『奔流の果てに』


老善渓谷は折からの集中豪雨で増水していた。
降りしきる雨の中、激流に浚われまいと必死で岩にしがみつく人影が二つ。

 「おい! 絶対に諦めんじゃねぇぞ!」
 「あ? なんだって? 聞こえないよ!」

轟々と落ちる水の音が、二人の会話を完全に遮る。
これでは意志の疎通もままならない。
ジュンも頭と腕に負傷しているし、いつまでもこうしている訳にはいかなかった。

 (この天候じゃあヘリも飛ぶまい。どこか、休めそうな場所はないのか――)

先行するベジータは、顔を打つ雨と水飛沫に目を顰めつつ、周囲を見渡した。
岩の、ちょっとした窪みでも良い。奔流に滑落する畏れがなくなるならば。

 (俺ひとりなら、麓まで飛んで行けば良いだけなんだがな)

自分の素性を知られる訳にはいかなかった。
だからこそ、今まで馬鹿なフリをしてでも、周囲の目を誤魔化し続けてきたのだ。
たとえジュンが無二の親友であっても、決して例外ではない。
寧ろ、親友だからこそ秘密にしておきたかった。




――時を遡ること半日
薔薇学園の生徒は一泊二日の課外授業として、老善渓谷を訪れていた。
基本的には渓流でのキャンプ生活と、山歩きの体験学習である。
自然災害に直面したときの自活術を学ぶ……というのがカリキュラムの目的だった。

 「――であるから、山でキノコを見付けても、安易に口にしたらダメだぞっ」

梅岡先生の引率で山歩きをしながら、生徒達は山菜全般について学んでいた。
ジュンとベジータも、その中に居た。

 「あ~あ。退屈だぜ、まったく」
 「そう言うなよ、ベジータ。これも授業なんだからさ」
 「だから退屈なんだろうが。俺はな、もっとこう……
  蒼嬢とアバンチュールな体験を楽しみたいわけだ。震えるぞハート、燃え尽きる――」
 「その台詞は言わんでいい」

ジュンはベジータの額に裏拳を叩き込み、横目でジロリと睨んだ。

 「……どうせ、夜中にテントへ潜り込むつもりだったクセに」
 「へへ……バレてたか。お前も一緒にどうだ? 俺が蒼嬢、お前が翠嬢。イッツオンリーラブ」
 「福山雅治かよ。ていうか、意味わかんないぞ」
 「頭で考えるな、魂で感じ取れよ。で? どうよ、今夜……やらないか?」
 「悪いけど、僕は真紅と約束してるから……」
 「けっ! すっかり尻に敷かれてやがるのか。やれやれだぜ」

腑抜けた野郎だ、とベジータが吐き捨てるのを耳にして、ジュンの額がビキビキと鳴った。

 「尻に敷かれてる訳じゃないさ。僕だって、他の子とも仲良くしたいし」
 「だよなあ。それなら、翠嬢とスキンシップとったって構わねえだろ」
 「けど…………真紅を悲しませるのは、気が引けるな」
 「か~っ! まったく、おたくシブイぜ」

訳の解らない台詞を吐いて、ベジータは天を仰いだ。
なんとまあ義理堅い奴だろうか。
義に厚く、情に脆いジュンは、確かに良くできた人間だと思う。
割と面倒見が良いし、周囲への気配りも、高校生らしからぬくらいだ。
そして何より、ジュンの側に居ると誰もが和やかな気分になれた。
異星人のベジータでさえもだ。

 (だが、俺にはどうも、こいつの態度が八方美人に思えて仕方ねえ。
  紅嬢との関係にしても、なんか『意中の人』というより『愛の足軽』って感じなんだよな)

真紅の采配ひとつで、戦場の矢面に立たされる存在。
弁慶の如く矢で射られて、立ったまま大往生を遂げるジュンの姿が目に浮かび、
ベジータの頬に一滴の涙が流れ落ちた。哀れだ、哀れだぜジュン!
ここはダチ代表として、是が非でもジュンの性格を叩き直してやらねばなるまい。
お前のためなら、俺は憎まれ役にだって喜んでなるぜ。

ベジータは目にも留まらぬ俊敏さでジュンにヘッドロックをかけると、
耳元でボソリと呟いた。

 「問答無用だ。一緒に来い。今夜はお前を帰さないからな」

突然、ミョーな事を口走られて狼狽えない者は居ない。
ジュンもまたご多分に漏れず、ベジータの腕を振り払って、一定の距離を置いた。

 「じょ、冗談じゃないぞ! 僕には、そんな趣味は無い!」
 「ああ? お前、なんか勘違いしてねぇか?」
 「してないよ! と言うか、みんな先に行っちゃってるぞ。早く追いつかないとな」
 「あっ! 待て、ジュン! お前の足元が――」

ベジータは走りだすジュンの足元が崩れかけていたのを目敏く見付けていたが、
一瞬だけ警告が遅れていた。


ごろっ――――

突如として岩が崩れ、ジュンは声を上げる間もなく渓谷へと転がり落ちていった。
助けを呼びに行ってる暇など無い。ベジータは躊躇わず崖下に飛び降りた。

 「くそっ! かなり下まで落ちたらしいな。生きててくれりゃ良いが」

山道から三メートルほどが垂直で、その下は急勾配の斜面になっていた。
斜面は厚く堆積した腐葉土に覆われていて衝撃吸収性は良いが、
転がり落ちるジュンを食い止めるだけの堅さが無かった。
急勾配に残るジュンの滑落痕を辿りながら、ベジータは一心にジュンを探し続けた。




ジュンは、崖にしがみつくように生えた木の幹に引っかかっていた。
その先は切り立った断崖絶壁となっており、五メートルくらい下に渓流が見えた。
もし引っかからなければ、死んでいたかも知れない。つくづく運のいい奴だ。

 「ジュン! おい、ジュン!」

近付いて声を掛けるが、気を失っているらしく返事がなかった。

 「頭から出血してるのか。それに、脊椎を強打してるかも知れねえ。
  いま下手に動かすのは、得策じゃない」

と言って、木に引っかけたままなのも危険なので、
ベジータは細心の注意を払ってジュンを近くの岩に運んだ。
怪我の程度は、頭部の裂傷と複数箇所の打撲、それに腕の骨に亀裂。
取り敢えず、応急手当だけでもしておくべきだろう。ベジータは下の川に降りて、
タオルを冷たい水に浸した。だが、そこで水が濁っている事に気付いた。
渓流の水は本来、奇麗に透き通っているものなのに。

頭上を見上げたベジータの目に、山頂から沸き立つ黒い雲が飛び込んできた。

 「こいつぁ、ひと雨きそうだな。ここからが本当の地獄……か」

こうしてはいられない。ベジータは急いで、ジュンの元へと戻った。




雨が降り出した。それも、ただの雨ではない。バケツをひっくり返した様な集中豪雨だ。
渓谷全体に靄が立ちこめて、視界はかなり悪い。
学園のみんなも、ベジータ達が居なくなっているに気付いただろう。
だが、この雨の中で捜索するなんて危険を、敢えて冒すとは思えなかった。

 「ちくしょう。ジュンの奴、この雨の中でも目を覚まさねえとは、どういう神経だ。
  死んでるんじゃねえだろうな?」

都合良く見付けた岩の陰で雨を凌ぎながら、ベジータは悪態を吐いた。
勿論、冗談だ。ベジータはジュンの生命反応を明瞭に感じ取っていた。

 「おい! いい加減に起きねえと、紅嬢に蹴飛ばされるぜ」

言いつつ、ベジータが爪先で頭を小突くと、ジュンは微かに呻いて、瞼を開いた。
暫し茫然としていたが、ジュンは何回か瞬きをして、徐に声を発した。

 「ここは…………どこなんだ?」
 「崖の下だ、馬鹿野郎が。お前がドン臭いから、俺はとんだ貧乏クジだぜ。
  今頃は蒼嬢と、ムフフな世界に入り浸ってる予定だったのによぉ」
 「くくっ……っ痛ぇ。笑わせるなよ」
 「ま、笑えるだけ意識がハッキリしてるなら安心だな。
  お前、頭を打ち付けてたんだぜ」

ジュンが額に手を遣ると、確かに何かが巻かれていた。
こんな山奥に包帯なんて有ろう筈がない。
見れば、ベジータは上半身裸だった。自分のTシャツを引き裂いて、
包帯の代わりにしてくれたのだろう。
ジュンは、今朝ベジータが着ていた水色のTシャツを思い浮かべた。

 (あのTシャツは、蒼星石から誕生日にプレゼントされた物だった筈なのに)

ベジータはそれこそ宝物であるかの様に愛用していた。
殆ど毎日と言ってもいいくらいに。
『蒼嬢の愛を一身に受けてるぜ』とか舞い上がっていたが、
実際、昇天寸前の嬉しさだったのだろう。
そんな大切にしていた物を、自分の怪我の治療に使わせてしまった。
破らせてしまった。
ジュンは申し訳なくて、どう話しかけて良いか言葉に窮した。

 「あ、あのさ、ベジータ。済まなかったな、Tシャツ……」
 「へっ! 怪我人のクセに、俺様に気を遣うなんざ十年早えんだよ」

ぶっきらぼうに言い返すベジータだったが、その表情はとてもサッパリとしていた。
何の後悔も無い。
ダチの命を救えたなら、Tシャツの一枚など安い物だ……と、彼の顔は物語っていた。

 「それによ、お前を助ける為だったら、蒼嬢だって許してくれるさ。
  寧ろ、こうしてなかったら、俺は蒼嬢に絶交されてただろうぜ」
 「今だって、単なるクラスメートでしかないけどな」
 「うるせえよ、怪我人。恋愛の基本は『お友達』から、だろ?」
 「ぷっ! ふ……古くせぇ……っ痛ててっ、笑わすなってのに。痛えなぁ」
 「バーカ。お前が勝手に笑ってやがるんだよ」

ベジータがニヤリと笑い、顔を見合わせたジュンもまたニヤリと笑った。
気の置けない親友同士だからこそのコミュニケーションだった。


そんな二人を余所に、雨の降りは更に激しさを増していた。




幅の狭い渓谷の水嵩は、意外なほど速やかに上昇してきた。
タオルを浸しに降りた時には丸々五メートルだったのが、
今や目と鼻の先、数十センチに達している。
このままでは、ここもいずれ水没しかねない。

 (いっそ、ジュンに本当の事を打ち明けて、空を飛んで麓に降りるべきか)

そんな考えが頭を過ぎったが、ベジータは思い止まった。
ジュンならば秘密を守り通すだろう。だが、自分の心に生じた甘えは、
いずれ今の生活を破綻させる。
今までの学園生活を続けたいなら、これまで通りに秘密を隠し通す、
強い意志を持たねばならないのだ。

 「くそっ! ジュン、ここはもうヤバイ。歩けるか?」
 「ああ。脚は、なんとか平気だ。打ち身が酷くて、身体が軋むけどな」
 「そのくらい、俺が支えてやる。行くぞ。足元に気を付けてろよ」

雨を吸い込んだ腐葉土は予想以上に沈み、歩きづらい。
まるで分厚いスポンジの上を歩いている気分だった。
水はもう、足元まで達している。
一向に止む気配を見せない雨を呪いながら、二人はフラフラと下流を目指した。


ずるっ!


激流が脚を捉えたのは、ベジータがジュンを抱え直そうとした、ほんの一瞬の出来事だった。
あろうことか脚を滑らせたベジータは、支えを失ってバランスを崩したジュンもろとも、
激流に落下した。

 「掴まれ、ジュンっ!」
 「ベジータっ!」

荒れ狂う奔流の中で、二人はしっかりと手を繋ぎ会った。

ベジータの腕が、岩肌を捕まえた。
ぐいと腕を引き、水に押し流されようとしているジュンを手繰り寄せた。
降りしきる雨の中、激流に浚われまいと必死で岩にしがみつく。

 「おい! 絶対に諦めんじゃねぇぞ!」
 「あ? なんだって? 聞こえないよ!」

轟々と落ちる水の音が、二人の会話を完全に遮る。
これでは意志の疎通もままならない。
ジュンも頭と腕に負傷しているし、いつまでもこうしている訳にはいかなかった。

 (この天候じゃあヘリも飛ぶまい。どこか、休めそうな場所はないのか――)

先行するベジータは、顔を打つ雨と水飛沫に目を顰めつつ、周囲を見渡した。
岩の、ちょっとした窪みで構わないんだ。休める場所は――
けれども、ベジータの願いは虚しく水に呑まれていった。
もう、ジュンの体力も限界かも知れない。
ここは一か八か、自分の身体の頑丈さに賭けてみるしかなかった。

 「ジュン! 来いっ!」

短く叫んで、ベジータはジュンを両腕で抱え込んで、奔流に身を任せた。
このまま押し流されれば、最短時間で麓まで着ける。
問題は、ジュンの息が続くかどうか。
それに、ベジータの身体が岩壁に打ち付けられて耐えられるかどうか。

 「ジュン! 絶対に死ぬんじゃねぇぞ! 俺は、絶対に死なねえからな!」

息も絶え絶えのジュンに発破をかけるベジータを、奔流は無情に呑み込んでいった。




気付いた時、ジュンとベジータは同じ病室の、隣のベッドに寝ていた。
頭を巡らしたジュンに、ベジータは「よお」と包帯の巻かれた右腕を上げた。

 「どうやら、生きてたみたいだね」
 「悪運だけは強いらしいぜ。俺も、お前もな」
 「僕たちは一体、どうやって助かったんだろう?」
 「なんでも、麓に流されてきたところを、スネーク先生に保護されたんだとさ」
 「そっか…………あんな雨の中でも、僕たちのことを探してくれてたんだな」

思えば、みんなに迷惑をかけてしまった。
停学処分くらいは覚悟しておくべきかも知れない。
まあ、どのみち数日間は動けそうにないから構わないけれど。

ふと、病室の扉がノックされ、こちらの返事を待たずに開け放たれた。
いつもの七人が、怒濤の如く見舞いに駆け付けたのだ。

 「ジュン! 貴方、どこまで間抜けなのかしら。みっともないのだわ」
 「あらぁ、二人ともピンピンしてるじゃなぁい。でも一応、乳酸菌とっておいてねぇ♥」
 「無事で良かったなのー。真紅がジュンのこと心配してたのよー」
 「雛苺っ! 余計なことは言わないで良いのよ!」
 「崖から落ちて流されてくるなんて、ホント、お馬鹿な連中ですぅ」
 「課外授業をサボったバツなのかしら」
 「…………これ、あげる」(と、鉢植えを二つ差し出した)

ベッドに歩み寄った蒼星石は――

 「ベジータ君。これ、ちょっと早いけど退院祝いに」
 「おお、ありがとよ蒼嬢。開けてもいいか?」
 「勿論さ。と言っても、大した物じゃないんだけどね」

蒼星石が手渡した紙袋には、真新しい水色のTシャツが入っていた。



たまには、こんなのも良いよな?
ジュンとベジータは顔を見合わせて、気の置けない者同士、ニヤリと笑った。


最終更新:2007年01月12日 10:13