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どちらかを、選べ――

そう言われたところで、蒼星石の答えは、既に決まっていた。
こんな場所まで歩いてきた今更になって……躊躇いなど、あろうハズがない。
二つの目的を果たすためならば、地獄にすら、進んで足を踏み入れただろう。

ただ夢中で、翠星石の背中を追い続け、捕まえること。
そして、夜空に瞬く月と星のように、いつでも一緒に居ること。
たとえ、それが生まれ変わった先の世界であっても――ずっと変わらずに。


蒼星石は無言で、右腕を上げた。そして……偶像の手を、しっかりと握った。
置き去りにする人たちへの後ろめたさは、ある。
けれど、今の蒼星石のココロは、出航を待つ船に等しい。
姉を求める気持ちの前では、現世への未練など、アンカーに成り得なかった。
過ちを繰り返すなと諫めた声など、桟橋に係留するロープですらない。

「いいのですね?」

こくりと頷きながら、なんとは無しに、蒼星石は思っていた。
――まるで、本当に船出をするみたいだ、と。
姉の偶像という『客船』に乗るためのチケットは、たった今、手に入れた。
訊ねられた声は、出航を報せる霧笛。
気のせいか、錨の上がる騒音すら、胸腔に響いた気がした。


そして、大海原の先に待つのは……翠星石という、温暖で豊穣な大陸。



  ~もうひとつの愛の雫~
  第16話 『この愛に泳ぎ疲れても』



海を渡り、楽園を目指す。
その行為を思うとき、多くの者は西欧の大航海時代を想像することだろう。
マルコポーロの『東方見聞録』に魅せられ、夢を追い求める冒険を。

けれど、蒼星石は、以前に視たテレビ番組を思い出していた。
南の果てにあるという補陀落浄土を目指して、小舟で渡海を試みる行があったことを。
それほど興味もなかったから、なにげなく画面を眺めていただけなのに、
そこそこ憶えていることが意外で、ちょっとばかり不思議な気がした。

にしても、自分が置かれた現状は、考えるほどに補陀落渡海と似ている。
蒼星石は、ぼんやりと、そんなコトを思った。
この旅路に帰路がないところなどは、特に……。


「ねえ。キミは知ってる?」

さらさら……。
煌めく木漏れ日の下、風に揺れる枝葉のさざめきに耳をくすぐられながら、
膝枕に微睡んでいた蒼星石が、夢心地で訊ねる。

「なにを、です?」
「ずっと昔ね、海の向こうに浄土があると信じられてたんだって」
「……蓬莱です? それとも、ニライカナイ? 補陀落ですか?」

よく知ってるね。間髪を入れない返事に、蒼星石が驚いてそう言うと、
偶像は「ったりめぇです」と、本物の翠星石みたいに胸を張った。

「忘れたですか? 私は、お前の別人格ですぅ。だから、記憶も共有してるです。
 蒼星石が知っていることは、私も知ってる。ちっとも不思議じゃねぇですよ」
「なるほど、それもそうだね」

こうしていると、つい、本当に翠星石と居るみたいに錯覚してしまう。

でも、違う。彼女は、立ち居振る舞いこそ翠星石だけれど、やはり違う。
蒼星石の憧憬が生んだ、もう一人の蒼星石にすぎないのだ。
本当の彼女に会いたい。そう思うと一層、翠星石への愛執が募った。


「ねえ。そろそろ…………連れてってくれないかな。姉さんの元へ」

気付けば、いつの間にか、左手を掴んでいた何者かの手は消え去っていた。
もう、蒼星石を繋ぎ止めようとするモノは、何もない。
あとは大海原を越えて、浄土を……翠星石の行方を探すのみ。
たとえ、この愛に泳ぎ疲れても、彼女と巡り逢えるまで諦めはしない覚悟だった。

補陀落とは、観音菩薩の住まう土地だと言う。
もしも、そんな場所が本当に在ったとしたら――
そして、もしも翠星石が、そこに辿り着いていたとしたら――
ふと、澄まし顔で観音菩薩の真似をする姉を思い浮かべて、蒼星石は噴き出した。

「どうしたです? いきなり笑い出すなんて」
「いや、ちょっとね。……ふふっ」
「むぅ~……なぁんか、気持ち悪ぃですぅ」

胡乱げに突きだされた唇が、何か言おうと動くものの、結局、声にはならない。
その代わりに吐き出される、小さな溜息。

「まあ良いです。望みどおり案内してやるですから、ありがたく思えです」
「うん。お願いするよ」
「じゃあ、まず……目を閉じるです」

言われるがままに瞼を降ろした蒼星石の額に、柔らかく触れる、唇の感触。
驚いて目を開くより早く、目隠しするように、偶像の手が宛われた。
ヒンヤリした感触が、薄い瞼に染みて、ちょっとだけ目が痛い。

「いいですか。これから、私が七つ数えるです。
 その間は、何があっても目を開けちゃダメですよ。絶対にダメです!」

なぜ『七』という数が出てきたのかは、よく判らなかった。
何か深い意味があったのかも知れないし、適当だったのかも知れない。
それに対して口を差し挟むこともせず、蒼星石は素直に従った。


「ひとぉつ…………ふたぁつ…………」

中途半端に間延びした口調が、眠気を誘う。意識が、朦朧としていく。
こんな、夢とも想像ともつかない世界で眠たくなるなんて、考えてみれば変な話だ。
が、蒼星石のアタマの中には確かに、すべてを曖昧にする霧が広がりだしていた。
寝ているのか、起きているのか、それすらも不確かになる。
ただただ、心身共に、深い愉悦に呑み込まれていって……
いつしか、五感も薄らいでいった。

これが、幽体離脱という現象なのだろうか。何もかもが、おぼつかない。
このまま身を任せてしまうことに、ちょっとだけ不安を覚えた。
けれど、この悦楽には抗いがたい。
今まで経験したことがないほど、容赦なく気持ちよすぎて――
もっと享楽に耽りたいという衝動が、一切合切の感情を塗りつぶしていく。


七つ目の告げられる頃ともなると、あらゆるコトが、どうでもよくなっていた。




そして、不意に――
蒼星石の目を覆っていた手の感触が、失われた。

やおら浅い眠りを破られ、すこぶる気分が悪くなる。
薄らいでいた全身の感覚も、目覚めとともに戻ってきたらしい。
真っ暗だった瞼に、ちらちらと陽光が射してくるのが判る。
渡りゆく風の音と、葉擦れが、降り注いでくる。
草の甘い匂いも、頬を撫でる微風も、制服のごわごわした生地の感触も……。
この分なら、きっと味覚の方も問題ないだろう。


「着いたの?」

訊いてみたけれど、偶像からの返事はない。

「ねえ。もう……目を開けてもいいの? どうなのさ」

暫く待って、もう一度。やはり、答えは返ってこない。
これでは埒が開かないので、蒼星石は「目、開けるからね」と念を押して、
ゆっくりと双眸を見開いた。

「…………あれ? ここって……」

惚けたように呟く蒼星石の声は、直後、吹き抜ける風に運び去られた。
蒼星石は依然として、大樹の木陰に寝そべったままだった。
しかし、さっきと違って、膝枕をしてくれていた彼女が居なくなっている。

寝転がったまま頸を巡らすけれど、誰の姿も見つけられない。
右にも、左にも、木の枝にも――彼女は居ない。
悪ふざけして、どこかに隠れているのだろうか。
それとも……


……また、置いてきぼりにされたのだろうか。


「そんな――ひどいよ」

見知らぬ土地に、たった独り取り残される心細さが、胸を締めつける。
なんで? どうして、何も言わないで行っちゃうの? 無性に、泣き出したくなる。
けれど、子供のように泣きじゃくったところで、誰かが助けてくれるとは限らない。
居るかどうかも分からない他人をアテにするより、自分を頼る方が有意義だ。

ちょびっと潤んだ目元を指で拭うと、蒼星石は飛び起きて、周囲を見渡した。



彼女が立っているのは、小高い丘の上にある大樹の根元だった。
ぐるり一望する。視界に飛び込んでくるのは、蒼い空とターコイズブルーの海ばかり。
その割に、ちっとも潮の香りがしないのは、何故? なんだか不思議な感じがした。

「あんまり、大きな島じゃないみたい」

あの偶像が導いてくれた場所だけれど、本当に、翠星石はここに居るのだろうか。
姉が居るという確証は無いし、どこから探せばいいのか、とんと見当もつかない。
島ならば、広さの限度がある。闇雲に探し回ってみるのも、ひとつの手段だ。

そんなコトを思案した直後、動くモノを見咎めた蒼星石の身体が、緊張におののいた。
目を凝らすまでもなく、人影だと判る。
その人物は、たった独りで、蒼星石の居る丘に登ってくるところだった。
カジュアルな背広を着た、すらりと背の高い男性だ。
手には、何も持っていないようだけれど……。

どうしよう。ひとまず、木陰にでも身を隠すべきだろうか。
彼我の距離が狭まっていく中で、蒼星石は戸惑い、動悸を鎮められなかった。



  ~もうひとつの愛の雫~  第16話 おわり





三行で【次回予定】

  見知らぬ土地で出逢った男の人。
  姉を探すために、少女は思いきって、彼と言葉を交わす。
  彼は優しく微笑みながら、とある事実を語り始めるのだった。

次回 第17話 『風が通り抜ける街へ』