蒼星石の問いを、澄ました顔で受け止め、二葉は言った。


「ラベンダーの花言葉を、知っているかね?」


訊ねる声に、少しだけ含まれている、気恥ずかしそうな響き。
花言葉という単語は、男がみだりに使うべきものではないと……
女々しいことだと、思っているのだろうか。
いつまでも黙っている蒼星石の様子を、返答に窮したものと見たらしく、
翠星石が助け船を出すように、口を挟んだ。

「あなたを待っています……ですぅ」

二葉は満足げに頷いて、まるでラベンダーの庭園がそこにあるかの如く、
ティーカップを並べたテーブルに、優しい眼差しを落とした。

「中庭のラベンダー。実を言うと、あれは僕が育てたものだ」
「結菱さんが? と言うか、よくラベンダーの種を持ってましたね」
「まったくです。用意がいいヤツですぅ」
「……ふむ。君たちは、まだ来たばかりだから、そう思うのも仕方ないか」

なんだか言葉が噛み合っていない。自分たちの見解の、どこが間違っていると?
姉妹は口を閉ざして、まじまじと二葉の顔を眺めた。
それが答えを促す仕種であることは、二葉も承知している。

「こうして生前の姿を留めているから忘れがちだが、僕も、そして君たちも、
 実際には既に、死んだ身なのだよ」
「それは、まあ……なんだか、海外旅行にでも来てるみたいな気がしてます。
 茨の棘でケガしたら血が出たし、痛みもあったっけ。死の実感がないですね」
「こうして息もしてるし、体温だって感じられるですぅ」

「何故だと思う?」二葉は訊ねたが、二人の答えを待たずに続けた。
「それはつまり……五感ですら、記憶の一部だからだよ」



  ~もうひとつの愛の雫~
  最終話 『永遠』-後編-



――五感。それは、生まれてから経験的に学んできた感覚。
たとえ身体が失われようとも、決して喪われることのない記憶。
故に、異邦人たる彼らは、いまも身体を有しているのだ。
生前の姿を、経験を、ありありと思い出せるから。

「僕は、ある人に教えられて、ラベンダーと、その花言葉を知っていた。
 だから、この世界でも具現化できたのだよ。知識こそ、創造の種なのだからね。
 その方法については、百万の言葉を並べた説明を聞くより、実践で学びたまえ。
 ……さて。少々、話が脇道に逸れてしまったが、質問の答えだ」

蒼星石たちが守り役を継いだ後、二葉はどうするのか。どうなるのか。
彼は残っていた温い紅茶を飲み干して、カップを置いた。

「これは、僕が異邦人となった原因でもあるのだが……
 もうずっと以前、僕にも君たち同様、大切なヒトが居たのだよ。
 将来を誓い合った女性がね。彼女の名はコリンヌ。とても美しい娘だった」
「うっわ……ノロケやがったですぅ」
「姉さんってば」

空気を読まずに茶々を入れた姉の脇腹を肘で小突いて、蒼星石は先を促した。
そんな、仲睦まじい姉妹の様子に、知らず、二葉の頬も緩む。

「君たちを見ていると、兄さんを思い出すよ。頼りがいのある、いい兄貴だった。
 僕らは、とてもいいコンビでね。いつだって一緒だった。一心同体と呼べるほどに。
 いつまでも、ずっと巧くやっていけると……一枚岩の関係だと信じていたのだよ。
 ひとりの女性を、二人が同時に愛してしまうまではね」
「……ラベンダーを教えてくれたのも、コリンヌさんなんですね、結菱さん」
「ああ。そして、僕はどうしても彼女を、独り占めしたいと欲した。
 今にして思えば、僕はずっと、コンプレックスを抱いてたのだろうな。
 なんでもソツなくこなす、優秀な兄さんに対して、いつも引け目を感じていたのだ。
 だから……彼女だけは、兄さんに渡したくなかった。勝ち取りたいと強く思った」

一息に捲し立てた二葉は、喉を湿らそうとカップを手に取り、空であることに気付いた。
目敏く見て取った蒼星石が、ポットを手に取り、彼のカップに紅茶を注ぐ。
彼は目礼して謝意を示し、一口、渋い液体を含んだ。


「ボクには、結菱さんの気持ち……なんとなく解ります」

蒼星石は、姉と自分のカップにも濃くなった紅茶を注ぎながら、相槌を打った。

「そうかね?」
「ええ。ボクも――」

短く答えて、ちらと流した横目が、怪訝そうな翠星石の双眸とぶつかり、
蒼星石は、あたふたと二葉に水を向けた。

「その後、お兄さんやコリンヌさんとは――?」
「僕は、勝ちたい一心で、躍起になっていたからね。兄さんとケンカ別れして、
 駆け落ち同然で、彼女と船に乗ったのさ。彼女の故郷で結婚しようと、ね。
 だが…………幸せというものは、実に掴みどころのない妄想だったよ。
 しっかりと、この手の中に握っていたはずだったのに」
「何が、あったですぅ?」
「沈んだのだよ。絶対に沈まないと謳われていた豪華客船が。僕らが乗っていた船が。
 ……それっきり。そう。彼女とは、それっきりだ。
 生きているのか、死んでしまったのか、それすら解らない。ただ、願わくば……」

些か不謹慎に過ぎるのだけれど。
そう前置いて、二葉は静かに、重い言葉を吐き出した。

「コリンヌも、こちらの世界に来ていたら……と、思わずにはいられない。
 そして、彼女も僕と同様に、未練を引きずり『異邦人』になっていたら、とね」
「ラベンダーの花言葉……結菱さんは、あの花に願いを込めたんですね」
「あなたを待ってる――ですか。なんだか、淋しくなるですぅ」

シュンと俯いた翠星石を見て、ふと、蒼星石は思い出した。
この屋敷で再会したとき、翠星石が茫乎と眺めていたのも、ラベンダー。
あの時はまだ、彼女は蒼星石のことを忘れていた。
だから、ただの偶然なのだろうけれど、やはりココロのどこかでは期待してしまう。
ラベンダーの花言葉のように、蒼星石の訪れを待ってくれていたのだ――と。

「暗い話になって、すまないね。かなり前振りが長くなってしまったが、
 僕はね、君たちに守り役を任せて、旅に出ようと思ったのだよ。
 待ってるだけでは、なにも変わらない。行動して初めて、事態は動く」


二葉は、蒼星石の顔を、緋翠の瞳を、真っ直ぐに見つめながら言った。

「彼女と幸せを掴もうとしていた、胸に熱い情熱を秘めていた、自分……。
 蒼星石を見ていて、それを思い出したのだよ。君の強さが、僕の目を覚ましてくれた」
「そんな……。ボクなんて、独りぼっちに堪えられなかった臆病者ですよ」
「そうかね? 一途に想いを貫くというのも、意外に勇気が必要だよ。
 大概は、どこかで挫けてしまう。環境に左右されて、初志を歪めてしまう。
 君だって、もしかしたら、そうだったかも知れない。
 家族や親友たちを振り払えなくて、彼らの為に生きる道を選んだかも知れない」
「それは――」
「ない、と言い切る自信があるかね?」

蒼星石は、答えられなかった。確かに、祖父母を支えて生きる道も示されていた。
でも、選んだのは、翠星石。自分の正直な気持ちに、従っただけ。

なのに、今更ながら、祖父母への罪悪感に胸を苛まれた。
両親に代わって無償の愛情を注いでくれた彼らに、なにも孝行できずに――
ただひとつ返したのは、恩ではなく仇。
申し訳なさと悔しさで涙が溢れ、蒼星石は、唇をきつく噛んだ。

「すまない、蒼星石。君が妥協しなかったことを、責めているのではないよ。
 僕自身、他人を悪く言えたものではないからね」

「肝心なことは――」二葉の柔和な眼差しが、少しだけ鋭さを増した。
「蒼星石。翠星石。君たちが『今』幸せであるか、と言うことだ。
 君たちを育ててくれた人々も、きっと、そうあって欲しいと願っただろう。
 子供たちの不幸など、望みはしない。それが親というものだ」

一点の曇りもなく、ただ一心に、幸せになること。
それが至上の恩返しであり、無上の悦びであり――あらゆることへの、愛情の証明。

「蒼星石は、翠星石と共にあり続けることが幸福だと信じたのだろう?
 だから、脇目もふらず、この世界まで追いかけて来たのではないかね?」

そう。二葉の言葉どおりだった。蒼星石は、翠星石の隣に居たかった。
二人で過ごしてきた、幸福に満ちた日々を、是が非でも取り戻したかった。
世界でたった一人の、ココロから愛する人と……永遠に、添い遂げたかったから。

「そ……うで……す。ボクは……っ」

蒼星石の答えは、喉に詰まって巧く発音できていなかったけれど、
二葉にも、翠星石にも、彼女の気持ちは伝わっていた。
その証拠に――

「自分の気持ちに正直すぎれば、回りにいる誰かを傷付けてしまう。
 それは避けられないことなのだよ。だから、気に病むのはやめなさい。
 周囲への気遣いも大切だが、自身の幸せを求めることも、より大切なのだからね」

幸福になる権利は、誰にでも与えられている。
二葉は満足そうに頷き、そう語ってくれた。
翠星石は微笑みながら、蒼星石の濡れた頬を、そ……っとハンカチで拭ってくれた。
だから、蒼星石は涙を溜めた瞳で、翠星石に問いかけた。


  ――いいんだね?


翠星石の瞼が、嬉しそうに細められて――
その眦から、ぽろっ……と、宝石のような雫がこぼれ落ちた。
涙もろい姉の肩を、そっと抱き寄せて、蒼星石は二葉に目を向けた。
力強い意志を宿した、眼差しを。


「結菱さん。守り役を引き継ぐ話……引き受けます。ボク達に任せて下さい」
「……そうか。うん…………そうか」

漸くにして肩の荷が下りた。二葉は、とても満足そうな顔をしていた。
そして、なにげなく……本当に、小用でも足しに行くかのような気安さで、
「ちょっと失敬」と部屋を出ていった。


それっきり――――
彼は、二度と戻ってこなかった。




どうして、彼が別れを告げずに旅だったのか。
二葉の想いは、二葉にしか解らない。
気が急くほどに、コリンヌという女性を探しに行きたかったのだろうか。
それとも、すぐにまた戻ってくるから……そんな軽い気持ちで、出かけたのか。



やがて、水平線の彼方に陽は落ちて――
姉妹は一緒に夜食の調理を楽しみ、二人きりの晩餐会を催した。
こんなこと、今までだって毎日のように繰り返してきたハズなのに、
なぜか、とても久しぶりのような感じがした。
テーブルに燭台を置いただけの薄暗い食卓は、蛍光灯の明かりを見慣れた眼には、
どこか物寂しく映る。でも、彼女たちには、全てが楽しく思えていた。
二人のココロには、もっともっと明るい光が、満ちあふれていたのだから。

食事の片付けを終え、一緒にシャワーを浴びて、ひとつのベッドに収まる。
そうすることに、なんの違和感も覚えなかった。

「ねえ、蒼星石?」
「なぁに?」

窓から射し込む、青白い月明かりの下で……
二人、枕に頭を沈めながら、微笑みを向け合う。

「明日から、ラベンダーの他にも、いっぱい花を育てるですよ」
「うん、いいね。まずは、この屋敷の周りを、色とりどりの花で飾ろう。
 姉さんは、どんな花を咲かせたい?」
「私は、そうですねぇ……スイカズラが良いです。蒼星石は?」
「じゃあ、ボクは、ペチュニアを育ててみようかな」
「……いいですね。きっとキレイですぅ」
「うん。いつか、この島を花いっぱいの楽園にしようよ。ボクたち二人で」
「私たち、二人で」



いつまでも、永遠に、二人で。
そして、いつか訪れるみんなを、共に出迎えよう。



誓いの言葉を口にして、蒼星石と翠星石は、どちらからともなく距離を縮めて、
そっと…………優しい口付けを交わした。


「おやすみなさいですぅ、蒼星石。大好きですよ」

「ボクも、大好きだよ。おやすみなさい、姉さん」




  いつも一緒です。
  ずーっとずーっと、一緒ですよ……。





  ~もうひとつの愛の雫~
  grand finale
最終更新:2007年04月27日 22:26