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~第七章~」(2007/01/24 (水) 00:01:04) の最新版変更点

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<p> <br> ~第七章~<br> <br> <br> 渓流の冷たい水の中を、翠星石は漂っていた。<br> 呼吸が出来なくても苦しくなかったし、もう痛みも感じない。<br> なんとも安らかな気持ちだった。<br> <br> (死ぬって、こんなに楽なことだったですね……)<br> <br> 今まで、がむしゃらに生きてきたのが、馬鹿らしく思えた。<br> こうと解っていたなら、辛い目に遭ったり、苦しい思いをすることもなく、死を選んでいたのに。<br> 蒼星石と、一緒に――<br> <br> 多分、蒼星石は必死になって引き留めるだろう。<br> そして、姉の気持ちが揺るがないと確信したとき、笑いながら共に逝ってくれる筈だ。<br> <br> ――しょうがないな、姉さんは。<br> <br> 最愛の妹の顔を思い浮かべた時、翠星石の胸が、ちくりと痛んだ。<br> 死の間際に、なんて下らない事を考えているのだろう。<br> 蒼星石はジュンと幸せに暮らしていけば良い。そう言ったのは、他ならぬ自分自身ではないか。<br> <br> (私は、最後まで蒼星石を守り通したです。だから……きっと、これで良かったです)<br> <br> この世には、未練も執着もない。<br> いや……ひとつだけ有った。それは、蒼星石とジュンの晴れ姿を見られなかったこと。<br> <br> (情けねぇです……最後まで、こんな気持ちを引きずるなんて)<br> (そう思うなら、生き長らえてみたら?)<br> (!? だ、誰ですっ?)<br> <br> 突如として頭の中に響いた見知らぬ女の声に、翠星石は驚きの声を上げていた。<br> 翠星石の動揺を気にも留めず、声は語り続ける。<br> <br> (そんなに未練があるなら、甦ればいい。貴女が願うなら、わたしが叶えてあげよう)<br> (必要ねぇです。諦めは付いてるですから、もう構うなです!)<br> (ふふふ……もの分かりの良いフリなんかして。強がったって無駄よ。<br> わたしには、貴女の心の闇が見えているのだから)<br> (う、うるせえですっ! もう黙れですっ!)<br> (本当は、蒼星石が羨ましいくせにね。自分が掴めない幸福を、彼女は手にしようとしている。<br> それが妬ましくて、仕方が無いのでしょう? だって……貴女も彼のことが好きなのだから。<br> 二人を応援すると言いながら、さりげなく邪魔をしたことも――)<br> (やめるですうっ!)<br> <br> 叫ぶ翠星石をあざ笑うように、とどめの一言が放たれる。<br> それは、彼女の心に深々と突き刺さり、塞がっていた古傷を抉った。<br> <br> (蒼星石がジュンから離れたとき、悲しむフリをしながら、心の奥底では歓んでいたでしょう?)<br> <br> もう聞きたくない。<br> しかし、心の声に耳を塞ぐことは出来なかった。確かに、その通りだったから。<br> 双子の姉妹が同じ男性を好きになる事は、世間でよくある話らしい。<br> いつも一緒に居て、以心伝心と呼べるまでの意志疎通を繰り返していれば、<br> 趣味や好みが共通するのも当然の帰結なのだろう。<br> <br> 翠星石は、ジュンに恋をしていた。それは、紛れもない事実。<br> けれど、蒼星石から彼を奪い取ろうなんて思わなかったのも、れっきとした事実だった。<br> <br> (何も迷わず、黒い欲望に身を任せれば良い。とても簡単な事よ。<br> 嫉妬と憎悪の炎を、心に宿すだけ。たったそれだけで、貴女の魂は救われる)<br> (ゴチャゴチャうるせぇです! <br> そんな戯れ言で、私が動揺すると思ってるですか? 見くびるなですっ!)<br> (これは威勢が良い。気に入ったわ。是が非でも、わたしの配下に加えてやる)<br> (な、なに? お前は、何者ですっ!)<br> (わたしの正体が知りたければ、我らの仲間になれば良い。幾らでも教えてあげるから)<br> <br> 心の中に、邪悪な哄笑が轟く。<br> 続いて、恐ろしい宣言が下された。<br> <br> (望もうが、望むまいが関係ない。無理矢理にでも、その身体を奪うのみ)<br> (なぁっ!!)<br> <br> 一呼吸する暇もなく、翠星石の心に墨汁の如き黒々としたものが流れ込んできた。<br> それは信じられない早さで、翠星石の心身を侵食し始めていた。<br> <br> (お前の感情は疎か、記憶すらも、憎しみに彩られた物語に書き換えてあげよう)<br> (イヤっ! やめるですっ! 入ってくるなですっ!)<br> <br> このままでは、本当に記憶まで操られてしまう。<br> 蒼星石への親愛も、ジュンに抱いた恋心も、全てが闇の者に玩ばれてしまう。<br> 闇の者に身をやつし、穢れた姿を、蒼星石やジュンの前に晒す苦痛よりも、<br> かけがえのない思い出を闇に汚される事の方が、我慢ならなかった。<br> <br> <br> 翠星石は心を閉ざし、一切の思考を絶った。<br> それが、彼女に出来る、精一杯の抵抗だった。<br> <br> <br> <br> <br> 湯治場に逗留して、早二日目。<br> 巴は、よくジュンに尽くしてくれた。元々、献身的な性格なのかも知れない。<br> 蒼星石に面差しが似ている事もあってか、ジュンは少しずつ、巴に惹かれ始めていた。<br> <br> 「ジュン、夕餉の支度、手伝ってくれない?」<br> 「いいよ、勿論」<br> <br> 教育係の梅岡に料理の腕まで鍛えられたのが、まさか、こんな場面で役立つとは。<br> 縁は異なもの……とは、よく言ったものだ。<br> 湯治場にある簡素な炊事場で、ジュンと巴は並んで料理をする。<br> 時折、何か言葉を交わしては愉しげに笑い合う様子は、若い夫婦を思わせた。<br> <br> 温かな味噌汁に、粟と麦の雑炊。<br> 材料の多くは、巴が路銀をはたいて、近くの農家から譲り受けたものだ。<br> あとは周辺の野草や、山菜を使っていた。<br> <br> 「巴には、本当に感謝してるよ。それに、すまないとも思ってる」<br> <br> 食後のひととき。ジュンは白湯を一口飲むと、そう言って項垂れた。<br> 何の因果か、妙な事に巻き込んでしまった。<br> 彼女だって旅の途中だと言うのに、食料を買うため、無一文にさせてしまった。<br> けれど、ジュンが謝る度に、巴はこう告げて、微笑むのだった。<br> <br> 「気にしなくても良いの。困っている人が居たら助けるようにと、育てられてきたから」<br> <br> 聞けば、巴はとある地方の、武家の娘だという。道理で刀の扱いが、様になっていた筈である。<br> あれだけ剣術に熟達しているにも拘わらず、何故、巴は修行の旅になど出ているのだろう。<br> 私的な事に口出しをすべきではないと思いつつ、気付けば、ジュンは訊ねていた。<br> 巴は怒るでもなく、と言って微笑むでもなく……真っ直ぐに、ジュンを見詰めている。<br> 気分を害してしまっただろうか。<br> <br> ジュンが詫びを入れようとした矢先、巴は静かに瞼を閉じた。<br> そして、一呼吸。<br> <br> 「わたしは、夫となるに相応しい方を捜しているんです」<br> <br> 再び瞼を開いた彼女の眼差しは、力強い光を放っている。<br> 何かを決意した者のみが見せる真剣な目つき。それは、揺るぎない意志に満ち溢れていた。<br> <br> 「ジュン…………わたしを、妻にして貰えませんか?」<br> 「巴……それは……いきなり過ぎるよ」<br> 「確かに、こんな事を急に言われても、信じてもらえないと思う。<br> でも、決して、いい加減な気持ちじゃあないの」<br> 「それは、巴の目を見れば判るよ。人を斬れそうなくらい、真剣な目をしてるから」<br> <br> ただ、どうして巴が自分を選んだのかが、ジュンには解らなかった。<br> 人より抜きん出た才が、ある訳でもない。容姿に恵まれた訳でもない。<br> 情けないけれど、剣術なら、巴の足元にも及ばないだろう。<br> そもそも全国修行の旅を続けていたのは、自分より強い男性に出会うためではないのか?<br> <br> ジュンの疑問を見透かしたように、巴は思いの丈を打ち明けた。<br> <br> 「貴方に、ひと目惚れでした。こんな事、産まれて初めてです」<br> <br> 袖摺り合うも他生の縁、という。<br> 或いは、巴とジュンも過去に――生まれ変わる以前に――出会っていたのかも知れない。<br> そして再び、互いの波長を憶えていた魂に導かれて、巡り会えたのだとしたら……。<br> <br> 「ひと目惚れ、か。そう言うの……有るよな、確かに」<br> <br> かく言うジュンも、蒼星石にひと目惚れだった。<br> でも、考えてみれば、なぜ彼女に惹かれたのだろう?<br> そう考えたとき、ジュンの脳裏に信じられないような仮定が浮かんできた。<br> もしかしたら、本当は蒼星石に、巴の影を重ねて見ていたのではないか……と。<br> <br> 最初から抱いていたのは巴への想いで、それが故に、<br> 巴に似た蒼星石を好きになったのだとしたら?<br> <br> 考えたところで、答えなど解らない。<br> 何故なら、転生したという確かな記憶が無いのだから。<br> 唯一、断言できる事は、いまジュンが思慕しているのが、蒼星石だということ。<br> 彼の心を占めているのは、巴ではなかった。<br> <br> 「僕なんかを、そこまで慕ってくれて嬉しいよ」<br> 「それじゃあ――」<br> 「……ゴメン、巴。僕も、巴のことは好きだよ。でも、蒼星石じゃないとダメなんだ」<br> 「その人に、操を立てているの?」<br> 「そういうつもりではないけど……結果的に、そうなるのかな」<br> 「でも、その人は、ジュンの前から消えてしまったのよ?<br> もう貴方を、愛していないかも知れないのよ?」<br> 「それでも――」<br> <br> ジュンは有無を言わせぬ勢いで、巴に告げた。「僕は、蒼星石を愛し続けているんだ」<br> <br> <br> <br> <br> 同じ頃、四人の犬士たちも湯治場に向かっていた。<br> 水銀燈の背負われた真紅は、恥ずかしげに「ごめんなさい」と囁く。<br> 休憩しても疲労が抜け切らず、どんどん遅れてしまうので、見かねた水銀燈が背を貸したのだ。<br> 水銀燈の太刀は薔薇水晶が持っているが、どうにも、足取りがフラフラしている。<br> <br> 「割と、重いのかしらね」<br> 「んん? 寧ろ、軽すぎるわねぇ。もっと食べなきゃダメよ、真紅ぅ」<br> 「は? 私は、貴女の太刀の重量について訊いただけよ」<br> 「なぁんだ、そうだったの。てっきり体重の話かと思ったわぁ」<br> <br> 自分が他の娘に比べて、痩せ気味であることくらい承知している。<br> ばかりか、神経過敏とも言えるほど気にしていた。<br> 特に、胸の大きさを――<br> <br> 「まあ、これからの成長に期待ってトコよねぇ」<br> 「……余計なお世話なのだわ」<br> <br> ぐさりと刺さる言葉に、真紅は頬を引きつらせた。<br> いつもならば、首根っこを両手で掴んで、ガクガクと揺さぶってやるところだ。<br> しかし今は、そんな気分になれなかった。<br> <br> 先頭を歩く蒼星石の背中が、重苦しい雰囲気を放っている。<br> とても軽口を叩ける状況ではない。真紅と水銀燈の会話も、直ぐに途切れた。<br> 目の前で姉を失った彼女に、どう声を掛けて、慰めれば良いのだろう。<br> 話すきっかけも見出せないまま、四人は重いを引きずりながら進んだ。<br> <br> それでも、この空気は払拭しなければならない。<br> 真紅は意を決して、蒼星石の背に問い掛けた。<br> <br> 「蒼星石、あと、どのくらいなの?」<br> <br> 振り向いた蒼星石は、あと少しだよ、と明るく応じた。<br> 重苦しい雰囲気を纏いつかせている割に、意外と悲愴感がない。<br> 少しは気分が落ち着いた、と言うところか。<br> ともかく、暫くは様子を見守った方が良いかも知れない。<br> 蒼星石が、短気を起こさないように……。<br> <br> 「そんなに、心配しなくても良いよ。真紅」<br> <br> 真紅の僅かな仕種から、意図を見抜いたのだろう。<br> 蒼星石は、水銀燈に背負われた真紅を見詰めて、屈託のない笑顔を見せた。<br> <br> 「姉さんが護ってくれた命だからね。粗末にしたら、罰が当たるよ」<br> 「そう……。だったら、何も言うことは無いわ」<br> <br> それにね、と蒼星石は続けた。<br> <br> 「ボクには、姉さんが死んだなんて思えないんだ。その辺から、ひょっこり顔を覗かせて、<br> ビックリしたですか? なんて言うんじゃないか……って。<br> そんな気がして、ならないんだよ」<br> <br> あはは……と笑う蒼星石の頬に、一粒の雫。<br> <br> 「あれ? おかしいな。泣いたりするつもりは、無かったのに」<br> <br> 指先で頻りに拭うけれど、蒼星石の頬を、ぽろぽろと涙が零れ続けた。<br> <br> こんな時まで、強がらなくてもいいのに。<br> 水銀燈は真紅を降ろし、蒼星石の肩を優しく包み込んだ。<br> <br> 「おばかさぁん。泣きたい時は、思いっきり泣けば良いのよ」<br> 「その通りよ、蒼星石。貴女は周囲の眼を気にしすぎるのだわ」<br> <br> <br> ――普段から、そうやって本音をさらけ出せば良いです。<br> ――世間体だの周囲の眼だの、気にする事ないです。<br> <br> <br> 水銀燈と真紅の言葉が、別れ際に聞いた翠星石の言葉と重なる。<br> <br> 「みんな、同じ事を言うんだね。<br> でも、それは裏を返せば、ボクに対する印象が一致しているってコト。<br> 姉さん……ボクはホントに、今まで素直じゃなかったんだね」<br> <br> 蒼星石は、そのから少しの間、水銀燈の胸で泣きじゃくった。<br> <br> <br> <br> 「ゴメン、みんな。なんだか、いろいろと迷惑かけちゃったね」<br> <br> 蒼星石は、ジュンのことも含めて、みんなに話して聞かせた。<br> 湯治場に向かうのも、本当は自分の目的を果たすための口実だったことも。<br> それに対する、みんなの答えは、真紅の一言に集約されていた。<br> <br> 「余計な事は言わないで良いから、早く道案内しなさい」<br> <br> <br> <br> <br> 休めるときに休み、鋭気を養うこと。それもまた、戦士の義務である。<br> 蒼星石に連れられて訪れた湯治場は、小さな庵があるだけの、感じのいい所だった。<br> ここなら、じっくり骨休め出来そうだ。<br> <br> 蒼星石は、率先して庵に向かった。<br> ここに、ジュンが逗留しているかも知れない。<br> その期待を胸に歩いていると、彼女の足音を聞き付けたのか、庵の中から人影が現れた。<br> それは正しく、蒼星石が会いたいと思っていた若き侍――ジュンだった。<br> <br> 「ジュンっ!」<br> 「え!? そ、蒼星石っ!」<br> <br> 言葉と同時に、走り出していた。どんなに、この時を待ち望んでいたことか。<br> 一秒でも早く彼の胸に飛び込んで、抱き締めて欲しかった。<br> <br> けれど、ジュンは蒼星石の元へ駆け寄らなかった。<br> 正確には、走り出す直前、庵の中から伸びた白い腕に、引き留められたのだ。<br> <br> 「どうしたの、ジュン……お客さん?」<br> <br> ジュンを背後から抱き締めた娘は、蒼星石を見て、微かに笑った。蒼星石の足が、止まる。<br> なんなの、その勝ち誇った様な笑みは。二人の視線がぶつかり、一瞬、火花が散った。<br> <br> 「誰なの、キミは?」<br> 「誰、貴女?」<br> <br> 二人が冷ややかな声で詰問したのは、殆ど同時だった。<br> <br> <br> =<a href="http://www4.atwiki.jp/3edk07nt/pages/50.html">第八章につづく</a>=</p>
<p> <br>   ~第七章~<br> <br> <br> 渓流の冷たい水の中を、翠星石は漂っていた。<br> 呼吸が出来なくても苦しくなかったし、もう痛みも感じない。<br> なんとも安らかな気持ちだった。<br> <br>  (死ぬって、こんなに楽なことだったですね……)<br> <br> 今まで、がむしゃらに生きてきたのが、馬鹿らしく思えた。<br> こうと解っていたなら、辛い目に遭ったり、苦しい思いをすることもなく、死を選んでいたのに。<br> 蒼星石と、一緒に――<br> <br> 多分、蒼星石は必死になって引き留めるだろう。<br> そして、姉の気持ちが揺るがないと確信したとき、笑いながら共に逝ってくれる筈だ。<br> <br>  ――しょうがないな、姉さんは。<br> <br> 最愛の妹の顔を思い浮かべた時、翠星石の胸が、ちくりと痛んだ。<br> 死の間際に、なんて下らない事を考えているのだろう。<br> 蒼星石はジュンと幸せに暮らしていけば良い。そう言ったのは、他ならぬ自分自身ではないか。<br> <br>  (私は、最後まで蒼星石を守り通したです。だから……きっと、これで良かったです)<br> <br> この世には、未練も執着もない。<br> いや……ひとつだけ有った。それは、蒼星石とジュンの晴れ姿を見られなかったこと。<br> <br>  (情けねぇです……最後まで、こんな気持ちを引きずるなんて)<br>  (そう思うなら、生き長らえてみたら?)<br>  (!? だ、誰ですっ?)<br> <br> 突如として頭の中に響いた見知らぬ女の声に、翠星石は驚きの声を上げていた。<br> 翠星石の動揺を気にも留めず、声は語り続ける。<br> <br>  (そんなに未練があるなら、甦ればいい。貴女が願うなら、わたしが叶えてあげよう)<br>  (必要ねぇです。諦めは付いてるですから、もう構うなです!)<br>  (ふふふ……もの分かりの良いフリなんかして。強がったって無駄よ。<br>   わたしには、貴女の心の闇が見えているのだから)<br>  (う、うるせえですっ! もう黙れですっ!)<br>  (本当は、蒼星石が羨ましいくせにね。自分が掴めない幸福を、彼女は手にしようとしている。<br>   それが妬ましくて、仕方が無いのでしょう? だって……貴女も彼のことが好きなのだから。<br>   二人を応援すると言いながら、さりげなく邪魔をしたことも――)<br>  (やめるですうっ!)<br> <br> 叫ぶ翠星石をあざ笑うように、とどめの一言が放たれる。<br> それは、彼女の心に深々と突き刺さり、塞がっていた古傷を抉った。<br> <br>  (蒼星石がジュンから離れたとき、悲しむフリをしながら、心の奥底では歓んでいたでしょう?)<br> <br> もう聞きたくない。<br> しかし、心の声に耳を塞ぐことは出来なかった。確かに、その通りだったから。<br> 双子の姉妹が同じ男性を好きになる事は、世間でよくある話らしい。<br> いつも一緒に居て、以心伝心と呼べるまでの意志疎通を繰り返していれば、<br> 趣味や好みが共通するのも当然の帰結なのだろう。<br> <br> 翠星石は、ジュンに恋をしていた。それは、紛れもない事実。<br> けれど、蒼星石から彼を奪い取ろうなんて思わなかったのも、れっきとした事実だった。<br> <br>  (何も迷わず、黒い欲望に身を任せれば良い。とても簡単な事よ。<br>   嫉妬と憎悪の炎を、心に宿すだけ。たったそれだけで、貴女の魂は救われる)<br>  (ゴチャゴチャうるせぇです! <br>   そんな戯れ言で、私が動揺すると思ってるですか? 見くびるなですっ!)<br>  (これは威勢が良い。気に入ったわ。是が非でも、わたしの配下に加えてやる)<br>  (な、なに? お前は、何者ですっ!)<br>  (わたしの正体が知りたければ、我らの仲間になれば良い。幾らでも教えてあげるから)<br> <br> 心の中に、邪悪な哄笑が轟く。<br> 続いて、恐ろしい宣言が下された。<br> <br>  (望もうが、望むまいが関係ない。無理矢理にでも、その身体を奪うのみ)<br>  (なぁっ!!)<br> <br> 一呼吸する暇もなく、翠星石の心に墨汁の如き黒々としたものが流れ込んできた。<br> それは信じられない早さで、翠星石の心身を侵食し始めていた。<br> <br>  (お前の感情は疎か、記憶すらも、憎しみに彩られた物語に書き換えてあげよう)<br>  (イヤっ! やめるですっ! 入ってくるなですっ!)<br> <br> このままでは、本当に記憶まで操られてしまう。<br> 蒼星石への親愛も、ジュンに抱いた恋心も、全てが闇の者に玩ばれてしまう。<br> 闇の者に身をやつし、穢れた姿を、蒼星石やジュンの前に晒す苦痛よりも、<br> かけがえのない思い出を闇に汚される事の方が、我慢ならなかった。<br> <br> <br> 翠星石は心を閉ざし、一切の思考を絶った。<br> それが、彼女に出来る、精一杯の抵抗だった。<br> <br> <br> <br> <br> 湯治場に逗留して、早二日目。<br> 巴は、よくジュンに尽くしてくれた。元々、献身的な性格なのかも知れない。<br> 蒼星石に面差しが似ている事もあってか、ジュンは少しずつ、巴に惹かれ始めていた。<br> <br>  「ジュン、夕餉の支度、手伝ってくれない?」<br>  「いいよ、勿論」<br> <br> 教育係の梅岡に料理の腕まで鍛えられたのが、まさか、こんな場面で役立つとは。<br> 縁は異なもの……とは、よく言ったものだ。<br> 湯治場にある簡素な炊事場で、ジュンと巴は並んで料理をする。<br> 時折、何か言葉を交わしては愉しげに笑い合う様子は、若い夫婦を思わせた。<br> <br> 温かな味噌汁に、粟と麦の雑炊。<br> 材料の多くは、巴が路銀をはたいて、近くの農家から譲り受けたものだ。<br> あとは周辺の野草や、山菜を使っていた。<br> <br>  「巴には、本当に感謝してるよ。それに、すまないとも思ってる」<br> <br> 食後のひととき。ジュンは白湯を一口飲むと、そう言って項垂れた。<br> 何の因果か、妙な事に巻き込んでしまった。<br> 彼女だって旅の途中だと言うのに、食料を買うため、無一文にさせてしまった。<br> けれど、ジュンが謝る度に、巴はこう告げて、微笑むのだった。<br> <br>  「気にしなくても良いの。困っている人が居たら助けるようにと、育てられてきたから」<br> <br> 聞けば、巴はとある地方の、武家の娘だという。道理で刀の扱いが、様になっていた筈である。<br> あれだけ剣術に熟達しているにも拘わらず、何故、巴は修行の旅になど出ているのだろう。<br> 私的な事に口出しをすべきではないと思いつつ、気付けば、ジュンは訊ねていた。<br> 巴は怒るでもなく、と言って微笑むでもなく……真っ直ぐに、ジュンを見詰めている。<br> 気分を害してしまっただろうか。<br> <br> ジュンが詫びを入れようとした矢先、巴は静かに瞼を閉じた。<br> そして、一呼吸。<br> <br>  「わたしは、夫となるに相応しい方を探しているんです」<br> <br> 再び瞼を開いた彼女の眼差しは、力強い光を放っている。<br> 何かを決意した者のみが見せる真剣な目つき。それは、揺るぎない意志に満ち溢れていた。<br> <br>  「ジュン…………わたしを、妻にして貰えませんか?」<br>  「巴……それは……いきなり過ぎるよ」<br>  「確かに、こんな事を急に言われても、信じてもらえないと思う。<br>   でも、決して、いい加減な気持ちじゃあないの」<br>  「それは、巴の目を見れば判るよ。人を斬れそうなくらい、真剣な目をしてるから」<br> <br> ただ、どうして巴が自分を選んだのかが、ジュンには解らなかった。<br> 人より抜きん出た才が、ある訳でもない。容姿に恵まれた訳でもない。<br> 情けないけれど、剣術なら、巴の足元にも及ばないだろう。<br> そもそも全国修行の旅を続けていたのは、自分より強い男性に出会うためではないのか?<br> <br> ジュンの疑問を見透かしたように、巴は思いの丈を打ち明けた。<br> <br>  「貴方に、ひと目惚れでした。こんな事、産まれて初めてです」<br> <br> 袖摺り合うも他生の縁、という。<br> 或いは、巴とジュンも過去に――生まれ変わる以前に――出会っていたのかも知れない。<br> そして再び、互いの波長を憶えていた魂に導かれて、巡り会えたのだとしたら……。<br> <br>  「ひと目惚れ、か。そう言うの……あるよな、確かに」<br> <br> かく言うジュンも、蒼星石にひと目惚れだった。<br> でも、考えてみれば、なぜ彼女に惹かれたのだろう?<br> そう考えたとき、ジュンの脳裏に信じられないような仮定が浮かんできた。<br> もしかしたら、本当は蒼星石に、巴の影を重ねて見ていたのではないか……と。<br> <br> 最初から抱いていたのは巴への想いで、それが故に、<br> 巴に似た蒼星石を好きになったのだとしたら?<br> <br> 考えたところで、答えなど解らない。<br> 何故なら、転生したという確かな記憶が無いのだから。<br> 唯一、断言できる事は、いまジュンが思慕しているのが、蒼星石だということ。<br> 彼の心を占めているのは、巴ではなかった。<br> <br>  「僕なんかを、そこまで慕ってくれて嬉しいよ」<br>  「それじゃあ――」<br>  「……ゴメン、巴。僕も、巴のことは好きだよ。でも、蒼星石じゃないとダメなんだ」<br>  「その人に、操を立てているの?」<br>  「そういうつもりではないけど……結果的に、そうなるのかな」<br>  「でも、その人は、ジュンの前から消えてしまったのよ?<br>   もう貴方を、愛していないかも知れないのよ?」<br>  「それでも――」<br> <br> ジュンは有無を言わせぬ勢いで、巴に告げた。「僕は、蒼星石を愛し続けているんだ」<br> <br> <br> <br> <br> 同じ頃、四人の犬士たちも湯治場に向かっていた。<br> 水銀燈の背負われた真紅は、恥ずかしげに「ごめんなさい」と囁く。<br> 休憩しても疲労が抜け切らず、どんどん遅れてしまうので、見かねた水銀燈が背を貸したのだ。<br> 水銀燈の太刀は薔薇水晶が持っているが、どうにも、足取りがフラフラしている。<br> <br>  「割と、重いのかしらね」<br>  「んん? 寧ろ、軽すぎるわねぇ。もっと食べなきゃダメよ、真紅ぅ」<br>  「は? 私は、貴女の太刀の重量について訊いただけよ」<br>  「なぁんだ、そうだったの。てっきり体重の話かと思ったわぁ」<br> <br> 自分が他の娘に比べて、痩せ気味であることくらい承知している。<br> ばかりか、神経過敏とも言えるほど気にしていた。<br> 特に、胸の大きさを――<br> <br>  「まあ、これからの成長に期待ってトコよねぇ」<br>  「……余計なお世話なのだわ」<br> <br> ぐさりと刺さる言葉に、真紅は頬を引きつらせた。<br> いつもならば、首根っこを両手で掴んで、ガクガクと揺さぶってやるところだ。<br> しかし今は、そんな気分になれなかった。<br> <br> 先頭を歩く蒼星石の背中が、重苦しい雰囲気を放っている。<br> とても軽口を叩ける状況ではない。真紅と水銀燈の会話も、直ぐに途切れた。<br> 目の前で姉を失った彼女に、どう声を掛けて、慰めれば良いのだろう。<br> 話すきっかけも見出せないまま、四人は重いを引きずりながら進んだ。<br> <br> それでも、この空気は払拭しなければならない。<br> 真紅は意を決して、蒼星石の背に問い掛けた。<br> <br>  「蒼星石、あと、どのくらいなの?」<br> <br> 振り向いた蒼星石は、あと少しだよ、と明るく応じた。<br> 重苦しい雰囲気を纏いつかせている割に、意外と悲愴感がない。<br> 少しは気分が落ち着いた、と言うところか。<br> ともかく、暫くは様子を見守った方が良いかも知れない。<br> 蒼星石が、短気を起こさないように……。<br> <br>  「そんなに、心配しなくても良いよ。真紅」<br> <br> 真紅の僅かな仕種から、意図を見抜いたのだろう。<br> 蒼星石は、水銀燈に背負われた真紅を見詰めて、屈託のない笑顔を見せた。<br> <br>  「姉さんが護ってくれた命だからね。粗末にしたら、罰が当たるよ」<br>  「そう……。だったら、何も言うことは無いわ」<br> <br> それにね、と蒼星石は続けた。<br> <br>  「ボクには、姉さんが死んだなんて思えないんだ。その辺から、ひょっこり顔を覗かせて、<br>   ビックリしたですか? なんて言うんじゃないか……って。<br>   そんな気がして、ならないんだよ」<br> <br> あはは……と笑う蒼星石の頬に、一粒の雫。<br> <br>  「あれ? おかしいな。泣いたりするつもりは、無かったのに」<br> <br> 指先で頻りに拭うけれど、蒼星石の頬を、ぽろぽろと涙が零れ続けた。<br> <br> こんな時まで、強がらなくてもいいのに。<br> 水銀燈は真紅を降ろし、蒼星石の肩を優しく包み込んだ。<br> <br>  「おばかさぁん。泣きたい時は、思いっきり泣けば良いのよ」<br>  「そのとおりよ、蒼星石。貴女は周囲の眼を気にしすぎるのだわ」<br> <br> <br>  ――普段から、そうやって本音をさらけ出せば良いです。<br>  ――世間体だの周囲の眼だの、気にする事ないです。<br> <br> <br> 水銀燈と真紅の言葉が、別れ際に聞いた翠星石の言葉と重なる。<br> <br>  「みんな、同じ事を言うんだね。<br>   でも、それは裏を返せば、ボクに対する印象が一致しているってコト。<br>   姉さん……ボクはホントに、今まで素直じゃなかったんだね」<br> <br> 蒼星石は、そのから少しの間、水銀燈の胸で泣きじゃくった。<br> <br> <br> <br>  「ゴメン、みんな。なんだか、いろいろと迷惑かけちゃったね」<br> <br> 蒼星石は、ジュンのことも含めて、みんなに話して聞かせた。<br> 湯治場に向かうのも、本当は自分の目的を果たすための口実だったことも。<br> それに対する、みんなの答えは、真紅の一言に集約されていた。<br> <br>  「余計な事は言わないで良いから、早く道案内しなさい」<br> <br> <br> <br> <br> 休めるときに休み、鋭気を養うこと。それもまた、戦士の義務である。<br> 蒼星石に連れられて訪れた湯治場は、小さな庵があるだけの、感じのいい所だった。<br> ここなら、じっくり骨休め出来そうだ。<br> <br> 蒼星石は、率先して庵に向かった。<br> ここに、ジュンが逗留しているかも知れない。<br> その期待を胸に歩いていると、彼女の足音を聞き付けたのか、庵の中から人影が現れた。<br> それは正しく、蒼星石が会いたいと思っていた若き侍――ジュンだった。<br> <br>  「ジュンっ!」<br>  「え!? そ、蒼星石っ!」<br> <br> 言葉と同時に、走り出していた。どんなに、この時を待ち望んでいたことか。<br> 一秒でも早く彼の胸に飛び込んで、抱き締めて欲しかった。<br> <br> けれど、ジュンは蒼星石の元へ駆け寄らなかった。<br> 正確には、走り出す直前、庵の中から伸びた白い腕に、引き留められたのだ。<br> <br>  「どうしたの、ジュン……お客さん?」<br> <br> ジュンを背後から抱き締めた娘は、蒼星石を見て、微かに笑った。蒼星石の足が、止まる。<br> なんなの、その勝ち誇った様な笑みは。二人の視線がぶつかり、一瞬、火花が散った。<br> <br>  「誰なの、キミは?」<br>  「誰、貴女?」<br> <br> 二人が冷ややかな声で詰問したのは、殆ど同時だった。<br> <br> <br>   =<a href="http://www4.atwiki.jp/3edk07nt/pages/50.html">第八章につづく</a>=<br>  </p>

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