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日常の世界では、巴と雪華綺晶が行方を暗ませてから、早くも四日目を迎えていた。

――女子高生、失踪のナゾ。

テレビのワイドショーでは、あざといタイトルを銘打って、
連日、無責任に情報を垂れ流している。
しつこく繰り返される近所の住民への取材VTRを見る度に、
ジュンは嫌悪感で、反吐が出そうだった。
どうせ、有名人のスキャンダルなどが発覚すれば、忽ち興味を失うクセに。

懸命の捜索活動にも拘わらず、依然として、遺留品すら見付からない。
しかも、雪華綺晶の狂気じみた所業を聞きつけて、警察も狂言誘拐の線を疑い始めた。
巴に行方を暗ます動機は無いため、自ずと、雪華綺晶に容疑が傾いてゆく。
彼女たちの失踪当時、屋敷に居たジュンや薔薇水晶、執事から数名の使用人に至るまで、
重要参考人として調書を取られた。

だが、知らないものは知らない……。
解らないものは答えられない……。

念のため、屋敷の家宅捜索も行われたが、鑑識官や捜査員は少し調べただけで、
アッサリ引き上げてしまった。
奇妙なことに、誰も地下に続くエレベーターには興味を示さなかったのだ。
まるで、エレベーターなど端から存在していないかの様に。

学校でも、日が経つに連れて、この話題に対する関心は急速に薄らいでいった。
生徒たちは、徐々に近付いてきた夏休みや、その前にある期末テストの準備に忙殺され、
いつまでも赤の他人に降りかかった不幸なんかに、構っていられなかったのである。


今日も、薔薇水晶は一限の授業をサボって、独り、屋上にきていた。
教室には居たくなかった。あんな、片時も心休まることのない、魂の牢獄なんかには……。
空は、彼女の心を写す鏡の如く、低く垂れ込めた暗い雲で覆われていて、今にも泣き出しそうだ。


――などと思っている間に、ぽつり、ぽつりと、空から雫が落ちてくる。

だが、そんな事にはお構いなく、薔薇水晶は指が白くなるくらいにフェンスを握り締めて、
ただただ薄暗く沈んだ街を見下ろしていた。
雨粒に顔を打たれる度に、右眼を、しばしばと瞬かせながら。


「お姉ちゃん……巴ちゃん…………いま、どこに居るの?」

呟いた声は、梅雨の湿った風に吹かれて、いずこかへと押し流されていく。
濡れゆく街並みに、二人の手懸かりを探そうと目を凝らすけれど、見付かるはずもない。
立ちこめる雨霞が、薔薇水晶に目隠しする。

風が、二人の臭いを消しさってゆく。
雨が、二人の足跡を洗い流してゆく。

時が、二人の記憶を、みんなから奪ってゆく。


ざあざあざあ――――

雨足が強まってきても、薔薇水晶はフェンスの側を離れようとせず、街を凝視し続けていた。
降りしきる五月雨が、彼女の髪を、制服を、そして…………心まで、濡らしていく。
肌に貼り付くワイシャツが、身も心も、じわりじわりと凍えさせていった。

(…………寒い)

暦の上では夏でも、雨が降れば気温は下がる。濡れた肌から、体温は奪われていく。
薔薇水晶は両腕を掻き抱いて、ぶるるっ! と身を震わせた。
これでは姉や親友を探す以前に、風邪を引いてしまう。雨具を取りに戻った方が良いだろう。
身体の芯から湧き起こる悪寒で、薔薇水晶の歯が、かちかちと小刻みに鳴った。

「お姉ちゃん。巴ちゃん。ちょっと……傘を持ってくるね」

ついでに、体操着とジャージに着替えてこよう。これでは下着が透けてしまって、とても恥ずかしい。
そう考えて、踵を返し、一歩を踏み出した途端、薔薇水晶は突然の目眩に襲われ、
かくんと膝を折ってしまった。

「あ…………れ?」

全身から力が抜けて、踏ん張ることも出来ずに、雨水が溜まったコンクリートの床に、
ばしゃりと頭から倒れ込んだ。
ここ数日、雪華綺晶と巴の安否を気遣うあまり、殆ど眠っていない。
その影響だろうか? 身体に力が入らない。俯せになったまま、起き上がることもできなかった。
水たまりに浸かった左頬から、どんどん体温が吸い出されていく。
命まで流れ出していくような錯覚。

(……私、どうしちゃったの?)

霞んでゆく視界の向こうで、空が眩い輝きを放った。
数秒遅れて、耳をつんざく轟音。
それが合図だったかの様に、雨足が更に強まり、薔薇水晶の身体を打ち据える。ちょっと痛い。
時折、暗雲の中で、思い出したように乱舞する光……。
水たまりに落ちて砕けた飛沫が眼に入って、薔薇水晶は反射的に右眼を閉ざした。


途端――――
瞼の内側に、見たこともない光景が、ありありと浮かんできた。
夢? 幻覚? それとも、妄想?
いずれにしても、鮮明すぎる。


窓の無い、薄暗くて、窮屈な空間――

部屋の片隅で、明々と炎が燃えている――

あれは、護摩壇だろうか――

その前で、一心不乱に祈祷を捧げている、髪の長い人物――

祈りの声は聞こえない。でも、薔薇水晶には判った――

あれは、女性。自分や雪華綺晶と似た色の、髪の持ち主――


(誰なの? あなたは、誰?)

問いかける声は、声にならない。
どれだけ叫ぼうとしても、彼女の喉から声が出ることはなかった。
薔薇水晶は、たまに、こんな感じの夢を見る。意味不明だが、妙に明瞭で、現実的な世界。
風や気温、色彩、臭い、音すらも感じられるのに、自分からは何も発せられない、不条理な空間。

そもそも、夢は実生活の記憶が、眠りの中でランダムに再生されるもの。故に、不規則で不条理。
ならば、この空間の映像も、どこかで見て、記憶の引き出しにしまわれていたのかも知れない。
ただ、収納した場所を、忘れていただけで……。

(もしかしたら、映画か何かのワンシーンだったのかなぁ)

そんな事を考えて、記憶を辿ろうとした矢先、目の前の光景が波紋のように揺らぎ、
俄に暗転していった。踏み締めていた床の喪失感と、それに続く墜落感。
真っ暗闇の中を、どこまでも落ちて行く。いつ終わるとも知れない、垂直自由落下――

(あわわわっ…………だ……ダメ! 焦っちゃダメだよ。落ち着かなきゃ)

こんな時は、素数を数えるんだ……と、誰かが言っていた気がする。
薔薇水晶は頭の中で、重力加速度に自分の体重を乗算して、運動量を計算してみた。
力学の公式と重力加速度の値さえ知っていれば、小学生でもできる算数を。

(…………えっと……)

けれど、薔薇水晶の混乱した思考では、答えを導き出せなかった。
頭の中に、もやもやと白い煙が立ちこめた感覚。思考は、浮かんだ直後に砕けて、白い霧になる。
右も左も判らない。同じ所で堂々めぐり。迷い道、くねくね……。

(……寒い……よぅ)


止まない雨の中、俯せに倒れたまま、濡れそぼっていく。
今は授業中。休み時間になったところで、雨が降り続いている限り、誰も訪れない。
明日まで降っていたら、一晩中、このままという事も有り得た。

(お姉ちゃん……巴ちゃん……ジュン……みんな……)

意識が、遠くなる……遠退いていく。生存本能が、喧しく警鐘を鳴らし始めていた。
でも、限界。誰かの叫び声を聞いた気がした直後、薔薇水晶の意識は、ぷつりと途絶えた。




――――闇の中で、彼女は目覚めた。

気怠い微睡み。隣に添い寝している人形の、硬い感触。
在るべきモノが、そこに存在する安堵に、自然と安堵の吐息が零れた。


雪華綺晶は、枕元に置いた巴の携帯電話を手探りで掴み当てると、電源を入れた。
何秒かの起動時間の後、ディスプレイが青ざめた光を放つ。
仄かな照明を向けると、穏やかな巴の寝顔が、青白く浮かび上がった。
しっかりと閉ざされた瞼と、うっすらと開かれた唇。

「んふふ。おはよぉ……巴ぇ。今日も綺麗ですわよ」

血の気を失って、更に白さを増した肌は、正しく白皙。
それが故に、左の目元にあるホクロが余計に際立って見える。
雪華綺晶は巴のチャームポイントを、右の人差し指の先で、つんと突っついた。

ふに…………と、粘土を押したような感触。
年頃の乙女の、瑞々しく、張りのある肌とは全く異なる手応え。
でも、それでいい。雪華綺晶は、そう思った。
目の前に横たわっているのは人間の娘じゃなく、精巧に作られた、自分だけの人形なのだから。

雪華綺晶は、巴の頬を両手で包み込み、室温で生暖かくなった肌を、愛おしげに撫で回した。
そして、まだしていなかった目覚めのキスを交わす。巴の唇は、カサカサに乾いていた。

「あらあら、可哀想に。後で、私のリップクリームを塗ってあげましょう。
 それよりも、お口を開きっぱなしにしていたら、みっともないですわ。
 ちゃぁんと、閉じておきましょうねぇ…………あらぁ? 閉じませんわね」

顎を閉ざそうとしても、巴の身体はカチコチに固まっていた。
いわゆる、死後硬直という現象である。
概ね、死後2、3時間で顎や頬の筋肉が硬直を始め、およそ12時間で全身が硬直。
30時間を過ぎる頃まで硬直状態が続き、以降、ゆっくりと解硬、軟化していく。

また、硬直から軟化に至る経過は、気温によっても変化してくる。
夏期は硬直の発生と解硬が早く、硬直時間は36時間程度とされるのに対して、
冬期は硬直発生と解硬が遅く、硬直時間は夏期の約2倍に延びるのである。
この性質を利用すれば、死亡推定時刻が割り出せるのだ。

今更ながら、雪華綺晶は困ったように眉根を寄せて、小首を傾げた。
さっきまでは、人形なのだから硬くても良いと思っていたのに。

「どうしましょう。こんなに固くなってたら、着せ替え遊びも出来ませんわねぇ。
 マッサージでもすれば、柔らかくなるのかしらん?」

質の悪い冗談にしか聞こえない発想を、雪華綺晶は実行に移した。
両手で巴の身体をまさぐり、爪先から踝、脹ら脛、太股と揉みしだいてゆく。
ほっそりと引き締まった腰回りと、肉付きの薄い脇腹はパスして、胸、肩と移動する。
最後に両腕を……指先まで、丹念に。

しかし、それで元の柔らかさを取り戻せるはずもなく、雪華綺晶はすっかり、
二の腕が怠くなってしまった。明日に筋肉痛になっているかもしれない。

仕方なく、元通り横たわって、何気なく、携帯電話の時刻を見遣る。
日付は6月21日の水曜日。時刻は、午前11時ちょい過ぎ。
真っ暗闇の中に居続けたことで、時間の感覚は、ほぼ失われていた。


「えっと…………ここに閉じこもったのが、土曜……違う。日曜日の午後でしたわね。
 でしたらぁ、もう――――」

雪華綺晶は、曜日を口に出しながら、指折り数えた。
いつもだったら、即、暗算で出せるだろう答えを。
徐々に薄くなっていく酸素、蒸し暑さ、空腹などが、彼女から正常な判断力を奪っていた。

「ああ、そうそう。もう4日目になるのですわねぇ」

答えを手に入れた雪華綺晶は、子供みたいに、屈託なく笑った。
その直後、彼女の腹が、くるるる……と、小さく鳴く。
とっくに限界を越えて、既に失われたと思っていた空腹感が、甦ってくる。胃が、活発に動き始めていた。

「…………お腹……空いた」

食べるモノなど、有りはしない。朦朧としていても、そのくらいの事は理解していた。
空腹を紛らすために、また眠ってしまおう。
雪華綺晶は携帯電話の電源を落とすと、巴の頬を撫でながら、瞼を閉じた。


――しかし、眠れない。空腹が、眠気を妨げている。胃の痛みすら覚えていた。

「困りましたわね。水で、お腹を膨らませてきましょう」

再び、光源を手にして、雪華綺晶は洗面台に赴いた。そして、貪るように、水をガブ飲みする。
汗を吸ったドレスが濡れてしまったが、喉の渇きと、胃の空腹が満たされた快感によって、嫌悪感は払拭されていた。
幸せ一杯の表情で、雪華綺晶が顔を上げると、洗面台の上にある鏡が視界に飛び込んできた。
そこにある、窶れきった酷い顔。それが、彼女の偽らざる姿。
暗黒に潜む穢れは、穏やかに……だが確実に、雪華綺晶をも蝕み始めていた。