の右眼を、しっかりと描き込んだ。<br> <br>  「出来ましたわ……薔薇しぃ」<br> <br> 雪華綺晶の絵を、薔薇水晶は穴が開くほど、じっくりと見詰めた。<br> そして、満足そうに、ニッコリと笑った。<br> <br>  「ありがとう。すごく、ステキ」<br> <br> 薔薇水晶の頬を、水晶の様な雫が、ぽろりぽろりと滑り落ちる。<br> <br>  「貴女の絵には……ココロが宿ってる。それは、とても素敵なことよ」<br>  「そんなに褒めても、なにも出ませんわ」<br> <br> そう応じた雪華綺晶の瞳からも、宝石を想わせる涙が、溢れては落ちた。<br> <br>  「お姉ちゃん……本当に…………ありがとうね。<br>   私、これで…………何も思い残すことなく、消えてしまえるよ」<br>  「……」<br>  「そんな顔、しないで。私が消えてしまう事は、なにも気にしなくていいの。<br>   それが、時代の移り変わりと言うものだから……誰のせいでもないの」<br>  「だけど……薔薇しぃが……」<br>  「私に会いたくなったら、その絵を見れば良いのよ。<br>   言ったでしょう? 貴女の絵にはココロが宿る……って。<br>   私はここで消えるけれど、ココロはいつも、貴女と共にあるから」<br> <br> 山間から、やっと朝日が射してきた。<br> 眩い光の中に、薔薇水晶の姿が薄れ、溶けて行く。<br> <br>  「お姉ちゃん、ありがとう…………さようなら」<br>  「薔薇しぃっ!」<br> <br> 薔薇水晶は、微笑みだけを残して、消えてしまった。<br> <br> <br> <br> <br> 別荘から自宅に帰り着くなり、雪華綺晶はキャンバスに向かい、一心に絵を描き始めた。<br> <br>   タイトルは 『湖に戯れる乙女』<br> <br> 薔薇水晶が存在した証を、みんなに教えるために、ひたすら絵筆を走らせ続けた。<br> <br> <br> <br> <br> 朝が昼になり、夜が訪れ、再び、東の空に太陽が昇る頃――<br> 雪華綺晶は、キャンバスの左下に、自分のサインを描き入れた。<br> 絵の中の薔薇水晶は、温かい眼差しをしている。<br> <br>  「……出来た。これで、貴女のことを、みんなが忘れずにいてくれますわ」<br> <br> 緊張の糸が切れて、雪華綺晶は急激に、身体の重さを感じた。<br> 旅疲れに加えて、久しぶりに徹夜までしたので、酷く眠い。<br> 雪華綺晶はベッドに倒れ込むと、直ぐに寝息を立て始めた。<br> <br> <br> <br> <br> ――ふと、誰かに揺り起こされる感覚。<br> <br> 誰? 申し訳ないけれど、今は眠っていたいの。<br> <br> 一度は気付かないフリをしたが、二度、三度と揺すられて、彼女は諦めた。<br> 誰なの? この時間、両親は家に居ない筈なのに……。<br> 雪華綺晶が瞼を開くと、そこには絵の中の娘が、にこにこと微笑みながら立っていた。<br> <br>  「えへへ……なんか解らないけど……戻ってきちゃった」<br>  「ば……ら……」<br>  「素敵な絵だね。色が着くと、尚更――」<br>  「薔薇水晶っ!」<br> <br> 雪華綺晶は、薔薇水晶にしがみついて、誰憚ることなく嗚咽を漏らした。<br> そんな彼女の身体を、薔薇水晶も、しっかりと抱き締めるのだった。<br> <br>  「もしかしたら、お姉ちゃんの絵が、私を呼び戻してくれたのかもね」<br>  「どうでも良いですわ、理由なんて! <br>   貴女が戻ってくれさえすれば、私は、それだけで嬉しいのですから」<br>  「そっか……そうだよね。ありがとう」<br> <br> 抱き合って、再会を喜び合う最中、雪華綺晶は薔薇水晶に訊ねた。<br> <br>  「これから、どうするの?」<br>  「分かんない。何をすべきか……どうすれば、良いのか」<br>  「そう。じゃあ……私の妹にならない?」<br> <br> 突拍子もない提案だという事は、雪華綺晶とて承知している。<br> しかし、折角また巡り会えた彼女を、厄介払いする気にはなれなかった。<br> <br>  「私の妹として暮らして……一緒の学校に通って……いろいろな事を学べば良い。<br>   これからの事は、ゆっくりと決めれば良いのですわ。<br>   焦る必要なんて、無いのですから」<br>  「そうね。それじゃあ……お願いします、お姉ちゃん」<br>  「はいはい。あ、でも、お父様とお母様には、どう伝えれば良いのでしょうか」 <br>  「それなら、任せて。精霊の力は、伊達じゃない」<br> <br> <br> <br> <br> 夏休みが終わって、二学期が始まる頃。<br> 教室で、担任が、転校生の女の子を紹介していた。<br> 転校生の美貌に、男子生徒ばかりか、女子生徒まで驚嘆の声を上げている。<br> <br> ただ一人、雪華綺晶だけは、鼻高々に教壇に立つ女の子を見詰めていた。<br> <br> ――彼女の名前は、薔薇水晶。<br>   私、雪華綺晶の、大切な妹ですわ。<br> <br> その声が聞こえたのかと思えるタイミングで、薔薇水晶も、ニコッと微笑した。<br>  <br>  <br></p> <hr> <br>  
<p> <br>  <br>   『絵のココロ』<br>  <br>  <br>  <br> 雪華綺晶は、ゴールデンウィークの連休を利用して、別荘を訪れていた。<br> ただ、趣味のためだけに。<br> 普段は忙しくて、なかなか打ち込むことが出来ない、彼女の趣味。<br> <br> それは、油絵を描くことだった。<br> <br> 別荘のベランダからの眺望は、絶景の一言に尽きる。<br> 緑豊かな森と、山々の懐に抱かれた、小さな湖。<br> 彼女は、小さな頃から、この景色が大好きだった。<br> <br>  「さて、と。少し休んだら、デッサンに行きましょう」<br> <br> 部屋の隅に荷物を置いて、スケッチブックとペンケースを取り出す。<br> ペンケースの中には、様々な芯の鉛筆が収められている。<br> どの芯も、先が鋭く削られていた。<br> <br>  「今日は、湖の畔まで歩いてみようかしら」<br> <br> ベランダ越しに、煌めく水面を見遣る。<br> すると、湖の岸辺に、小さな人影が見えた。<br> 遠い上に、陽光の反射で良く判らないけれど、髪の長さから女の子らしいと見当が付いた。<br> その子は、膝くらいまで湖に入り、立っている。<br> <br> はしゃぐでもなく、動き回るでもなく……。<br> ただ、その場に立つ尽くすのみだった。<br> <br> あの子は、何をしているのかしら?<br> 雪華綺晶は、興味をそそられた。不思議な魅力を感じた。<br> そして気付けば、スケッチブックを広げて、さらさらと湖に立つ少女を描いていた。<br> <br> ラフスケッチながら、なかなかの出来映え。<br> これを元にして、後でキャンバスに描いてみましょう。<br> 会心の笑みを浮かべながら、もう一度、湖に目を向ける雪華綺晶。<br> けれど、そこにはもう、あの少女の姿は無かった。<br> <br>  「近所の子供かも、知れませんわね」<br> <br> だったら、その内に、また会える。<br> 今度は、近くで描かせて貰おう。心の底から、そう思った。<br> <br> <br> <br> <br> 湖の畔まで、散歩がてらの二十分。<br> 意外に、歩き出がある。五月の陽気でも、全身、汗でびっしょりだった。<br> イーゼルやキャンバスを担いで来るには、少しばかりキツい。<br> <br> スケッチブックで顔を扇ぎつつ、周囲を見回すと、お誂え向きの場所を見付けた。<br> 木陰のベンチ。しかも、周りに人は居ない。<br> 雪華綺晶は、そそくさとベンチに座って、眼前に広がる光景にココロを解き放った。<br> <br> <br> ――風のそよぐ音。揺れる木立のざわめき。<br> ――波立つ水面が、岸辺でちゃぷちゃぷと砕ける音。<br> <br> 有りとあらゆる自然現象が、雪華綺晶の創作意欲を掻き立ててくれる。<br> <br> スケッチブックに、鉛筆を走らせる。<br> 時折、目の前の風景に目を遣り、再びデッサンに勤しむ。<br> そんな事を、どのくらい続けていただろうか。<br> <br>  「お姉ちゃん……絵……上手だね」<br> <br> いきなり背後から声を掛けられ、雪華綺晶は胸から心臓が飛び出すくらい驚いた。<br> 振り返ると、薄紫のドレスを着た女の子が、木にもたれかかっていた。<br> 右眼には、お洒落なデザインの眼帯。<br> 近くで、仮装パーティーでも有ったのかしら?<br> にしては、何処かで会ったような……無いような。<br> 雪華綺晶は既視感を覚えて、少女をじろじろと眺め回していた。<br> <br>  「…………失礼じゃない?」<br> <br> 徐に言われて、雪華綺晶は我に返った。確かに、失礼だ。<br> 初対面の人を観察してしまうなんて。<br> <br>  「ごめんなさい。悪気は無かったのよ」<br>  「…………」<br>  「ただ、以前にも、お会いしてたかしら……と」<br> <br> 雪華綺晶が告げると、少女はくすくす……と笑った。<br> <br>  「会ったこと……ある……かもね」<br>  「貴女、お名前は?」<br>  「……薔薇……水晶」<br> <br> 薔薇水晶? 口の中で、何度か呟いてみる。<br> 記憶を辿っても、そんな名前の子は知らなかった。<br> そもそも、目の前の少女は、どう見ても小学生高学年から中学生くらい。<br> その年齢の子に、知り合いは居なかった。<br> <br>  (本当に、以前に会っているのでしょうか?)<br> <br> 雪華綺晶の戸惑いを、表情から読み取ったのだろう。<br> 目を細めて笑った薔薇水晶は、雪華綺晶の手にあるスケッチブックを指差した。<br> <br>  「さっき…………描いてくれてたでしょ」<br>  「え? ……ああっ!」<br> <br> 『さっき』というキーワードを得て、雪華綺晶はスケッチブックを手繰った。<br> 別荘の部屋から、衝動的に描いてしまったラフスケッチ。<br> あの時は、後ろ姿しか描いていない。<br> けれど、改めて見直してみると、確かに少女のドレスと、絵の中の少女の服は似ていた。<br> <br>  「私がスケッチしていた事が、分かったと言うの?」<br> <br> そんな筈はない。だって、湖畔から別荘まで、徒歩で二十分もかかるのだもの。<br> それだけの距離が、隔たっているのに……。<br> 雪華綺晶の戸惑いを余所に、薔薇水晶は、にこにこと無邪気に笑っていた。<br> <br>  「ねえ、お姉ちゃん。もっと……私の絵……描いて?」<br>  「え、ええ。良いですわよ、勿論」<br> <br> 薔薇水晶に促されるまま、雪華綺晶はスケッチブックに、少女の似顔絵を描いた。<br> 柔らかそうな髪、なだらかな頬のライン。<br> 髪飾りの紫水晶と、洒落た眼帯は、いいアクセントになる。<br> <br> しかし……。<br> 不思議なことに、彼女の右眼を描くことに、強い抵抗を覚えた。<br> 画竜点睛ではないけれど、これでは完成しない。<br> さんざん迷った挙げ句、雪華綺晶は少女の右眼を、閉じた状態で描いた。<br> <br>  「はい、出来ましたわ」<br>  「どれどれ……わぁ……上手上手」<br>  「お粗末様ですわ。でも、喜んで頂けたなら、描いた意味がありましたわね」<br>  「ねぇねぇ……今度は……もう少し、大人っぽく描いてみて?」<br> <br> ――大人っぽく? また、おかしな注文が付いたものですね。<br> おそらく、少女が抱く、大人の女性への憧れを具体化して欲しいのだろう。<br> 雪華綺晶は「そうですわねぇ」と微笑しながら、少女の成長した姿を想像した。<br> <br> 女子高生の薔薇水晶。髪は、長いまま。面差しを、今よりも細めに描く。<br> そこで、初めて気が付いた。この娘……将来、スッゴイ美人になる。<br> けれども、いざ完成の段になると、やはり右眼を描くことに抵抗を感じた。<br> <br> 何故なのだろう?<br> 今まで、人物画は何枚も描いてきた。<br> しかし、一度だって、こんな気持ちになった事など無かった。<br> <br> 結局、この絵も右眼を閉ざした笑顔にして、描き上げた。<br> <br>  「はい、おまちどおさま」<br>  「わぁい。スゴイスゴイ……カッコイイなぁ」<br> <br> 薔薇水晶は、大人になった自分の絵を見て、夢見がちな目になった。<br> 雪華綺晶には、薔薇水晶の気持ちが解った。<br> 自分にも、同じような時期があったから。<br> 将来の自分に、根拠のない妄想を重ね、勝手に憧れて……自己嫌悪に陥ったり。<br> <br>  「でも、どうして、目が閉じてるの?」<br>  「その方が、可愛らしいからですわ」<br> <br> ――ごめんなさい。嘘つきました。<br> 本当は、描きたくなかったからだ。今日は、どうしてしまったのだろう。<br> もしかしたら、旅の疲れが出たのかも知れない。<br> <br>  「お姉ちゃん……もっと、描いて?」<br>  「ごめんなさい、薔薇水晶ちゃん。今日はもう、疲れてしまったの。<br>   明日で、構わないでしょうか?」<br>  「しょうがないなぁ…………じゃあ、明日ね? それと、私を呼ぶ時は、<br>   薔薇しぃ――で良いから」<br>  「え、ええ。それじゃあ、薔薇しぃ。また、明日ね」<br> <br> 別れの挨拶を交わすと、薔薇水晶は脱兎の如く駆け出し、木陰に消えた。<br> 本当に、不思議な少女だ。<br> 彼女をモデルに絵を描くのも、決して厭ではなかった。<br> ただ一点――眼を描き入れたくない事を除けば。<br> <br>  「明日も……来てくれるのでしょうか?」<br> <br> <br> <br> <br> 東の空が、白々と明るみ始めた早朝。<br> 山奥の清々しい空気を満喫しながら、雪華綺晶は別荘のベランダで、軽い食事を摂っていた。<br> とても優雅で、贅沢な気分だ。<br> <br>  「今日も、納得のいく絵が描けたら良いですわね」<br> <br> 良い絵が描けるとき……。<br> それは、大概、今朝のように寝覚めが良く、気分がスッキリと優れている時だ。<br> 雪華綺晶は、昨日の少女、薔薇水晶に想いを巡らした。<br> 今日は、あの子の眼を描き込んであげられるだろうか?<br> <br> 昨夜は疲れからか、スケッチを見直す間もなく、眠りに就いてしまった。<br> スケッチブックに手を伸ばした雪華綺晶は、湖の湖畔に立つ人影に気付いて、視線を向けた。<br> <br>  「……薔薇しぃちゃん?」<br> <br> 薔薇水晶は、昨日と同じように、湖に足を浸して立っていた。<br> 違いを挙げれば、今朝は、こちらを向いている――と言うこと。<br> <br>  「随分と早起きなのね、あの子」<br> <br> 素早く身支度を整え、雪華綺晶はキャノンデールのマウンテンバイクに跨ると、<br> まっしぐらに湖畔を目指した。<br> <br> <br> <br> <br> 雪華綺晶が湖畔に着くと、昨日のベンチに、薔薇水晶が座っていた。<br> けれど、その姿は小学生ではなく、自分と同い年くらいに成長していた。<br> 一瞬、別人かと思ったほどだ。<br> <br>  「おはよう…………お姉ちゃん」<br>  「薔薇しぃ、貴女……何故、大きくなっているの?」<br>  「お姉ちゃんが……描いてくれたから……お姉ちゃんのお陰」<br>  「わたしの、お陰?」<br> <br> 狐に摘まれた様な顔をする雪華綺晶に、薔薇水晶は突拍子もない事を語り始めた。<br> <br>  「私は……この湖の……精霊だよ」<br>  「……はい?!」<br>  「信じなくても良いよ。でも……ホントのことだから」<br>  「わ、解りましたわ。とりあえず、続けて下さいな」<br> <br> 落ち着いて返事をしたつもりだったが、雪華綺晶の声は、緊張で戦慄いていた。<br> なにを怖がっているのだろう。こんな事、有り得るはずがないのに。<br> そんな彼女を和ますように、薔薇水晶は湖の水面の如く穏やかな笑みを浮かべた。<br> <br>  「私は……もうすぐ消えるの」<br> <br> そう前置いて、薔薇水晶は、つらつらと身の上を話し続けた。<br> 人々の信仰心が薄れるにつれて、力を失い、実体化が難しくなったこと。<br> もうすぐ消えゆく運命だと悟って、せめて自分の存在した証を残したかったこと。<br> 絵を描いてくれる人を、一日千秋の想いで、ずっと待ち続けたこと。<br> でも、誰も自分の存在に気付いてくれなかったこと。<br> <br>  「だからね……お姉ちゃんが気付いてくれて……<br>   私を描いてくれた時は、とっても嬉しかったんだよ♪」<br> <br> 言って、薔薇水晶は満面の笑みを、雪華綺晶に向けた。<br> 彼女の瞳が、潤んでいるのが分かった。<br> ベンチから立ち上がって、薔薇水晶は両腕を広げ、雪華綺晶の前で、くるりと回って見せた。<br> <br>  「ねぇ……あと一枚だけ……私を描いてくれない?<br>   私が、消えてしまう前に……。あと……一枚だけ」<br>  「……喜んで……描いて差し上げますわ」<br> <br> 知らず知らずの内に、雪華綺晶は涙を流していた。<br> これでは描けない。しっかりするのよ、私。<br> 雪華綺晶はハンカチで目元を拭い、ベンチに腰掛けて、深呼吸を繰り返した。<br> スケッチブックを開いて、意識を集中する。<br> <br> <br> 一期一会……この出会いを描く為に、全身全霊を注ぐ。<br> <br> 薔薇水晶は愉しそうに笑いながら、膝まで湖に入って、はしゃいでいる。<br> 無邪気な笑顔。<br> その一瞬を、雪華綺晶は切り取って、スケッチブックの中に貼り付けた。<br> <br> そして最後に、描けなかった想いを――<br> 薔薇水晶の右眼を、しっかりと描き込んだ。<br> <br>  「出来ましたわ……薔薇しぃ」<br> <br> 雪華綺晶の絵を、薔薇水晶は穴が開くほど、じっくりと見詰めた。<br> そして、満足そうに、ニッコリと笑った。<br> <br>  「ありがとう。すごく、ステキ」<br> <br> 薔薇水晶の頬を、水晶の様な雫が、ぽろりぽろりと滑り落ちる。<br> <br>  「貴女の絵には……ココロが宿ってる。それは、とても素敵なことよ」<br>  「そんなに褒めても、なにも出ませんわ」<br> <br> そう応じた雪華綺晶の瞳からも、宝石を想わせる涙が、溢れては落ちた。<br> <br>  「お姉ちゃん……本当に…………ありがとうね。<br>   私、これで…………何も思い残すことなく、消えてしまえるよ」<br>  「……」<br>  「そんな顔、しないで。私が消えてしまう事は、なにも気にしなくていいの。<br>   それが、時代の移り変わりと言うものだから……誰のせいでもないの」<br>  「だけど……薔薇しぃが……」<br>  「私に会いたくなったら、その絵を見れば良いのよ。<br>   言ったでしょう? 貴女の絵にはココロが宿る……って。<br>   私はここで消えるけれど、ココロはいつも、貴女と共にあるから」<br> <br> 山間から、やっと朝日が射してきた。<br> 眩い光の中に、薔薇水晶の姿が薄れ、溶けて行く。<br> <br>  「お姉ちゃん、ありがとう…………さようなら」<br>  「薔薇しぃっ!」<br> <br> 薔薇水晶は、微笑みだけを残して、消えてしまった。<br> <br> <br> <br> <br> 別荘から自宅に帰り着くなり、雪華綺晶はキャンバスに向かい、一心に絵を描き始めた。<br> <br>   タイトルは 『湖に戯れる乙女』<br> <br> 薔薇水晶が存在した証を、みんなに教えるために、ひたすら絵筆を走らせ続けた。<br> <br> <br> <br> <br> 朝が昼になり、夜が訪れ、再び、東の空に太陽が昇る頃――<br> 雪華綺晶は、キャンバスの左下に、自分のサインを描き入れた。<br> 絵の中の薔薇水晶は、温かい眼差しをしている。<br> <br>  「……出来た。これで、貴女のことを、みんなが忘れずにいてくれますわ」<br> <br> 緊張の糸が切れて、雪華綺晶は急激に、身体の重さを感じた。<br> 旅疲れに加えて、久しぶりに徹夜までしたので、酷く眠い。<br> 雪華綺晶はベッドに倒れ込むと、直ぐに寝息を立て始めた。<br> <br> <br> <br> <br> ――ふと、誰かに揺り起こされる感覚。<br> <br> 誰? 申し訳ないけれど、今は眠っていたいの。<br> <br> 一度は気付かないフリをしたが、二度、三度と揺すられて、彼女は諦めた。<br> 誰なの? この時間、両親は家に居ない筈なのに……。<br> 雪華綺晶が瞼を開くと、そこには絵の中の娘が、にこにこと微笑みながら立っていた。<br> <br>  「えへへ……なんか解らないけど……戻ってきちゃった」<br>  「ば……ら……」<br>  「素敵な絵だね。色が着くと、尚更――」<br>  「薔薇水晶っ!」<br> <br> 雪華綺晶は、薔薇水晶にしがみついて、誰憚ることなく嗚咽を漏らした。<br> そんな彼女の身体を、薔薇水晶も、しっかりと抱き締めるのだった。<br> <br>  「もしかしたら、お姉ちゃんの絵が、私を呼び戻してくれたのかもね」<br>  「どうでも良いですわ、理由なんて! <br>   貴女が戻ってくれさえすれば、私は、それだけで嬉しいのですから」<br>  「そっか……そうだよね。ありがとう」<br> <br> 抱き合って、再会を喜び合う最中、雪華綺晶は薔薇水晶に訊ねた。<br> <br>  「これから、どうするの?」<br>  「分かんない。何をすべきか……どうすれば、良いのか」<br>  「そう。じゃあ……私の妹にならない?」<br> <br> 突拍子もない提案だという事は、雪華綺晶とて承知している。<br> しかし、折角また巡り会えた彼女を、厄介払いする気にはなれなかった。<br> <br>  「私の妹として暮らして……一緒の学校に通って……いろいろな事を学べば良い。<br>   これからの事は、ゆっくりと決めれば良いのですわ。<br>   焦る必要なんて、無いのですから」<br>  「そうね。それじゃあ……お願いします、お姉ちゃん」<br>  「はいはい。あ、でも、お父様とお母様には、どう伝えれば良いのでしょうか」 <br>  「それなら、任せて。精霊の力は、伊達じゃない」<br> <br> <br> <br> <br> 夏休みが終わって、二学期が始まる頃。<br> 教室で、担任が、転校生の女の子を紹介していた。<br> 転校生の美貌に、男子生徒ばかりか、女子生徒まで驚嘆の声を上げている。<br> <br> ただ一人、雪華綺晶だけは、鼻高々に教壇に立つ女の子を見詰めていた。<br> <br> ――彼女の名前は、薔薇水晶。<br>   私、雪華綺晶の、大切な妹ですわ。<br> <br> その声が聞こえたのかと思えるタイミングで、薔薇水晶も、ニコッと微笑した。<br>  <br>  </p> <hr> <p><br>  </p>

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