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私は、夢の中で戻り得ぬ記憶を辿る能力を、この身に宿して生まれた。
そして今、望んだわけでもないのに、因縁の端緒とも言うべき、この場所に放り込まれている。
此処は想像以上に凄惨な舞台で――私の心は、衝撃に打ちのめされていた。

「薔薇水晶が…………夢占の巫女の守護……霊獣?」

守護霊獣って何? あの人型の腫瘍は、何なの? なにもかも、得体の知れないことだらけ。
ただひとつ、私にも解るのは、アレが薔薇水晶を苦しめてるってこと。
私は涙を拭って、薔薇水晶の胸に浮き上がった腫瘍を凝視した。

あんな奇怪なもの、見たことが無――――いいえ。なんとなく、見憶えがある。
いつ? どこで? 一所懸命に記憶を辿った。そして、思い出した。
屋敷の庭木から、私の肩に落ちてきた白蛇が、人型に切り抜いた紙片に噛み付いた光景を。
どこからともなく降ってきた、あの形代こそ……腫瘍のカタチと酷似していた。

でも……まさか、そんなこと……が?
自分の発想を疑った。けれど、様々な因子を結びつけると、それ以外の結論は考えられない。
苦悶にあえぐ薔薇水晶を見つめながら戸惑っていると、慈雲が私の考えを肯定してくれた。

「どうやら気付いたようだな。君は産まれたときから、そこの守護霊獣に護られ続けてきたんだ。
 今でこそ小娘の形をしているが、実際は――」
「や、やめ……て。言……わな……いで」

息も絶え絶えになりながらも、薔薇水晶は慈雲の言葉を遮ろうとする。
健気ですらある彼女の態度を、しかし、慈雲は嘲りながら踏みにじった。

「白蛇の化身なんだよ。護るべき者の従者に片目を潰された、間抜けなヤツさ」

薔薇水晶は悔しそうに唇を噛み締めて慈雲を睨み付けると、がっくりと項垂れ、膝から頽れた。

慈雲は、何もできない私に背を向け、薔薇水晶の前へと歩み寄った。
侮られた……。屈辱のあまり、顔や耳が、かぁっと熱を帯びる。なのに、私は、何も出来ない。

「夢占の巫女に近付こうとする度に邪魔をする忌々しいヤツだったけど、
 こうなると、なかなか可愛いもんだな」

右手で彼女の顎を掴んで、グイと上を向かせる。
そして、憎々しげに睨み付けてくる薔薇水晶の顔を、舐めるように眺め回した。

「巫女に取り憑かせるべく放った傀儡の術を、お前が呑み込むとは想定外だったよ。
 大方、僕の術を吸収して、力を増そうと目論んだのだろう?
 けど……儚い願いだったな。お前では力不足で、結局は僕の術に呑み込まれただけだし」
「くぅ! ま…………まだ……よ」

荒い呼吸を繰り返しながら、薔薇水晶は傀儡の腫瘍を鷲掴みにして言った。
自らの意志で言葉を発することで、少しでも慈雲の術に抗おうとしているのだろう。
彼女の執念を目の当たりにして、慈雲の表情から嘲笑が消えた。

「私は、まだ……自分の…………意、志で……動ける」
「頑張るのよ、薔薇水晶! そんな奴に負けないで!」

見ているだけなんて出来なかった。堪らず、私は彼女に呼びかけていた。
護ってもらいたかったからと言うよりは、彼女まで慈雲に奪われたくなかったからだ。
薔薇水晶は私に琥珀色の瞳を向けて――――微かに笑った。

「……私は、あの娘を護るっ!」

決然と叫んで立ち上がった彼女は、慈雲に飛びかかって、しがみついた。
薔薇水晶の身体を中心にして、薄紫色の光が広がり始めた。
その光は見る間に彼女と慈雲を呑み込み、輝きを増していく。
あまりの眩さに耐えきれなくなり、私は袖で顔を覆った。
一体、何が起きているの? 薔薇水晶は、何をしようとしているの?

「こいつっ!? 正気かっ! そんな事をすれば、お前も――」
「構わないっ! だって、それが私の存在意義なんだから!」
「くそっ! 放せ、このっ!」
「もう手放さないわ。貴方は、私と共に――――」

慈雲の狼狽えた声と、薔薇水晶の冷めた声が、言い争っている。
だが、肝心な箇所が聞こえなかった。
もう、眩しいなんて言っていられない。私は腕を降ろして、声を限りに訊いた。

「薔薇水晶っ! 貴女、何を考えてるの? どうしようって言うの?!」

その問いに返ってきたのは、薔薇水晶の寂しげな微笑だけだった。
一瞬、薄紫の光が大きく膨らんだ直後、光は消え…………二人の姿も消えていた。




首筋にかかる息遣いを感じて、私は大きく息を呑んだ。
薔薇水晶が愛用しているフレグランスの甘い香りが、私の鼻腔をくすぐった。
こんな状況で、私は寝入っていたらしい。一体、どれだけ眠っていたの?!

「……やあ。お目覚めかい、眠り姫さん」

愉快そうな、それでいて嘲るような桜田ジュンの声が、私の鼓膜を震わせる。
目の前では私の左手と、彼の右手が、今まさに重なり合おうとしていた。
左手の指輪が、稲妻に照らされて鈍く輝く。私は胸の中で、水銀燈の名前を連呼していた。





水銀燈は必死に走っていた。自分の名を呼んでいる、彼女の元を目指して。
病院内を走らないで、と注意する看護士たちを無視して、ひたすらに疾駆する。

(めぐの身に、危険が迫っている! あいつが! あの男が、めぐをっ!)

先ほどから、指輪を介して、彼女の心の乱れが伝わってきていた。切迫した状況らしい。
だが、切迫しているのは、水銀燈も同じだった。
めぐが束の間の眠りで辿った過去の映像は、彼女にも届いていたのだから。

(私は、あいつに――慈雲に負けたのね。
 そして、めぐを護りきれなかった未練で、亡霊となって彷徨っていたんだわ)

あの娘を護りたい……。
それだけが、現世に執着している、たったひとつの理由だった。
長い年月を経て、人格も記憶も忘れて、ただ本能のままに彷徨いていたとき、偶然に出会った彼女。
それが、夢占の姫君と同じ霊波動を放つ乙女、めぐだった。

(護るから! 今度こそ、絶対に護ってあげるからっ! だから……無事でいて、めぐっ!)

届けたい――この思い。水銀燈は、指輪を介して想いが届くことを祈りながら、心で叫んだ。
霊体の時なら、壁をすり抜けて最短距離を突っ切るのだが、身体の殆どが実体化した今となっては、
それも不可能になっていた。二本の脚で、地道に距離を縮めていく他ない。

(こんなにも、身体を重く感じるだなんて……)

千二百年ぶりに取り戻した肉体を、慣らしもせずに激しく動かすのだから、意のままとはいかない。
両脚の筋肉が、ビキビキと悲鳴を上げている。さっきから、腓返りがおきていた。
息が上がり、苦しい。心臓が激しく脈打ち、全身に血液を送り出していた。

「え……えぇっ?! 心臓が…………脈……打ってるぅ?」

水銀燈は、驚いて立ち止まると、左の胸に手を当てた。
薄手のパジャマを通して、手の平が胸の温もりを感じ、掌の熱さは胸に伝わっていた。
そして、しっかりと活動している、心臓の鼓動を聞いた。

「私…………生きて……るのぉ?」

再生しないと思い込んでいた。誰かから奪わなければ、永久にこのままなのだ……と。
でも現実に、水銀燈の体内で、命の時計が刻まれている。
砂時計の、極端にくびれたオリフィスを一粒ずつ落ちる砂が立てた音の様に、ひとつ……またひとつ。

「そう……そうだったのね。めぐが、私の名前を呼んでくれたから」

名前――――それは生命の代名詞にして、記憶の引き出しの索引。
そして、引き出しを開く鍵でもある。
めぐは、それを見付けて、与えてくれた。心を込めて、呼んでくれた。「水銀燈――」と。
呼んでくれる声に気付いて、明日を夢見る希望さえ持てれば、誰も、ジャンクになんてならないのだ。

「私……やっと解ったわ。本当に欲しかったものが、何だったのか」

それを得るためにも、彼女の元へ赴き、悪鬼の魔手から救い出さなければ。
水銀燈が再び走り出そうとした矢先、耳の奥で、めぐの切羽詰まった声が響いた。

(水銀燈っ! 水銀燈っ!! 早く――お願いだから、早く来てっ!)

水銀燈は脱兎の如く階段を駆け下り、ロビーを突っ切って、土砂降りの雨の中に飛び込んだ。
ここからはもう、あの男――慈雲童子の邪気を辿って行けばいい。
少し意識を集中するだけで、禍々しい妖気を感じ取れた。病棟の北側から漂ってくる。

お願いよ…………間に合ってちょうだい。
祈りながら、水銀燈は跳ね上げた水飛沫で裾が汚れるのも構わず、全力疾走した。





ジュンの右手が、私の左手に触れるまで、あと数センチ。
心の中で水銀燈を呼ぶ一方、私は背後の薔薇水晶にも、覚醒を呼びかけていた。
このまま……なすがままに玩ばれる彼女を見ているのは、絶対に嫌だから。

「目を覚まして、薔薇水晶! 貴女は、あやつり人形なんかじゃないわ!
 貴女は天使よ。誰が何て言おうと、そう決めたの。
 だから、こんな奴に屈しないで。抗うことを諦めないで!」
「ふ……往生際が悪いな、君も」

ジュンは、掌が触れ合うまで、あと数ミリのところで腕を伸ばすのを止め、かぶりを振った。

「そいつは千二百年に亘って、僕の術を、その身に宿し続けてきたんだ。
 身も心も、僕の色に染まりきってるんだよ。今更、僕以外の命令を聞くわけないだろう?」
「そんなこと無い! 私の声は、ちゃんと薔薇水晶の心に届いてる。きっと反応してくれるわ。
 ねえ、そうでしょう? 思い出して! 二人で決めた合い言葉を」

一瞬、私の右腕をねじ上げている薔薇水晶の手が、ぴくり……と震えた。
それで、一縷の希望が見出せたわ。彼女はまだ、傀儡に成り果ててない。私たちの絆は、まだ――
目覚めろ、その魂! 私は、想いの限りを言葉に代えて、薔薇水晶の魂に呼びかけた。

「私は必ず元気になるから……だから、連れてってよ……約束の場所へ!」
「約、束……の……場所へ」

放たれた、蚊の鳴くような囁き。だけれど、それは紛れもなく、彼女自身の意志表示。
ジュンは薄ら笑っていた口元を引き締め、頬を引きつらせた。
よもや、薔薇水晶が未だ抗う力を宿しているとは、思わなかったのだろう。

「バカな」と吐き捨てて、差し出したままになっていた私の左手を、乱暴に掴んだ。
重ねられた掌から、電流を思わせる、ビリビリ痺れる何かが注ぎ込まれてくる。
その痺れは、直ぐに激痛を生み出し始めた。骨が軋み、肉が膨張して、破裂しちゃいそう。

「ぅああぁっ!」

手首から二の腕、そして肘へ……。
激痛を伴う痺れは、ゆっくりと――でも、確実に――私の頭へと近付いてくる。

「やめてぇっ! あぁ――っ!!」 

肘を越えた辺りで、私は激痛に耐えきれず、意識を失いそうになった。
それも、いいかも知れない。訳が分からない内に、全てが終わってくれるなら。
言うなれば、手術前の全身麻酔みたいなものよ。

けれども、意識の手綱を放すより早く、私の身体は激しく揺り動かされた。
激痛から解放されて、全身の力が一気に抜けた私は、濡れたアスファルトに倒れ込んだ。
一体……何が起こったの?
雨粒が飛び込んでくるのも構わず、霞む眼を見開いて、空を見上げる。
――と、剣を杖代わりに、肩を波立たせて荒い呼吸を繰り返す薔薇水晶の姿が、私の瞳に映った。

「ゴメン……ね、め……ぐちゃん。私……また同じ過ち……を」
「くそっ! 傀儡のクセに生意気な。今まで生かしといてやった恩を忘れやがって」
「あ…………なたの……人形には……ならないっ」

そう言った次の瞬間、薔薇水晶は剣を投げ捨てて、自分の脇腹に拳を突き入れていた。
肌を貫いた痛みを、声に変えて吐き出そうと言うのか、彼女は絶叫した。
絶叫し続けながら、自分の腹腔を、ひたすらにまさぐっていた。
そして――

引きずり出された彼女の手中には、鮮血に塗れた形代が、握り潰されていた。
傀儡の形代を摘出したことで緊張の糸が切れかけたのか、薔薇水晶の膝が、かくんと折れた。

「薔薇水晶っ! 貴女、なんて無茶な真似を」

慌てて立ち上がり、抱きかかえた私の腕の中で、彼女は弱々しく微笑む。

「めぐちゃん…………今まで、苦しめちゃって……ごめんなさい。
 もっと早くに、こうすれば良かったのに……私、ひとりじゃ術に抗えなかったの」
「良いのよ! そんな事は、今更だわ! それよりも」

出血が多すぎる。早く怪我の治療を――なんとかして、血を止めないと。
しかし、助かる道を模索する私の前に立ちふさがる、絶望。
ジュンが、私たちに向けて右腕を伸ばし、今しも掌から雷撃を飛ばそうとしていた。
こんな至近距離で、薔薇水晶を抱えたままでは、躱せるワケがない。

「予定変更だ。お前らの能力は、殺した後で、ゆっくりと吸い出すとしよう」

ジュンの掌が、ひときわ薄ら青い輝きを増す。開いた指の間に、小さな雷が走っている。
来るっ! 私は咄嗟に、薔薇水晶の身体を抱き寄せ、自分の身体を楯にしようとした。
雷も電流なんだから、離れ離れになった方が正解よね、きっと。
でも、たとえ無駄と解っていても、私は薔薇水晶を放したくなかった。
彼女は、ずぅっと私を護ってくれてたんだもの。だから、今度は私が護ってあげる番。
何があろうと、何をされようと、私は此処にいるから。

直後、眩い閃光が、あらぬ方角に走り去った。私たちをいたぶって、遊んでいるの?
キッ! と睨み付けた先には、勝者の驕りではなく、
右腕を押さえて、忌々しげに歯噛みするジュンの姿があった。

「ちょおっとぉ。私を忘れてるんじゃなぁい?」

甘ったれた猫が、喉を鳴らしながら漏らす、囁きのように――


「おばかさぁん」


私の心を波立たせる、声。押し寄せる、獰猛な殺意。
背筋を走る震えは、歓喜? それとも戦慄? あるいは……その両方。
私のために、水銀燈が駆けつけてくれた喜び。
私のせいで、薔薇水晶を傷付けてしまった悲しみ。
表裏一体の感情が渦を巻き、複雑に絡み合って、喜と悲の無限螺旋をカタチ作る。

「くっ! まさか、お前も復活していたとはな。微塵も気配を感じなかったのに」
「本格的に覚醒したのは、つい最近だからぁ」
「なるほど……それで、か。だったら、直ぐに送り返してやるよ。冥府ってヤツにな」
「強がっちゃってぇ。他人の力を奪わなければ、闘うことも出来ない臆病者のクセにぃ。
 本当は、私と相見えることが怖いんでしょ? 傷つくのが恐ろしいんでしょぉ?」

ぐっ! と言葉を呑み込んだジュンは、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。
水銀燈の気迫に圧されているのは確実だ。でも、見ていて、反応が過剰な気もする。
強大な力を有し、一度は勝利している相手なのに、どうして怖れているのかしら?
薔薇水晶の怪我に、負担を掛けるのは忍びないけれど……私は、彼女に訊ねてみた。

「それは、ね……彼女が、彼と……同……属性だから。平方根……を二乗すれば、整数に。
 虚数を……乗算すれば、-1に……」
「喩えがイマイチだけど――つまり、鬼の血を宿した者同士なら、傷付けられるのね?」
「……うん。属性の異なる私が斬っても……再生されちゃう……だけ」

やっと解った。何故、薔薇水晶が傀儡の形代を取り込むなんて無茶をしたのか。
攻撃は最大の防御。この娘は、私を護るために、彼を斃す道を選んだ。
それ故に、彼の術を媒介にして、僅かでも鬼の力を得ようとしたのね。

青白い閃光と、漆黒の羽根が、雨を引き裂いて乱れ飛ぶ、その脇で――
薔薇水晶は、ひと頻り話し終えると深く息を吐き、呼吸した。
そして、にっこりと笑って、

「見てて、めぐちゃん。今度こそ、決着を付けてくるから」

私を、脇に押し退けた。
「千二百年前は、あと少しのところで傀儡の術に屈しちゃったけど、
今度こそ……この縛鎖を断ち切るから」
「水銀燈の力添えがあれば、可能なのね?」
「うん。それに、めぐちゃんの力も……貸して」
「私の、力? 良いわ! 何をすればいいの?」
「あのね…………私が合図したら、言って欲しいの。『乙女の涙は乙女色』って」

意味は解らなかったけれど、それしきの事なら、お安い御用。即座に頷いて、承諾した。
薔薇水晶は剣を拾うと、水銀燈との闘いに集中しているジュンの不意を衝くべく、
薄紫色の光を纏って切り込んでいった。負傷しているにも拘わらず、そのステップは飛ぶが如く。

彼女の接近に気付いたジュンが、牽制の雷撃を放とうとしたが、既に手遅れだった。
正面から剣に貫かれて、動きが止まった彼の背中に、気を込めた黒い羽根が突き刺さる。
ジュンは双眸を見開き、口の端から黒い血を吐き出した。

「今よ! めぐちゃん、お願いっ!」
「わ、解ったわ」

約束どおり、薔薇水晶に教わった言葉を口にする。
その途端、彼女が放つ光が更に輝きを増して、二人を呑み込んでいった。

これは、どういうこと? 何が始まっているの?
水銀燈が、つ……と、隣に立って、私の肩に手を置いた。
雨に濡れて、冷えていたせいか、彼女の手は、とても熱く感じられた。

「……しっかりと、その眼に焼き付けておきなさいな」

なぜ、そんな言い方をするの? まるで、もう二度と薔薇水晶に会えないみたいじゃない。
――まさか? 振り向くと、水銀燈は私に微笑みかけていた。
口元に、無理矢理つくっただけの笑み。彼女の双眸は、真剣そのものだった。

「“乙女”とは“お留め”の意を示す言霊よ。同じ韻を踏むことで、言霊の力を強めるの。
 そして“色”は、“居る”の命令形。本来、不浄とされる女性が、巫女として神事に携わるのは、
 神を引き留める為なのよ。まあ……今回は、別の意味を孕んでいるけれど」
「別の……? それって――」
「あの娘、最初っから、めぐの言霊と乙女の涙を以て、あいつを封じるつもりだったのね。
 自分の身を、あいつの墓標にして、二度と戻れないlost groundに堕ちる気よ」
「そんな――そんなのって、ないわ! 薔薇水晶! 貴女、私との約束を破るつもり!?
 一緒に、向日葵を見に行くって、約束したのにっ」

光の中で、薔薇水晶が振り返った。その拍子に、彼女の眼帯が外れ、滑り落ちる。
嘗て、潰された筈の左眼は、琥珀色の輝きを湛えながら、金色の涙を流していた。

「ごめん……なさい。でも、めぐ……ちゃ……護、に……これ……しか」
「仕方ないのよ、めぐ。あいつ――ジュンは、実体を持たない存在。
 人が黒い感情を産み出し続ける限り、消滅する事なんて無い。封じる以外、手だてはないの」

私の肩を掴む水銀燈の手に、力が込められる。
徐に紡ぎ出される、呟き。ごめんね――――水銀燈は確かに、そう言った。
その謝罪は、人柱にする事への? それとも、疫病神よばわりしたことの?
水銀燈の呟きは、薔薇水晶に向けられたものだと思っていた。
自分が誤解しているだなんて、思いもよらなかった。


水銀燈の手が、私の肩から離れるまでは――

「私も、行かなければならないの」
「水銀燈っ?! そんな…………なんで? どうしてよ?」
「傷付いた彼女だけでは、封印に要する力が足りないから。
 このままだと、千二百年前の過ちを繰り返すだけ。問題の先送りでしかないわ」

言って、水銀燈は笑った。迷いも無い、畏れも無い、後悔も無い、清々しい笑顔。
『置いて行かないで』『ずっと側に居て』『私を手放さないで』
思いつく限りの台詞を、頭の中に列記する。水銀燈を、思い留まらせるために。
でも、私は知っていた。どんな言葉にも、彼女を引き留める効力が無いことを。
だから、何も告げなかった。何も、言えなかった。

両手を握りしめて、ただ立ち尽くすことしか、私には出来ない。
水銀燈は、私の頬を濡らす悔し涙を、人差し指の背で、そ……っと拭ってくれた。

「……ありがとぉ、めぐ。私のこと、そんなにも大切に想ってくれてたのねぇ」

私はギョッとして、すぐに理解した。ああ、また私、感情が顔に出てたのかって。
しかし、彼女は私の左手に――薔薇の指輪に視線を落として、ハッキリと言った。

「その指輪を通じて、めぐの気持ちが伝わってきたわよ」
「えっ? 貴女、そんな事ありっこないって――」
「あんなの、ウソに決まってるでしょぉ? ホントに、おばかさんなんだからぁ」
「なっ?! ひ……ひどいわ!」

本当に、酷い女(ひと)ね、貴女は。
私の気持ちを知っていながら、置き去りにするんだから。

独りぼっちに、するんだから――


「水銀燈…………私……私はね……」
「待って! 何も言わないで!」

想いの丈を口にしようと、唇を開きかけたところで、強い語気が割って入った。
思わず口を噤んだ私に、水銀燈の言葉が、静かに覆い被さってくる。

「怒鳴ったりして……悪かったわ。でも、千二百年前に置いてきた言葉なら、
 今更、要らないの。貴女の気持ちなんて、足枷でしかないわぁ」
「そんな言い方って――」
「ホントのことでしょぉ? 第一、未練がましくて、鬱陶しいのよ。
 遙か昔に終わった関係を、今も引きずって、永久の愛を気取っているなんて……バカみたい」

苛立たしげに吐き捨てて、水銀燈は私に背を向けた。
雨に濡れて貼り付いたパジャマが、彼女の肌を透かしている。
その背中に刻まれているのは、目に見えない『拒絶』の二文字。
私は声を掛けることも、駆け寄って縋り付くことも出来なかった。


「星の海…………見せてあげたかったわ」

背中を向けたまま、水銀燈は言った。
一方的に語って、駆け出して行った。
必死に力を振り絞っている、薔薇水晶の元へ。刺し貫かれても尚、生への執着を見せる桜田ジュンの元へ。
そして、薄紫色の光は最高潮まで輝きを増して……不意に、消えた。


雨と、私と、薔薇水晶の眼帯を残して――――消えてしまった。