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ぱしゃっ……ぱしゃぱしゃ……ぴちゃ……。


どこかで、水の音がしている。何かを洗っている音。
微睡みの中で、何度も聞いた憶えがある。
巴は、いつにない気怠さを感じながら、瞼を閉じたまま、寝惚けた頭で記憶を辿った。

(えっと……ああ、そうそう。お母さんが、台所で朝食の支度をしてるのよね)

だったら、そろそろ目覚まし時計が鳴り始める頃だ。

(もう起きなくっちゃ……学校に、遅刻しちゃう)

気怠い身体を起こそうとした矢先、ズキンと頭の芯が痛んだ。
巴は、思わず呻いた。
それを聞き付けたかの様に、水の音が止む。

(お母さん……頭が……痛いの)

もしかしたら、今日は、学校を休んだ方が良いかも知れない。
母親に告げるため、眼を覚まそうとした巴の視界に飛び込んできたのは、
見慣れた部屋の天井ではなく、コンクリートが剥き出しの、素っ気ない天井だった。

(……あれ? ここ……何処だっけ)

巴は、億劫さを我慢しながら頚を巡らした。
見慣れない部屋。見慣れない景色。
まだ頭が寝惚けているのか、巴の意識は、朦朧としていた。


だが、部屋の隅にある洗面台を眼にした瞬間、ハッキリと覚醒した。


――洗面台の前に、誰かが立っていた。

――濡れた長い髪から、水を滴らせて。


「だっ、誰っ?!」

短い誰何の声を巴が発した直後、突然、周囲が真っ暗闇に包まれた。
目隠しをされたのではない。照明が落ちた――或いは、落とされた――のだ。
巴は狼狽えた。どうすれば良いのか、全く思い付かなかった。

一寸先も見えない闇の中で、自分の荒い呼吸だけが聞こえる。
渇いた喉が、ひゅうひゅうと鳴り続けている。
焦りで鼓動が早くなり、頭が、ガンガンと痛んだ。

(どうしよう。どうしよう。どうしよう。どうしよう……)

対策を講じようにも、頭が痛くて、考えられない。
ただただ、額に指を当てて、頭痛に耐え続けるだけ。

ある物音が、巴の耳に入ってきたのは、そんな時だった。


しゅるっ…………しゅるっ…………しゅるっ…………しゅるしゅるっ。


闇の中で、規則正しく奏でられる衣擦れ。
狭い室内に反響して、音源の動きが判然としない。
近付いてくるのか。それとも、遠ざかっているのか。
ただ一つ確かなことは、何者かが、動き回っている――と言うこと。

(なに? なに、何、なに、ナニ?)

判る筈がない。解りたくもない。
普段から視覚に頼りすぎている為に、一旦こういう状況に放り込まれると、
もう冷静ではいられなかった。
巴は恐怖に打ち震えながら、ただひたすらに、音の止むのを待ち続けた。
荒い呼吸を聞かれないように、口元を手で覆い隠して――

(止めてっ! その音、聞きたくないの! お願いだから、もう止めてよっ)

巴が胸中で必死に叫び続けていると、願いが通じたのだろうか、
パッタリと音が止んだ。
耳を澄ませても、巴の鼓膜を震わせるのは、彼女の動悸と呼吸音ばかり。

(……終わっ……たの?)

どうなったのか? どうなっているのか?
照明が消える寸前、洗面台の前に立っていたのは、誰?

覚醒した脳が活性化していくにつれて、巴は思い出し始めた。
自分が陥れられた、忌まわしい状況を。

(わたし…………きらきーさんに……閉じ込められて)

そう。
ここは、巴の部屋ではない。どこか、訳の分からない部屋なのだ。
雪華綺晶と、巴だけの、ちっぽけな巣穴。
巴は、戦慄を抑え込もうとして、身を強張らせた。

(二人だけしか居ない部屋で、誰が、さっきの衣擦れを――)

考えるまでもなく、雪華綺晶が発したものとしか思えない。
しかし、彼女は、巴が殺してしまった。
デッキブラシで頭をメッタ打ちにして、永久に目覚めなくなった筈だ。
少なくとも、巴は、そう思っていた。自分が雪華綺晶を殺したのだ、と。

(それとも、まさか……生きて……たの?)

だとしても、脳挫傷や、それに伴う急性硬膜下血腫を患っているだろう。
直ぐに起き上がって、歩き回れるとは、とても思えなかった。

巴は息を殺して、耳を澄ました。

すきま風の小さな鳴き声も、聞き漏らさぬ様に。
昆虫が歩く微かな物音すら、聞き逃さない様に。


けれど、どれだけ時間を費やそうとも、聞こえるのは自身の呼吸と、
鼓動だけだった。
先程の衣擦れは、全く聞こえなかった。


しん……と静まり返った暗黒。自分以外の気配はない。


ひょっとして、さっきのは空耳だったのではないか?
巴は、そう思い始めた。
今も続く激しい頭痛が、ありもしない物音を聞かせた可能性は、ある。

(せめて、照明が点されていれば、パッと見て確かめられるのに)

巴は、焦れた。
こんな暗闇の中では、妙な想像ばかりが、際限なく膨れ上がっていく。
得体の知れない化け物が、どんどん大きくなっていく。
際限のない空想を打ち消そうとして、照明の事だけを考えようと努めた。

(照明さえ持っていれば……キーホルダー式のペンライトとか)

一昨日、全国チェーンの電気機器店の売場で見た商品が思い出される。
あの時は不要だと思っていたのに、こんなにも早く、入り用になるなんて。

(ペンライト…………ライト……有るわ。わたし、ライト持ってるっ)

巴は気付いた。照明の代わりに成り得る物を、所持している事に。

「そうよ。携帯電話のバックライトで照らせば、少しは見える筈だわ」

部屋の隅々まで明るくは出来ないけれど、雪華綺晶が倒れていた場所くらいは、
確認できるだろう。
巴は半身を起こして、プリーツスカートのポケットから携帯電話を取り出した。
右手の指先でバックライトのスイッチを探り当て、躊躇い無く押した。

有機ELディスプレイから、光が溢れ出す。闇に慣れた眼には、眩しすぎる。
眼底に突き刺さる光芒で、少し治まっていた頭痛が呼び戻された。

けれども、巴は眼を細めて、光に満ちた四角い窓を、暫し眺めていた。
そうしているだけで、気持ちが落ち着いていく。
心の大半を占めていた恐怖心が、急速に薄らいでいった。

地獄に灯された儚い光だけれど、部屋の様子を確かめるには充分だ。
しかし、雪華綺晶の遺体を照らし出すことには、抵抗があった。
罪の意識。そして、雪華綺晶への嫌悪感。


でも、確かめなければならない。
彼女が、まだ、そこに横たわっている事を。死んでいるという事実を。


意を決して、巴は、携帯電話を闇に翳した。
床に向けて突き出した右手の正面に、白い物が浮かび上がって、巴はドキリとした。


それは――――丈の長い、白いドレス。

裾から、爪先が覗いている。

左右揃って、巴の方に向けられた爪先が。


誰かが、簡易ベッドの脇に…………立っているのだ。


これ以上、上を照らしてはいけない! 巴は本能的に、右腕を逸らそうとした。
しかし、巴の手首が何者かに掴まれ、物凄い力で、持ち上げられていく。
抗っても、抗いきれない。見たくないのに、瞼を閉じる事ができない。

足元から、腰へ。腰から、胸元へ……何者かの姿が、照らし出される。
そして、最後に浮かび上がったのは――


「……くくっ。くふふふふふっ」


濡れた髪を頬に張り付かせ、歯を見せて、にたぁ――と嗤う、雪華綺晶の顔だった。


「……………………見ぃ付けたぁ♪」