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ジュンと薔薇水晶が手紙を読んでいた頃、
地下室では雪華綺晶が、簡易ベッドで巴と添い寝していた。
じっと横たわって、身を強張らせる巴の髪を、雪華綺晶の白い指が撫でる。
彼女は上機嫌に鼻歌を唄いながら、愛おしそうに隻眼を細めていた。
時折、巴の耳元に鼻先を埋めて、悪戯っぽく耳を甘噛みしてくる。

「ふぁぅ! い、イヤぁ……」

その度に吐息交じりの鼻声を漏らして、逃れようとする巴を、雪華綺晶の両腕が引き戻す。

「くふふふふ……ダメよ。じっとしていなければねぇ」
「嫌よ! もうイヤ! 放してよっ」

甘んじて人形の扱いを受けると覚悟したけれど、やはり、嫌悪感が勝ってしまう。
年頃の乙女の潔癖さが、不自然な現実を、ひどく不潔な世界に見せていた。
とても受け容れられない。こんな、汚らしい世界なんて――

(まだ……汚されてない。桜田くんの為にも、汚されたくなんてないっ)

雪華綺晶に玩ばれている間、巴は部屋の隅々まで視界を巡らして、
得物になりそうな物を探していた。
そして、トイレの水槽に立てかけてあるデッキブラシに目を付けていた。

(あれで殴れば、かなりの打撃を与えられるはず)

漫然と続けてきた剣道が、まさか、こんな形で役に立つとは思わなかった。
芸は身を助ける――とは、よく言ったものだ。

巴は、身体に絡み付いてくる雪華綺晶の両腕を払い除けて転がり、
簡易ベッドから身を躍らせた。
片膝を着いて、器用に着地すると、即座に立ち上がって雪華綺晶の方に向き直る。
雪華綺晶は、緊張のあまり表情を強張らせている巴を見つめて、鼻で笑った。

「どうして、そんなに脅えているの? おかしな人ですわね。
 この素敵な楽園が、恐ろしいだなんて――」

雪華綺晶は、まだベッドに横たわっていた。
眠そうに左眼を瞬かせながら、険しい表情の巴を、怪訝そうに見上げている。
そんな彼女の人を食った態度が、巴の激情に火を付けた。

「冗談じゃないわ! わたしにとっては地獄よっ。
 貴女みたいなキチガイと、こんな檻に閉じ込められているんだもの。
 正気で居られる筈がないじゃない!!」

NGワード『キチガイ』に反応して、雪華綺晶の金眼が、琥珀色に光った。
それまでの穏やかな表情から一変して、夜叉の形相になっている。
雪華綺晶は、ユラ~リと身体を起こして、ベッドから滑り降りた。

「……醜い。なんて、醜いんでしょう」

軽い衣擦れを立てて、ドレスの下から伸ばされた白い素足が、音もなく床を踏み締める。

「巴ぇ…………あまり私を、失望させないで下さらなぁい?」
「そんなの、貴女が勝手に作り上げた幻想よ! わたしは、美しくなんてないわ!」

一歩一歩、雪華綺晶が接近してくる。
強がりを口にしながら、じりじりと、巴は後退していった。
互いの距離は、付かず離れず……。
巴は身体で覚えた剣道の間合いで後ずさりながら、ある一点を目指していた。

(あのデッキブラシ……あれさえ掴めれば)

後ろ向きなので、本当に正しくトイレの水槽に向かっているのか判らない。
しかし、僅かでも視線を逸らしたら、雪華綺晶に飛びかかられそうで怖かった。
彼女は、いつか観たホラー映画のゾンビみたいに、ゆっくりと近付いてくる。

巴は、雪華綺晶を睨み付けて牽制しながら、右腕を背後に伸ばし、手探りした。

(確か、この辺りだった筈だけど)

右腕が、右へ左へ、何度も往復する。けれど、指先は空を切るだけ。

(どこ? どこなの?! もうっ! 何処にあるのよっ!!)

苛立ちが焦りとなって、些細な動作ですら粗雑にさせる。
過呼吸気味に喘ぎながら、巴は後ろに回した右腕を、乱暴に振り回した。
何度やっても、指先には何も触れない。

「どうしてっ! どうしてよっ!」

焦燥が、口を衝いて出る。焦れば焦るほど、何も考えられなくなっていく。

徐々に狭まっていく、彼我の距離。
雪華綺晶は、怯える巴に嗜虐的な目を向けながら、歯を見せて嗤っていた。
もう、これ以上は耐えられない。

とうとう、巴は顔を傾け、背後を見遣ってしまった。
デッキブラシは、意外なほど近くに在った。
けれども、それを巴が手にするより早く、雪華綺晶が飛びかかってくる。
巴は押し倒され、コンクリートの床に、強か後頭部を打ち付けてしまった。

「うぁっ!」

目の前に火花が散り、星が舞い踊る。
束の間、どこかに行ってしまいそうな意識を引き戻す努力を強いられた。


仰向けに倒れた巴の身体に、ずしり……と、重圧がかかる。
続いて、両腕が踏まれる感覚。
馬乗りになった雪華綺晶が、両膝で自分の腕を抑え付けているのだ。
見るまでもなく、巴には、それが解った。

「やぁっと捕まえましたわ。悪い子ですわねぇ」

気色の悪い猫なで声と共に、雪華綺晶の両手が、巴の頬を挟み込んだ。
見開いた巴の瞳と、雪華綺晶の瞳が、視線で結びつく。

「暴れられて、怪我でもされたら大変ですわ。
 綺麗なお人形さんに、傷が付いちゃったら、価値が下がってしますものね。
 もっとも、手放すつもりなんて無いので、市場価値など関係ないですけれど」
「わたしは、貴女の人形じゃないわ! 何度も言ってるでしょう!」

恐怖を顔に張り付かせながら、猛然と反撥する巴。
巴の頬を抑え付けたまま、にんまりと、氷の微笑を浮かべる雪華綺晶。

「随分と興奮しているのね、巴ぇ。
 いっそLSD-25でも使って、一気に興奮の絶頂に駆け登ってみる?」
 サイケデリックで、楽しい夢が見られるかも知れませんわよ」

LSD-25とは、D-リゼルギン酸ジエチルアミドという化学物質で、
脳内のセロトニンの働きを抑制し、微量でも強い幻覚作用を持つ強力な
合成幻覚剤である。

「本意では、ありませんけど……聞き分けのない貴女をお人形にする為には、
 お薬を使って廃人にしてしまうより他に、方法がないですわね」
「じょ、冗談でしょ?! そんな物、貴女が持っている筈がないわ!」
「んふふふふふ…………本当に、そう思っていらっしゃるの?
 今の世の中、お金があれば大概の物は手に入りますわ。
 人の心ですら、例外ではありませんのよ」
「それは、そうだけど――」
「お薬を買い求めるくらいは、誰でもしていることでしょう? くふふふっ」

薬と聞いて、巴は咄嗟に、薬物中毒患者を思い浮かべた。
LSDが、どんな薬物なのか、巴は知らない。
ただ、妙な薬物を使われて、生ける屍にされては堪らないという恐れが、
巴の倦厭を刺激した。

「薬なんてイヤよっ! 貴女の人形になるのも、絶対にイヤっ!」

巴は叫んで、仰向けの身体を躍動させた。
バランスを崩した雪華綺晶の膝が、僅かに浮いて、右腕に自由が戻る。
一瞬だけのチャンス!
無我夢中で雪華綺晶を押し退けた巴は、腕を伸ばしてデッキブラシを掴んだ。

「貴女なんか――」

雪華綺晶に飛びかかられるより早く体勢を整えて、巴は彼女の頭部を目がけて、
デッキブラシを真一文字に振り抜いた。

ブラシの部分が、さながらハンマーの如く、雪華綺晶の左側頭部を強打する。
ぐしゃっ! と熟したトマトが潰れる様な音が、地下室に響き渡った。
雪華綺晶は、悲鳴どころか呻き声ひとつ上げずに、床に倒れ込んだ。

けれど、巴の腕は止まらない。

「死んじゃえっ! 貴女なんか、死んじゃえっ!!」

二度、三度と、雪華綺晶の頭にデッキブラシが振り下ろされ、
その度に、びちゃっ! びちゃっ! と濡れた音が沸き起こった。


トドメとばかりに、大上段に振り上げられるデッキブラシ。
だが、それは打ち下ろされる直前、巴の手から滑り落ちた。
乾き切った木の音が、カランカランと虚しく鳴り響く。

巴は荒い呼吸を繰り返しながら、横たわったままピクリとも動かない雪華綺晶を
見下ろしていた。たった今、悪夢から醒めたような、呆然とした面持ちで。
その間にも、雪華綺晶の髪を、じわじわと鮮血が濡らしていく。

「……き……らき…………さん?」



返事は、無い。反応も、無い。