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  ―弥生の頃 その4―  【3月18日  彼岸】


穏やかに晴れた、土曜日の朝。
翠星石は、ベッドに横たわったまま両手を天に突き出し、大きな欠伸をした。
ひんやりとした空気に触れても、眠気はなかなか引かない。
普段の週末ならば、ここで二度寝モードに突入するところだ。
しかし、今日は、そうも行かなかった。

毎年、彼岸の入りに墓参りをすることは、柴崎家の恒例行事である。
墓前で、亡き祖先や両親を偲ぶ日だった。


彼岸――とは、春分・秋分の日の、前後三日を含めた七日間を言う。
気候の変わり目とされ、仏教で言うところの『さとりの世界』でもある事から、
多くの寺で法会が催される。
柴崎家の檀那寺でも、春と秋の彼岸には法会が執り行われ、多くの人が訪れていた。

「さぁて……そろそろ、起きるですぅ」

枕元の時計を手にして、ディジタル表示の時刻を見ると、既に八時を回っていた。
昨夜、十時くらいには出発したいと言っていたから、そろそろ起きないと。
朝食を摂ったり、身支度を整える時間が無くなってしまう。

そのタイミングを見計らったように、部屋のドアが、かりかり鳴った。
あの仔猫が、いつものように、翠星石を起こしに来たらしい。
保護してから二週間弱……毎朝、こうだ。


翠星石は、ベッドから起き出して、静かにドアを引いた。
僅かに開いた隙間から、するりと……仔猫が身を滑らせ、入ってくる。
一声、可愛らしい声で鳴くと、翠星石の足に顔を擦り寄せ、ころんと寝転がった。

「ふふっ……おはようです、チビチビ」

両手で抱き上げて、翠星石は、仔猫の頭に頬を寄せた。
白黒の斑模様からして雑種だろうが、ふかふかで柔らかな毛並みは心地よい。
最近では、この『もふもふ』が、毎朝の日課になっていた。
仔猫の名前は、まだ決めていない。
翠星石がチビチビと呼んでいることから、それが名前に成りつつあるけれど。

この家に仔猫が来てから、祖父母の表情も豊かになったと、翠星石は感じていた。
特に、祖父の可愛がり様は溺愛そのもので、チビ猫も、祖父によく懐いている。
アニマルセラピーと言うヤツかも知れない。
翠星石自身、帰宅するコトに歓びを感じ始めていた。
以前は、ただ食事をして眠るためだけに、疲れた身体を引きずり、帰宅していた。
――でも、今は違う。
チビ猫に会うため、チビ猫と遊ぶため、手触りの良い毛並みを撫でるために、
心躍らせながら帰途を急ぐようになっていた。


とは言え、いつまでもチビ猫の相手をしているワケにもいかない。
お寺までは、翠星石が車を運転しなければならなのだ。

「さぁて。朝食を済ませて、準備をするですよ。チビチビは留守番ですぅ」

翠星石はチビ猫を抱っこしながら、一階へと階段を降りていった。




翠星石の乱暴な運転に晒されて、お寺に着いた当初は青ざめていた祖父母も、
先祖と息子夫婦の冥福を祈る段になると、すっかり気を取り直していた。
――春風駘蕩。
蕾が膨らんできた桜の枝を揺らしながら、長閑に吹き抜ける春風が、
翠星石の長い髪を撫でていく。

「今年も、いい天気で良かったですねえ、お祖父さん」
「そうじゃなあ。この日だけは、いつも晴れるから不思議なものだ」

祖父母の語らいを聞きながら、翠星石は墓石の周りを箒で掃いていた。
ふと顔を上げた途端、墓石に刻まれた両親の名前が、緋翠の瞳に飛び込んでくる。

かずきと、由奈。高校の同級生だったという両親は、二十四歳の若さで他界している。
二人の砂時計は壊れて、砂が零れてしまった。
もう永久に、時を刻むことは無い。

あの悲劇から十七年が過ぎて、翠星石は、二十一歳になった。
あと三年で、両親と同い年になるのかと思うと、少しだけ寂しくて……
ちょっとだけ、不安だった。

(三年後、私は……誰の隣で、何をしてるです?)

春の日射しの元、墓石を見詰めながら自問する。
その直後、春一番を連想させる強い風が吹いて、翠星石の髪を靡かせた。
まるで、背中を押されたかのように、翠星石は半歩だけ前に蹌踉めいた。

もしかしたら、本当に後押しされたのかも知れない。
風に紛れて、両親の声なき声が聞こえた気がしたのは、春の陽気が見せた泡沫の夢か。


  『どんな未来を選び取るかは、お前の自由だし、特権なのだよ』
  『しっかりと……でも、夢は失わずに、生きていきなさい。翠星石』


祖父母と共に、墓石の前で掌を合わせ、頭を垂れる。
念仏を唱え終えると、祖父は遠い目をして、墓石を見詰めた。

「今年は、蒼星石が来られなくて残念じゃなあ」
「でも……毎年、翠ちゃんが来てくれるから、寂しくはないわよねえ」

祖父に続いて、祖母が優しく話しかける。
十七年。言葉にすれば三秒に満たない歳月が、二人の悲しみを和らげてくれた。
やっと、普通に語り、笑えるようにしてくれた。
時が解決してくれる――
どこかで聞き覚えのある言葉が、翠星石の胸裏をよぎる。

「かずき、由奈さん。蒼ちゃんはね、今、外国の大学で勉強しているのよ」
「大したものじゃ。立派なものじゃよ」

本当に立派な妹だと、翠星石は思った。彼女は、自分で未来を選び取った。
彼方にある目標を見据えて、そこに辿り着こうと、努力を続けている。
それに引き替え、自分は、どうだろう。

(私は……ただ、漫然と日々を送ってるだけです)

目標を見出せず、それでいて、何かをしなければいけないという焦りだけは、
いつも胸に燻っている。私は、何をしたいの? 何が出来るの? 



翠星石は、頭上に張り出した桜の枝を見上げた。
桜の花言葉は、『優れた美人』『独立心』である。
自分のコトを『優れた美人』だなんて自惚れる気は更々ないが、
せめて『独立心』だけは養おうと思った。

(さしずめ、私の目標は、蒼星石に追い付くことですか。
 はぁ……ダメですね、私は)

『独立心』を養おうと決心しておきながら、蒼星石から離れられない。
遠く離れていても、ココロは常に、緯度を越え経度を跨いで、彼女の側にある。
独立という言葉で、この想いを欺くならば――
希望に満ちた明日は、永久に訪れない。

翠星石は微かな溜息を吐いて、思い直した。
ただの逃げ口上かも知れないけれど、もう少し、子供のままで居よう、と。
背伸びをして、大人のフリをしたって、きっと後悔する。

「おじじ……おばば」

思い詰めたような翠星石の口調に、祖父母が不思議そうな眼差しを向けた。
二人を交互に見詰めて、少しだけ頬を染めた翠星石が、口を開いた。

「あの…………私……まだ、おじじと、おばばの娘で居てぇです」

突然の告白に、祖父母は呆気に取られた表情を浮かべ……やおら、噴き出した。

「なっ! なんで笑うですっ!」
「いきなり、何を言い出すのかと思えば」
「本当に、おかしな娘ねえ」
「そんなに……変……ですぅ?」

顔を真っ赤にして喚く翠星石に、祖父母は謝って、優しい微笑みを向けた。

「翠星石も、蒼星石も……いつまでも、儂らの娘じゃよ」
「むしろ、こっちからお願いしたいわよねえ、お祖父さん。
 いつまでも、私たちの娘で居てね……って」
「……おじじ。おばば……私っ」

翠星石は声を詰まらせて、涙ぐんだ。
この人たちが祖父母で、本当に良かったと、心から思えた。

だが、感動したのも束の間――
祖父はニンマリと笑って、翠星石の瞳を覗き込んだ。

「いきなり、おかしな事を言い出すから、なんだろうと思ったが……
 ふふっ。そうかそうか」
「? なんです、おじじ?」
「さては、好きな男でも出来たのじゃな、翠星石」
「な、ななっ?!」

突然の妄言に、翠星石は狼狽えた。
確かに、気になっている男の子は居た。小学校も、中学校も、高校も――
いつも一緒だった、幼なじみの彼。

でも、彼の隣には、いつだって彼女が居る。彼女しか、隣に居ることを許されない。
翠星石が恋い焦がれようとも、叶わぬ横恋慕でしかない。
だから、十七歳の夏、思い切って告白して、フラレて――彼への恋を捨てたのだ。

「あらあら……本当なの、翠ちゃん?
 でもまあ、そうよねぇ。年頃の女の子ですものね」
「うむ。翠星石、近い内に連れてきなさい。これで曾孫ゲットじゃな、祖母さん」

そんな翠星石の過去を知らない祖父母は、暢気な話を続けている。

「ああ、もうっ! なーにをバカ言ってやがるですか!
 寝言は寝て待て、ですぅ!」


彼岸の空の下――
仲睦まじい祖父母と孫娘を、柴崎家の墓石が静かに眺めていた。