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  ―弥生の頃 その5―  【3月21日  春分】


日本全国、津々浦々。今日、春分の日は、休日に定められていた。
春分とは二十四節気のひとつ。昼と夜の長さが等しくなる日である。

しかし、バイトに精出す翠星石と雛苺にとっては、関係が無かった。
勤務先の食品工場が定めているカレンダーでは、通常の火曜日扱いなのだ。
当然、時給も通常どおり。休日出勤手当などは付くハズもない。

翠星石は、普段どおりに起きて、祖父母とチビ猫に朝の挨拶をすると、
朝食を済ませ、身支度を整えて、いつもより空いている道を通勤してゆく。

「この頃は、だいぶ温かくなって来たですぅ~」

食品製造工場の柵伝いに植えられた桜も、五分咲きと言ったところだ。
そろそろ、あちこちの公園が花見客で賑わう季節を迎える。
開花の早い場所では、今週末がピークになるだろう。


何を隠そう、翠星石は、夜桜見物が好きだった。
けれど、酔っぱらい達の乱痴気騒ぎが大嫌いなので、公園には行かない。
毎年、自宅の庭にある小さな桜の木を眺めながら、
祖父母と双子姉妹の四人で、ささやかな宴を楽しんでいた。

「そう言えば、ウチの桜も、ちらほら咲き始めてたですね」

見頃とは言えないけれど、今夜あたり、雛苺でも誘ってみようか?
翠星石は、ふと、そんな気分になった。


入口で、顔なじみの守衛さんと挨拶を交わし、翠星石は更衣室に向かった。
どこからか、ふうわりと……菓子パンの美味しそうな匂いが漂ってくる。
ラスクを製造している棟からだろうか。
それとも、ベイクドチーズケーキの製造ライン?
コンビニ向けの菓子パン以外にも、直営のケーキ屋向けの製造もしているから、
その匂いかも知れない。

「はぁ……甘い物は別腹って、ホントですぅ」

きちんと朝食を摂ってきたと言うのに、なんとなく小腹が空いてくる。
そして、まだ仕事も始まっていないと言うのに、
帰りしな、おみやげに何か買っていこうか? なんて気分になった。

春の野で思い浮かべるのは、よもぎ摘み。
ケーキの類があまり得意ではない祖父母も、草餅なら旬な感じがして喜ぶだろう。




――そして、昼休み。
おなかが満たされた雛苺は、窓辺の椅子に座って、ひなたぼっこしながら、
うつらうつら……舟を漕いでいる。
翠星石は笑いを堪えながら近付くと、雛苺の肩をポン! と叩いた。

ビクン! 身体を震わせた雛苺は、危うく、椅子ごと仰向けに倒れそうになった。
翠星石が腕を掴まなければ、本当に、ひっくり返っていただろう。

「もぉっ! なんて事するのー!」

みっともなく狼狽えた気恥ずかしさと、翠星石のイタズラに対する憤りで、
雛苺は頬を膨らませて怒りを露わにした。

「悪かったですぅ。まさか、あんなに驚くとは、思ってなかったですよ」
「……いつか、復讐してやるのよ?」

にこにこと翠星石に笑い掛けながら、雛苺は、さり気なく物騒な台詞を吐く。
本気なのか冗談なのか、判断に苦しむ、曖昧な表情。
悪い冗談と勝手に解釈して、翠星石は徐に、今朝、思い付いた話を切り出した。

「そんな事より、雛苺。仕事終わった後って、急用とか有るですか?」
「うよー。ないけど……どうして、そんなコト訊くの?」
「ウチの庭で、質素なお花見でもどうかな~って、思ったですぅ」
「おぉ、夜桜見物なのねー」
「そういうコトです。満開には、ほど遠いですけどね」

それでも、雛苺は期待に瞳を輝かせ、声を弾ませた。

「みんなで楽しめるなら、ヒナは満開じゃなくても構わないのっ♪」
「根っからのお祭り娘ですねぇ、おめーは。
 きっと、アタマの中身も、年中お祭りにちげぇねぇですぅ」
「もー。なんで、そういうコト言うのー?」

雛苺は、プクーっとふくれっ面を浮かべたが、ココロの中では歓喜していた。
バイトが終わって家に帰っても、両親は仕事が忙しくて、帰宅していない。
独りで侘びしい夕飯を食べるくらいなら、いっそ外食の方がマシ。
そんな風に考えていたからだ。

「ねえ、翠ちゃん。トモエも呼んだら……ダメ?」

上目遣いに顔を覗き込んでくる雛苺に、翠星石は「歓迎するですよ」と応じた。




バイトが終業となり、翠星石と雛苺は家までの道すがら、
不死屋の草餅を買って、柴崎家に戻った。
そして偶然にも、門の前で、来たばかりの巴と鉢合わせした。

「お帰りなさい、二人とも。バイト、お疲れさま」
「あっ! トゥモエェーっ!」

雛苺は彼女の名を呼びながら駆け出して、人目も憚らず抱きついた。
夜の帳が降りて、人通りが無かったから良いものの、これは結構、恥ずかしい。
端で見ていた翠星石も、思わず「何やってるです」と呆れてしまった。


(でも…………ちょっとだけ、羨ましいですかもぉ)

考えてみれば、自分だって蒼星石に対して、雛苺と似たような真似をしてきた。
白昼堂々、ふざけて抱きついてみたり。
突然の落雷に、ビックリして抱きついてみたり。
去年の夏、真紅たちと行ったキャンプで、泥酔して抱きついてみたり。

(……なんだか、抱きついてばっかですぅ)

けれど、人目なんか気にしなかった。ちっとも、気にならなかった。
蒼星石を抱き締めて、服越しに彼女の体温を感じて……
サラサラした鳶色の髪から薫る芳香を、胸一杯に吸い込むだけで、
この上なく幸せな気持ちになれたから。
世界でたった一人の妹が、ちゃんと近くに居るコトが、実感できたから。

(私……また、蒼星石のコトを……ギュッて、出来るですよね?)

今すぐに願いを叶えてもらえるなら、もう一度、蒼星石を抱き締めたい。
そんな想いを胸にしまい込んで、翠星石は雛苺と巴を、家に招き入れた。




居間でチビ猫をあやしながら、少し休んだ後、三人の娘は祖父母と夕食を共にした。
バイト先から帰る直前に翠星石が電話して、二人分多く、支度をしてもらったのだ。
久しぶりの賑やかな晩餐に、祖父母も上機嫌だった。


食後、翠星石たちは縁側に腰を降ろして、星空の元、庭の桜を観賞した。
日に日に気温が上がっているとは言え、三月の夜は肌寒い。
桜の蕾も、大きく膨らんでいながら、あと一歩のところで躊躇している。
三分咲きと呼ぶには、まだまだ……。

それでも、翠星石は楽しかったし、巴も、雛苺も、少し早い夜桜を愉しんでいた。
気の合った者同士、肩を寄せ合ってお喋りしているだけで、時の経つのを忘れた。
祖母が熱いお茶と、翠星石が買ってきた草餅を盆に乗せて運んでくると、
三人の会話が、より一層、賑々しくなる。
女の子にとって、甘い物は悉く別腹に収まるらしい。
ニコニコと草餅を食べていた雛苺が、ふと思い出したように、翠星石に訊ねた。

「ねえ、翠ちゃん。しゅんしょういっこく……って、知ってる?」
「なんです、それ? マンガのタイトルです?」
「それは『めぞん一刻』なのよー」
「んん~? あっ! 分かったです。腹話術のヤツですぅ!」
「……それ、いっこく堂なの」

二人のやり取りを聞いていた巴が、クスクスと笑みを零した。

「春宵一刻値千金、よ。
 春の夜は趣が深くて、短い時間でも千金の大金にも代え難い価値がある。
 そういう意味なの」
「へぇ~、巴は物知りですね。春宵一刻、か。なんとなく実感できるです」

こうして、夜桜見物をしながら他愛ない話に興じる時間も、金では買えない。
この瞬間だって、一生に一度だけの、何物にも代え難い貴重な思い出だ。
春の夜も、人の縁も、大した違いは無い。


(いろいろ、悲しいコトもあったけど…………恵まれてるですね、私は)


三月の夜空を見上げて、ひっそりと、感謝の祈りを捧げる翠星石だった。