レースのカーテンを擦り抜けてきた朝日に頬を撫でられ、彼は目を覚ます。
スプリングの効いたベッドの中で、可能な限り、小さく身を捩る。
あまりゴソゴソと動いては、いけない。
なぜならば、それが毎朝の約束事なのだから。
そぉ……っと、ベッドランプの下に腕を伸ばす。
手探りで求めるのは、この間、新調したばかりのメガネ。
程なく、冷たい金属のフレームに指が触れた。
再び、静かに手繰り寄せたソレを耳に掛けて、首を僅かに傾けると――
そこには、いつもどおり、愛しい人の寝顔があった。
彼は、三度、吐息する。
ひとつは、起き抜けの小さな欠伸。
ふたつめは、今朝も隣に彼女が居てくれたことへの安堵。
そして、みっつめは――
「おはよう……今日も素敵だよ」
彼女の寝顔の美しさに魅せられた、感嘆の溜息だった。
『褪めた恋より 熱い恋』
柔らかな朝日の中で、彼女は幸せそうに微睡んでいる。
メガネを外した素顔は、いつもながら息を呑む可愛らしさだ。
昔のアニメソングではないが、彼女の目元を飾るそばかすだって、彼のお気に入り。
普段は結い上げているストレートの黒髪も、今は解かれ、彼女の背中へと流れていた。
まだ充分に瑞々しい肌の一点……
胸元には、昨夜、彼が付けた愛のあかしが、幾つもアザとなって残っている。
彼は時計を一瞥して、彼女の肩に触れて、そっ……と揺り起こした。
「んっ…………あ、ジュンジュン……おはよ~」
「おはよう」
ねぼけ眼を、こすりこすり。
欠伸を堪えながら、草笛みつはムニャムニャと挨拶して、また眠ろうとする。
彼――桜田ジュンは、そんな彼女に優しい眼差しと苦笑を向けて、肩を竦めた。
毎朝の事ながら、彼女は寝起きが悪い。
週末ならば、そのまま眠らせてあげるのだが、今日は平日。
だから、ジュンはいつもどおりに、彼女を叩き起こす。
滑らかな頬を両手で包み込んでの、フレンチキス。
これで彼女が起きなかったことは、一度としてない。
今朝も例外なく、みつはパッチリと目を覚ましてくれた。
二人が同棲を始めてから、早くも半年が過ぎていた。
高校を卒業した彼と、念願かなって自分の店を開いた彼女。
丁度いい契機とばかりに、よく考え、話し合って決めたことだった。
以来、ジュンは彼女のマンションで家政夫のような生活を送る傍ら、
服飾のデザインを独自に研究して、愛する彼女をバックアップしている。
みつが店に行っている日中は独りきりだが、その程度の孤独は、
引きこもり時代で慣れている。
実際、ジュンは寂しさよりも、みつの為に尽くせる喜びを強く感じていた。
朝食は、簡単なシリアル。
向かい合って、雑談を交わしながら食事するのが、いつものスタイルだ。
ジュンは、彼女の服装に目を留めて、わざとらしく首を傾げた。
「今日は、10月にしてはあったかいのに、タートルネックのセーターなんだな」
「…………バカ」
みつは耳たぶまで真っ赤に染めて、もじもじと肩を竦めた。
メガネの奥のつぶらな瞳には、咎めるような色が、ありありと浮かんでいる。
「普通の服じゃあ、首筋の……が見えちゃうんだってば」
玄関で出勤する彼女を見送った後、ジュンは家事を始める。
変遷の中の不変……全ては、いつもどおり。
何かもが巧くいっていた。まさしく順風満帆。
『人間万事、塞翁が馬』というけれど、今の彼らにとっては、
遠い外国の他人事みたいに思えていた。不幸など無関係だ、と。
仮に、ちょっとの不幸に見舞われたところで、二人なら乗り越えられる。
そして、ずっと、このまま満ち足りた生活が続いていくのだと信じていた。
――年が明けて、いろいろ落ち着いたらさ……籍、入れないか?
昨夜、夕食を終えて、くつろいでいる時、ジュンは切り出した。
今までだって新婚生活みたいなものだったし、あまり気にはしていなかったのだが、
姉、桜田のりに「ちゃんとしなきゃダメよぅ!」と叱られたのだ。
便宜上。ジュンにしてみれば、その程度だった。
籍を入れようが入れまいが、みつと一緒に居られれば幸せだったのだから。
けれど、それが男女の考え方の相違というものらしい。
ジュンの言葉を聞いた彼女は、優に五分は呆然としていた。
そして、いきなり泣き出してしまった。
みつの嗚咽を聞いていたら、何故かジュンの胸も熱くなって……
気付けば、彼女の肩を抱き寄せて、彼も涙していた。
(幸せすぎて泣けるってこと、あるんだなぁ)
カーペットに掃除機をかけつつ、昨夜のことを思い返す。
嬉しくて、幸せすぎて、床に就いても眠れなかった。
愛し合い、疲れ切って眠ったのは、午前五時くらいではなかったか。
思い出すと、つい頬が緩む。しかし、それはすぐに引き締められた。
こんなに全てが順調で、いいんだろうか?
その内に、幸福の代償を請求されはしないか?
今まで、こんなにも幸せを感じた試しがなかったジュンは、
巧くいきすぎることが却って不安だった。
ある日、突然に、この生活が破綻してしまうことを、何より恐れていた。
「……バカだな、僕は。そんな映画みたいなコト、滅多に起きるわけないだろ」
独りごちて、掃除機のスイッチを切った。
これで、家事はあらかた終わり。洗濯は少ないから、明日にでも纏めてやればいい。
ジュンは自室兼作業場に入って、スケッチブックを手に取った。
閃くままに走り書きした数々のアイディアは、その殆どが具現されている。
さながら、予言書といったところか。
ページを捲る指が、真っ白な紙面を引き当てて、止まる。奇しくも最終ページだった。
(今は、彼女のためにドレスを創ろう。
この不安を焼き尽くすほどの、熱い想いを込めて)
ジュンは一心不乱に、スケッチブックにペンを走らせ始めた。
一時間ほどデザインを考えていたが、どれもイマイチで、しっくりこない。
描けば描くほど、マンネリに見えて苛立ちが募った。
どれもこれも、既視感ばかりが目立ってしまう。
「あー……ダメだ。ちょっと休憩するか」
睡眠不足による為か、それとも気負い過ぎなのか。
とんと素晴らしいアイディアが湧いてこない。
こう言うときは、気分転換が1番の妙薬だ。
「ひと眠りしてもいいけど……シリアルとか、いろいろ切らしてたよな。
散歩がてら、近くのコンビニでも行ってくるか」
小腹も空いたし、ついでに菓子パンと、栄養ドリンクでも買ってこよう。
ジュンは外出着に着替えて、玄関に向かった。
ドアノブを回して、きちんと施錠されているのを確かめ、エレベータまで歩を進める。
午前10時過ぎ。
この時間、大概の家庭では夫や子供を送り出して、主婦が家事に勤しんでいる頃だ。
ドアが並ぶ通路に、擦れ違う者は居ない。
秋の陽気の下、遠くからゴミ収集車の暢気なメロディが聞こえてくる。
体育祭シーズンも過ぎたし、この分だと年末なんて、あっと言う間だろう。
そんな取り留めないことを考えている内に、エレベータに辿り着いた。
しかし、その扉はピッタリと閉ざされ、貼り紙がしてある。
「定期点検中? しまった、今日だったか」
みつの部屋にも、エレベータの点検作業を報せる紙片が投函されていた。
それは、ジュンも目にしていたし、承知しているつもりだった。
けれども、あくせくと時間に追われない生活を送っている彼は、
規則正しく暮らしている人たちに比べて、曜日や日付の感覚がルーズになっている。
ゴミ出しの曜日を間違えることも、しばしばだった。
とにかく、ここで文句を呟いていたところで、定期点検が早く終わるワケでもない。
ジュンは動かないエレベータの前を離れ、階段まで歩くことにした。
前方から歩いてくる人影が目に映ったのは、その時だった。
向こうも彼に気付いたらしく、あ……と微かな声をあげて、口元に手を翳した。
「……よ……よお」
「あ……えと…………おはよう、かしら」
ジュンのぎこちない挨拶に答えるのは、同じ階の住人にして、高校時代の級友。
彼の下駄箱に、ラブレターを投函したこともある娘だった。
あの頃の自分は、精神的に幼かったと、ジュンは思う。
疎ましく思うあまり、彼女の想いを拒絶することに、罪悪感など抱かなかった。
みつと過ごしてきた時間が、ジュンを良い方に変えてくれたのだろう。
恋愛の対象とは見なしていないのは、今も変わらないけれど、
以前のように、目の前に佇んでいる娘を否定するつもりは無かった。
「こんな時間に逢うなんて、珍しいな。寝坊したのか、金糸雀」
「なっ! 違うかしら。今日は講義が無いから、二度寝してただけかしら」
「二度寝と寝坊って、違うものなのか?」
「似て非なるものかしら。トカゲとイモリみたいなものかしら」
「例えがミョーだけど……ま、いいや。僕はコンビニ行くから……じゃ、またな」
「ええ、また――」と、いかにも名残惜しそうに、金糸雀は寂しげに目を伏せる。
そんな彼女の脇を、ジュンは大きな欠伸をしながら擦り抜けて、階段を目指した。
今日は、いつになく眠気が強い。やはり、早めに買い物を済ませ、仮眠しよう。
ドレスのデザインは、納得がいくまで、じっくり仕上げればいいのだ。
そう思った直後、ジュンは突如、急激な墜落感に襲われて、思案を中断した。
世界が目まぐるしく回り、腕と言わず足と言わず、身体中に激痛が走る。
そして、トドメと言わんばかりに、ジュンの後頭部が強打された。
自分の身に起きた事を理解しようと目を見開くが、視界が霞んで何も判らない。
徐々に暗転してゆく視界に、黒い人影が駆け込んできた。
「ジュンっ! しっかりするかしら、ジュンっ! いま救急車を――」
懸命に呼びかける金糸雀の声も、ジュンの遠退く意識を引き戻すことは出来なかった。
中編につづく