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桜田家で、家政婦の仕事をするようになって、三日目のこと――
初めて、彼の方から声を掛けてくれた。

今までは、ずっと部屋に籠もりっきりか、たまに廊下で顔を合わせると、
吐き気をもよおしてトイレに駆け込んでいたのだ。
それからすると、だいぶ打ち解けてくれた証拠だろう。
なんとなく、野生動物に懐かれたような喜びを覚えて、私は彼に笑い掛けていた。

「どうしたの、桜田くん。お腹すいた?」
「……いや、その……いつも、ありがとな」

家事のことだろうか。それとも、彼が嘔吐する度に、介抱していることだろうか。
私は「気にしなくても良いのに」と、応じる。
これは仕事なのだし、半分は、私が好きでやっていることだ。
だから、彼に感謝される謂われはない。

「ねえ。ちょっと、お話しましょうか」

仕事の手を止めて、私が提案すると、桜田くんはコクリと頷いた。

「貴方は座ってて。お茶、煎れるね」

他人の家だけれど、今では勝手しったる我が家に等しい。
ちょっと厚かましいかなぁ、なんて後ろめたく思いながら、焙じ茶を煎れた。
私たちはソファに座って、向かい合う。けれど、彼は私を見ようとしない。
ばつが悪そうに、顔を背けたままだった。あの時から、ずっと。

「そう言えば、巴……よく来てるんですってね」

桜田くんとの共通の話題と言えば、高校の頃にまで遡らなければならない。
そうなると、どうしてもあの忌まわしい事件に言及せざるを得なくなるワケで……
結局、無難に友人関係の話となる。
巴の名を聞いて、彼の肩が、ぴくりと揺れた。

「柏葉は、このところ来てないんだ」
「知ってる。ここへ面接に来た日、久しぶりに彼女の家に電話してみたの。
 そうしたら、海外出張だって。新卒入社なのに、バリバリのキャリアウーマンよねぇ」
「そっか。凄いんだな、あいつ」
「ホントよね。それに引き替え、私なんて大卒だけど内定もらえず、しがないフリーター。
 所詮、学歴なんて空虚な肩書きなんだわ。惨めになっちゃう」
「それを言ったら、僕なんかニートだぞ。もっと惨めだ」

いかにも哀れっぽく吐き捨てて、桜田くんは肩を竦めた。
でも、背けられた横顔は、微かに笑っている。自嘲めいた冗談なのだろう。
知らず、私も彼と同じ仕種を真似していた。

「片や、学年のプリンセス。片や、ドレスのデザイナー。
 お互い、落ちぶれたも――あっ!?」

調子に乗って、うっかり禁句を口にしてしまった。
慌てて、両手で口を押さえた私に、彼はゆっくりと顔を向けた。

「そんなに気を遣わないで良いよ。僕なら、大丈夫だから」

確かに、吐き気は催さなかった。でも、ココロに負った傷が癒えたわけではない。
ふらりふらりと、階段に向かう彼の背中を見送りながら、
私は、ごめんなさい……と、囁くことしか出来なかった。



勤めだしてから、一週間が過ぎた。思いの外、馴染んでる自分に驚かされる。
フリーターの私にとっては、五月病などアフリカあたりの風土病に等しい。
無縁であるが故に気楽であり、また、ちょっとの劣等感を覚えるのも厳然たる事実。
どこかの会社に、正社員として雇用されていれば、今頃は、私も――
そんな、詮無いことを考えながら、今日も家事に勤しむ。
洗濯物を干しつつ見上げた皐月の空は、夏の気配を匂わせ、どこまでも高かった。

(意外に私、こういう生活の方が相応しかったりして)

人生を諦めたワケじゃない。
狂った時計に引きずられて、ずるずると堕ちていくつもりなんか、無い。
でも、家庭に安住の地を求めるのも、悪くないかと思えた。
もっとも、相手が居れば……の話だけれど。


洗濯、掃除を終えて、私はお昼の下準備でもしようと、冷蔵庫を開いた。
そして、いつもながら憂鬱な溜息を吐く。
ハッキリ言って、不健康。レトルト食品や、日持ちしそうな食べ物ばかりで、
生鮮食品が乏しいんだもの。
戸棚を開けても、缶詰やらパスタ、カップ麺が目立つ。

「仕方ないわね。いっちょ、買い物に行きますか」

私は支度を済ませて、階下から桜田くんの部屋に声を掛けた。
すると、いつもは呻くような声しか返ってこないのに、今日に限って彼が顔を見せた。
しかも、意外なことを口にしたから、二度ビックリ。

「僕も、一緒に行っていいか」

どういう風の吹き回しか。
いやいや、これは喜ぶべき変化かも知れない。
毎日、私と……忌まわしい過去と顔を突き合わせている内に、彼の中で、
気持ちの整理がつき始めているのだとしたら、大きな前進だ。

「平気なの?」
「解らない。だけど……独りじゃ絶対にムリだから」
「……うん。一緒にお出かけしよ」

目深に野球帽をかぶった彼と手を繋いで、私たちは町に出た。
平日の午前十一時。なんだか、長閑な空気。時間の経つのが遅く感じられる。
たまに、通行人と擦れ違うとき、彼は強く私の手を握り、身を強張らせた。
その度に、私も桜田くんの手を握り返して、大丈夫だから……と囁きかけた。

そんなことを繰り返し、騙し騙しの状態で買い物を済ませた頃には、
桜田くんは、すっかり消耗しきっていた。
やっぱり、いきなりは辛いよね。筋力トレーニングと同じよ。

「少し、そこの公園で休んでいきましょうよ」
「……悪い」
「気にしない、気にしない。気持ち悪くなったら、言って」
「平気……」

木陰のベンチに彼を座らせて、近くの自販機で冷たいジュースを買った。
それを額に当ててあげると、桜田くんが安堵の息を吐く。

「ひどい汗ね。これ、使って」

私が差し出したハンカチで汗を拭うとき、何年かぶりに、メガネを外した彼を見た。


(ウソ……やだ。結構イケメンじゃない)

頬に、外気とは違う熱を感じた。
こういうの、ショタコンって言うのかしら。ううん。違うわね、きっと。
だって、高校生の頃は、ただの同級生。恋愛感情は疎か、何の感情も抱いてなかった。
私にとって、彼は私を取り巻く環境の一部。
教室に並んだ机や、黒板、道端の電柱に等しい存在でしかなかったんだもの。

「ねえねえ、桜田くんっ。コン……」

コンタクトレンズにしないかと言いかけて、思い留まった。
他の女の子たちに、おいそれと見せてあげるのが、急に惜しくなったからだ。
彼の素顔を眺める特権は、私やのりさんだけが持っていればいい。巴にだって、見せたくない。

「なんだ、コンって?」
「えっ? ああ……その、ええと……なに?」
「僕が訊いてるんだろ」
「あっ、そうよね。そうそう! あはは――」
「……お前、大丈夫かよ」

訝しげな瞳で私を見つめる彼に、咄嗟の思い付きを口にする。

「こん――今度、もう少し外出慣れしたら、映画を見にいかないかなぁーって」
「……いいよ」
「えっ?」
「今度、一緒に行こう」

聞いた途端、どうしてだか解らないけれど、私は涙を止められなくなっていた。
恥ずかしすぎて泣けちゃったのかな。そうだわ……きっと、そういうコトなのよ。



それから更に一週間が過ぎて、もう半月になるのかぁ……と、改めて思う。
月日の経つのは早いものね。あー、なんか年寄り臭いわ、私。

それにしても、桜田くんの回復ぶりは、目を見張るものがある。
初めてこの家に伺ったときは、私と顔を合わせることも出来なかったのに、
今では真っ直ぐに目を合わせて、気軽にお喋りするほどだ。
もっとも……まだ、のりさんと私に限っての話なんだけどね。

桜田くんの変貌ぶりを日々見守り、嬉しく想う一方で、ふと、不安を感じることがある。
もしも巴が帰国したら、桜田くんは誰を見つめるのだろうか――と。
私? それとも、巴を選ぶ?

分からない。
そもそも、巴と桜田くんが、そういう間柄である証拠などない。
ただ……親友として、巴の気持ちには気付いていた。
あの子は、桜田くんのことが好きなのだ。口に出して言ったことは、一度もないけどね。
だから、学級委員の仕事にかこつけて、足繁くここを訪れていた。


このまま、私は居ても良いのかしら。居続けるべきなの?
それとも、桜田くんの引きこもりが治って、家政婦が不要になったら、はいサヨナラ?

「痛いっ!」

バカなことを考えながら料理なんかしてたから、指を切ってしまった。
私の声を聞きつけた彼が、心配そうに駆けつける。
そして、遠慮する私をたしなめて、怪我の治療をしてくれた。
――そんなに、優しくしないで。
私のココロの声は、しかし、声にならない。する気もなかった。



1日ごとに、私の中でナニかが膨らんでいく。
今までに感じたことのない強い想いが、私を戸惑わせる。
そして、彼との再会から、二十日が過ぎた日のこと――

彼の方から、映画に誘ってくれた。


異存などなかった。即答でイエス。
私たちは駅ビルに行って、上映時間まで喫茶店でのんびり過ごし、映画館に入った。
座席は後方の、左隅。どこでも良かったワケじゃない。敢えて、そこを選んだ。
上映時間の関係か、入場者数は少ない。
天にまします誰かさんが気を利かせてくれたのか、私たちの周りに座る客は居なかった。

照明が落とされ、しつこいほどテレビCMされている映画が始まった。
壮大なファンタジー小説が題材の映画らしいけれど、内容なんて、どうでもいい。
作った人たちには申し訳ないけど、私の目はスクリーンを見ていないから。

繋いだ掌が、じわりと汗ばみだした頃、私はそっと、手を解いた。
どうした? 不思議そうに私を見る彼の目が、そう語った。

「ねえ……ちょっといい?」

訊いたけれど、答えは待たず、彼のメガネを外した。

「なにするんだよ、見えないだろ」
「この距離で、私も見えないくらいのド近眼なの?」
「ああ。ぼやけて、ぜんぜん分からないよ」
「そう……だったら」

私はグッと身を乗り出し、顔を近付けて……彼の唇を奪った。
奇しくも、スクリーンの中で、主人公とヒロインも同じコトをしていた。

「これだけ近付いたら、見える?」
「……うん」
「じゃあ、もう一度――
 もっと私を見て。私だけを、見つめて」

気持ちを伝えたけれど、答えは待たず、彼の口を塞いだ。
彼の返事を待つ間に、この幸せが指の間から零れ落ちてしまうのが、怖かったから。

私は、貴方だけのプリンセスになりたい。
貴方は、私だけのナイトに、なってくれるの?

答えを知りたい……でも、やっぱり……知りたくない。




もうすぐ、一ヶ月が経つ。私は、幸せだ。今もガッツリ継続中。
彼は、私のためにドレスを作ってくれると、約束してくれた。
高校一年生の時、事件の発端となった、あのドレスを。
それは、彼にとって過去との決別と、新しい人生への出発を意味する。

私は、あのドレスを纏って、ジュンとのウェディングを迎える予定だった。

夢のジューンブライド。
ずるずると滑り落ちてきた私の人生にも、やっと……光が射し始めたみたい。