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静かな教室の中で、カツカツと響く乾いた音だけが、時の経過を告げている。
チョークが黒板を叩く音は、さながらマエストロの振るタクトが、
リズムを刻んでいるかのようだった。
合間を縫って、中年の男性教師の、伸びのあるバリトンが谺する。
プレイヤーたちは、ノートにシャーペンを走らせ、各々のパートを奏でていた。
時折、くしゃりと紙が縮れる音。それは、四分休符の微妙なアクセント。
授業という名のオーケストラに耳を傾けながら、蒼星石は教科書の陰で欠伸をかみ殺した。

一時限目は、代数幾何。
数学全般があまり好きではない蒼星石にとって、毎週、この時間が苦痛だった。
いつも、忍び寄る睡魔に抗いながら、早く授業が終わることを祈るのである。
昨夜の不眠もあって、今日は殊更、辛かった。
ちょっとでも気を緩めたら、コクリコクリとうたた寝してしまうだろう。

蒼星石はペンを置いて、重い瞼を指先で擦り、腕時計に目を落とした。
あと15分。それだけ我慢すれば、この苦行から解放される。
授業が終わったら、急いで彼女に会いに行こう。そして……いろいろな話をしよう。


教師の話など上の空で、蒼星石は巴に合いそうな話題を模索していた。



  第四話 『今日はゆっくり話そう』



夢の境界でウトウトと彷徨っていた蒼星石を、チャイムが現に引き戻す。
ビクリと肩を竦めた拍子に、肘で押し出した教科書が、机の上から滑り落ちた。
何やってるんだろ、みっともない。早く拾おうと、椅子に座ったまま腰を屈める。
だが、蒼星石の指が触れるより先に、脇から伸ばされた手が教科書を掴み上げた。

「貴女って、この時間は、いっつも眠たそうよねぇ」

たおやかに微笑みながら、教科書に付いた埃を払うのは、見目艶やかな銀髪の娘。
毎週、観察されていたなんて、ちっとも気付かなかったなぁ。
蒼星石は内心で苦笑して、彼女の手から、教科書を受け取った。

「ありがとう、水銀燈」
「どういたしましてぇ」

水銀燈は、にこやかな表情を崩さずに背を丸め、蒼星石の耳元に顔を近付け、囁いた。
「今日は一段と眠気が強そうじゃなぁい。夜更かしの理由は……なぁにぃ?」
「……実はね」

――と、蒼星石は辺りを憚って、声を潜める。

「昨夜は……そのぉ…………朝まで、姉さんと……えっちなコトを」
「ウソっ!? kwsk!」

弾かれたように身を引いた水銀燈の双眸は、まん丸く見開かれていた。


驚愕を露わにする彼女を見て、蒼星石が会心の笑みを浮かべる。
してやったり。深く澄んだ緋翠の瞳には、そんな小悪魔的な色が垣間見えた。
普段、水銀燈にからかわれている意趣返しだった。

「残念、釣りでした」
「なっ!? わ、私としたことが……その程度の餌で釣られたなんてぇ」
「キミが好きそうなネタだからね。呆気なく釣れちゃったから、拍子抜けだよ」
「だってぇ……貴女が、そんな冗談を言うなんて思わなかったんだものぉ」
「だろうね」

クラスの中で、蒼星石は真面目でクールな生徒として認知されている。
あの人が、品のない冗談なんて言うはずがない。
生徒ばかりか、教師たちもが、そういう目で蒼星石を見る。
だから、彼女もその雰囲気を察して、だんだんと自粛するようになっていた。
周囲を気にして、自分を偽るような人生を歩むことには、もう慣れっこだった。


「たまには、ボクだって冗談を言ってもいいじゃない?」
「ふふ……意外に茶目っ気もあるのねぇ。知ってたけどぉ」

蒼星石は、屈託のない笑顔を水銀燈に向けると、席を立った。
少しばかり時間をムダにしてしまったが、まだ休み時間は残っている。
今朝の約束どおり、巴に会いに行って、話をしよう。
しかし、蒼星石の動作は、そこで止まった。移動する必要が、なくなったからだ。

「おはよう、水銀燈。二人で、なにを話してたの?」

水銀燈に挨拶しつつ、蒼星石の前に立ったのは、柏葉巴その人だった。
窓から射し込む陽光を受けて、彼女のきめ細かい白皙が、艶めかしさを増す。
いつもながら、左眼の下のホクロに目が惹きつけられてしまった。

「はぁい、巴ぇ。珍しいわねぇ、貴女がこっちに来るなんてぇ」
「廊下で待ってたけど、なかなか来そうにないから、わたしの方から出張しちゃった」
「ごめんね、柏葉さん。ちょっと、水銀燈と話し込んでたものだから」
「あらぁ? 巴と蒼星石って……前々から知り合いだったぁ?」
「じっくりと話をしたのは、今朝が初めてよ」

不思議そうに二人を眺める水銀燈に、巴が応じた。「わたしたち、意外に気が合いそうよ」



それから、三人で他愛のない雑談に花を咲かせた。
内容は専ら、剣道についてである。共通の話題となると、そのくらいしかない。
蒼星石は、昨日の夕方、体育館で二人の対決を見たと伝えた。

「二人とも、防具も着けずに激しく打ち合ってるんだもの。
 すごい気迫で、見てるだけでも背筋が震えて、鳥肌が立ったよ」
「私と巴が勝負するときは、いっつも防具なしよ。息苦しいんだものぉ」
「わたしの場合は、気を引き締めるため……かな。
 防具を着けてると、どうしても気持ちに甘えが出てしまうから」

随分と荒っぽい練習をするものだが、高段者は得てして、そういうものかも知れない。
確かな実力が有るから、多少の無茶をしても、大した怪我もせずに済んでいるのだろう。



程なく、休憩時間の終わりを告げるチャイムが鳴り、二限目が始まる。
そしてまた、二限と三限の合間にも、蒼星石は巴と会った。今度は、二人だけで。
彼女たちは廊下に並んで、教室の壁に背を預けながら、心おきなく話をした。


「なんだか、不思議だなぁ」
「ん? なにが?」

話題が途切れて、二人の間に少しの沈黙が横たわったとき、巴が独り言のように呟いた。
間髪入れずに聞き返した蒼星石に、彼女は顔を斜に向け、ふっ……と頬を弛める。

「わたしって、あまり自分の考えとか……上手に伝えられないの。
 誰かに期待されると、ホントは嫌だったとしても、うんって答えちゃうのよ。
 みんなを失望させて……見限られて、独りぼっちにされるのが怖くて――
 いつの間にか、自分を誤魔化しながら生きるようになっていたわ」
 
淡々と語られる話を耳にして、蒼星石は言葉を失っていた。
この娘は、自分と似ている。その衝撃に、打ちひしがれていた。
周囲の目を気にして、自我を偽ってきた蒼星石には、巴の存在がとても身近に感じられた。

「だけどね、わたし……蒼星石さんとは、本音でお喋りできるの。
 肩肘はらず、とても安らいだ気持ちになれるの。
 不思議でしょ? 今朝まで、わたし達……そんなに話をしてこなかったのに」
「そうだね。お互い、話すキッカケを掴むどころか、その努力すらしてこなかった。
 今だから言うけど、実は――ボクね、キミのこと遠くから眺めていて、羨んでたんだよ」


蒼星石は今まで、巴という娘が輝いて見えていた。自分とは違う世界の人間なのだ――と。
だって、彼女は学級委員長を務め、人当たりがよくて、いつも友達に囲まれていたから。
それが仮初めの姿だったなんて、思いも寄らなかった……。

「でも、いま解ったんだ。キミとボクは、とても似ている」
「そう……かな?」
「うん。だから、ボク達はすぐに打ち解けたし、もっと仲良くなれると思うんだ」
「ホントに?」
「きっとね。で、早速なんだけど……今日の放課後、暇?」

訊ねたのと、ほぼ同時に鳴るチャイム。次は、土曜日最後の三限目。
今日は部活が無いことは、水銀燈を交えて話していた時に、確認済みだった。
だから、放課後も、ゆっくりと話が出来たらいいなと思っていたけれど――

「ごめんね。今日は、ちょっと先約があるの」




三限目の授業も終わり、帰り支度を整えていた蒼星石の元に、水銀燈が近寄ってきた。

「ねえ、たまには一緒に帰らなぁい?」

本当なら、翠星石か巴と過ごそうと思っていたのに、その予定は完全に狂っていた。
家に帰っても、独り。それなら、水銀燈の誘いに乗る方が、有意義そうだ。
了承の返事をして、カバンを手に立ち上がった蒼星石は、ふと……窓越しに校門を見遣った。
何気なく目を向けただけだった。なのに、門柱の向こうに消える人影が、見えてしまった。


……それは、楽しげに連れ立って帰る、翠星石と巴の姿だった。



  第四話 おわり





三行で【次回予定】

 偶然に見かけた、二人の姿。
 どうして、キミ達は一緒にいるの? その事が心に引っかかって――
 水銀燈と遊んでいる最中にも、彼女たちの姿が、頭を離れなかった。

次回 第五話 『もう少し あと少し…』