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貸し切りの星空の下――
彼女たちは一糸纏わぬ姿のまま、白く泡立つ波打ち際へと歩きだした。
この幸せな夢が覚めてしまわないように、しっかりと手を繋ぎながら。

――しかし、波打ち際で……翠星石の足が止まる。
緊張した彼女の横顔に、どうしたのと訊きかけて、蒼星石は思い出した。
ここは普通の海ではない。様々な感情、無数の記憶が溶け込んだ海なのだ。
ただでさえ夜闇に包まれて不気味な水面が、一層、得体の知れない世界に思えた。

「……怖い?」
「怖くないなんて、強がりでも言えねぇです」
「そうだね。解るよ、その気持ち。ボクも、少しだけ怖じ気づいてるから」

なにが起きるか予想ができない事柄ほど、恐怖を煽るものはない。 
二葉は言っていた。魂が『記憶の濁流』に洗われることで、記憶は失われるのだと。
それが真実であるなら――
海に入った途端、彼女たちの記憶も、綺麗サッパリ洗い流されてしまうかも。
そして、街で見た、あの白い影のような曖昧模糊とした存在になり果てるとしたら。

再会できたばかりなのに、また離ればなれになるなんて、絶対にイヤ。
蒼星石の怖れが、繋いだ姉の手を、強く握らせる。

「気が進まないなら、止めてもいいんだよ」

言って、蒼星石は自分の台詞の白々しさに、自己嫌悪した。
翠星石を気遣った? 違う。土壇場になって足踏みしたのは、蒼星石の方だ。
『今』を失いたくなくて、お為ごかしを口にしただけ。


翠星石は……返事を紡ぐ代わりに、妹の手を引いた。
躊躇いがちな蒼星石の手を、いつも引っ張ってくれたように、力強く――



  ~もうひとつの愛の雫~
  第21話 『瞳閉じて』



驚いた蒼星石が「ホントにいいの?」と念を押した。
そうすることで、思い留まって欲しかったのかも知れない。
全てが水泡に帰しかねない危険を冒してまで、海に入る必要がどこにあろうか。
二人でのんびり暮らしながら、やがて姉の『記憶のカケラ』が浜に漂着するのを、
じっくり待っていればいいのだ。彼女たちの父親が、そうしたように。

けれど、翠星石は翳りも憂いも迷いもない笑みで、蒼星石に答えた。


「蒼星石が一緒なら、私は、どんなことにも立ち向かえるですよ」


月明かりに照らされた彼女の笑顔は、とても美しくて――
白い肌に残る睦みごとの刻印と相俟って、蒼星石の胸を、はしたなく高鳴らせた。

いつの頃からだろう、翠星石とひとつになることを、密かに望んでいたのは。
触れ合い、癒着し、どろどろに溶けて、混ざり合ってしまいたい……。
その望みが叶えられたのに、折角の幸せを手放すことなど、どうして出来よう。

説得するべく、開きかけた蒼星石の口に、翠星石の手が、そっと添えられた。

「蒼星石と暮らしてきた日々が、どんなにステキだったのか……私は知りたいです。
 そして、もっと幸せな気持ちで、これからの日々を綴っていきたいですよ」

どんなことにも、リスクは付き物。
そう告げて、翠星石は妹の唇から、細い指を離した。
 
「……強いんだね、キミは」

昔から、そうだった。二人で歩き出すとき、先に立つのはいつも、翠星石。
蒼星石は、ただ手を引かれて、付いて行くだけで――


それなのに、楽しくて、嬉しくて……なにより、幸せだった。
手を繋いでいるときは、大好きな翠星石を、独り占めできたから。
或いは、蒼星石の引っ込み思案も、構って欲しい気持ちの裏返しだったのかも。


「解ったよ。ボクも、もう迷わない。姉さんと一緒に、どこまでも行くよ」

たとえ、その結末がどんなものであれ、後悔などしない。
目と目で語り合った二人は、繋いだ手に力を込めて、海に向かい始めた。
湿った砂を踏みしめる爪先を、白波が舐めていく。
思いの外、海水は温かくて、脚湯のように気持ち良かった。

腰まで海水に浸かると、姉妹は示し合わせて、屈み込んでみた。
身体中にこびり付いていた砂の粒が、肌をくすぐりながら、はらはらと落ちてゆく。
茨の棘と、姉の爪に付けられた引っ掻き傷が、ピリピリ浸みた。
その痛みは、あっと言う間に身体の奥まで染み込んできて、蒼星石の胸に、
置き去りにしてきた親しい人たちの、悲しみに暮れる顔を浮かび上がらせた。

多くの人たちに辛い想いをさせた悔恨は、少なからずある。
……が、それらを『どうにもならない過去の記憶』として、
忘却の彼方に捨ててしまおうだなんて思わないし、その想い故か、
記憶が流れ出していくような変調は、待てど暮らせど現れなかった。

(沖に出なければ、何も起こらないのかな?)

『記憶の濁流』というくらいだから、よほど大きな潮流なのだろう。
こんな、岸から十数メートルの距離では、影響なんて殆ど無いのかも知れない。
蒼星石が、その考えを話そうとした矢先、握っていた姉の手が、するりと抜けた。

「ね、姉さんっ?!」

ビックリして振り向くと、そこに翠星石の姿は無く――
ひと抱えほどもある大きな卵が、波間を漂っていた。
まるで、ハンプティ・ダンプティの卵。幼い頃、姉と読んだ絵本が思い出された。
もしかして、この卵こそが、翠星石のなれの果てなのか?
解らない。でも、そうとしか考えられない。
蒼星石は波を掻き分け、必死になって縋り付いた。

「姉さんっ! しっかりしてっ! どうしてっ! なんで、こんなっ!」

喉が涸れるほど呼びかけながら、大きな卵を抱き上げて、浜を目指す。
ヤケに重たい。それに、やたらと滑りやすい。
万が一、落として割ってしまったら……どうなるのだろう?



息も絶え絶えになりつつ、漸くにして辿り着いた砂浜に卵を横たえるや、
蒼星石は真っ白な外殻に、ぴったりと耳を近付けた。

……と、微かに、何かが聞こえた。それは、途切れ途切れで……
小さな子が、啜り泣いている様子を、蒼星石に想い描かせた。
試しに殻をピタピタ叩くと、ほんの少し、内側からの音が大きくなった気がした。

「この中に、姉さんが? でも……どうしたら」

卵の殻は堅くて、とても素手で割れそうにない。何か、道具があれば――
そう思った直後、思い当たった。道具ならある。『庭師の鋏』が。
危険かも知れない。中に居る誰かを、傷つけてしまうかも。

「だけど、ボクは――」

どうしても、翠星石を取り戻したい。
だから、思い切って『庭師の鋏』を振り下ろした。
一撃。たった一撃だけ。それだけで、卵の殻に亀裂が走り、粉々に砕け散った。
散乱した殻は、更に細かく砕けて、浜辺の砂と混ざり合う。
そして…………胎児のように身を屈めた翠星石が、そこに居た。


「姉……さん?」

おそるおそる、投げかけられた声に、翠星石の撫で肩がピクリと微動する。
彼女は……両手で顔を覆って、啜り泣いていた。

「どうしたのさ。なんで泣いてるの?」

蒼星石の胸が、キュッと締め付けられて、息苦しくなる。
この胸の痛みは、翠星石の悲しみがもたらすものか。
それとも、得体の知れない、漠然とした不安を感じたため?
涙の理由を知りたい。ココロに生じた衝動が、後者の気配を匂わせている。
まさか、更に記憶を失ってしまったのでは――
蒼星石は、おののく手を姉の濡れた頬に添えて、静かに向き直らせた。

「お願いだから、泣いてる訳を聞かせてよ」
「……蒼……星石」


その一言は、濾紙のように。
涙声ながら明瞭に囁かれた名詞が、蒼星石の不安を少しだけ漉し取った。
どうやら、会話もできないほど記憶を失ったワケではないらしい。
やや表情を和らげ、蒼星石は、姉の頬に貼り付いた濡れ髪を、指先で弾いた。

「ボクのこと、解るんだね?」
「忘れたりなんか……できっこないです」

二人の瞳が、ひたと繋がり合う。
頬に触れた蒼星石の手に、引きも切らさず、熱い雫が落ちてくる。
一体どこに、これほどの涙が溜め込まれていたのだろう。
翠星石は、一向に泣きやむ素振りを見せなかった。

「ちゃんと思い出せるですよ。なにもかも、全部」
「それって、『記憶のカケラ』を取り戻したってコト?」
「ううん……そうじゃないです」

じゃあ、どういうコトなの?
訊ねようとする蒼星石の機先を制して、翠星石は震える声で続けた。

「最初から、私は『記憶のカケラ』を失ってなんか、なかったのです」
「じゃあ、なんで再会したときに、ボクのことを忘れてたのさ?」
「それは――――」

潤んだ緋翠の瞳が、また……脇に逸れる。「蒼星石を、忘れたかったから」

「ウソ…………なんで?」

翠星石の想いが、また見えなくなって――それ以上、言葉が繋がらない。



幼い日に、ずっと一緒にいると、約束してくれた翠星石。
携帯電話の留守録で、蒼星石が大好きだと言ってくれた翠星石。
その彼女が、なぜ『蒼星石を、忘れたかった』なんて言うのだろうか。

悪い想像は、悪い連鎖しか生み出さない。
捨てられたような、惨めな気分が、どんどんネガティブに傾いでゆく。
気付けば、蒼星石の目頭は熱くなっていた。

「分かんないよ。どうして? 姉さんにとって、ボクは要らない子なの?」
「そんな! 違うです! そうじゃなくって――」

いつになく必死な声。
滲む世界の向こう側で、翠星石は真っ直ぐに、蒼星石を見つめていた。

「私は――――蒼星石のことが好きですよ。現在進行形で、大好きです。
 でも……それは姉妹だからとか、親友みたいな関係の『好き』とは違う。
 もっと、ずっと、ココロの深いところから込みあげてくる想いなのです」

それを言葉にするなら、ひとくくりに『愛』と表現できるかも知れない。
もしくは、恋心と。
今まで、蒼星石は正に、その恋心を抱いてきた。他ならぬ、実の姉に対して。
そして……翠星石にも自分と同じ気持ちを抱いて欲しいと、密かに願っていた。
本当は、願う必要すらなかったのかも知れないのに――

「蒼星石のコトを想うと、いつも胸が苦しくて……でも、こんなの背徳的だし、
 みんなだって、異常で不潔だと思うに決まってるです。だから――」
「世間体を気にして、自分の気持ちを欺こうとしたの? 封じ込めたかったの?」

バカみたい。小さく吐息して、蒼星石は告げた。「ホントに素直じゃないよね」
どれだけ翠星石を慕っていたか。特別な感情を抱いて接していたか。
彼女なら、わざわざ言葉に変えなくても、とっくに気付いてくれていると思っていた。
だが、それは蒼星石の独りよがり。お互い様の、どっちもどっち。

「ボクも、姉さんも……ホントに素直じゃなかった。気持ちは一緒だったのにね」
「それは……しゃーねぇですぅ。生きる事は、いろんな倫理に縛られる事ですから」
「うん。だけど、お互い、もう意地を張るのは止めようよ。
 この世界にまで、あっちの世界の倫理を持ち込むのは、ナンセンスだよ」

姉妹だから。女の子同士だから。そんなの、恋愛を否定する理由にはならない。
倫理なんて所詮、集団の営みにおいて必要とされる、最低限のルール。
それ以上でも、それ以下でもない。
彼女たちにとっては、大好きという気持ちが結ばれない方が、絶対的に不幸だった。
『悲恋』を美しさの代名詞にするような世界なら、いっそ捨てても悔いはなかった。


「ボクは、ずっと……キミだけを想ってきた」
「……私も……ですぅ」


交わした言葉は、それだけ。足りない分は、仕種で充たせばいい。
瞳を閉じると、二人は隔てるもの全てを押し退けて……契りを結んだ。

二人の涙が溶け合って、砂浜に吸い込まれていった。



  ~もうひとつの愛の雫~  第21話 おわり





三行で【次回予定】

  二人で、ひとつ。
  生まれたときから、ずっと……それが当たり前だった。
  互いに持ち寄った絆は、月夜の浜に結実し、やがて永遠へと昇華する。

次回 最終話 『永遠』-前編-