店の定休日を翌日に控えた夕方、みつがジュンの集中治療室を訪れた。
宿泊の許可を得たらしい。結構な荷物を持参している。

「今日は久しぶりに、ずっと一緒だね、ジュンジュン」

陽気に軽口を叩いて、少女のように屈託なく笑う彼女を見ていると、
ジュンの心は幸福感よりも、罪悪感で満たされていった。
気苦労の欠片も表さず、献身的に世話を続ける姿は、彼に苦痛しかもたらさない。
惨めだ、と思う。何もかも、みつに頼り切りの自分が。
そして、そんな無力な自分を見られるのが、筆舌に尽くしがたいほど恥ずかしかった。


――もう、来ないでくれ。

一言だけでも伝えたい。
いっそ、胸に積もり積もった憂鬱を声にできたら、どれほど気楽だろう。

「この間、ジュンジュンにデザインを頼みたいってお客さんが、お店に来たの。
 最近、めきめきと知名度あがってるんだよー」

我が事のように、嬉しそうに語る。
ジュンの話をする時、みつはいつも幸せそうだった。
こんな状態になった今でも、それは変わらない。

何故なんだ? ジュンには、彼女の心境が理解できなかった。
知名度が上がろうと、客から依頼があろうと、彼には何もできない。
家や店に居たって邪魔なだけ。招き猫でも置いた方が、よほど店の看板になる。
つまりは、ただのガラクタ野郎なのだ。
こんな足手まといのジャンクなんか、さっさと見限ってしまえばいいのに。
何を好き好んで、この人は苦労を背負い込むのだろう。
意志の疎通もままならない二人を残して、時間は滔々と流れゆく。



午後になって、のりが病室に顔を覗かせた。みつと同様、姉も毎日、彼の元を訪れる。
普段どおりの、どこか間の抜けているような、朗らかな笑顔。
のりが振りまく雰囲気は、病室の重く沈んだ気配を和ませてくれる。

「あらぁ……草笛さん、お疲れみたい」

彼女は、みつが欠伸を堪えて目をショボショボさせている様子を見て、
心配そうに表情を曇らせた。
ハッと我に返り、みつが「平気よ、これくらい」と気丈に微笑む。
けれど、のりは不安げな顔を崩さなかった。

「ダメよぅ、無茶したら。あなたまで病気になったら、どうするの?
 ジュン君だって、きっと悲しむわ。ここは私に任せて……仮眠してきて。ね?」
「…………ええ。それじゃあ、お言葉に甘えるわ。ちょっとの間、お願い。
 ロビーに居るから、何かあったら遠慮なく呼んでね」

のりの細やかな配慮に感謝の意を示して、みつは財布だけを手に、病室から出て行った。

扉が閉ざされ、足音が充分に遠ざかると、のりは微笑みを貼り付かせたまま、
ジュンのベッド脇に置かれた椅子に座った。
そして、慈愛に満ちた眼差しで、無表情の彼の顔を、穴が空くほど見つめる。
優に五分は、そうしていただろうか。
徐に、のりの唇が動き出した。

「ねえ……ジュン君は今、幸せ?」

幸せなもんか! ふざけたこと言うな、お茶漬けのり!
お見舞いに来てくれた人に対して、とんでもなく無礼だと承知しつつも、
ジュンは胸裏で毒突かずにはいられなかった。
彼の心境を知ってか知らずか、のりは小さく吐息して、言葉を続ける――


「そんなワケないわよねぇ。だって……何も、出来ないんだもの。
 お姉ちゃんね、ジュン君の身体を元どおりに戻せるなら、何でもしてあげたい。
 そう思って、ずぅっと頑張ってきたの」

姉の朗らかな笑顔に、ふぅ……っと、悲しげな影が差した。

「……でもね、もうダメなの。ごめんね、ジュン君。
 お姉ちゃん……もう疲れちゃった。ジュン君の姿を見ているのが、辛いのよぅ」

寂しそうな呟きを放つのは、思い詰めた表情の、のり。
ジュンはいまだ嘗て、そこまで悲壮に満ちた姉の顔を、見たことがなかった。

「ジュン君も……楽になりたいでしょ?
 これ以上、苦しむのはイヤでしょ? だから……ね」

おずおずと差し伸べられる姉の両手が、ジュンの肌に触れる。
秋の風で冷やされた指が、ジュンの首に絡み付いてくる。
そして――


「お姉ちゃんが、ジュン君の望みを……叶えてあげるから」

肩で荒い呼吸を繰り返す姉の両手に、じわじわと力が込められた。
気道と頸動脈が圧迫されて、苦しさが増していく。
けれど、ジュンは何故か、嬉しかった。
自分の本音を理解してくれた姉に、心から感謝していた。

うれしい! 嬉しい!
やっと楽になれる。苦痛でしかない毎日から、解放してもらえる。


(……ありがとう、姉ちゃん。
 これで、僕は望みどおり死ねる。もう、誰にも迷惑かけずに済むんだ)

望みが叶うというのは、こんなにも幸せなことなんだな。
ジュンは、段々と薄れゆく意識の中で、漠然と思った。

のりの両手から、力が抜けることはなかった。
衝動的な行為ではなく、散々に悩み、葛藤した末の決断だから躊躇がない。
ジュンとしても、それは望むところ。
中途半端に絞められる方が、死を迎えるまで、苦しみが長続きしてしまう。


「ごめんね……ジュン君。ごめ……んね、ごめんね……」

のりの声は、震えていた。
顔に合わない大きさの丸メガネの奥で、つぶらな瞳が絶え間なく涙を溢れさせている。
譫言のように謝り続けながら、眼は真っ直ぐに、弟の最後を見届けようとしていた。

そんな健気な姉に、ジュンは心の中で呟く。恨みっこないだろ、と。
子供の頃から、のりは甲斐甲斐しく面倒を見てくれた。
引きこもっていた時ですら、決して諦めずに、根気よく見守ってくれた。
そして今も、ジュンの願いを見抜き、叶えようとしてくれている。

――伝えたい。今まで言葉にしてこなかった、この気持ちを。

鬱血で顔が破裂しそうだったが、ジュンは姉に向けて、瞬きをした。
まだ、自分の意志で動かせる瞼で、ありったけの感情を表現した。
正しく通じるかなんて解らないけれど、どうしても――伝えたかったから。

ぱちぱちと、一定間隔で、五回のまばたき。
『ア  リ  ガ  ト  ウ』の想いを込めた、ラストレター。


  後編につづく

最終更新:2007年02月21日 23:01