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(姉ちゃん、気付いたかな。いや……気付くわけないか。昔っからニブいもんな)

もしも笑えたなら、ジュンは声をあげて笑っただろう。
首を絞められて、声が出なくとも、満面に笑顔を湛えただろう。
だが、そう出来なくても、彼は満足だった。
この魂の器を捨てることで姉や、みつ、金糸雀を辛苦の縛鎖から解き放ち、自分も楽になれる。
なぁんだ、良いことずくめじゃないか……と。

(あれ? なんだか……楽になってきた。あと……十秒も保たないな)

命のカウントダウンを始めたジュンの脳裏に、みつの微笑みが過ぎる。
とても、とても、幸せそうに笑っている――
念願の店を開いた時だったか、あれは。


  自分だけの宇宙を創る


それが、出会った日に聞かされた、彼女の目標だった。
ただひたすらに突き進んで、多少どころではない痛みを味わい続けて、漸く手にした幸福。
自分が死ぬことで、あの笑顔を、彼女の幸せを守ることができる。
ジュンにとっては、それが何よりの手向けだった。

(ああ、そうだ。彼女に『さよなら』言うの忘れてたな。
 今頃になって思い出すなんて、つくづくタイミング悪いな、僕も)

もう……間に合わない。カウントは、残り4。

カウント3。ジュンの頭の中で、諦念が溶けていく。
意識が失われていき、何もかもが真っ白になっていく。

カウント2。
そして……。

カウント1を切った直後、病室の扉が、勢いよく開かれた。
間髪いれず、なにか重たい物が、下半身に落下した感触。
解放される気道。急速に薄れゆく窒息感。
頭部に停滞していた血液が、ありとあらゆる血路を迸り、全身に駆け巡っていく。
血管が、ちくちくと痛んだ。

「馬鹿っ! なんてコトしてるのよっ!?」

激しい怒気を含んだ声が、病室に轟いた。
鬱血により暗転していた視界がクリアになるにつれて、ジュンは状況を悟った。
みつに突き飛ばされて、のりは彼のベッドに倒れ込んでいた。
弱々しく嗚咽して、肩を震わす姉を、みつが力任せに引き剥がす。

「出てって! もう帰って!」

ああ、まただ……。
反論もせず、ただ謝りながら、みつに追い立てられる姉の弱々しい姿を見て、
ジュンは悲しみのあまり、胸が張り裂けそうだった。
愛する人と、愛する姉が、醜く啀み合う世界なんか欲しくなかったのに。

(どうして僕を苦しめ続けるんだ。いい加減にしてくれよ!)


病室の扉を閉ざすバシンという大きな音は、みつの怒りの具現だった。
出会ってからこの方、こんなにも彼女が激憤した様は見たことがなかった。
みつは何時だって、おおらかで優しく、大人の余裕を備えていたから。

だが、今の彼女は違う。彼女自身、暴走しそうな感情を持て余している。
辛うじて、理性で押し止めている様にみえた。
ドアに鍵をかけた姿勢のまま、ジュンに背を向け、立ち尽くしているのも、
怒りに歪んだ醜い顔を見せたくないが為だろう。


「ゴメン…………ね」

消え入りそうな頼りない声が、ジュンの耳朶を打つ。

「取り乱したりして、本当に……ごめんなさい。でも、私――
 さっきは、どうしても自分が抑えられなかった。
 ジュンジュンを奪われると思った途端、アタマに血が昇って……
 考えるより先に、身体が動いていたの」

ゆっくり、ゆっくりと――
「私には、もう……」

みつは、肩越しに振り返った。止めどなく、涙を溢れさせながら。
「あなたの居ない人生なんて……考えられないんだもの」

泣きながら微笑み、覚束ない足取りでベッドに歩み寄ったみつは、
ジュンの身体にのしかかって、彼の頬を両手で挟み込んだ。

「あなたは、私の夢。たくさんの希望が詰め込まれた、宝箱みたいな存在なの。
 自分のセンスを磨くことも、お店を持つことも、全ての目標は通過点でしかないわ。
 私は、ジュンジュンと一緒に、どこまでも歩いて行きたい。
 一生かけても辿り着けないかも知れないけど、あなたと手を取り合って、
 遙か彼方にある何かを追いかけ、ガムシャラに生きていきたいのよ」

続く言葉を紡ぐ直前、みつは物言わぬジュンの額に、キスをした。
そっと触れた合うだけの唇から、微かに震えが伝わってくる。
潤んだみつの瞳が、真っ直ぐにジュンを見つめていた。


「夢って、そういうものでしょう?」


――夢。
それは儚くも美しくて、虚しくも縋ってしまう、哀しい響き。
けれど、それなくしては、誰も明日への希望を見出せはしない。
ジュンの心もまた、同じだった。
いや……誰よりも夢を欲していたのだと、気付かされた。

(――バカだ! 僕は、なんてバカだったんだ。
 みんなの為だなんて物分かりのいいフリして、苦痛から逃げようとしていた。
 彼女の夢を邪魔しないように、死のうと思っていたなんて、何も解ってなかったんだ!) 

ジュンが自殺することは即ち、みつの夢を奪うことに等しかった。
守りたくて、良かれと思っていた事は、皮肉にも彼女の未来を閉ざすことだった。
馬鹿げている。筆舌に尽くしがたいほど馬鹿げている。

過ちに気付いた途端、ジュンの胸に蟠っていた黒い情念が消えていった。
空を覆い尽くす暗雲も、風が吹けば切れ間が生まれ、太陽の眩しい光が射し込んでくる。
風は、変化を表す詞。たかが微風でも、集い合わされば竜巻にすら姿を変える。
人の心も、同じことだ。
僅かな心境の変化が、漆黒の闇に希望という光明をもたらし、夢を見出す契機を与え得る。

(もう一度、生き直したい。今度は僕だけの為じゃなく、みんなの夢として。
 転んでも立ちあがり、醜態を晒しても、立ち止まらずに歩いていこう。
 彼女の幸せを守るためなら――――僕は、何だって出来るんだから)



夜も更け、消灯時間がやってくる。
みつはジュンの世話をした後、彼のベッドに突っ伏して、すぐに寝息を立て始めた。
病院のこと、店のこと、家に帰れば家事もこなさねばならない。
線の細い彼女の体躯には、想像を絶する疲労が蓄積されていたのだろう。

肩に掛けたカーディガンが、ずれて落ちそうになっている。
今はまだ、それを掛け直してあげることすら出来ないけれど――
ジュンは心の中で、みつの寝顔に囁きかけた。

(二人で、夢を追いかけていこう。もう、置き去りになんてしないよ……絶対に)



その日から、ジュンは生まれ変わった。彼の瞳には、強い意志が宿っていた。
もう、茫乎とした視線を彷徨わせることは無い。
生きていくために不可欠な夢を、手に入れたのだから。

この身体を、もう一度、動かしたい。
そして、彼女に触れたい。力強く、抱き締めてあげたい。
二人の恋は、この程度で褪めてしまう脆弱なものじゃないと証明する為に。
そして、熱く恋を燃えたたせて、愛へと昇華させる為に、今一度――

(僕はまだ、死んじゃいない。身体だって、全部が壊れたわけじゃない。
 回路の一部が損傷したって、バイパス回路を繋げれば、また動かせる筈だ)

かつて、錬金術におけるヘルメス思想では、人体を宇宙と対比して、ミクロコスモスと呼んだ。
抽象的だけれど、神秘性を表す言葉として、深遠なる宇宙は最適だろう。
人間の可能性は、無限大。
どれほどの偉人であれ、自己の可能性を完璧に把握することなど出来ない。
ジュンにだって、奇跡を起こす能力が眠っているかも知れないのだ。
以前ならば、端から諦めて努力を放棄しただろうが、今の彼は違う。

(医者は、治療の手助けをしてくれるだけ。
 結局のところ、僕の身体は、僕にしか治せないんだ)

元通りに動けるようになれるのか。それとも、一生このままか。
答えは、希望という扉の向こうにある。その扉を開く鍵は、ジュンの手の中にある。
みつに教えられて見つけた、夢という名の、小さな鍵が。




三ヶ月後――
年も明け、正月の忙しなさを人々が忘れ始めた頃の、夕方。

「来たわよー、ジュンジュン。調子は、どうかなー?」

今日も病室に顔を見せた彼女に、ジュンは俯いていた顔を上げ、頷く。
彼の手元には、広げられたスケッチブック。
まだ思うようには手指を動かせないけれど、入院生活の退屈な時間を、
デザインの研究へと割り当てているのだった。
手を動かしながらの方が、脳がより多くの刺激を受けるので、アイディアも閃く。
おまけに、運動神経のリハビリにもなるとあっては、正に一石二鳥というものだ。
一週間前まで呂律が回らなかった口調も、今では会話に困らないほど回復していた。

「……今日は、寒かっただろ」

窓の外に広がる、どんよりと暗い冬の空を一瞥して、ジュンが問いかける。
みつは「そりゃあ冬だもの」と口の端を上げて、彼のベッドに腰を掛けた。

「ほぉら……ね」

と、差し出された手が、ジュンの頬を撫でる。
ジュンはペンを置き、スケッチブックを閉じて、みつの冷え切った手を握った。
少し、ガサついた感触。気のせいではなく、彼女の手は以前より痩せ、肌荒れしていた。
朗らかに笑って見せていても、疲れは健康状態となって、如実に現れるものだ。

ジュンは、不意を衝いて、彼女の細腕を手繰り寄せた。
みつが、小さな驚きの声をあげて、前のめりに倒れ込んでくる。
年上で、自分より背の高い彼女だけれど、ジュンは真っ正面から抱き留めた。


「……寒いなら、こうして、汗ばむくらいに温めてやるよ。
 疲れたなら、いつだって寄りかかれば良いよ。どんな時も、僕が支えてやるから」

彼女の背に腕を回して、ジュンは自らの言葉を、実行に移した。
いつか抱いた願望のままに、力強く抱き寄せる。
彼の腕の中で、みつは、ちょっとだけ息苦しそうに呻いた。

「ずっと側にいるから……ずっと側にいてくれ」

耳元で囁いた言葉への返答は、ジュンの耳元にかかる、優しい微笑み。

「変わったね、ジュンジュン」
「……そうか?」
「うん。以前は、少しあどけなくて……恋人とはいえ、弟に近い存在だった。
 でもね、今は逞しく見える。ボーイフレンドから、頼れる男性に成長した感じかな」
「子供扱いされてたなんて、ちょっと気に入らないな」
「まあまあ。拗ねない拗ねない」

ぎゅっ……と、みつの腕が、ジュンの身体を抱き締める。


「――私に夢を見せてくれるのは、あなただけなの。
 だから、離れたくない。このまま――」


私を離さないでね。
まるで幼子の様にしがみつく彼女の頬に口付けて、ジュンはみつの髪を撫でた。

「イヤだと言ったって、離してやるもんか。
 どんな不幸も、困難も、僕らの絆を深めるキッカケにしてやるだけさ。
 全ては目標。夢への通過点に過ぎないんだから。そうだろ?」
「…………ええ。私たちの夢は、まだまだ遠くにあるけど」
「歩いていけば良いさ。二人で手を繋いで――
 差し当たっては、姉ちゃんとの仲直りが、記念すべき第一歩だな」
「そうね。私は、とっくに彼女を許しているんだけどなぁ」
「姉ちゃんの方は……どうだろう?
 愚行を悔いて、早まった真似してなきゃいいけど」
「彼女は見た目よりずっと強い人だから、大丈夫だと思うよ。
 なーんか解るのよ。私と彼女って、性格的に似てるのね、きっと」

「心配なら、電話してみる?」言って、みつが自分の携帯電話を取り出す。
それを受け取ったジュンは、御礼がわりにと彼女の唇を奪って、自宅にダイヤルした。


「…………もしもし。姉ちゃん?

 あ、あのさ……会えないか…………うん。

 これから――僕たちと」




   『醒めた恋より 熱い恋』  完