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  『家政婦 募集中』


電柱に貼られた、そのチラシを見たのは、五月の半ば……
ゴールデンウィークが終わって、すぐのことだった。


「家政婦……か」

思わず口を衝いた独り言が、やたらと虚しく聞こえたのは、暗澹たる心境のせい。
それは、見聞きするもの全てに灰色のフィルターをかけて、色褪せさせる。
もう随分と長い間、原色の世界を見ていない。
私はいま、人生に迷っていた。


私の人生を動かす時計に、狂った歯車が組み込まれたのは、何時のことだったのだろう。
マイクロ、いや……ナノか、ピコか、フェムトか――
恐ろしく微細な誤差を持った部品が、元々あった部品と付け替えられ、
なに食わぬ顔で動き続けていたのだ。気付かない私を、嘲笑いながら……。

私はさながら、病原菌に感染した病人だった。
命を蝕まれていることを自覚できずに、光あふれる幸せな未来に向かっていた。
いや、向かっていると、思い込んでいた。
自分の足元から伸びる影が、危害を及ぼす病魔だなんて、考えもせずに。

中学、高校、大学――
ここまでは順調だった。なにもかもが順調すぎて、それが当たり前になっていた。


私の人生時計に変調が現れ始めたのは、大学2年の時だろうか。
本当は、それ以前から微かな予兆がでていたのだろうけれど、
私がハッキリと自覚できたのは、あれが最初だったと思う。

高校の時から交際していた笹塚くんとの破局。
なにがいけなかったのか、私には解らない。彼にも、解らなかったと思う。
ただ、今まで経験したことのない、不自然で大きな波が訪れたのは、確かだった。
世界の全てが、繋がれた二人の手を引き裂こうとするように周り、
私たちは洗濯機に放り込まれた衣類のように翻弄されて――手を放してしまった。
あとはもう、なにがなんだか解らず、野となれ山となれ。

幸せを詰め込んだ宝箱――
そう信じて、私が手にしていた物は、結局……ただの空き箱だった。
綺麗な印刷が目を惹くけれど、その実、中身はからっぽ。
幸せのカケラだと思って、躍起になって拾い集めてきたソレは、ガラクタでしかなかった。
プラチナ、ゴールド、エメラルド、サファイア、ルビー、オパール、アメジスト、ダイアモンド。
夢中になって磨いていた貴金属や宝石は、悉く、アルミや真鍮、ガラス片だった。

(あの時は、ホントに虚しかったなぁ)

それまでの価値観が、根底から覆されて、私の中から『希望』の文字が失われた。
地崩れに遭った木のように、ただ、谷へ奈落へと滑り落ちていくだけ。
誰も、なにも……私の支えには、ならなかった。


――そして、現在。
辛うじて大学を卒業した私は、今をときめくフリーターに成り果てている。
いわゆる、ワーキングプア。随分とまあ、堕ちてきたものだ。


働けど働けど、我が暮らし楽にならざり……
そう詠ったのは、武者小路実篤だっけ? いや、違う。石川啄木だった。
最近、どうも頭の回転まで鈍くなったように思う。
ひょっとして、若年性の痴呆だとか…………いや、まさかね。

鬱々と沈みがちな気分を紛らすように、努めて顔を上げる。
目の前には、相も変わらず、電柱と……家政婦募集の貼り紙があった。
先方が希望する勤務時間は、丁度、バイトの合間に当てはまっている。

「やって……みようかな」

最初は、そんな軽い気持ちだった。



携帯電話で連絡を入れ、履歴書を手に訪ねた家は、私のココロを激震させた。
そこは、高校一年生時代に同級生だった男の子の住まい。
ちょっとしたトラブルで、登校拒否と引きこもりを始めたんだっけ。
あれ以降、彼の顔を見た憶えがない。
葬儀が行われた記憶がないから、多分、まだ生きてはいるハズだけれど。

来ない方がよかったかな。少し、躊躇と後悔が、顔を覗かせる。
でも、電話でアポ取った手前、ドタキャンするのは失礼だ。

「あれから、もう何年も経ってるんだし……平気よ、きっと」

門の前で拳を握り、自分に言い聞かせる私を、周囲の人はどんな目で見たのだろう。
ヘンな女。きっと、そうだわ。だって、自分でも、そう思うもの。


私を出迎えてくれたのは、とても人の好さそうな女性だった。
緩くウェーブのかかった髪と、まん丸で大きなメガネの奥の、愛嬌たっぷりの笑顔。
ずっと以前に、一度だけ会ったことがある。彼のお姉さんだ。
あれは……親友の巴に付き合って、プリントを届けに来た時だったかな。

「本当に、よく来てくれたわぁ。チラシを見て、来てくれたの?」

彼女――桜田のり(年齢不詳)さんは、そう言いながら、
ソファに座る私の前に、ティーカップを置いた。
私は「ええ、まあ」と、気の利かない挨拶しか出来なくて、自分がイヤになった。
昔はもっと、社交的に振る舞えたハズなのに。

「あ、あの……これ、履歴書です。お願いします」
「はぁい。じゃあ、お預かりしますねぇ」

私と向かい合わせで、のりさんは優雅な仕種で、ソファに腰を降ろした。
あまりに上品なものだから、つい、目を奪われてしまう。
だが、彼女の瞳が、手にした履歴書を走るにつれて、私の緊張も高まっていった。

「桑田……由奈さん」
「は、はひゃっ」

それほど突然のことでもなかったのに、私の返事は裏返り、彼女の笑いを誘った。

「そんなに、緊張しなくても良いのよぅ。さ、お茶でも飲んで、くつろいでね」

言って、のりさんは自分もティーカップに唇を付けた。
私に遠慮させないためだろう。彼女の細やかな配慮が、嬉しかった。



それから暫くの間、私たちはお互いを理解するため、暢気に語らい合った。
女の子同士で、歳の近さもあり、共通の話題は幾らでも見つけられる。
のりさんは気さくに接してくれるし、にこやかに私の話を聞いてくれるので、
ついつい、私も話を広げすぎてしまった。

「女子大生の就職が厳しいとは聞いていたけど、ホントそうですよ。
 才能とか、容貌とか、ほかの娘より傑出したものがないと、勝負にならないです」
「そうよねぇ。でも、由奈ちゃんくらい可愛かったら、どこか採用してくれそうだけど」
「お茶くみ係として? それとも、マスコットとして?」

自分でも、イヤな言い方をしたものだと思い、後悔した。
素直に『可愛い』と言ってくれたことを喜べばいいのに、憎まれ口を叩くなんて。
ひねくれた自分の性根を垣間見て、また、自分が嫌いになる。

「私は……そんなのイヤ。私は、会社や上司の人形じゃないもの。
 ちやほやされるのは若い内だけで、30過ぎればお局様よばわりでしょ。
 この世は所詮、見せかけばかりの平等で、実際は男尊女卑が罷り通っているのよ。
 だから、女は子供を産む機械だなんて、バカなこと言う輩でも議員になれるんだわ」
「あらあらぁ。居たわねぇ、そんな人が」
「あれが、外国の政治家を欺くため暗愚を装う策だったとしたら、
 私『貴方のためなら死ねます』って平伏しちゃいますよ、ホントに」

よほど日頃の鬱憤が溜まっていたのか、一気に捲したてていた。
そして、急に気恥ずかしくなり、テーブルのティーカップに目を落とす。
私は、ここに面接を受けに来たのに……なにしてるんだろう。

口を噤んだ私に、のりさんは大人の余裕を湛えた笑みを見せて、言った。
「ジュン君に、会ってくれる?」


彼の名を耳にして、私の心臓が一拍、躍った。
桜田くんが登校拒否するようになった一因は、私にもあるからだ。
もちろん、私が仕向けたワケじゃあないけれど、やはり気後れしてしまう。

「巴ちゃんは今でも、よく来てくれるのよぅ」

その声で、私は顔を上げた。「巴が?」
「ええ」と、のりさんは頷いた。

「由奈ちゃんは、巴ちゃんと会ってないの? お友達でしょう」
「高校を卒業してから、あの子とは会ってないです。別の大学に進んだので。
 親友と言っても、疎遠になるときは、呆気ないものですね」

まるっきり他人事のように喋る自分に、驚かされる。
私は、こんなにも変わってしまったのかと思い知らされて、愕然とした。
ほんの数年のことなのに、今では、海の果て、空の彼方……いや、それ以上。
まるで、歴史の教科書を眺めて、過去に想いを馳せている気分だった。

でも、のりさんは……初めて会った頃と変わらぬ笑みで、私を諭す。

「その気になりさえすれば、距離は縮められるものよぅ。
 だって、みんな同じ時代を生きてるんだもの」

自明の理だ。それすら失念していた自分が滑稽で、私は噴き出していた。
と、そこへ――

みしり、みしり。
階段を踏む音が降りてきて、私たちは唇を閉ざした。


程なく、ひとりの青年が、私たちの居る応接間に顔を見せた。
高校一年の頃より、すらりと背が伸びて、顔つきは険しくなっている。
メガネを掛けていたけれど、間違いなく、桜田くんだった。
引きこもりだから、もっと、こう……お相撲さんみたいに太った姿を想像していた私は、
意外さのあまり、まじまじと彼を見つめてしまった。

「あ――」呻きともつかない声を漏らした彼の表情が、見る見るうちに強張り、青ざめていく。
なんで、お前がここにいるんだ? 彼の目が、そう問いかけてくる。

「ひ……久しぶりね、桜田くん。私――」

あまり刺激しないよう、穏やかに挨拶したつもりだったけれど、
彼は口元を押さえるなり、脱兎の如く走り出した。
のりさんは慣れているのか立ち上がらず、私に哀しげな目を向け、言った。
「ジュン君の様子を、見に行ってあげて。お願いよぅ」

何故かは解らないけれど、私は素直に頷き、彼の後を追いかけていた。


桜田くんは、トイレでひどく嘔吐していた。私は隣に膝をつき、彼の背を撫でさする。
彼は咳き込みながらも、徐々に、呼吸を落ち着けていった。

頃合いを見計らって「大丈夫?」と、声を掛けてみた。
本音を言うと、怖かった。彼に「うるさい!」と怒鳴られ、突き飛ばされるんじゃないかって。
でも、桜田くんは――寂しげで、弱々しく、疲れ切った眼差しを私に向けて、
「ありがとう」と、ただ一言だけ。
その時、私の中に、不思議な感情が芽生えた。
落ちぶれた者同士が、慰め合う相手を見付けて、縋りたかったのかも知れない。
それでも私は、こう思っていた。彼の側に、居てあげたい……と。