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  ―睦月の頃 その4―  【1月17日  冬の土用入り】


冬休みも呆気なく過ぎ去り、大学の講義が始まって暫く経った、ある日の夕方。
翠星石は、雛苺を待つ傍ら、キャンパス内の図書館で課題レポートを書いていた。
館内には一人掛けのテーブルが、幾つも据え付けられていて、自由に使えるのだ。
あれこれと参考文献を漁りながら、レポートを書くには、もってこいである。

肩の凝りを覚えて、翠星石が頭を上げると、首がコキコキ鳴った。
なんだか気怠い。でも、今日は火曜日。今週も、まだ長い――


「あー。流石に、くったびれたですぅ」

夕焼けに染まる窓辺の机で、翠星石は周囲を憚りつつ、大欠伸した。
椅子の背もたれにのし掛かって、縮こまっていた背筋を伸ばす。
すると、身体の節々から、小さな悲鳴が上がった。
まだ半分も纏まっていない内から、こんな事では先が思いやられる。

気分転換も兼ねて、翠星石は前後の机と、右手に並ぶ書架に目を遣った。
机に突っ伏して寝ている者が居る。こっそりマンガ雑誌を読んでいる者も。
が、多くは講義の合間にレポートや宿題を片付けてしまおうと、
躍起になっている者たちだ。


……と、その時。
彼女の眼が、図書館の入口を潜り抜ける雛苺を捉えた。
雛苺は、すぐさま翠星石を見付けて、小走りに駆け寄ってくる。

「ごめ~ん、翠ちゃん。お待たせなのー」
「大きな声を出すなです。それより、レポートは通ったですか?」
「うんっ! ツッコミ所満載だったけど、質疑応答で巧くやり過ごしたのよ」
「……羨ましいですぅ」

翠星石の呟きは、偽らざる本音だった。


大学の講義は選択式で、大きく分けると、二つある。
当該学年次に必ず履修しなければならない『必修科目』と、
希望しなければ受講しなくても良い『選択科目』である。
厄介なのが必修科目で、この科目の単位を落とせば即、留年が待っている。
いま、翠星石が纏めているレポートも、必修科目のひとつだった。

「このままじゃ留年しちまうですよ」

珍しく弱音を吐く翠星石を見て、雛苺は気の毒そうに表情を曇らせた。
が、すぐに、いつもどおりの明るい笑顔で話しかける。

「大丈夫なの。質問される内容を皆に聞いておけば、一発で通るのよー」
「まあ……そうかも知れねぇですけどぉ」
「気落ちしてても始まらないのよ。今日は、もう帰ろ?
 今朝の約束どおり、ヒナが御馳走してあげるから、元気出すのっ」

確かに、雛苺の言うとおりである。
落ち込んでいる暇があったら、その間にレポートを完成させるべきだった。
しかし、頭で解っていても、なかなか実践できないのが人間の悲しい性。
果たして、今のペースで提出期限に間に合うのか、どうか……。

「んもう、なにボ~ッとしてるのー?
 ささっと片付けて、早く帰るのよ。ほらほらほらっ!」
「あぁん、解ったですから、そう急かすなですぅ」

蒼星石と離れ離れになって寂しさを募らせる自分を元気づけようとして、
雛苺は色々と気を配り、陽気に話しかけてくれる。
そんな彼女の心遣いに胸の中で感謝しながら、翠星石は帰り支度を始めた。




最寄りの駅に向かって、並んで歩く下校途中の商店街。
夕暮れ時ということもあって、街路には、買い物客が増え始めていた。
小売店ばかりでなく、軽く食事ができる店も、あちらこちらに点在している。


  『ヒナが御馳走してあげる――』


翠星石が雛苺を待っていた理由は、それだった。
今朝いきなり、雛苺の方から誘ってきたのだ。
大した用事もなかった為、たまには良いかと思って承諾したのだが……。

「さぁてさてぇ。なにを奢ってくれるですぅ?」
「ヒナも、いろいろ考えたんだけどぉ――」

雛苺は、商店街の中にある、一軒の鰻屋を指差した。
営業中の札が掛かる店内からは、蒲焼きの美味しそうな匂いが漂ってくる。
おなかが空いてきた頃でもあったので、この匂いは刺激的すぎた。
モーレツな誘惑に耐えきれず、翠星石の胃が、グゥと鳴いた。

それを聞きつけた雛苺が「あ~?」と、いやらしい流し目を向けてきたので、
翠星石は顔を真っ赤にしながら、わたわたと両腕を振り回した。

「なっ……こっち見んなですっ! 大体、なんでウナギですかっ!?」
「翠ちゃん、知らないの? 今日は冬の土用入りなのよー?」

雛苺の返事を聞いて、翠星石は、ははぁん……と察しが付いた。
カレンダーの暦か何かで、今日が『冬の土用入り』と知ったのだろう。
それで、土用=丑の日と考えて鰻を連想したのだ、と。

だが、とんだ勘違いをしている。
土用とは、そもそも立春・立夏・立秋・立冬を迎える前の18日間のことで、
一般に言う土用の丑の日は、立夏の時だけである。
鰻を食べる習慣には諸説あるが、江戸時代、平賀源内が、
知人の店の宣伝として考えたのが起源という説が広く知られていた。


老夫婦と暮らしているせいか、翠星石は同年代の娘たちより、年中行事に詳しい。
そこで、雛苺に本当の事を教えてあげようとしたのだが……
例によって、悪い癖が出てしまった。

「ふっふ~ん。雛苺の方こそ、なぁんにも知らねぇですね。
 冬の土用は、子(ね)の日に『くずきりぜんざい』を食べるのが、
 古来からの習わしですぅ。食べなかった悪い娘はぁ――」
「た……食べな……かったら?」
「プギャ――――っ!!」
「ひゃあぁっ!」
「……と、疫病神にドツボという秘孔を突かれて、
 災難だらけの一年を過ごすことになるです。ああ、怖ぁい……ガクブルですぅ」
「すすす、翠ちゃんっ! 急いで甘味処へゴー! なのよー」
「はいですぅ♪」

お汁粉くらいなら、鰻より安いし、奢られても悪い気にならない。
久しく甘味処にもご無沙汰していたこともあって、翠星石は素直に従った。




――明けて、翌日。
雛苺は登校しなかった。
彼女の親友で、翠星石の友人でもある巴の話では、体調不良により休みとのこと。

(まさか……昨日のコトが?)

思い出して、翠星石の頭から、サッと血の気が引いた。
甘味処へ駆け込んだ雛苺は、初めこそ「アンマァ~♪」と悦んでいたのだが、
なにを血迷ったのか『くずきりぜんざい』を三十杯も平らげた挙げ句、
すっかり気持ち悪くなってしまったのだった。

(ま、まあ、おなか壊したくらいなら、ほっときゃ治るですぅ)

もっともらしい言い訳で、後ろめたさを誤魔化そうとしていた翠星石の耳に、
真紅と巴の会話が流れ込んでくる。

「雛苺のご両親は共働きで、昼間は一人きりになってしまうの。大丈夫かな」
「平気じゃないかしら。あの子は、巴が思っているより、ずっと強い子よ」
「それは……そうだけど」

巴が心配するの気持ちは、解る。
真紅の言うことも、やっぱり解る。
雛苺も――普段の言動はともかく――もう子供ではない。

でも……しかし……。


「…………今日は、もう帰るですぅ」

呟くなり、荷物を纏め始めた翠星石に、真紅と巴が声を掛けた。

「いきなり、なぁに? どうかしたの、翠星石?」
「具合が悪いなら、医務室に行く? わたし、付き添ってあげる」
「別に、なにも……。今日は、なんだか気が乗らないだけです。
 気持ちだけ、ありがたく受け取っておくですよ」
「――そう。気を付けて帰りなさい」

二人の気遣いに、素っ気なく礼を告げて、翠星石は鞄を手に講堂を後にした。
登校しておきながら、一限すら受けずに帰宅するなんて、初めての体験だ。
意味もなく緊張して、翠星石は人目を気にしながら、コソコソと帰途に就いた。




そして、一時間後――
翠星石は、雛苺の家の前で立ち尽くし、煩悶していた。
自分のウソが原因で、彼女を辛い目に遭わせてしまったコトを考えると、
いちご大福をお詫びに持ってきたものの、なんとなく顔を合わせ辛い。
門柱の呼び鈴に指が伸びるも、ボタンを押すことなく、手を引っ込めてしまう。
そんな事を、もう何度も繰り返していた。

「も、もう……なに気後れしてるですか、私はっ!
 ただ、おバカ苺が大往生してないか、見に来てやっただけですぅ」

自らに悪態を吐いて一念発起。翠星石は意を決して、呼び鈴を鳴らす。
暫く待つと、二階の窓から、パジャマ姿の雛苺が顔を覗かせた。
割と、元気そうだ。顔色も悪くない。


翠星石が頬を引き攣らせながらも、笑みを作って手を振ると、
雛苺は「待ってて」と部屋を出て玄関を開けてくれた。
そして、ひどい目に遭わせた元凶が前にいるのに、無邪気な笑顔で迎えてくれた。

「翠ちゃん、学校は?」
「今日は、その……急に、休講になったですよ。それで、様子を見にきたです。
 甘い物は、見るのもイヤかと思ったですけどぉ――」
「うょ――っ!! うにゅーなのー」

昨日のことなど全くお構いなしに、雛苺は、いちご大福にかぶりついた。
性懲りもないというか、単純思考というか……。

「ちょっと、お茶を煎れてくるです。台所、借りるですよ」
「ヒナも一緒に行くの。湯飲みとか、どこに有るか判らないでしょ?」

確かに、そうだ。翠星石は、雛苺と連れ立って、台所へと向かった。
ポットとお茶の道具を盆に載せて、雛苺の部屋に戻る。
それから暫くの間、談笑を楽しんだ。

「でも、翠ちゃんが来てくれて良かったのよ。ヒナね、とっても退屈してたの」
「……巴に聞いたです。雛苺の家は共働きで、昼間は雛苺だけだって」
「うんっ。子供の頃から、ずっとよ。家に居れば、ずっと独りぼっち」
「そんな話、ちっとも知らなかったですよ」
「だって、言わなかったもの。誰かに話したって、仕方がないもの」

本当は、寂しかったに決まっている。誰だって、独りぼっちは心細いから。
それなのに、雛苺は子供の頃から、明るい笑顔を周囲に振りまいてきた。
どうして? 笑っていれば、自分の孤独を誤魔化せるから?


多分、違う。翠星石は、そう思った。
雛苺は、誰よりも孤独の寂しさ、怖さを知っていたからこそ、
周囲の人々が笑顔で暮らせるように、陽気な道化役を演じていたのだろう。
たとえ、自分はロウソクみたいに、消耗していくだけであっても――

(そして、私たちは雛苺に癒されていたです。
 独りぼっちじゃないと、勇気づけられていたのですね)

ならば……たまには、こっちが癒してあげなければ。
翠星石は、バッグからレポート用紙を抜き出しながら、雛苺に微笑みかけた。

「しゃーねぇから、今日は一緒に居てやるです」
「ホント?! ホントに良いの?」
「その代わり、私のレポートを手伝いやがれですぅ」
「嬉しいっ! やっぱり、翠ちゃんは優しいのよー」

優しくなんてない。
内心で目一杯、雛苺の言葉を否定しながら、翠星石はレポートに取り掛かった。

寂しがり屋同士の馴れ合い。
こんなコトは、単なる傷の舐め合いかも知れない。
でも……それでも良い。
支え合って、慰め合って、それで心が強くなれるなら。

離れていく蒼星石を、泣きながら見送っているだけではダメ。
もっと強くなって、追い掛けないと。
もっともっと強くなって、あの娘に追い付かないと。
そして――絶対に捕まえないと。



そんな事を考えた、冬の一日だった。