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窓の外は、紫紺の海。たなびく雲が白波のようで、黄昏空は大海を連想させた。
昼と夜が溶けあう束の間に、ふたつの影もまた、ひとつに重なる。


太陽の勤めが終わり、地を照らす仕事は、月が引き継いでいた。
月影が斜に病室の闇を分かつ中、密やかに流れる、健やかな息づかい。
ベッドでは時折、差し向かいで収まった二人が、もぞもぞと窮屈そうに身じろぎする。
まだ、夜は始まったばかり。いくら病人とは言っても、就寝するには早すぎた。

「そろそろ、夕食の時間みたいね」

廊下を行き交うさざめきを耳にして、巴が囁く。
蒼星石は「うん」と答えながら、心持ち、抱きしめる腕に力を込めた。
汗ばんだ肌が触れ合って、ぺたぺたと吸い付くけれど……
真夏の満員電車で味わうような暑苦しさや、ジトジトした不快感は全くない。

――むしろ、その逆。どうしようもなく、気持ちが良かった。
まるで酸と塩基が化学反応するかのように、ココロの沈鬱が中和されていく。
二人の間で生まれている火照りは、さながら反応の際に生じる熱エネルギーと言ったところか。
蒼星石は、もっと、ずっと、くっついていたい欲求に駆られていた。
哀しみが癒され、虚しさが満たされるまで、ずっと。

巴も、同じ心持ちだったらしい。蒼星石の背中に回された手に、力が込められた。
あくまで、優しく包み込むように、柔らかく――


「もう少しだけ…………このままで」



  第十八話 『さわやかな君の気持ち』



二人が次に言葉を交わしたのは、それから優に1時間以上が過ぎた頃だった。
他人の体温が与えてくれる安らぎの、あまりの気持ちよさに、少し微睡んでいたらしい。
夕食時の騒がしさも、すっかり鳴りを潜め、廊下はもう静寂を取り戻していた。

もしかしたら、2、3時間は経っているのではないか。
巴は、気怠い満足感に溺れながら、左手首の腕時計に目を向けた。
月明かりに翳したアナログの文字盤が示す時刻は、9時を過ぎようとしている。
6時15分であることを期待したが、どう見ても間違いない。

「あ……もう、こんな時間」

巴の父母は厳格で、こと情操教育に関しては、普段から口喧しかった。
高校生になった現在でも、依然として門限を決められている。
そして、巴も素直に言いつけを守ってきた。今日まで、ずっと――

「……門限、破っちゃった」
「叱られちゃう? ゴメンね……ボクが、無理を言って引き留めたから」
「ううん、いいの。気にしないで」

申し訳なさそうに眉を寄せる蒼星石に、巴は迷いなく笑いかけた。

「わたし、きっと……ココロのどこかで、こうなることを望んでたのよ」
「――そうなの?」
「前に、言ったでしょ。わたし、自分の意思を、巧く表現できないって。
 ホントはね、門限とか、細々と規制されるのは好きじゃないの。
 もっと自由に、自分の思いどおりに行動したいのよ。
 …………でも、ダメね。
 両親に気兼ねばかりして、いつも黙って従うだけで」


蒼星石も、その話は憶えていた。
巴と仲良くなろうとして、声をかけた日のことを。

  『みんなを失望させて……見限られて、独りぼっちにされるのが怖くて――
   いつの間にか、自分を誤魔化しながら生きるようになっていたわ』

そう独白する巴に、蒼星石は自分と似た気質を察して、親近感を抱いた。
だから、もっと仲良くなりたいと思って、同じ時を重ね合って……
今、こうして触れ合い、温もりを分かち合っている。
望みが叶った喜びと、確かな充足感を、二人で満喫している。


「ずっと――わたしは、探していたんだと思う」

皓々と降り注ぐ光の下、巴は妖しく濡れた瞳で、蒼星石を見つめた。
蒼星石も、真っ直ぐに見つめ返して、二人の視線が一本に紡がれた。

「なにを?」
「色々な物事の軛から脱する機会を、よ。貴女は、それを与えてくれた」
「ボクは、柏葉さんに慰めを求めただけだよ?」
「蒼星石さんにとっては『だけ』かも知れないけれど……
 わたしにとっては、そうじゃなかったってこと」

物事の捉え方は、千差万別。巴は、どう捉えたのだろう。
不思議そうな顔をする蒼星石に、巴は柔らかい笑みを返した。

「簡単に言ってしまえば、変わろうとする勇気をもらったってことかな。
 門限を破る口実と一緒にね」

そう告げる巴の口振りに、後悔の色は窺えない。
ただただ、野草を撫ぜながら過ぎゆく初夏の薫風のように――

「貴女と一緒に居たい。そうしたら……わたしは、もっと強くなれる気がする」

蒼星石の胸を、颯爽と吹き抜けていった。

その余韻が、あまりに心地よかったから、蒼星石は暫し酔いしれ、
掻きたてられた懐旧の情の中で、夢見るように翠星石の声を思い出していた。

  『いつも一緒に居てやるです。ずーっとずーっと、一緒ですよ……』

幼い日に、雨宿りした木の下で囁かれた、さわやかな姉の気持ち。
あのとき感じた爽快が呼び覚まされ、どうしようもない懐かしさに、胸が震えた。
けれど、溢れてきたのは涙ではなく…………深淵の安らぎ。
巴の声は、言葉は、この上ない安堵と心強さを、蒼星石にもたらしてくれた。

「ボクも……キミと一緒に、居たいな」
「本当? よかった」

お互い、多くの言葉は必要なかった。
今や、語らなくても通じ合える何かが、しっかりと二人を結びつけていたから。
溶け合っていた状態から、二人に分かれる時も、見つめ合い、微笑み合っただけ。

のろのろと億劫そうに帰り支度を終えたところで、巴は漸く、口を開いた。

「明日は土曜日だから、いつもより早く来られると思う」
「うん。楽しみに待ってる。でも……急ぐことなんてないからね」
「それじゃあ、また――」




静かに閉ざされるドア。

巴が帰ってしまうと、途端に静寂が迫り、病室の闇が増した。
気のせいだとは解っているものの、得体の知れないナニかが腕を伸ばしてくるようで、
なんとなく落ち着かない。じっと闇を凝視していると、居るハズのない黒い影が蠢いて見えた。

――気色悪い。そうは思うけれど、部屋の照明をつける気にもなれず、
もそもそと寝返りを打って、青白く浮かび上がる窓辺に、顔を向けた。

今宵は弓張り月。夜空という舞台に、雲という無愛想な緞帳は引かれていなくて、
片割れの月と、ちりばめられた星々が、満天の無窮で共演していた。
これが傷心の蒼星石を癒し、慰めるために用意された物ならば……なんとも粋な計らいだ。
気まぐれな大自然は、たまに牙を剥くけれど、心憎い演出もしてくれる。

「わぁ…………キレイだなぁ」

見慣れたはずの夜空なのに、時を忘れて、目を奪われていた。
あの半身が欠けた月は、蒼星石の現状を象徴するもの。
今はまだ、どこか淋しげだけれど――満月に生まれ変わる日は、必ずやってくる。
だから、蒼星石も、いつかもっと輝けるようになれる。そうでありたいと、心から願った。

「この星空、携帯のデジカメで撮れるかな」

夜景モードにしても、露光が足りなくて、真っ暗にしか写らないかも知れない。
そんな心配をしながら、蒼星石は独り、携帯電話を手にする。
本当は、院内で携帯電話は使用不可なのだが、せめて月だけでも撮影して届けたかった。
今はもう、追いつけないほど遠くへ行ってしまった、姉の元へ。

こんなにも綺麗な月夜だから……独りで眺めるなんて、もったいない。




翌日の午後も、巴はいつもどおり、なに食わぬ顔を見せた。今日は、水銀燈も同伴している。
両親に叱られて、撲たれたのではないか。そんな蒼星石の危惧は、杞憂だったらしい。

「帰りが遅くなるなら連絡しなさいって、ちょっと怒られただけよ」

昨夜のことを訊ねた蒼星石に、巴と水銀燈は口々に、真相を語って聞かせた。

「帰りがけに偶然、制服姿の水銀燈と出会ったの。蒼星石さんのお宅に寄ってたんだって」
「夕飯をご馳走になってたら、すっかり遅くなっちゃってねぇ。
 堅物の巴が、門限を破ったなんて驚きだったわ。それで、一緒に帰ってあげたのよ」
「二人で口裏を合わせて……部活で遅くなったことにしちゃった」

言って、巴はペロッと舌を出した。
そんな他愛ない隠し事でも、おとなしい巴にしてみれば、一大決心を要したのだろう。
戯けた表情の中にも、微かな達成感と、それに伴う満足感が見え隠れしていた。


三人の楽しく賑々しい談笑は、やがて夕暮れの訪れと共に、終わりを迎える。
さすがに二日連続で門限破りをするワケにもいかず、巴は残念そうに、帰宅の途に就いた。
しかし、水銀燈は……ぼんやりと気の抜けた眼差しで、暮れなずむ空を眺めるだけ。

「キミは、帰らなくていいの?」
「急いで帰ったって、誰も居ないわ。知ってるでしょ、私の両親は共働きだって。
 いい加減、独りで過ごす退屈な夜にも、飽き飽きなのよねぇ」

蒼星石には、水銀燈の気持ちが解った。病室で、独りきりの時間を過ごしてきたから。
何か、してあげたい。祖父母によくしてくれた水銀燈への、せめてもの恩返しに。
そう思った直後――昨夜の見事な星空が思い出されて、彼女と一緒に見上げたくなった。

「じゃあさ……今夜は、ボクに付き合わない?
 キミさえよければ、だけどね」



  第十八話 おわり





三行で【次回予定】

  喪失することは、新たな出会いに続く道しるべ。
  欠落することは、生まれ変わるためのキッカケ。
  全てはココロの決めたままに。

次回 第十九話 『きっと忘れない』