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  『黄昏と、夜明けの記憶』


 【――ダメって言われたら、どうすればいい?】

放課後の教室。二人だけの世界。
今日……勇気を振り絞って、ジュンは何年間も胸に秘め続けた想いを伝えた。

 「これからも、ずぅっと……一緒に居てね」

不安に押し潰されかけていた臆病な少年の胸に、彼女の言葉が届く。
夕日射す窓辺で、彼女は柔らかく微笑み、ジュンの想いに応えてくれた。

 「もちろんさ。僕は、ずっとキミの側に居るよ。約束する」

そして、ジュンも誓いの言葉を口にする。
それだけの事でしかないのに、心が幸福に満たされていくのが分かった。
一歩、二歩……。なんだか、踏み出す足下がおぼつかない。
高熱に浮かされているみたいだと、ジュンは思った。
体育で使う安全マットの上を歩いているかの様な、心許ない浮遊感。

やっとの想いで、腕を伸ばせば触れ合える距離に辿り着いたジュンは、
華奢な彼女の肩に手を遣って、優しく……
けれど、しっかりと抱き締めた。

 「いつだって、大好きな雛苺の側に居るから」




なんて幸せなんだろう。
ジュンは、昼下がりの微睡みに似た心地よさを感じていた。
大好きな女の子と一緒に過ごす日常は、
見慣れた景色をも一変させるほどの感動と、余韻を与えてくれた。
言うなれば、甘美。ただ、その一言に尽きる。

付き合い始めて半月。
愉しすぎて、眠るのが惜しくなるほどの日々が、瞬く間に過ぎていった。
もっと早くから、こうすれば良かった。

ずっと前から、こんな関係になっていれば、学校生活がもっと愉しく思えただろうに。
ジュンは心の底から、後悔していた。偽らざる本音だ。
そして今はただ、この関係が、いつまでも続いて欲しいと願っていた。

 「ねえ、桜田くん。ちょっと、いちご大福を買っていってもいい?」

雛苺がそう切り出したのは、並んで歩く下校途中のことだった。
どのみち、真っ直ぐ家に帰るつもりなんてない。
今日も駅前のショッピングモールで、道草を食いながら帰宅する予定だった。

 「ああ、構わないよ。どうせ、急ぐ用事も無いし」
 「うふふ……ありがとう、桜田くん♪」
 「その『桜田くん』は止めないか。ジュンで良いって」
 「でも、ずっとそう呼んできたし……ちょっと、恥ずかしいの」
 「僕は、名前で呼んでもらった方が嬉しいけどな」

ジュンがそう言うと、雛苺は頬を赤らめて俯き、ぽつり……と呟いた。

 「それじゃあ…………ジュン……で、良いの?」

恥じらいの中に、少女のあどけなさを見せる雛苺。
十七歳――それは、純真な少女から妖しさを秘めた女性へと成長していく年頃。
ジュンと付き合い始めてから、雛苺の雰囲気は、めっきり大人びた。


 【――変わったのは、恋を知ったからなの】

薄く化粧をする様になったし、休み時間などは仲良しの薔薇乙女たちと、
ファッション雑誌を眺めながらヘアスタイルなどの話に花を咲かせていた。
けれど、彼女が変わることは、ちっとも厭ではなかった。寧ろ、その真逆。
自分のために変わろうと努力してくれる雛苺の健気さが、ジュンには嬉かった。
 
 「うん。それで良いよ。さぁ、いちご大福、買いに行こうぜ」
 「そうね。早く行かないと、売り切れちゃうもの」
 「そんな訳ないって」

笑いながら言って、ジュンは不意に、雛苺の手を握った。
驚いたように振り向いた彼女に、ジュンは囁きかける。

 「手、繋いでいこう」
 「……うん。ありがとう……ジュン♪」

雛苺は嬉しそうに微笑み、ジュンの手を握り返した。
温かく、柔らかい手の感触。
本当は、雛苺もずっと、こうしたかったのかも知れない。
もっと早くから、こうしてあげればよかった。

微かな後悔を胸に、ジュンは、この手の温もりを大切にしていこうと決意した。




鮮やかな夕焼け空の下、ジュンと雛苺は、のんびりと歩いていた。
まるで、少しでも別れを先延ばしするかの様に……。
いちご大福の包みを宝物のように抱え、ニコニコしている雛苺。
彼女の無垢な微笑みは、ジュンに幼い日のことを思い出させた。


 【――うにゅー、大好きなの♥】

おやつの時間にいちご大福が出れば、
他の子が遊びに熱中していても、一人でもくもくと食べていたっけ。
ばかりか、他の子の分まで食べちゃって……。

 「うにゅー…………だったよな?」
 「え? 何が?」
 「いちご大福の呼び方だよ。子供の頃、雛苺が言ってただろ?」
 「あれね……そうそう。うにゅーっとしてるから、そう呼んでたの」 

思えば、懐かしかった。そして愉しかった。
あの頃は毎日、他の幼馴染みと一緒に、日が暮れるまで遊んでいたものだ。
丁度、今みたいな黄昏空の下で。

のんびり歩いていても、いつかは家に着いてしまう。
建設途中のマンションを通り過ぎ、角を曲がれば、雛苺の家は目の鼻の先だ。
募る寂しさを何かで誤魔化すように、ジュンは徐に、話を切り出した。

 「今度の日曜日にさ……デートしようよ。都合、悪いか?」
 「ううん、全然。たとえ用事があったとしても……わたし、
  ジュンのためならキャンセルするもの」

即答した雛苺の表情は、未だ嘗て見たことがないくらい、喜びに輝いていた。

 「それで、どこに連れてってくれるの?」

雛苺は期待に瞳を輝かせながら、上目遣いにジュンの顔を覗き込んだ。
束の間、返答に窮するジュン。
彼女の仕種に見とれていた事もあるが、
そもそも、デートコースなど考えていなかったのだ。


 【――そんな事は、お見通しなのよ?】

 「そ、それはまあ……月並みだけど、当日までのお楽しみってコトで」
 「…………相変わらず、ウソが下手なのね。バレバレなの」
 「面目ない。日曜までに考えておきます」
 「よろしい。期待してるからね」

怖いことを言ってくれる。
そんな風に言われたら、迂闊な所へは誘えないじゃないか。
これは本当に、本気で、死ぬ気になってプランを練らなければならない様だ。
今夜は、色々とネットで調べてみよう。
ジュンがそう考えた直後、聞き慣れない音と、誰かの叫び声が聞こえた。
それらの音は、上の方から雨のごとく降ってきた。

なんだろう? 頭上を仰ぎ見たジュンと雛苺の表情が、一瞬にして強張った。
自分たち目がけて降り注いでくる、大量の建設資材―― 

 「危ないっ! 雛苺っ」

ジュンは雛苺の身体に覆い被さり、自らの肉体を防御壁にした。

鼓膜が破れるほどの轟音が響き渡った。
背中を打ち据える、激しい衝撃。
ジュンは為す術もなく弾き飛ばされ、アスファルトの上で俯せになっていた。


 【――無事……なの? 生きているの?】

砂煙の舞い上がった路上を見渡すが、近くに雛苺の姿は無かった。
どうやらジュンの方が、大きく飛ばされてしまったらしい。
周囲の通行人が何か叫んでいたが、ジュンには何を言っているのか解らなかった。
耳がキーンとして、何も聞こえない。
自分の声すらも、よく聞き取れない。

一人の通行人が、散乱した建設資材を指差している。
見ると、資材の山から少し離れたところに、雛苺が俯せに倒れていた。
彼女の後頭部は、べっとりと血に濡れて、美しい髪がどす黒く見えた。
微動だにしない雛苺の耳元を、幾筋もの鮮血が流れ落ちていた。

 「雛苺っ!」

叫びながら、ジュンは雛苺の元に駆け寄った。
何も考えず、抱き起こす。
しまった、安静にしておくべきだったかも知れない。
しかし、そう気付いた時には、もう雛苺の身体を抱きかかえていた。


  いつだって、大好きな雛苺の側にいるから


その約束を守るために、ジュンは雛苺の側に跪いて、
彼女の名を呼び続けた。
制服に、雛苺の血液が染み込んでくるのが分かる。

 「早く……誰でもいいから、早く救急車を呼んでくれよ!」

ジュンはただ、叫び続けた。




命に別状はない。担当医は、そう断言した。
頭部を強打された割に、脳挫傷や脳溢血は見受けられない……と。
ジュンが身を挺して庇ったから、奇跡が起きたのかも知れない。
寧ろ、君の方が重傷だよ……。
医者は、そう告げて笑った。
ジュンは、雛苺と同じ病室に入院する事となった。


 【――この程度で済んだのは、あなたが護ってくれたから】

頭を包帯でぐるぐる巻きにされた雛苺は、
病室のベッドで健やかな寝息を立てている。
ジュンの額もまた、包帯が巻かれていた。
背中や肩の打ち身で、身体が軋みを上げる。
耳も、鼓膜こそ破れていないものの、依然として音を聞き取りづらい。
それでも、ジュンはベッド脇の椅子に腰を降ろし、彼女を優しく見守り続けた。

雛苺が目を覚ましたとき、側にいてあげたかったから。
そして、一番に、僕を見て欲しかったから。

 「雛苺…………週末のデートはお預けだけど……きっと、行こうな」

元気になれば、必ず――
ジュンは、眠り続ける愛しい娘(ひと)の頬に、そっとキスをした。




その夜――雛苺は目を覚ました。
消灯された病室。そこには、ジュンと雛苺の二人しか居ない。
窓から射し込む月明かりが、彼女の瞳の奥で煌めいていた。

 「よう。やっと、お目覚めかい」
 「…………あ……うぅ」


 【――やっと、会えた。あなたに……】

何か喋ろうとして、雛苺は苦しそうに顔を顰めた。
頭を強く打っていたから、そのせいかも知れない。
無理はしなくていいよ……。そう言おうとした矢先、雛苺の口から言葉が零れた。

 「良かったの…………ヒナは、ジュンに会いたかったのぉ」
 「ああ。僕も、会いたかった。雛苺と、早く話がしたかった」 
 「ヒナもね~、ずっとずっと、ジュンとお話したかったの~」
 「おいおい……なに甘ったれた声を出してるんだよ」
 「えへへ~。ジュン~、大好きなの~♥」
 「解ったから。おい、雛苺……悪ふざけは止めてくれよ」
 「ヒナは、ふざけてないの。ヒナはね、ジュンのこと、だぁい好きなのぉ~♥」

ジュンは、戦慄を覚えた。
舌足らずな口調。最初は、頭部強打のショックによるものだと思っていた。
けれど、これは違う。
雛苺は、悪ふざけをしているのではなく、全て、本気で言っているのだ。

姿形が似ているだけの、赤の他人……。
彼女はもう、ジュンの知っている雛苺ではなかった。




外因性の、一時的な混乱状態ではないか……と、担当医は所見を述べた。
CTなどの精密検査では、何も異常は見られなかったのだ。


 【――異常なんか、見付かる筈がないわ】

もう暫く、経過を見守ることになった。
ジュンと雛苺は、同じ病室で向き合い、語り合っていた。
喋ることで、記憶の混乱が改善するかも知れない。
その希望を胸に、ジュンは今日も言葉を紡ぎ続けていた。

 「ちゃんと、朝食を食べなきゃダメだぞ、雛苺」
 「だぁってぇ~。美味しくないんだもん。ヒナは、うにゅーが食べたいのっ」
 「ああ……分かった分かった。さっき、真紅たちに電話しといたから」
 「ホントっ!? わ~い、うにゅー! うにゅー!」

無邪気にはしゃぐ雛苺を見ていると、ジュンはいたたまれない気分になった。
辛くて、何度も涙が溢れそうになった。
僕たちは恋人どうしだったんだよ、雛苺……。
なのに、今のキミは、僕を兄のようにしか見てくれない。
――どうして?

 「どうしたの……ジュン? 泣いてたらダメなの~」

問い掛けられて、ジュンは顔を上げた。
知らない内に、俯き、泣いていたらしい。
こんな鬱々とした気持ちじゃあ、ダメだ。雛苺のリハビリにもならないじゃないか。
ジュンは指で瞼の涙を拭うと、朗らかに笑い掛けて、精一杯の虚勢を張った。

 「なんでもないよ。ちょっと、あくびが出たんだ。眠かっただけさ」




夕方、見舞いに来た真紅たちも、雛苺の豹変ぶりに動揺を隠せなかった。
幼児退行だなんて、どうして信じられようか。
けれども、雛苺の言動や振る舞いに、芝居じみた所は全くなかった。


 【――当然よ……これがヒナの、本当の姿なんだもの】

 「ジュン。ちょっと来てちょうだい」

差し入れの『いちご大福』を食べて幸せそうな雛苺を横目に見つつ、
真紅は病室の外へと、ジュンを誘った。

 「で、でも――」
 「こっちは、ボク達が居るから心配しないで。行ってきていいよ」
 「真紅を手伝って、ジュースを纏め買いしてきやがれです」
 「そういうことよ。私も、一緒に行ってくるわぁ」
 「解ったよ。それじゃ、ちょっと飲み物を仕入れてくる」

廊下に出て、病室から充分に離れたところで、真紅は歩を止めた。
振り返るなり、ジュンの顔をぐっ……と睨み付けてきた。

 「正直、戸惑ってるわ。あの子の中で、一体なにが起きているの?」
 「担当の先生は、一時的な記憶障害だと言ってるんだけど」
 「一時的、ねぇ。私には、まるで人格が入れ替わってしまったみたいに思えるけどぉ」
 「人格が……入れ替わった?」

水銀燈の口から発せられた言葉に、ジュンはギクリとした。
なぜなら、ジュンも同じ事を考えていたのだから。

外因的なショックで人格が入れ替わる。
そんな事が、本当に起こり得るのだろうか。

 「私たちの心には、幾つのも人格が宿っているらしいわよぉ。
  子供の頃が最も多くて、成長するに従い、一つに統合されていくんですってぇ」
 「そう言えば、聞いた憶えがあるのだわ。二十四人もの人格を持った犯罪者の話を」
 「雛苺の中に居た幼児的な人格が、ショックで前に出てきたって言うのか」


 【――そう。それが、ヒナなの】

12~17歳とは、最も多感な年頃に当たる。
独占欲。名声欲と密接に絡みあった向上心。
いまだ収まらない幼児的な嗜虐性。羨望と嫉妬に伴う虚言と、妄想――
反抗期や思春期を過ぎて、そこに恋愛感情や、虚栄心が混ざってくる。
多感であればあるほど、人格の数も増えていくのだ。

かく言うジュンの中にも、暴力的な自分が居た。
他者を見下す秀才の自分が居た。
世界を自分の思うがままにしてみたいと切望する、野心家な自分が居た。
引き籠もっていた中学生時代には、もっと多くの別人格が存在して、頭の中で鬩ぎ合っていた。
年を経て、素晴らしい仲間達と出会い、漸くここまで人格を統合できたのだ。  

 「それでも、彼女は雛苺なのだわ」

不意に放たれた真紅の一言が、ジュンの心を震わせた。
そうだ。どんな人格に変わっていようと、雛苺である事に変わりはない。

 「雛苺の心を呼び戻せるのは、ジュン……きっと、貴方だけなのよぉ」

二人の言葉に、ジュンは気持ちを奮い立たせた。
ありがとう。僕は、諦めないよ。




愉しい時間は、あっという間に過ぎ去ってしまう。
みんなが帰ってしまった病室には、なんとなく、しんみりした空気が漂っていた。
窓の外の夕焼けが、寂寥感を募らせる。
夕日を見るのが怖い。


 【――もっと、みんなとお話ししたかったの】

でも、今は我慢しておこう。明日になれば、また、みんなも来てくれるし。
何よりも、ジュンが居てくれる。
ヒナが怖い思いをしても、すぐに助けに来てくれる。
同じ病室で、本当によかった。


 「どうかしたか、雛苺?」

視線に気付いたジュンが訊くと、ヒナは無邪気な笑みを浮かべた。
それは、子供が保護者に向ける無防備な笑顔に似ていた。

 「ジュンが一緒に居てくれて良かった――って、思ってたの」
 「なんだい、唐突に。さっきまで賑やかだったから、寂しくなった?」 
 「うん…………ちょっとだけ。それに、夕焼け空が怖いの」

無理もないと、ジュンは思った。事故に遭ったのは、昨日の夕方なのだ。
あの時の恐怖が夕焼け空の朱と重なり、ヒナの深層心理に焼き込まれているのだろう。
ジュンは自分のベッドを抜け出して、雛苺のベッド脇の椅子に座った。

 「大丈夫だよ。僕が見守っているから、少し眠ると良いよ」
 「うん……解ったの。ねえ、ジュン。歌……唄って?」

子守歌か……。あまり歌に自信はないが、ジュンはひとつ咳払いして、歌い始めた。
けれど、やはり巧くない。ハッキリ言えば、音痴の部類に入る。
病室に、二人のクスクスと笑う声が響いた。




雛苺は夢を見ていた。
真っ白い世界に、独りぼっちで立ち尽くしている夢を。
不意に、目の前に人影が現れる。
それは……もう一人の自分だった。

 【――ヒナ。もう終わりにしなさい。このまま続けてはダメよ】

 「あなた、誰なの?」

 【――わたしは、雛苺の本人格……トモエ。
  そして、貴女は別人格の一人「ヒナ」

 「何を言い出すの? ヒナが本物の雛苺なんだからっ!」

 【――いいえ。貴女は、わたしが心の中で生み出した別の「わたし」でしかない。
  彼に心から甘えたい……その強い憧れが、わたしの中に「ヒナ」を生み出したの】

身体の中を冷たい風が吹き抜けた感じがして、雛苺は身震いした。
ヒナが偽物? 冗談じゃない。
たとえ、そうだったとしても、はいそうですかと身体を明け渡す気なんて無い。
今は、ヒナが本人格なの。
そっちの都合で生み出したクセに! 今更、邪魔だなんて言わせない!

 「身勝手なことばかり言わないで!」

ジュンに告白する度胸もなくて、悶々とするあまり別の人格を作り出して―― 
自分の気持ちを慰める為だけに生み出しておきながら、用が済めば切り捨てるの?

 「ヒナはっ! トモエのペットなんかじゃないのっ!」
 



 「おい、雛苺! 大丈夫か?」

身体を揺り動かされて、雛苺は目を覚ました。
なんだか、ヒドイ夢を見ていた。べっとりと寝汗をかいている。気持ちが悪い……。
雛苺は、ひしっ……と、ジュンにしがみついた。


 【――怖いよ、ジュン】

消されてしまうことが怖い。
けれど、ジュンに会えなくなってしまう方が、もっと怖くて――辛かった。
気付けば、ぼろぼろと涙を流していた。

 「ジュンっ! ジュンっ! ヒナは……ヒナは消えたくなんかないよぅ!」
 「落ち着けよ。もう大丈夫だ……怖い夢を見たんだな。とっても魘されてたぞ」
 「夢……? そう……怖い夢を見たの」
 「大丈夫だから。いつだって、僕が側に居るから」

ジュンの心が込められた言葉に、ヒナは安らぎを覚えていた。
とても気持ちがいい。もっと、ジュンを独占したい。
このまま、時の終わりまで、一緒に居られたらいいのに。

 「ジュン……ずっと、ずぅっと……ヒナの側に居てね」

心からの懇願。本人格のトモエが躊躇って言えなかった事でも、ヒナは平気で言えた。
それだけ、ジュンの事が大好きだったから。
この気持ちは、誰にも負けない自信があった。
たとえ、トモエが相手であっても。




雛苺の肩に手を置きながら、ジュンは苦渋に満ちた顔をしていた。
ずっと側に居る。その約束を違える気は毛頭ない。
けれど、兄として振る舞い続けることには疲れを感じ始めていた。

 「落ち着いたなら、眠った方がいいよ……雛苺」


 【――あなたは決して、ヒナって呼んでくれないのね】

ヒナは決意を固めた。トモエと対決する。
そして、どちらが真の本人格かハッキリさせてやるの。
トモエに勝てば、ヒナはこのまま雛苺として生きていけるんだもの。
ジュンを振り向かせることだって、出来るかも知れない。

 「解ったの~。汗かいてて気持ち悪いけど、頑張って眠ってみるの」
 「寝る前に、タオルで拭いた方がいいかもな。ちょっと、お湯を汲んでくるよ」

洗面器を手に、ジュンは脚を引きずる様にして、暗い廊下にでた。
身体が重い。怪我をしている事もあったが、なにより打ちひしがれた心が重かった。
僕の言葉は、本当に雛苺の心に届くのだろうか。
聞こえているのだろうか?

洗面所で適温の湯を汲み終えると、零さないよう気を付けながら雛苺の待つ病室へ戻った。
彼女のベッド脇に湯を張った洗面器を置き、タオルを手渡す。

 「僕は、下の自販機でジュースを飲んでくるから。雛苺は、なにが良い?」
 「えっと……じゃあ、紅茶でいいの」

解った……と呟いて、ジュンは再び、病室を後にした。




常夜灯のみ点された、薄暗く人気のないロビーで、ジュンは十五分ほど時間を潰した。
雛苺に頼まれていた紅茶を自販機で買って、病室へと戻る。
けれど既に、彼女は横になり、健やかな寝息を立てていた。


 【――ヒナは、トモエに負けないくらい、ジュンの事が大好きなのっ】

ジュンは自分のベッドに腰を下ろし、疲れ切った身体を横たえた。
全身が痛い。そして、心が痛かった。今は、もう何も考えたくない。
瞼を閉じると、速やかな眠気が訪れた。

しゅるっ――――

微睡みの中で、ジュンは微かな衣擦れを聴いた。
雛苺が、寝返りでも打ったのだろう。
気にしないで目を閉じていると、今度は傍らに重みを感じた。

 「…………ジュン……大好きなの」

耳元で囁かれた声が、ジュンの意識を覚醒させた。
咄嗟に目を見開いたジュンの目の前に、雛苺の顔があった。

 「ヒナのこと、もっと……よく見て、欲しいの」
 (止せよ――)

しなやかな彼女の指が、パジャマの胸元へと滑り、ボタンを外し始める。

 「お願いだから、ヒナのことを……ヒナって呼んで」
 (僕は、そんな事を望んでるんじゃない――) 
 「ヒナだけを……好きになってよ、ジュン」
 「やめてくれよっ!」

夜だというのに、ジュンは隣室の迷惑も憚らず叫んで、
雛苺の身体を押し退けていた。
ヒナの驚いた顔が、見る見るうちに、泣き顔へと変わっていく。
けれど、ジュンは口を衝いて出る言葉を、遮ろうとはしなかった。

 「僕は、こんな事したくない!」
 「ど、どう……して……?」
 「雛苺の姿をしただけの、他人なんかとっ!」
 「――っ!!」

禁句だった。
どんな人格であれ、雛苺は雛苺。真紅の言葉が思い出された。
『雛苺の心を呼び戻せるのは、ジュン……きっと、貴方だけなのよぅ』
水銀燈の言葉が、今は、ジュンの心に深く突き刺さる。
僕に出来たのは、雛苺を傷つけることだけだったよ。

今まで堪えていた涙が、堰を切ったようにジュンの双眸から溢れ出した。
そんなジュンを愛憎入り交じった眼差しで睨み付けるヒナの瞳からも、
止めどなく涙が流れ続けていた。 

 「ばかぁっ! ジュンのばかっ! きらい嫌いキライ、大ッ嫌い!」
   
ぼふっ!
ヒナは枕を投げ付けて、泣き喚き続けた。
出ていって。顔も見たくない。
そんな彼女の声が聞こえた気がして、ジュンは黙ったまま病室を出た。




ヒナは独りぼっちの病室で、泣いて泣いて、ひたすら泣き続けた。
どうして、ジュンは解ってくれないの?
どうして、あんな事を言うの?
どうして――――

どれだけ長い間、顔に枕を押し当てて、泣き続けていただろう。
気付けば、ヒナは真っ白な空間で、トモエと向き合っていた。

 「トモエ…………どうして、ヒナじゃダメなの?
  なんで、ジュンは応えてくれないの?
  ジュンを好きな気持ちは、トモエにだって負けてないのに」

 【――ジュンとヒナは、住む世界が違うから。
  貴女は、彼にとって過去の存在でしかない。
  物陰から彼を見詰め、想いを寄せるだけの女の子。
  数年前の、わたし…………それが、ヒナ……貴女なのよ】

貴女が思い描く『好き』と、わたしの『好き』は、『恋』と『愛』ほども違う。
トモエはそう告げて、寂しげな笑みをヒナに向けた。

 【――だから、あの時……わたしは、このまま続けてはダメ、と言ったの。
  こうなる事が、解っていたから】

 「そんなの……ヒドイの。ヒナを育ててくれなかったのは……トモエじゃないの!
  ヒナだって、大人になりたかった。ジュンと一緒に、学校に行きたかったもん」

嗚咽し、しゃくりあげるヒナの肩を、トモエは両腕で包み込み、抱き締めた。

 【――その通りね。ゴメンね、ヒナ】



トモエは何も言わず、ヒナが一頻り泣き終えるまで、彼女を抱き締めていた。
わたしが勝手に生み出した分身を、こんなにも悲しませてしまった。
こんなに小さな女の子に、辛い想いをさせてしまった。


 【――ごめんなさい、ヒナ】

トモエの腕の中で、ヒナは高校生から、小学生の女の子に変わっていた。
雛苺が、ヒナだった頃の姿だ。
ヒナはもぞもぞと身体を動かして、小さな声で呟いた。

 「あったかいね……トモエ。まるで、お母さんみたいなの~」

 【――ふふふ……そうね。わたしは、ヒナのお母さんなの】

 「ねぇ…………これから、ヒナは……どうなっちゃうの? 消えちゃうの?」

 【――怖がらないで。心配しなくて良いの。ヒナは、わたしと同化するだけだから。
  これからも、わたしと共に生きて行けるのよ。
  一緒に……あの人を愛していこうね】

 「ホント? なぁんだ……それなら、もっと早くから、こうすれば良かった。
  ねえ、早く、ヒナをトモエの中に連れていって。なんだか、眠くなっちゃった」

 【――おやすみなさい、ヒナ。幼い日の、わたし。
  わたしは、貴女が大好きよ】

トモエの腕の中で、ヒナは光の粒子となって、真っ白な空間に溶け込んでいった。

 「わたし、貴女を忘れない。今まで同化してきた、多くの『雛苺』の一人として」

胸の奥が、きゅん……と痛んだ。ヒナの想いを、雛苺はしっかりと受け継いだ。




目を覚ました雛苺は、ジュンを探しに、病室を抜け出した。
もうすぐ明け方だけれど、喫茶室や購買が開いている時間ではない。
そうなると、行きそうな場所は自ずから推測できた。

 【――ジュンはきっと、ロビーで寝てるのよ、トモエ】

そうね。きっと、そう。雛苺はヒナに相槌を打って、ロビーに向かった。
うら寂しい常夜灯だけの空間に並ぶソファー。その一つに、ジュンは横たわっていた。
微かに、寝息が聞こえる。

 「ジュン……こんな所で寝てたら、風邪ひいちゃうわよ」

肩を揺すると、ジュンは呻いて、ずれたメガネをかけ直した。
雛苺の顔を見るなり、バツの悪い表情になる。
当然だろう。酷いことを言って、傷付けてしまったのだから。

 「雛苺…………その、さっきはゴメンな。つい、カッとなって、僕は――」
 「そのことなら、ヒナも納得してくれたわ。だから、もう良いの」
 「えっ?」

雛苺の言葉に、ジュンは惚けた顔をした。意味が解らない……と言わんばかりに。

 「ま、まさか……雛……苺?」
 「うん! ただいま、ジュン。わたし、帰ってきたの」

天使のような満面の笑顔。ジュンの頬を、熱い涙が流れ落ちた。
おかえり、僕の……雛苺。




ヒナは雛苺の別人格だったと教えられて、ジュンは「やっぱりか」と頷いた。
誰もが胸に、別の人格を秘めている。
ストレスによって、自分でも気付かない内に、別人格を形成しているのだ。

 「僕は、可哀想な事をしてしまったんだな」

幼い雛苺……ヒナの存在を否定してしまった。
どちらも、雛苺に変わりないのに。
けれど、もう取り返しはつかない。
ヒナの人格はもう、この世に現れないのだから。

 「出来ることなら、一言だけでも謝りたかった」
 「それなら、大丈夫よ。ヒナはもう、怒ってないから。だけど、そうね。
  どうしてもと言うなら、彼女の名前を呼んであげて。それで充分だから」
 「そっか。じゃあ…………ヒナ。さっきは、ゴメンな」
 「やったぁ! やっと名前を呼んでくれたの~。ジュン、だぁい好き~♥」
 「えっ?! ちょっ! まさか、キミは――」

ヒナのまま? 慌てるジュンに、雛苺はペロッと舌を出して見せた。

 「冗談よ。でもね、ヒナは凄く喜んでたの。ホントよ?」
 「それなら良かったよ。けど…………よくも驚かしてくれたなっ!」
 「ひゃぁ~ん。だから、冗談だって言ったのに~」
 「こら、待てっ」


早朝のロビーに、朝日が射し込む。
柔らかな日射しの中へと駆け出す雛苺を追って、ジュンもまた走り出した。



雛苺。そして、ヒナ。
これからも、ずっと……僕はキミの側に居てあげる。
その想いを、胸に抱きながら。