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<p> <br> ~第二十八章~<br> <br> <br> 朝餉を終えて、旅支度を調える八犬士と、結菱老人。<br> けれど、向かう先は違った。<br> 真紅たちは、鈴鹿御前の居城へ。そして、老人は自らの住処へと戻る。<br> <br> 穢れの者どもの本拠地に殴り込むに当たって、自分は足手まといになる。<br> 自分が居ることで、愛娘の雛苺や、その姉妹たちに余計な気苦労をかけてしまう。<br> 彼女たちの不利になる事は、是が非でも避けねばならなかった。<br> <br> (領主の命を受けて神社を発つ際、儂は、何としても雛苺を護ると誓った)<br> <br> その誓いを果たすのは、今を置いて他にない。<br> 絶対に負けられない戦いに赴く娘たちへの協力を惜しんでは、名が廃る。<br> 今こそ個々の力を最大限に発揮できる環境を、用意してやらねばならないのだ。<br> <br> 荷物を背負い、結菱老人は少しも蹌踉めくことなく立ち上がった。<br> <br> 「では、儂はそろそろ……。真紅どの。雛苺のこと、よろしく頼みますぞ」<br> 「勿論よ。雛苺は、私たちの大切な姉妹ですもの」<br> 「そうよぉ。今更、頼まれるまでもないわよねぇ」<br> 「ふ……そうであったな」<br> <br> 結菱老人は、涙ぐむ雛苺の頬を両手で挟み込み、ぴしゃりと軽く叩いた。<br> そして、驚いて目を見開いた彼女に、ゆったりとした口調で言い聞かせた。<br> <br> 「みんなに迷惑を掛けるでないぞ、雛苺。きっと、元気に帰ってきなさい」<br> 「……はい、なの。ヒナは、きっと……お父さまの所へ帰るの」<br> 「うむ! 良い子だ。苺大福を山ほど用意して、待っておるからな」 <br> <br> 束の間の別れでしかないのに、寂しさを堪えきれず、雛苺は涙を溢れさせた。<br> 眦から零れた滴が、彼女の頬と、結菱老人の掌を濡らす。<br> そんな彼女に、老人は優しい言葉ではなく、語気鋭い叱責を与えた。<br> <br> 「めそめそと、すぐに泣くでない!」<br> <br> ビクッ……と、雛苺が肩を震わせた。<br> 普段から、結菱老人には怒鳴られる事が少なかったのだろう。<br> 雛苺の表情は、畏怖と言うより、驚愕のそれに近かった。<br> <br> 「よいか、雛苺。お前は、これから一生に二度と経験しないだろう激戦に、<br> 身を投じなければならん。<br> 泣き喚こうが、穢れの者どもは手加減など、してくれないぞ。<br> 涙を流す暇があったら、みんなを護るために戦うのだ。解ったか?」<br> 「は、はい……なの」<br> 「よし。ならば、戦いが終わるまで、涙は封印すること。誓えるな?」<br> <br> 返事の変わりに、雛苺は袖で涙を拭い、健気に頷く。<br> 結菱老人は目元だけを緩ませて、彼女の頭を二、三度と撫でた。<br> そして、無言のまま踵を返すと、ゆっくりと歩き始めた。<br> <br> <br> 一歩ずつ遠ざかる老人の肩が、小刻みに震えていた。<br> これが今生の別れという訳でもないのに、雛苺の胸に、離れがたい想いが募る。<br> 最後に一言だけ、なにか伝えよう。<br> 「さようなら」でも良い。「また、すぐに会えるから」でも良い。<br> <br> けれど、その想いに反して、雛苺の口から声が発せられることはなかった。<br> なぜなら、雛苺は既に、誓いを破ってしまっていたのだから――<br> <br> <br> <br> <br> 結菱老人が去り、八人の間に、じわじわと緊迫した空気が広がり始めていた。<br> いよいよ、狼漸藩に――鈴鹿御前の居城へと攻め込む。<br> たったの八人で、圧倒的な数を誇る穢れの軍団に戦いを挑むのだ。<br> 気持ちが高ぶって、並の精神状態では居られない。<br> 誰もが無言で、得物の手入れや、弾丸の製造、精霊駆使の特訓などをしていた。<br> <br> 一種異様な雰囲気に堪えかねてか、蒼星石は雪華綺晶に話しかけた。<br> <br> 「雪華綺晶……ちょっと、訊いてもいいかい?」<br> <br> いつにも増して、真剣な面持ち。<br> 公私の区別に厳格で、過度の馴れ合いを好まない蒼星石の表情は普段でも硬い。<br> その彼女が、今日は特に、険しい顔をしていた。<br> <br> 「なんでしょうか?」<br> 「えっと……その」<br> 「何を、口ごもってるです? ハッキリ言うですっ!」<br> <br> 直ぐに察しが付いたらしく、翠星石が、煮え切らない態度の蒼星石を叱咤する。<br> 双子の姉に後押しされて、蒼星石は頷くと、何度か深呼吸を繰り返した。<br> 気分が落ち着いたのを見計らって、胸に蟠る思いを口にする。<br> <br> 「めぐに連れ去られた、あの人の事を……訊きたいんだ」<br> <br> 問いかける口調は穏やかに聞こえたものの、語尾が戦慄いていた。<br> 湯治場で気を失っている間に、奪い去られてしまったジュン。<br> 鉄砲で撃たれたと、水銀燈たちは教えてくれた。<br> 彼は、無事なのだろうか? それとも、もう――<br> <br> 「桜田ジュン、の事ですか」<br> <br> 不吉な想像をしがちな蒼星石を前にして、雪華綺晶は少しの間、逡巡した。<br> 蒼星石がジュンに抱いている特別な気持ちは、なんとなく理解できる。<br> きっと、二人は浅からぬ仲だったのだろう……と。<br> <br> そんな彼女に、どこまで真実を伝えたら良いのだろう。<br> 彼――桜田ジュンは、巴の想い人として、鈴鹿御前の元に連れてこられたのだ。<br> 今頃は前世の記憶を取り戻し、木曽義仲として覚醒している筈だ。<br> <br> (まあ、いつまでも隠し仰せるものでもありませんわね)<br> <br> 敵地のド真ん中で、真相を知って茫然自失になられるよりは、<br> 準備期間である今の内に、本当の事を話しておく方が良いだろう。<br> 前もって覚悟をしておけば、土壇場になっても動揺は少なくて済む。<br> <br> 雪華綺晶は蒼星石の瞳を真っ直ぐに睨み付けて、言い聞かせた。<br> <br> 「彼……桜田ジュンは、巴の哀願によって連れ去られたのですわ」<br> 「?! ちょっと待って! いま、巴……って言わなかった?」<br> 「ええ、言いましたわ。貴女……彼女と手合わせしていましたっけね」<br> <br> 突如として聞き憶えのある名前が紡ぎ出されたことで、蒼星石は周章狼狽した。<br> ジュンを巡って、命を奪い合う真剣勝負を繰り広げた巴。<br> 彼女が、穢れの者を使って、ジュンを連れ去ったなんて……。<br> <br> 「ど、どうして……巴が、関係してくるのさ?」<br> 「なぜなら、巴は御前様――鈴鹿御前と身体を共有する者だからですわ」<br> <br> 雪華綺晶の言葉に衝撃を受けたのは、蒼星石だけに留まらない。<br> 二人の決闘に立ち会った、真紅、水銀燈、薔薇水晶もまた、愕然としていた。<br> <br> 「どういうこと? まさか……彼女が、鈴鹿御前だったと言うの?!」<br> 「穢れた感じは、全く無かったわよ。高潔な印象は受けたけどぉ」<br> 「……私も……感じなかった」<br> 「当然でしょう。あの時は、巴の御魂が表に出ていたのですからね」<br> <br> 雪華綺晶の口から発せられた御魂という言葉の響きに、水銀燈がいち早く反応する。<br> <br> 「ひょっとしてぇ、巴は……めぐと、同じなのぉ?」<br> 「あら? 少しは事情を知っているみたいですわね」<br> 「なんの話をしてるです、銀ちゃん?」<br> 「掻い摘んで言うとぉ、房姫の御魂が八つに分かれたみたいに、<br> 鈴鹿御前の御魂もまた、幾つかに分かれたってコトよぉ」<br> 「それが、巴、めぐ……と言うワケなのね」<br> 「キミは何故、その事を知っていたんだい、水銀燈?」<br> 「……実は、みんなの元を飛び出した後……めぐに会ったの。<br> 彼女が鈴鹿御前の御魂を宿している事を、聞かされたわ」<br> <br> 言って、水銀燈は右肩に巻かれた草色の布に触れた。<br> めぐの処置に加えて、金糸雀の治療も受けたため、順調に回復している。<br> 実際、もう布で固定する必要はないけれど、水銀燈は、そのままにしていた。<br> <br> 「……そんな事があったんだね」<br> <br> 敵との馴れ合いを責められるかと思いきや、蒼星石は悲しげに呟いただけだった。<br> ジュンの安否を気にするあまり、他の事は二の次になっているようだ。<br> <br> 「話が逸れてしまいましたわね。彼の、その後ですが――」<br> <br> 雪華綺晶が、再び沈黙を破る。再び、みんなも彼女の話に聞き入った。<br> <br> 「私が出撃した時点では儀式の途中でしたが……今頃はもう、<br> 前世の彼として、復活を果たしている筈ですわ」<br> 「うよ? 前世の彼?」<br> 「桜田ジュンの前世は、征夷大将軍、木曽義仲なのですわ。そして、巴は――」<br> 「巴御前なのね。それで思い出したかしら。<br> 鈴鹿御前と言えば、初代征夷大将軍の坂上田村麻呂を助けたって伝承が、<br> 残されているかしら」<br> 「よく御存知ですね。さすがは【智】の御魂を宿す者ですわ。<br> 鈴鹿御前は歴史に名を残す傾国の美女、妲己の生まれ変わりとも絶賛される、<br> 怖ろしいまでの美貌を持った方です」<br> <br> 雪華綺晶は幼い頃の記憶を辿った。鈴鹿御前は確かに美しく、優しかった。<br> 少しばかり美化されている部分もあろうが、<br> それでも、強く心を惹かれたのは、紛れもない事実だ。<br> 鈴鹿御前は、人心を惹き付けて止まない、妖艶な魅力を内包した女性だった。<br> <br> 「鈴鹿御前は、自らの分身であり依代となってくれた巴への褒美として、<br> 桜田ジュンを木曽義仲として復活させたのではないでしょうか」 <br> 「つまり、元四天王の貴女にも鈴鹿御前の真意は計り知れないけれど、<br> 彼が生きている事は、間違いない……と言うのね?」<br> <br> 真紅の問いに雪華綺晶が力強く頷くのを見て、蒼星石は少しだけ救われた気持ちになった。<br> ジュンが、生きている。それが解っただけでも、希望に胸が躍った。<br> 生きていれば、きっと、また会える。<br> 再び巡り会えれば、必ず彼の……ジュンだった記憶を、取り戻すことが出来る。<br> <br> 闇夜に一筋の光明を見出した蒼星石に、水銀燈は羨望の眼差しを向けた。<br> 彼女には、まだ救いがある。可能性が残されている。<br> 失った時間を取り戻せるかも知れない。<br> <br> ――じゃあ、私の場合は、どうだろう?<br> <br> 鈴鹿御前を斃し、蓄積されてきた怨念を滅すれば、めぐは帰って来るだろうか。<br> また、以前と変わらずに、仲良く暮らしていけるのだろうか。<br> そうであって欲しいと、切に願う。<br> でなければ、不公平だ。<br> <br> <br> 「ちょっと、失礼しますわ」<br> <br> 徐に立ち上がり、外に出て行く雪華綺晶。<br> みんなが黙々と戦いの準備を再開する中、水銀燈は彼女を追い掛けて外に出た。<br> <br> 雪華綺晶は、古刹から少し離れた木に背を預け、腕組みをしていた。<br> 水銀燈の接近を知ると、少しだけ顔を向けて、唇を吊り上げる。<br> まるで、水銀燈が追ってくるのを待っていた様な素振り。<br> 気後れせずに歩み寄った水銀燈に、雪華綺晶は話しかけた。<br> <br> 「めぐについて、私に、なにか訊きたいみたいですわね」<br> 「……察しがいいのねぇ。ちょっと憎たらしいわぁ」<br> <br> 水銀燈も軽く微笑みかける。しかし、すぐに表情を引き結んだ。<br> <br> 「めぐの、今後の予定とか解らなぁい?」<br> <br> その一言で全てを把握したらしく、雪華綺晶は鼻で笑った。<br> 瞼を閉じて、ゆっくりと頚を左右に振る。<br> そして、再び目を開き、水銀燈を真っ直ぐに見据えた。<br> <br> 「……貴女は、めぐと戦いたくないのですね」<br> 「そりゃあ、ね。彼女の命を助けたくて、旅に出たんだものぉ。<br> めぐを救う為に必要な事なら、なんだってする覚悟よ。<br> それなのに、殺し合うしか道が無いなんて、あんまりじゃなぁい?」<br> 「解りますわ……私も同じ気持ちですから。<br> 短い間でしたが、彼女は私の、かけがえのない戦友よ。死なせたくはない」<br> <br> 幼馴染みと――<br> 戦友と――<br> 結びついた縁の形は違えども、大切な存在であることに変わりはない。<br> それが失われると想像しただけで、胸が締め付けられて、苦しくなった。<br> ましてや自らの手で、それを壊さなければならないとしたら……。<br> <br> どれだけ辛いだろう? どれほど悲しいだろう?<br> その時、果たして正気を保っていられるだろうか?<br> <br> 水銀燈は、めぐの穏やかで心安らぐ笑顔を――<br> 雪華綺晶は、めぐの健気で、微かに哀愁の漂う微笑みを――<br> それぞれに思い浮かべて、嘆息した。<br> <br> 「お互い、あの娘とは戦場で出会いたくないわねぇ」<br> 「ええ。避けて通るのは難しいでしょうけど、幸運に期待しましょう」<br> <br> 卑怯者の誹りを受けようとも、めぐの血で、自分達の手を汚したくはなかった。<br> <br> <br> <br> <br> 暗い通路を進む、三つの影。<br> 並んで歩く、のりと、めぐ。二人に少し遅れて、笹塚が続いていた。<br> <br> 「巴ちゃん……幸せそうだったわね」<br> <br> 先程の、ジュン――義仲と、巴の抱擁を思い出して、めぐは破顔した。<br> 蒼星石に敗れて、ジュンと別れなければならなかった巴。<br> 湯治場から走り去る彼女の慟哭を、めぐは聞いていた。<br> 他人事ながら胸が痛んで、ジュンに殺意を覚えたほどだ。<br> だからこそ、巴の切望が叶った事が、とても嬉しかった。<br> <br> 「御前様は本当に、慈愛に満ちた、素晴らしい御方だわ」<br> 「うふふ……そうね。お姉ちゃんも、久々に涙ぐんじゃったわよぅ」<br> 「穢れの者でも、人を想う気持ちは変わらないのね」<br> 「当然よ。但し、関係は似て非なるものだけど」<br> 「と、言うと?」<br> 「同じ想いでも、生者の場合は『愛』で、私たちは『哀』だと言う事よぅ」<br> <br> 人差し指で宙に字を書きながら、のりが説明する。<br> 彼女の言葉の意味が、めぐには解った。<br> <br> 「なるほどね。愛は命を産み、育むけれど……」<br> 「哀は、負の感情しか生み出さない。でも、それが私たちの糧になるわ」<br> <br> 生ける者は新たな命を産み落とし、穢れの者に対抗する。<br> そして穢れの者は、生ける者の想いを惑わし、新たな糧を得る。<br> 命の連鎖とは、運命と言う名の天秤を、釣り合わせるだけのものなのだろうか。<br> <br> 少しだけ気が重くなった二人の背後で、笹塚はいきなり踵を返した。<br> <br> 「? 何処へ行くの、笹塚?」<br> 「いやぁ、ちょっと祭壇に重要な物を、置き忘れちゃってさぁ」<br> 「野暮な男ね! いま行ったら、巴ちゃんとジュンくんの邪魔になるでしょぅ」<br> 「けど、僕も御前様のご指示で動いているからね。巴も納得してくれるよ。<br> なぁに、サッと済ませて引き返すさ」<br> <br> 不平を並べ立てる彼女たちに言い捨てて、笹塚はそそくさと引き返した。<br> 充分に離れたところで、くくっ……と嘲笑を浮かべる。<br> <br> 「暢気なもんだよね、まったくさぁ」<br> <br> あの二人は、ちっとも気付いていない。<br> 本当の儀式は、まだ終わっていないって事に。<br> <br> 儀式の間に近付くにつれて、密やかな声が聞こえてくる。<br> 啜り泣きと、嬌声――<br> 巴と義仲は、分かたれていた時間と孤独を埋めようとするかのごとく、<br> 肌を重ね、ひとつに解け合っていた。<br> <br> 全ての役者は、筋書き通りに劇を演じてくれている。<br> ほくそ笑む笹塚の脳裏に、声が届いた。<br> <br> ――巴の純潔……破瓜の血は取り込んだ。……が、まだ足りぬ。<br> より多くの負の感情を捧げよ。憎悪、悲嘆、哀惜……あらゆるモノを。<br> <br> 笹塚は「御意」と会釈して、その場を後にした。<br> <br> <br> =<a href="http://www4.atwiki.jp/3edk07nt/pages/72.html">第二十九章につづく</a>=<br></p>
<p> <br>   ~第二十八章~<br> <br> <br> 朝餉を終えて、旅支度を調える八犬士と、結菱老人。<br> けれど、向かう先は違った。<br> 真紅たちは、鈴鹿御前の居城へ。そして、老人は自らの住処へと戻る。<br> <br> 穢れの者どもの本拠地に殴り込むに当たって、自分は足手まといになる。<br> 自分が居ることで、愛娘の雛苺や、その姉妹たちに余計な気苦労をかけてしまう。<br> 彼女たちの不利になる事は、是が非でも避けねばならなかった。<br> <br>  (領主の命を受けて神社を発つ際、儂は、何としても雛苺を護ると誓った)<br> <br> その誓いを果たすのは、今を置いて他にない。<br> 絶対に負けられない戦いに赴く娘たちへの協力を惜しんでは、名が廃る。<br> 今こそ個々の力を最大限に発揮できる環境を、用意してやらねばならないのだ。<br> <br> 荷物を背負い、結菱老人は少しも蹌踉めくことなく立ち上がった。<br> <br>  「では、儂はそろそろ……。真紅どの。雛苺のこと、よろしく頼みますぞ」<br>  「勿論よ。雛苺は、私たちの大切な姉妹ですもの」<br>  「そうよぉ。今更、頼まれるまでもないわよねぇ」<br>  「ふ……そうであったな」<br> <br> 結菱老人は、涙ぐむ雛苺の頬を両手で挟み込み、ぴしゃりと軽く叩いた。<br> そして、驚いて目を見開いた彼女に、ゆったりとした口調で言い聞かせた。<br> <br>  「みんなに迷惑を掛けるでないぞ、雛苺。きっと、元気に帰ってきなさい」<br>  「……はい、なの。ヒナは、きっと……お父さまの所へ帰るの」<br>  「うむ! 良い子だ。苺大福を山ほど用意して、待っておるからな」 <br> <br> 束の間の別れでしかないのに、寂しさを堪えきれず、雛苺は涙を溢れさせた。<br> 眦から零れた滴が、彼女の頬と、結菱老人の掌を濡らす。<br> そんな彼女に、老人は優しい言葉ではなく、語気鋭い叱責を与えた。<br> <br>  「めそめそと、すぐに泣くでない!」<br> <br> ビクッ……と、雛苺が肩を震わせた。<br> 普段から、結菱老人には怒鳴られる事が少なかったのだろう。<br> 雛苺の表情は、畏怖と言うより、驚愕のそれに近かった。<br> <br>  「よいか、雛苺。お前は、これから一生に二度と経験しないだろう激戦に、<br>   身を投じなければならん。<br>   泣き喚こうが、穢れの者どもは手加減など、してくれないぞ。<br>   涙を流す暇があったら、みんなを護るために戦うのだ。解ったか?」<br>  「は、はい……なの」<br>  「よし。ならば、戦いが終わるまで、涙は封印すること。誓えるな?」<br> <br> 返事の変わりに、雛苺は袖で涙を拭い、健気に頷く。<br> 結菱老人は目元だけを緩ませて、彼女の頭を二、三度と撫でた。<br> そして、無言のまま踵を返すと、ゆっくりと歩き始めた。<br> <br> <br> 一歩ずつ遠ざかる老人の肩が、小刻みに震えていた。<br> これが今生の別れという訳でもないのに、雛苺の胸に、離れがたい想いが募る。<br> 最後に一言だけ、なにか伝えよう。<br> 「さようなら」でも良い。「また、すぐに会えるから」でも良い。<br> <br> けれど、その想いに反して、雛苺の口から声が発せられることはなかった。<br> なぜなら、雛苺は既に、誓いを破ってしまっていたのだから――<br> <br> <br> <br> <br> 結菱老人が去り、八人の間に、じわじわと緊迫した空気が広がり始めていた。<br> いよいよ、狼漸藩に――鈴鹿御前の居城へと攻め込む。<br> たったの八人で、圧倒的な数を誇る穢れの軍団に戦いを挑むのだ。<br> 気持ちが高ぶって、並の精神状態では居られない。<br> 誰もが無言で、得物の手入れや、弾丸の製造、精霊駆使の特訓などをしていた。<br> <br> 一種異様な雰囲気に堪えかねてか、蒼星石は雪華綺晶に話しかけた。<br> <br>  「雪華綺晶……ちょっと、訊いてもいいかい?」<br> <br> いつにも増して、真剣な面持ち。<br> 公私の区別に厳格で、過度の馴れ合いを好まない蒼星石の表情は普段でも硬い。<br> その彼女が、今日は特に、険しい顔をしていた。<br> <br>  「なんでしょうか?」<br>  「えっと……その」<br>  「何を、口ごもってるです? ハッキリ言うですっ!」<br> <br> 直ぐに察しがついたらしく、翠星石が、煮え切らない態度の蒼星石を叱咤する。<br> 双子の姉に後押しされて、蒼星石は頷くと、何度か深呼吸を繰り返した。<br> 気分が落ち着いたのを見計らって、胸に蟠る思いを口にする。<br> <br>  「めぐに連れ去られた、あの人の事を……訊きたいんだ」<br> <br> 問いかける口調は穏やかに聞こえたものの、語尾が戦慄いていた。<br> 湯治場で気を失っている間に、奪い去られてしまったジュン。<br> 鉄砲で撃たれたと、水銀燈たちは教えてくれた。<br> 彼は、無事なのだろうか? それとも、もう――<br> <br>  「桜田ジュン、の事ですか」<br> <br> 不吉な想像をしがちな蒼星石を前にして、雪華綺晶は少しの間、逡巡した。<br> 蒼星石がジュンに抱いている特別な気持ちは、なんとなく理解できる。<br> きっと、二人は浅からぬ仲だったのだろう……と。<br> <br> そんな彼女に、どこまで真実を伝えたら良いのだろう。<br> 彼――桜田ジュンは、巴の想い人として、鈴鹿御前の元に連れてこられたのだ。<br> 今頃は前世の記憶を取り戻し、木曽義仲として覚醒している筈だ。<br> <br>  (まあ、いつまでも隠し仰せるものでもありませんわね)<br> <br> 敵地のド真ん中で、真相を知って茫然自失になられるよりは、<br> 準備期間である今の内に、本当の事を話しておく方が良いだろう。<br> 前もって覚悟をしておけば、土壇場になっても動揺は少なくて済む。<br> <br> 雪華綺晶は蒼星石の瞳を真っ直ぐに睨みつけて、言い聞かせた。<br> <br>  「彼……桜田ジュンは、巴の哀願によって連れ去られたのですわ」<br>  「?! ちょっと待って! いま、巴……って言わなかった?」<br>  「ええ、言いましたわ。貴女……彼女と手合わせしていましたっけね」<br> <br> 突如として聞き憶えのある名前が紡ぎ出されたことで、蒼星石は周章狼狽した。<br> ジュンを巡って、命を奪い合う真剣勝負を繰り広げた巴。<br> 彼女が、穢れの者を使って、ジュンを連れ去ったなんて……。<br> <br>  「ど、どうして……巴が、関係してくるのさ?」<br>  「なぜなら、巴は御前様――鈴鹿御前と身体を共有する者だからですわ」<br> <br> 雪華綺晶の言葉に衝撃を受けたのは、蒼星石だけに留まらない。<br> 二人の決闘に立ち会った、真紅、水銀燈、薔薇水晶もまた、愕然としていた。<br> <br>  「どういうこと? まさか……彼女が、鈴鹿御前だったと言うの?!」<br>  「穢れた感じは、全く無かったわよ。高潔な印象は受けたけどぉ」<br>  「……私も……感じなかった」<br>  「当然でしょう。あの時は、巴の御魂が表に出ていたのですからね」<br> <br> 雪華綺晶の口から発せられた御魂という言葉の響きに、水銀燈がいち早く反応する。<br> <br>  「ひょっとしてぇ、巴は……めぐと、同じなのぉ?」<br>  「あら? 少しは事情を知っているみたいですわね」<br>  「なんの話をしてるです、銀ちゃん?」<br>  「掻い摘んで言うとぉ、房姫の御魂が八つに分かれたみたいに、<br>   鈴鹿御前の御魂もまた、幾つかに分かれたってコトよぉ」<br>  「それが、巴、めぐ……と言うワケなのね」<br>  「キミは何故、その事を知っていたんだい、水銀燈?」<br>  「……実は、みんなの元を飛び出した後……めぐに会ったの。<br>   彼女が鈴鹿御前の御魂を宿している事を、聞かされたわ」<br> <br> 言って、水銀燈は右肩に巻かれた草色の布に触れた。<br> めぐの処置に加えて、金糸雀の治療も受けたため、順調に回復している。<br> 実際、もう布で固定する必要はないけれど、水銀燈は、そのままにしていた。<br> <br>  「……そんな事があったんだね」<br> <br> 敵との馴れ合いを責められるかと思いきや、蒼星石は悲しげに呟いただけだった。<br> ジュンの安否を気にするあまり、他の事は二の次になっているようだ。<br> <br>  「話が逸れてしまいましたわね。彼の、その後ですが――」<br> <br> 雪華綺晶が、再び沈黙を破る。再び、みんなも彼女の話に聞き入った。<br> <br>  「私が出撃した時点では儀式の途中でしたが……今頃はもう、<br>   前世の彼として、復活を果たしている筈ですわ」<br>  「うよ? 前世の彼?」<br>  「桜田ジュンの前世は、征夷大将軍、木曽義仲なのですわ。そして、巴は――」<br>  「巴御前なのね。それで思い出したかしら。<br>   鈴鹿御前と言えば、初代征夷大将軍の坂上田村麻呂を助けたって伝承が、<br>   残されているかしら」<br>  「よく御存知ですね。さすがは【智】の御魂を宿す者ですわ。<br>   鈴鹿御前は歴史に名を残す傾国の美女、妲己の生まれ変わりとも絶賛される、<br>   怖ろしいまでの美貌を持った方です」<br> <br> 雪華綺晶は幼い頃の記憶を辿った。鈴鹿御前は確かに美しく、優しかった。<br> 少しばかり美化されている部分もあろうが、<br> それでも、強く心を惹かれたのは、紛れもない事実だ。<br> 鈴鹿御前は、人心を惹きつけて止まない、妖艶な魅力を内包した女性だった。<br> <br>  「鈴鹿御前は、自らの分身であり依代となってくれた巴への褒美として、<br>   桜田ジュンを木曽義仲として復活させたのではないでしょうか」 <br>  「つまり、元四天王の貴女にも鈴鹿御前の真意は計り知れないけれど、<br>   彼が生きている事は、間違いない……と言うのね?」<br> <br> 真紅の問いに雪華綺晶が力強く頷くのを見て、蒼星石は少しだけ救われた気持ちになった。<br> ジュンが、生きている。それが解っただけでも、希望に胸が躍った。<br> 生きていれば、きっと、また会える。<br> 再び巡り会えれば、必ず彼の……ジュンだった記憶を、取り戻すことが出来る。<br> <br> 闇夜に一筋の光明を見出した蒼星石に、水銀燈は羨望の眼差しを向けた。<br> 彼女には、まだ救いがある。可能性が残されている。<br> 失った時間を取り戻せるかも知れない。<br> <br> ――じゃあ、私の場合は、どうだろう?<br> <br> 鈴鹿御前を斃し、蓄積されてきた怨念を滅すれば、めぐは帰って来るだろうか。<br> また、以前と変わらずに、仲良く暮らしていけるのだろうか。<br> そうであって欲しいと、切に願う。<br> でなければ、不公平だ。<br> <br> <br>  「ちょっと、失礼しますわ」<br> <br> 徐に立ち上がり、外に出て行く雪華綺晶。<br> みんなが黙々と戦いの準備を再開する中、水銀燈は彼女を追い掛けて外に出た。<br> <br> 雪華綺晶は、古刹から少し離れた木に背を預け、腕組みをしていた。<br> 水銀燈の接近を知ると、少しだけ顔を向けて、唇を吊り上げる。<br> まるで、水銀燈が追ってくるのを待っていた様な素振り。<br> 気後れせずに歩み寄った水銀燈に、雪華綺晶は話しかけた。<br> <br>  「めぐについて、私に、なにか訊きたいみたいですわね」<br>  「……察しがいいのねぇ。ちょっと憎たらしいわぁ」<br> <br> 水銀燈も軽く微笑みかける。しかし、すぐに表情を引き結んだ。<br> <br>  「めぐの、今後の予定とか解らなぁい?」<br> <br> その一言で全てを把握したらしく、雪華綺晶は鼻で笑った。<br> 瞼を閉じて、ゆっくりと頚を左右に振る。<br> そして、再び目を開き、水銀燈を真っ直ぐに見据えた。<br> <br>  「……貴女は、めぐと戦いたくないのですね」<br>  「そりゃあ、ね。彼女の命を助けたくて、旅に出たんだものぉ。<br>   めぐを救う為に必要な事なら、なんだってする覚悟よ。<br>   それなのに、殺し合うしか道が無いなんて、あんまりじゃなぁい?」<br>  「解りますわ……私も同じ気持ちですから。<br>   短い間でしたが、彼女は私の、かけがえのない戦友よ。死なせたくはない」<br> <br> 幼馴染みと――<br> 戦友と――<br> 結びついた縁の形は違えども、大切な存在であることに変わりはない。<br> それが失われると想像しただけで、胸が締め付けられて、苦しくなった。<br> ましてや自らの手で、それを壊さなければならないとしたら……。<br> <br> どれだけ辛いだろう? どれほど悲しいだろう?<br> その時、果たして正気を保っていられるだろうか?<br> <br> 水銀燈は、めぐの穏やかで心安らぐ笑顔を――<br> 雪華綺晶は、めぐの健気で、微かに哀愁の漂う微笑みを――<br> それぞれに思い浮かべて、嘆息した。<br> <br>  「お互い、あの娘とは戦場で出会いたくないわねぇ」<br>  「ええ。避けて通るのは難しいでしょうけど、幸運に期待しましょう」<br> <br> 卑怯者の誹りを受けようとも、めぐの血で、自分達の手を汚したくはなかった。<br> <br> <br> <br> <br> 暗い通路を進む、三つの影。<br> 並んで歩く、のりと、めぐ。二人に少し遅れて、笹塚が続いていた。<br> <br>  「巴ちゃん……幸せそうだったわね」<br> <br> 先程の、ジュン――義仲と、巴の抱擁を思い出して、めぐは破顔した。<br> 蒼星石に敗れて、ジュンと別れなければならなかった巴。<br> 湯治場から走り去る彼女の慟哭を、めぐは聞いていた。<br> 他人事ながら胸が痛んで、ジュンに殺意を覚えたほどだ。<br> だからこそ、巴の切望が叶った事が、とても嬉しかった。<br> <br>  「御前様は本当に、慈愛に満ちた、素晴らしい御方だわ」<br>  「うふふ……そうね。お姉ちゃんも、久々に涙ぐんじゃったわよぅ」<br>  「穢れの者でも、人を想う気持ちは変わらないのね」<br>  「当然よ。但し、関係は似て非なるものだけど」<br>  「と、言うと?」<br>  「同じ想いでも、生者の場合は『愛』で、私たちは『哀』だと言う事よぅ」<br> <br> 人差し指で宙に字を書きながら、のりが説明する。<br> 彼女の言葉の意味が、めぐには解った。<br> <br>  「なるほどね。愛は命を産み、育むけれど……」<br>  「哀は、負の感情しか生み出さない。でも、それが私たちの糧になるわ」<br> <br> 生ける者は新たな命を産み落とし、穢れの者に対抗する。<br> そして穢れの者は、生ける者の想いを惑わし、新たな糧を得る。<br> 命の連鎖とは、運命と言う名の天秤を、釣り合わせるだけのものなのだろうか。<br> <br> 少しだけ気が重くなった二人の背後で、笹塚はいきなり踵を返した。<br> <br>  「? 何処へ行くの、笹塚?」<br>  「いやぁ、ちょっと祭壇に重要な物を、置き忘れちゃってさぁ」<br>  「野暮な男ね! いま行ったら、巴ちゃんとジュンくんの邪魔になるでしょぅ」<br>  「けど、僕も御前様のご指示で動いているからね。巴も納得してくれるよ。<br>   なぁに、サッと済ませて引き返すさ」<br> <br> 不平を並べ立てる彼女たちに言い捨てて、笹塚はそそくさと引き返した。<br> 充分に離れたところで、くくっ……と嘲笑を浮かべる。<br> <br>  「暢気なもんだよね、まったくさぁ」<br> <br> あの二人は、ちっとも気づいていない。<br> 本当の儀式は、まだ終わっていないって事に。<br> <br> 儀式の間に近づくにつれて、密やかな声が聞こえてくる。<br> 啜り泣きと、嬌声――<br> 巴と義仲は、分かたれていた時間と孤独を埋めようとするかのごとく、<br> 肌を重ね、ひとつに解け合っていた。<br> <br> 全ての役者は、筋書き通りに劇を演じてくれている。<br> ほくそ笑む笹塚の脳裏に、声が届いた。<br> <br> ――巴の純潔……破瓜の血は取り込んだ。……が、まだ足りぬ。<br> より多くの負の感情を捧げよ。憎悪、悲嘆、哀惜……あらゆるモノを。<br> <br> 笹塚は「御意」と会釈して、その場を後にした。<br> <br> <br>   =<a href="http://www4.atwiki.jp/3edk07nt/pages/72.html">第二十九章につづく</a>=<br>  </p>

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