こよみは梅雨に入り、各地で例年にない雨量が記録され、少なからぬ被害が出ていた。
地球温暖化の影響だろうか。ここ数年、世界各地で異常気象が目立つ。
今日も朝から土砂降りで、さすがに仕事に行けず、私はテレビで天気予報を眺めていた。
彼から電話が入ったのは、そんな時だった。

『ドレスが完成したんだ。雨足も弱まったし、これから見せに行くよ』
「え? いいわよ、明日で」
『1秒でも早く、由奈に着て欲しいんだよ』
「でも、危ないわ。ドレスだって、びしょ濡れになっちゃう」

渋る私に「大丈夫だって」と安請け合いして、ジュンは通話を切った。
まったく、変なところで強情なんだから。

とは言うものの、正直なところ、すごく楽しみだった。
イラストを見て、完成イメージは分かっている。早く、袖を通してみたい。
私は、緩む頬をピシャピシャ叩いて、彼が来たときのために、タオルなどの用意を始めた。
ポットのお湯を沸かし、お風呂の用意もしておく。
準備をしている時の私は、間違いなく、世界中の誰よりも幸せだった。
もうすぐ、ジュンが来る。濡れネズミになって、玄関のドアを潜ってくる。
私は玄関に座り込んで、彼が飛び込んでくるのを待った。
出迎えた時にかける言葉を考えていると、寂しいどころか、嬉しくて仕方なかった。




やがて10分が過ぎ、1時間になって、3時間が経った。

けれど、どれだけ待ち続けても…………彼が来ることは、なかった。



その報せは、お母さんの口から伝えられた。
近くを流れる河に架かる橋のひとつが、濁流によって、押し流されたという。
降り続いた雨で、いつの間にか、限界水位を超えていたらしい。

胸が締め付けられるように痛くなって、息をするのも苦しくなった。
彼の家から、私の家まで来る間に、必ず河を渡らないといけないのだ。
もし、件の橋が、彼を乗せたまま押し流されたのだとしたら……。


得てして、不安というものは、最悪のカタチで現実となる。
あのドレスは、しっかりラッピングされた状態で、橋から少し下流の木に引っかかっていた。
そして、付近に、彼の姿は無かった。



ジュンが行方不明のまま、私の手元に渡ったドレス。
純白であるべきソレは、僅かに染み込んだ泥水によって、みにくく斑に汚れていた。
落ちぶれたプリンセスには、相応しい衣装かも知れない。
結局、私はどこまでも堕ち続ける運命なのだろう。
時計に組み込まれた、狂った歯車を取り除かない限り、ずぅっと狂いっぱなし。



梅雨前線の勢力が弱まると、私はドレスを携え、彼の家に向かった。
橋は壊れたままで、かなり遠回りしなければいけなかったけど、苦にならなかった。

このドレスを最初に着るのは、彼の前で――
そう、ココロに決めていたから。



突然の訪問にも拘わらず、のりさんは寂しさ隠し、喜んで迎え入れてくれた。
彼の消息が分からなくなって、もう2日。捜索は続けられているけど、進展はない。
認めたくはないけど、ほぼ絶望的だった。
もう、彼は海まで流されて、冷たい水底に横たわっているのかも知れない。
言葉にしないだけで、誰もが薄々、悪い想像を膨らませている。

「彼の部屋で、着替えさせてもらって、構いませんか?」
「もちろんよぅ。さあ、遠慮しないでぇ」

最初は、自分の部屋で着替えて、彼を追いかけようと思っていた。
ジュンが見に来てくれないなら、私の方から、見せに行こうと。


――でも、結局、私は行動できなかった。
だって、彼はまだ見付かっていない。死んでしまったと、決まったワケじゃない。
早とちりで、ロミオとジュリエットになるのは馬鹿げている。

しかし……彼が見付かるのを、ただ待ち続けることも、できなかった。
じっとしていると悪い妄想ばかりがココロを占めて、気が狂いそうになる。
何かをしなければ……。そんな強迫観念が、更に私を苦しめた。

そこで考えたのが、彼の部屋で、ドレスを着ることだった。
彼の部屋で、彼の代わりに、彼の写真に見てもらおうと思ったのだ。
汚れたプリンセスと、写真のナイト。
惨めで、貧乏ったらしくて、お似合いのカップルだと思わない?

部屋のカーテンを閉ざし、薄暗い部屋の中で、私は着替え始める。
それが、虚しさ募らせる私に許された、せめてものココロの慰め。


惜しげもなく、あしらわれたフリル。
ふんだんに、と言って、しつこさを感じさせないリボンの群。
品格と美しさを併せ持った、クラウン。
独りで着るのは、意外に大変で、鏡を前に悪戦苦闘していた。
ドタバタうるさかったからだろう。のりさんが、手助けに来てくれた。

ドレスのスケッチを眺めながら、あれこれ試行錯誤していると、矢庭に、外が騒がしくなった。
なんだろうと、二人して首を傾げていた所に、インターホンが鳴る。


「まさか!?」

私と、のりさん。二人の声が見事に重なる。
のりさんは弾かれたように走り出して、あちこちの壁にぶつかりながら玄関に向かった。
でも、私は着替え中だから、人前に出られない。
ヤキモキしながら、階下から届く、くぐもった話し声に聞き耳を立てるしかなかった。
そして――

階段を駆け昇ってくる、軽快な足音。あれは、気が急いている時の足音。
私には、すぐに分かった。だって、一ヶ月以上も聞き続けてきたんだもの。
涙に曇る視界の向こう……ドアの前に立つ彼の姿を目にして、私の喉から絞り出されたのは、

「どうして?」

――とだけ。
それは、ありとあらゆる『どうして?』の集約。
どうして無茶なんかしたの? どうして、無事ならすぐに連絡くれなかったの?
どうして――――戻ってきてくれたの?
今こそ聞きたかった。映画館で聞くのを躊躇った、ジュンの答えを。

「言ったろ。大丈夫だ……って。由奈との約束は、どんなことでも、必ず守るよ。
 これからだって、きっと守っていく」

臆面もなく、彼が言う。
だから、私も照れや恥じらいをかなぐり捨てて、伝えた。

「こんな、見窄らしく薄汚れたプリンセスだけど、良いの?」
「それを言ったら、僕だって傷だらけのナイトさ」

ジュンは、包帯の巻かれた腕を上げ、イテテ……と涙を浮かべながら笑った。
後で聞いた話だけれど、ジュンは河口の岸辺に流れ着いて、病院に収容されてたんだって。
まるまる二日、意識不明で、身元を確認する物を持ってなかったから、
歯形を元に、歯科医の治療履歴から身元を照合したそうよ。
それで、生存確認の連絡が遅れたんだって。気を揉ませてくれるわ、ホントに。

部屋に踏み込もうとして蹌踉めいた彼を、私は駆け寄って、しっかりと両腕で支えた。
高校の、学年集会の時は背けてしまった顔を、今は、真っ直ぐ彼に向けて。

「本当に、私で……良いの? 巴じゃなく?」
「くどいな。なんで柏葉が出て来るんだ。
 僕は、由奈のために、そのドレスをデザインした。他の、誰のためでもない」
「私の……ために」
「それに、マイナスとマイナスは、かけ算すればプラスになるだろ。
 だったら僕らは、まさにベストカップルじゃないか」

どうしようもない、中学生じみた冗談を言って屈託なく笑う彼に、私は抱きついていた。
こんな、平凡すぎる生活も、満更じゃない。
いい加減、肩肘はって生きるのにも疲れてたし……
やっと、堕ちてゆく私を受け止めてくれるヒトの胸に、安らげる場所を見付けたんだもの。


私の涙は、少し薬品くさい彼の服に、音もなく吸い込まれていく。
もしかしたら、それは狂った歯車がこすれて、磨耗したカケラだったのかも知れない。
キラキラと落ちてゆく涙を見つめながら、彼の温もりを感じているだけで、
不自然な回転が生み出していた不協和音は、徐々に、素直な旋律へと変わっていった。

ジュンの手が、私の露わになった背を――素肌を――愛おしげに、撫でる。
その優しい指の感触は、得も言われぬ幸福感を、私に与えてくれた。
夢みるような心地に、私を導いてくれた。

「さあ。僕が手伝って、ちゃんと着せてあげるから、離れて」
「……うん。でも…………もうちょっとだけ――」

のりさんが遅ればせながら顔を見せたけれど、キニシナイ。

私は……
この世で最も大切な人と、1秒でも長く、唇を重ねる。
今や、彼がくれる新たな息吹こそが、私の人生時計のクォーツを振動させる源なのだから。


  貴方だけのプリンセス。

ユメみていた日が、こんなにも早く訪れるなんて、夢にも思っていなかった。
幸せすぎて怖くなるなんて、初めての経験だった。
だから、震えを止めて欲しくて、ジュンに囁く。きつく抱き締めて……と。

  泥だらけのドレスを来たお姫様と、包帯だらけの勇敢な騎士。

ふたり並んで、のりさんに撮ってもらった写真は……
アルバムの、一番初めのページで――幸せそうに、はにかんでいる。




「すっごくいい顔してるわ」

高校を卒業して以来、初めて顔を合わせた親友は、満面の笑みで、そう言ってくれた。
昼休みの時間帯、オフィス街の喫茶店で、再会を果たした時のことだ。
窓辺のテーブルと言うこともあり、初夏の眩しい日射しが、巴の笑顔を輝かせていた。

巴は本当に、ココロから、彼が立ち直ってくれたことを喜んでいる。
そして、私たちが幸せになったことを、誰よりも祝福してくれていた。
もしかしたら、私に彼を取られて、悲しんでしまうかとハラハラしてたけど――
杞憂だったみたい。巴は、私なんかより大人で、強い人なのね。
彼に縋らなければ、もう生きていけそうもない私なんかより、ずっと強い。


「巴も、彼のことが好きなんでしょ」

二人だけという気兼ねのなさが、無思慮な言葉を誘う。
訊かずとも、答えは解っている。訊けば、巴を傷つけることも。
しかし、彼女が笑顔を崩すことはなかった。

「ええ、大好きよ。これからも、ずっと……大好きでいると思う」
「一途なのね。どうして、その想いを伝えなかったの?」
「それは…………私は、桜田くんに必要とされなかったから」

なんの冗談かと問い返すより先に、巴の深く澄んだ瞳が、私を制した。

「気付いてなかったの、由奈。彼が本当に必要としていたのは、貴女なのよ」
「……ウソ?」
「本当よ。その証拠に、彼は由奈と再会して、殻を破ることが出来たわ。
 私が、どれだけ通い詰めて、励ましても、気持ちは届かなかったのにね」

言われてみれば、確かに、そうだった。
彼の元を訪れた回数ならば、巴の方が、間違いなく多い。

にも拘わらず、彼は私を選んでくれた。巴じゃなく、私を。
そして、私と一緒に居ることを、望んでくれた。
これ以上の喜びは、ちょっとやそっとで見付けられそうもない。

巴は「そういうコトなのよ」と呟いて、カップに残る冷めたコーヒーを飲み干した。
本当は辛いだろうに、相変わらず気丈な人ね。
そんな貴女だから、たくさんの人に好かれるんだろうけど。


「あ……わたし、そろそろ行かなきゃ」

巴は腕時計に目を落とし、伝票を摘んで席を立った。
そして、私に向けて、不器用なウインクをひとつ飛ばした。

「もし、由奈が桜田くんに飽きた時には、連絡して。いつでも引き取りに行くから」
「巴に新しい恋人ができる方が、先じゃないかしら?」
「……そうかも」
「そうよ。間違いないわ」

私は自信たっぷりに、そう伝えた。
他人の幸せを、ココロから喜ぶことができる巴だもの。きっと、素敵な人に巡り会える。
そうじゃなきゃ、天にまします誰かさんは、とんでもなく底意地が悪い。

「また――会おうね」去りゆく巴の背に、再会の約束を投じる。
振り向くことなく「ええ、また今度」と答えた彼女の声は、一点の曇りもなく澄み切っていた。



それから数分と経たず、彼が喫茶店に入ってきた。
きょろきょろして、小さく手を振る私を見付けると、足早に近付いてくる。
私の腕時計は、13:00を表示している。

「驚いたわ。ホントに、約束の時間ぴったりね」
「だから言ったろ。由奈との約束は、きっと守るって」

どうだと言わんばかりに胸を張るけれど、息切れまでは隠せない。
なんだか、こっちが気の毒になってしまう。
でも……なにげない彼の気遣いが、とても嬉しい。

「もうちょっと早く着いてたら、巴に会えたのに」
「そうだったのか。柏葉、元気だった?」
「ええ、とっても。貴方を奪い取るって、息巻いてたわ」
「ヒドイ冗談だな」

肩を竦めて、彼が、さっきまで巴が座っていた席に座る。
それを不快だとは思わなかった。だって、ほら……彼の瞳は、いつでも私を見てくれる。
私が集めていたのは、貴金属に似た卑金属や、色ガラスばかりだと思っていた。
でも、たくさんの紛い物の中には、数える程度だけれど、本物も混じっていたのよね。

私はテーブルの上に両手を伸ばし、ちょん……と、彼の指先をつつく。
手を握って欲しい。それが、二人だけの合図。
彼の手が、まるで壊れ物を扱うかのように、私の手を柔らかく包み込んでくれた。

「考えてみたら、まだ一度も言ってなかった気がするわ」
「なにを?」
「貴方が好きです。愛…………してます」

偽りない気持ち。
こんなにも素直な想いを、こんなにも素直に伝えられる。
ああ、なんて気分がいいんだろう。

私に生まれ変わるキッカケをくれたのは、貴方。
貴方と出会えなかったら、私はまだ、萎れた花みたいに下ばかり向いていたハズだ。
だから、今は……天にまします誰かさんの気まぐれに、感謝しておこう。


「私、いま……すごく幸せ」
「もっともっと、幸せにするよ。約束だ」
「信じてる――」


だって、貴方は今まで一度も、私との約束を破ったことがないもの。
だから……きっと。


  幸せになろう。
  本当は、高校一年生の時から結ばれていた、この人と。



窓越しに見上げた、昼下がりの夏空は――

――雲ひとつない蒼穹なのに、雨模様だった。



  ~fin~
最終更新:2007年03月31日 16:35